唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

第三能変  受倶門・重解六位心所(13) 別境 ・欲について

2013-02-26 23:55:32 | 心の構造について

 執を破す。

 初めに有部の説を挙げる。後に護法が論破する。

 「有るが説かく(有部)、要ず境を希望する力に由って諸の心心所いい方に所縁を取る(有部の主張)、故に(証拠を引く)経に、欲をば諸法の本と為すと説けり」(『論』第五・二十八左)

 有部が説くのは、かならず境を希望する力に由って、諸々の心・心所は、所縁(認識対象)を取る(把握する)のである。そのために、経典(中阿含経)に、「欲を諸法の根本とする」と説かれているからである。故に欲は遍行である、と有部は主張する。

 何かを求める意思によって、心・心所は対象を認識するわけですから、もし何かを求める意思がなかったならば、すなわち欲がなかったならば、心・心所は対象を認識することはないだろう、どのようにして認識するのであろうか、という主張ですね。だから心王が生起するときには、欲は必ず倶に働く心所であるので遍行であると、いうわけです。その証拠に『中阿含経』を引用して証明します。その言葉は「欲を諸法の本とする」(経説欲為諸法本)というものです。

 ここは『述記』には詳しい説明はありませんが、論破するところで詳しく説明がなされます。問題としては何故,『中阿含経』では「欲を諸法の本と為す」といわれているのか、ということです。

 「受と想と思と触と欲と、慧と念と作意と勝解と三摩地とは一切の心に遍ず」(『倶舎論』) と。

 「論。有説要由至爲諸法本 述曰。自下破執。薩婆多説。要由有欲希望境力。諸心・心所方取所縁。若不希望如何取境。即欲遍諸心欲爲諸法本。證欲遍義。」(『述記』第六本上・八右)

 (「述して曰く。自下は執を破す。薩婆多の説かく、要ず欲の境を希望する力有るに由って、諸の心・心所方に所縁を取る。若し希望せざるは、如何ぞ、境を取らん。即ち欲は諸心に遍ず。欲を諸方の本と為して欲の遍の義を証するなり。」) 

 有部の説の論破(護法の論破)
 初め有部の説を論破し、後、相違を会通する。

 「彼が説くこと然らず。心等の、境を取ることは、作意に由るが故なり。諸の聖教に、作意現前して能く識を生ずと説けるが故に。曾て処として、欲に由って能く心心所を生ずと説けることは無きが故に」(『論』第五・二十九右)

「論。彼説不然至心心所故 述曰。今破不然。心等取境作意功力。警心・心所令取所縁。如前已説。聖教但言作意能生識。不言欲能生心。故知作意令心等取境。何待於欲。」(『述記』第六本上・八右。大正43・429a)

 「述して曰く。今破す。然らず、心等の境をとることは、作意の功力なり。心心所を警して所縁を取らしむるなり。前にすでに説けるが如し。(聖教に)ただ(作意はよく識を生ず)といって(欲はよく心を生ず)と言わざる(故に)、知る、作意は心等をして境を取らしむ。何ぞ欲を待たんや。(『述記』)

 彼(有部)が説いていることは、正しくない。なぜならば、心等が対象を認識することは、作意に由るからである。諸の聖教に述べられている。「作意が現前して、よく識を生じる」と。また、かって欲に由ってよく心心所を生じると説かれていることはない、よって「欲」は遍行ではない、と。

 心・心所が対象を認識するのは、作意の働きによるのであって、有部が主張するような、欲の働きに由って心・心所が対象を認識するのではない、ということです。ようするに、一切の心・心所の元は作意であって、欲ではないということです。欲は対象に対して希望することが、本質的な働きであって、そのことに由り勤が所依となることは必然的な働きに成る、といわれていました。勤は勤精進といわれますように、欲に由って精進を起すわけです。精進に由って、一切の善の法がもたらされるわけです。(一切の善の法は精進に由って成り立つわけです。)その精進は欲に由って成り立つわけですから、欲によって起される限り、欲が「諸法の本とする」と説かれている、といわれるわけです。