唯識に学ぶ・誓喚の折々の記

私は、私の幸せを求めて、何故苦悩するのでしょうか。私の心の奥深くに潜む明と闇を読み解きたいと思っています。

「唯有識無外境」、果たして三界は唯心か? (85)九難義 (25) 唯識成空の難 (18)

2016-09-19 10:13:32 | 初能遍 第三 心所相応門


『倶舎論』破我品の研究については、『無我の論証』と題する武田宏道氏の論文を参考にしてください。龍谷大学学術機関リポジトリより出版されています。またネットでも公開されています。 『倶舎論』最後の科段を読んでみます。
 「何縁異熟果。不能招異熟如從種果有別果生。且非譬喩是法皆等。然從種果無別果生。若爾從何。生於後果從後熟變差別所生。謂於後時即前種果遇水土等諸熟變縁。便能引生熟變差別。正生芽位方得種名。未熟變時從當名説。或似種故世説爲種。此亦如是。即前異熟遇聞正邪等諸起善惡縁便能引生諸善有漏及諸不善有異熟心。從此引生相續轉變展轉能引轉變差別。從此差別後異熟生。非從餘生。故喩同法。或由別法類此可知。如拘櫞花塗紫礦汁。相續轉變差別爲因。後果生時瓤便色赤。從此赤色更不生餘。如是應知。從業異熟更不能引餘異熟生。前來且隨自覺慧境於諸業果略顯麁相。其間異類差別功能諸業所熏相續轉變至彼彼位彼彼果生。唯佛證知非餘境界。依如是義故。」

 勝論の問いに対して、論主世親は経量部の説をもって答えています。因果相続することは色法と心法が交互にその所依と為ることをもって答えているのです。
 
 勝論の問 何に縁りてか、異熟果は、異熟果を招くこと、種の果より、別の果生ずること有るが如くなること能はざるや。
 論主の答 且く、譬喩と是れ法と皆、等しきに非ず。然るに種の果より別の果生ずること無し。
 
 問 若し爾らば、何よりするか。
 答 後果を生ずるは、後の熟変の差別により生ずる所なり。謂く、後時に於いて、即ち前の種果、水土等の諸の熟変の縁に遇いて、便ち能く熟変の差別を引生ず、方に種の名を得。未だ熟変せざる時は、當の名に従いて説く。或は種に似たるが故に、世説いて種と為す。此れも亦、是の如し。即ち前の異熟、正邪を聞く等の諸の善悪を起こす縁に遇いて、便ち能く諸の善の有漏、及び諸の不善を引生して、異熟の心有り。此れより引生せる相続の転変展転して、能く転変の差別を引く。此の差別より後の異熟生ず。余より生ずるに非ず、故に喩、法に同ず。
 注
 「前の異熟」については、前の異熟の五蘊は、業の結果であり、この果を所依として、正邪の法を聞き、そこに善悪の縁に遇って善不善の有漏の異熟心を引き起こすというのです。そして異熟を感ずる心が熟変と説明されます。
 種子から現行を生ずるというのは大乗と同じことを述べているのですが、種子は色心に熏ずるというのです。色心に熏じられた種子が、異熟を感ずる心を縁として現在するんだと
主張します。
 或は、別法に由りて、此れに類して知るべし。謂く拘櫞花(クエンケ)に紫礦(シコウ)の汁(ジュウ)を塗(ネ)るが如し。
 注
 辞書からです。拘櫞花(クエンケ)とは、インド原産のミカン科の常緑木で、果実は酸味が強いらしいです。そして葉や果皮には特有の香りがあると云われています。
 紫礦汁(シコウジュウ)とは、赤色の染料。波羅奢樹の液汁より作られるそうです。赤い花を咲かせ、その赤い樹液は染料としてそれを使用し、波羅奢樹の山は紫だそうです。
 相続転変の差別を因と為して、後の果生ずる時、瓤(タネ)便ち色赤し、此の赤色より更に余を生ぜず。是の如く、応に知るべし。業の異熟より、更に余の異熟を引いて生ずること能はず。
 前来は且く自らの覚慧の境に随いて、諸の業と果とに於いて、略して麁相を顕す、其の間の異類の差別の功能、諸業の所熏の相続転変、彼彼の位に至りて、彼彼の果生ずることは、唯だ仏のみ證知して、余の境界に非ず。是の如きの義に依るが故に、」

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