ちいさな幸せ

幸せの基準ってある?
それは自分の心の中にあると思う。
私は何時も陽だまりのような幸せの中に居た。

国語

2007年07月23日 | 気にかかる
         ボブオリンク(木立性ベコニア)
       雄花、この時期の色が一番好きなんです

唱歌の学校は来月の24日までお休みなんですが、漢字教室はお盆休みだけで、ず~っとあるんです。行ってしまえば楽しいのですが、行き帰りが暑いな~。

教育技術法則化運動代表の向山さんの「漢字、計算は家で勉強する事で、学校では教えないという教師が激増している」と言う記事に「それはきわめて稀な例ではないか」「とても信じられない」と言う反応があったそうだ。

しかし向山さんは『少し前、九州の若い教師が校長、学年主任から「国語の時間に毎回、5分ほどの漢字指導をしているをやめなさい、教科書を読ませる音読もやめなさい」・・・中略・・・「うちの市のカリキュラムには音読指導や漢字指導は配当されていない。カリキュラム違反だ」と言うのが理由だ。ところで学習指導要領には「漢字の読み書きが出来るようにすること」「声に出して読む事」と書いてある。法令違反はその市なのである。しかし校長は若い教師に厳命した。「このまま漢字指導や音読を続けるなら、貴方を指導力不足教員とする」デタラメな校長によって、教師と授業が壊されている。教育委員会は何をしているのだろうか』

国語の時間に書き取りと音読を止めたら、何を教えるのか?そもそも国語とは、自分の生まれた国の言葉を読み書き、話す事を教える学科ではないのですか?

私達の時代には無かった「書き順」が重要視されているが、そんなに重要なものとは思えないのですが。書き順は「お習字の時間」で充分だと思うのです。

音読は繰り返しているうちに自分なりに上手に読めるようになり、嬉しかった覚えがある。そして自然に暗唱してしまうこともある。人が上手に読むのを聞く事も又楽しいもので、頭の中に物語が映像として浮かんでくる。

小さい時から親が子供に読み聞かせるのは、とても良い事だと奨励さている。お話を頭の中で組み立てられ、そうなると早く自分で読みたいと思うようになり、読むという事に興味をもてば、自ずから他の学科の教科書も理解が早まり、落ちこぼれる事は無いと思う。「落ちこぼれ」言いえて妙ではあるが、こんな言葉、何時頃から言われるようになったのだろうか?言われる本人は随分と傷付くだろう。

毎日では無かったが、授業前の書き取り、簡単な計算は私達の時代にもあったと記憶している。採点はお隣同士ノートを交換して○Xをつけた。目的はとった点数ではなく、あくまでも漢字を覚える事にある。だから先生の閻魔帳には記入はされなかったように思うが、遙か遠い昔の事ゆえ確信は無い。

算数の計算も然り、数台の計算をしたと覚えている。計算といえば「そろばん」は如何なんだろう。算数の時間に計算機持参もよしと言うほどだから、余り重要視されていないのだろうか。今は「フラッシュ暗算」とか言って、スクリーンにパッと現れる数字を暗算していく、私には神業としか思えない。

法令違反の市や校長、長いものには巻かれよ先生(自分が楽)にとっては熱心な先生は目障りなんでしょう。本文には書かれていなかったのですが、それでは校長はどんな授業をせよというのだろう。聞いてみたい。

今日も私の先生が言っておられたが「略しては意味が全く違ってしまう字」を略した文部省の役員に腹を立てておられたが、その「何故略してはいけないか」をも私達は勉強しているのです。今日一番驚いたのは「犬」と言う字は習うが「猫」と言う時は習わないという事でした。身近にいる動物なのに何故?
                           (450回)




コメント (8)
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