あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

昭和維新・坂井直中尉

2021年03月13日 07時41分50秒 | 昭和維新に殉じた人達

父は帝国の将校でありまして、
日露戦役に参加し功五級に叙し金鵄勲章を拝受して居りまして、

厳格なる武人の家庭に育ち、幼少の頃より常に忠君愛国の精神を涵養せられ、
将来は陸軍幼年学校に入校して国軍の楨幹となり、死を鴻毛の軽きに置き、
大元帥陛下の股肱として御奉公申上げ度の念をかためましたが、
長兄豊蔵が陸軍幼年学校に入学するに及び将校生徒たるに憧るるの念を増し、
広島陸軍幼年学校に入校しましたが、
当時の校長遠藤五郎大佐 ( 目下陸軍少将 ) の崇高なる御人格に感化せられ、
大正十五年五月二十五日
時の皇太子殿下 広島地方行啓に際し我広島陸軍幼年学校に行啓を仰ぎ奉り、

千歳一隅の身に余る光栄に浴し、益々尽忠報国の念を高めました。
陸軍士官学校に入校して同じ学び舎に竹の園生の御在学あらせられあるを知り、
光栄之に過ぎるものなき身の程を察し添えなきを得ませんでしたが、
士官候補生として歩兵第三聯隊に入隊するに及び将校団の御一人として、
畏れ多くも秩父宮殿下を仰ぎ奉るの光栄を担ひ、
又 新兵舎新設の際には行幸を賜はり、
皇室の御殊遇を添うずるの深きに感激を致しました。

士官候補生として在隊中
歩三将校団員たりし菅波三郎中尉 ( 目下大尉 ) の御薫陶を受け、

腐敗せる社会情勢を知るに及び、
現在の日本の国家をして真の日本精神に立脚せる姿に立ち直すのは、
吾人の努めなるべき観念を植えつけられました。
陸軍士官学校本科在学中、
同期生中より五 ・一五事件の志士をだし親友たる彼等十一名の精神を生かす為に、
我々在京部隊にある者の責任を痛感しましたが、
見習士官として原隊に復帰後
安藤大尉より種々薫陶せらるる所あり、

在京同憂の士 村中大尉 ( 士官学校予科時代中隊の区隊長たり )、
磯部主計、
大蔵大尉等を紹介せられ、

昭和御一新創業の大本を説かれ、強固なる信念を植えつけられましたが、
初年兵教官として兵を教育するに当り
彼等の身上を調査して疲弊せる社会現状が実に予想外に深刻なるを知り、
安心して教育に従事すること能はざるを感ぜるのみならず、
後顧の憂なくして戦場に於て 充分に其の任務を達成すべき健全なる軍人精神を以て
出征する部下兵隊を教育することは到底不可能であって、
先づ 国内を根本的に建て直さなければならないと思ふ様になりましたが、
他面某々瀆職とくしょく事件、収賄贈賄事件、某々疑獄事件、左翼の運動等々
毎日の新聞を賑はす社会は
洵に日本国内の腐敗堕落其の極に達せるを物語るもので、

此の政治、経済、教育、司法等
あらゆる社会の腐敗を一刻も速かに矯正しなければならないことを痛感しました。

ロンドン条約当時に於ける統帥権干犯の事実、満洲事変に於ける軟弱外交、天皇機関説、
其他の諸現象は為政者が徒らに私利私欲を事とし、自ら栄達の為めには国家をも顧みず、
我党の為めには国運の降替を犠牲にして迄も私心を肥やし 
所謂重臣、政党、財閥、特権階級等が相結束して、

権力金力を恣にして不正不義を事として 毫も省みず、其の腐敗糜爛びらん其の極に達し、
殊に宮中府中に在る所謂君側の奸臣共が
陛下の紫袖に隠れて大逆不道を敢てして毫も憚ることなく、

一君万民の国体精神に悖って、
陛下の大御心は恐れ多くも歪曲して国民に伝はり国民の意志は正当に    、

上御一人    に伝はらないのは洵に遺憾千万でありまして、
どうしても宮中の暗幕、君側の奸臣共を亡き者にしなければ、
神国日本の将来は洵に累卵の危機に陥ること必然なるべきを感じました。
そして政党政治の腐敗堕落、
資本主義経済社会の糜爛的発達に伴ふ富の偏頗と農山村疲弊の極致、

教育界の腐敗、司法権の動揺 ( 大権を司るものの中に赤化思想を抱くもの出つ )、
外交の不当 等 各部門に亙り洵に憂ふべき現象を示し、
殊に天皇は  機関なりと称する欧米の思想を鵜呑みにせる。

我が国体に全く相容れざる大逆不道の学説を信ずるものあるに至り、
益々革新の必要なるを痛感しました。

十月事件、五・一五事件、血盟団事件 等相継いで起り、
国民精神を覚醒せしめたるも、

国家の支配階級は毫も反省することなく、
遂には武士道を重んじ 皇威を恢弘し、

国威を顕揚すべき我々軍隊が遂に此の蓄弊を矯め、
御一新の大業の翼賛に向って邁進しなければ、

到底真の国体を顕現すべき方法は他になしと言ふ結論に到達したのであります。

相澤中佐殿の公判に依り
統帥権干犯事件其他巷間の妄説として取扱はれ居りたる事柄が、

証言に依り 遂に事実となるに至り、大義名分となりましたので、
相澤中佐殿の理想を貫徹し、

国体を顕現するために兵力を以て国家の逆賊君側の奸臣を討ち取り、
正義の大本を国民に示し、

以て大御心を安んじ奉り、
国家の安泰を計らざるべからずと判決を下し、
決行したのであります。

・・・坂井直中尉の四日間 

 
坂井直中尉

午後十一時 下士官を起し将校室に集合せしめ、
決行の方針 理由 並 処置の大要を示し、各下士官に任務を与へました。
そして週番指令の命に依り、
連隊兵器委員助手たる新軍曹をして弾薬分配のため弾薬庫に至らしめました。
中島軍曹は所要の兵員を連れて坂井部隊の弾薬受領のため弾薬庫に至らしめました。
丸伍長 ( 週番 ) をして糧食 ( 乾麺麭 ) 受領のため炊事に至らしめました。
二十六日正子 ( 午前零時 ) 兵を一斉に起床せしめ、準備に取掛り、
午前三時二十分迄に諸準備を完了、舎前に整列せしめました。
是より先き 私が直接機関銃隊に到り 週番士官 中尉 柳下良二 より 兵員を受領し、
同官立会の下に分隊長四名を下士官室に集め、方針、理由 並 任務を説明し、
午前三時二十分迄に第一中隊舎前に成立すべきを命じました。
然るに 末吉曹長、中島軍曹 両名が行方不明となった為、弾薬分配に意外の時間を費やし、
整列が約三十分遅れましたが、断乎たる決心を以て方針を変更しませんでした。




総ての準備を完了し、
午前三時五十五分 出発に当り、

趣意書に基き 是から皆と一緒に 天皇陛下の御為め尽さうと訓示し、
午前四時十分営門を出ました。


 

行進中に各警戒部隊毎に文進せしめ、
第一突撃隊は正門、第二突撃隊は通用門に集結を完了し、
午前五時を期し 要図第一に示す如く門を開いて突入し、警戒隊は配備につきました。
此の時 正門は簡単に開いたので 第二突撃隊は通用門よりの突入を止めて正門に廻りました。
当時玄関前警察官詰所には警察官二十名内外が狼狽して服を着けて居る処へ突撃隊が殺到して、
之を包囲しましたから 何等の抵抗も受けませんでした。
其の間に坂井中尉、高橋少尉、安田少尉、林伍長 及 機関銃射手一の五名が一団となり裏口に廻り、
雨戸を破って室内に侵入しました処、十五、六歳くらいの男の給仕が居りましたので、
之に案内せしめ 要図第二の示す 二階内府の寝室に赴きました。
此の時 内府夫人 ( 春子 ) が物音に驚き入口の戸を開けましたが、
此の様子に驚き一瞬にして戸を閉められました。
そこで安田少尉が戸を開いたので、一同中へ這入りますや、
夫人は一同の前に両手を挙げて立ち塞がり、
「 待って下さい 」
と 言って制止されました。
其の頃 内府は室の奥の方より寝巻の儘 起きて来られました。
そこで誰であったか記憶しませんが、
夫人を押しのけて一番右に居た安田少尉が先づ拳銃を一発放ちました。
続いて私と高橋少尉の三人で拳銃を乱射しましたから、
内府は二、三歩後へ退き 要図に示す様に倒れました。
此の時 夫人は身を以て内府の身体を庇ひ、
「 殺すなら私を殺して下さい 」
と 言って、其処を離れませんでした。
洵に夫人の態度は立派でありました。
固より私達一同は内府以外の人は決して負傷させまいと予め申し合せて居りましたから、
無理に夫人を押し退けて射撃を続けました。
此処で内府が全く人事不肖に陥った様でありましたが、
此の時 軽機関銃の射手が
「 私にも射たして下さい 」
と 言って、軽機関銃を以て数発発射致しました。
とどめを刺そうと思ったのですが、夫人が離れないので目的は充分に果たしたものと思ひ、
とどめを刺さずに寝室より引下がって、正門前に集結し、一同と共に思はず
天皇陛下万歳を三唱しました。
時に午前五時十五分でした。
発射弾数は私は七発ですが他の者は何発発射ったか存じません。
そこで私は集合喇叭を吹奏せしめて内府邸南側の橋梁上に部隊を集結し、
高橋少尉、安田少尉に渡辺教育総監襲撃の任務を授けて 爾余の部隊を引率して、
陸軍省東北角附近に到着し、直ちに警戒配備を取りました。
時に午前六時五十分でした。




配置歩哨の服務要領は

二十六日朝
出動して来れる者を停止せしめ、
名刺を受取って帰らす様にして居りました。
斬殺すべき人名  ・・・「 チエックリストにある人物が現れたら即時射殺せよ 」 

一、林大将
二、渡辺大将
三、石原莞爾大佐
四、武藤章中佐
五、根本博大佐
六、片倉衷少佐
二月二十六日午前七時迄に
陸相官邸に入門を許すべき人名

・・調査部長 山下少将
一、陸軍次官 古荘中将
二、陸軍少将 斎藤瀏
三、警備司令官 香椎中将
四、憲兵司令官代理 矢野( 機 ) 少将
五、近衛師団長 橋本中将
六、第一師団長 堀中将
七、歩兵第一聯隊長 小藤大佐
八、歩一中隊長 山口大尉
二月二十六日午前七時以後通過を許す者
一、本庄繁大将
二、荒木貞夫大将
三、真崎甚三郎大将
四、今井清中将
五、小畑敏四郎少将
六、岡村寧次少将
七、村上啓作大佐
八、西村琢磨大佐
九、鈴木貞一大佐
十、満井佐吉中佐
書類は、前の斬殺すべき人名と一緒に安藤大尉から受取りました。



二月二十七日 正午 新議事堂に移動

同 午後六時半赤坂区料亭幸楽に移動、安藤部隊と共に宿営す。


二月二十八日午後三時、
陸相官邸に移動、陸軍省参謀本部の配備につき徹夜す。



二月二十九日 午前八時
私の部隊を包囲して居た歩兵第四十九聯隊が戦車数台を先頭に前進して来ましたので、

全く予期せざる事態に立ち至りたるを悟り、速かに兵力を集結しました。
それで戒厳司令部幕僚の指示に従ひ、部下と別れを告げて陸相官邸に這入りました。
時は午前八時半頃と思ひます。
部下は只今申上げた幕僚に渡しましたので其の後どんなになったか存じません。
私が部下将校と共に陸相官邸に這入ってから後 逐次他の将校も集まって来ました。
山下奉文閣下と私の元大隊長 歩兵第四十九聯隊附中佐 三原殿の両官より 私に対し、
高橋、麦屋 少尉の三人で自決せよとのお勧めがありましたので、一旦は其の気になり、
遺書も書きましたが、よく考えて見ると、
我々三名のみが他の同志と別個に行動するのは適当でないと思って、思ひ止まり、
他の同志の集って居る部屋に這入り、休憩しましたが、
二十九日夜 拘引状を執行されて、衛戍刑務所に収容せられ今日に至りました。

部隊総指揮官は表面は最古参の野中大尉でありますが実際の指揮は、
歩兵第一聯隊第七中隊長 大尉 山口一太郎 でありまして、
前に申上げた私の部隊の移動命令も殆んど山口大尉から出て居ります。
1、第一回は二月二十七日 私の部隊が陸軍省東北角に位置して居りますと、
 山口大尉が歩一の小藤大佐と一緒に来られました際、
山口大尉が私に対して部隊を集結して新議事堂に移動すべし、
との命令を下したので 前に申上げた如く新議事堂に移動しました。
2、二月二十七日午後二時三十分
 将校全員が陸軍大臣官邸に参りました際、

山口大尉が私に
「 今夜は麹町区の宝亭と万平ホテルに配宿せよ 」
と 申しましたから、
私が宝亭に電話をかけてみると、他の部隊が居ることが判りましたので、

其の旨を山口大尉に報告して
同夜は赤坂区料亭幸楽に安藤部隊と共に宿営しました。

3、二月二十八日午後三時頃
 山口大尉から命令があって、
陸相官邸に移り陸軍省参謀本部の配備に着きました。
・・・坂井直中尉の四日間 


二十八日午後以来
渋川さんが私の部隊に附かれてまして、
最後迄  色々御世話になりました。