あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

昭和維新・安田優少尉

2021年03月10日 06時06分29秒 | 昭和維新に殉じた人達

私は小さい時から不義と不正との幾多の事を見せつけられ、
非常に無念に感じて來たものですから、
小さい時は辯護士になって之を打破しようとしたが 之を達せられないと思ひ
(法律は金力に依って左右さることが多いから) 斷念し、
中學校に入り一番正しいのは 軍人だろうと思い軍人を志願したのであります。
大正十二年頃 佐野學が第一に檢擧された頃、
共産主義の説明を父親に聽き 大いに共産主義を憎む様になりました。
實に軍人の社會は正しいものと思って志願したのであります。
士官學校豫科に入って二日目に、 全く裏切られたのであります。
第一に 御賜にて幼年學校を出る様な人間は、 支給された自分のものが無い時は
他人のものを取りて自分のものにした様な實例を見、
其の他 他人の金錢を取るもの、 又は本科の生徒が 日曜に背広を著し「カフェー」や遊郭に行く様な點は
全く憤慨に堪えなかったのであります。
此の様な點にて、 村中區隊長と接触を始めたのであります。
而して 此の様な不正は何とかせねばならぬと共鳴して居ったのであります。
原隊に歸っても、 村中氏とは家族同様の親交をして居る内に、
村中氏は私情を投げ 君國に殉ずるの精神に甦って行動して居らるることに非常に感奮したのです。
然し 一度も國家改造等の事は村中氏より聽いたことは有りません。
但し、其の進行中の無言の内に愛國の士であることが判り、
無言の感化共鳴し全く此の愛國の至情には一つの疑念なく、凡てに於て共に行動出來るものと確信したのであります。
その後益々親交を深くして居りました。
然るに 悉く遭遇するものは皆不正不義なる現實に接し、
いよいよ凡てに是非國家改造の必要を痛感して來たのであります。
就中、三月事件、十月事件、十一月事件であって、
殊に甚しく遺憾千萬なものは統帥權干犯問題であります。
然るに相澤中佐殿の公判に依りて見ても、
統帥權干犯問題が闇から闇に葬り去られ様として居るので、
何とかして之は明瞭にし 斷乎その根源を絶たねばならんと愈決心を固くしたのであります。
それには元兇を打たねばならぬと考えたのであります。
私は昨年十一月に砲工學校普通科に入るべく上京以來、
勉強の爲めに追はれて居った關係上 村中氏とは二回位しか會った事がないし、
その他何人にも會ひませんでした。
然るに、統帥権干犯問題を新聞にて知り、 愈根源断絶を決行せねば駄目と考へて居りました。
之れが為め、第一に中島に連絡をとったのであります。
何となれば、中島は村中氏や河野氏、安藤氏等と連絡をとってくれると思ったし、
また連絡をとって呉れと頼んでも置いたからです。
其れで、中島には具体的方法等の事も考えて貰ったのです。
只此度は個々夫々に計画を口で申し合せ文章にしてありません。
それは、従来文章にすれば失敗して折った苦き経験に基くものです。
憲兵隊 被告人訊問調書 「何故に此の様な行動をする様な理由になったのか」 の問に答えたものである
・・・「何故に此の様な行動をする様な理由になったのか」 


安田 優少尉

・・・・この将校の中に 安田優という少尉がいますが、
彼は天草郡の出身で、私と中学済々黌で机を並べて四年間勉強した仲です。
彼も私も家が貧しかったので、彼は中学四年から、陸軍士官学校に学び、私は師範学校に入ったのです。
安田は中学時代から純粋で一本気な男でしたし、
貧しい農家の出だったからこそ 今の世の中のことが黙って見ていられなかったのでしょう。
・・・・彼は二月二十六日の朝、斎藤内大臣の家を襲って機関銃を撃ちこみ、
その後は渡辺教育総監の家を襲って渡辺大将を軍刀で刺し殺したといわれます。
・・・・事件が起こってすぐは安田君たちは、尊皇討奸の愛国者だといわれていたのに、
日も経ったら天皇の命によって反乱軍、逆賊の汚名を着ることになりました。
早ク原隊ニ帰レ!と命令が出され、命令ニ背ク者ハ、断乎武力ヲ以ッテ討伐スル、
と放送されました。
天皇のために一命を賭して騒ぎを起こしたのに、
天皇から反乱軍だといわれ、討伐されることになったのです 」
坂本先生はそこで涙を拭かれました。
そして言葉を詰まらせながら話をつづけられました。
「あの純粋な安田君は忠義のつもりが不忠になり、 なぜこんなことになるのかわからなかったでしょう。
将校たちは天皇の御命令が出た以上、それに背いたら本当に逆賊にされてしまうので、
何人かはその場で自決し、多くの人たちは抗戦をやめたのです。
・・・・きっとこの青年将校たちは、真崎大将や荒木大将が天皇にとりついでくれると期待していたのでしょうが、
事件が予想以上に大きくなったら、そんなえらい人たちは自分の身がかわいいし、
青年将校たちを見殺しにしたのですね・・・・安田君たちはさぞかし無念だったことと思います・・・・」

・・・
そのとき私は小学校五年生でした



本年一月の中頃かと思います。
歩一の栗原中尉の許に中島少尉(工兵)と共に行き、愈々、蹶起すべきことを申し合わせました。
之より先き相澤中佐の公判を見て、常に考えて居ったことは
大衆運動をやるべき秋で無く、 維新を直ぐに断行すべき秋であると考えて居ったのであります。
其の後二月二十五日午後二時、
中島少尉の下宿に於て(中島は)留守であったが、村中孝次と会見しました。
それは実行部隊の準備が完成したることを村中が私に告げたのであります。
その中に中島が帰って来て、愈々二十六日の黎明(レイメイ)を期して断行すると申し合せました。
断交後は生き残るべきでなく死を期してやるべきことだ、
万一、二人の中一人にでも生きて居れば、
互に相互の両親に此の実行の精神を十分に理解せしむる事を約束したのであります。
村中は先に、私は後に中島の宅を出しました。
・・・略・・・
自分は他人に覚られぬ様に長袴をはき拳銃、実包とを携え(短袴と共に鞄に入れて) 家を出ました
時は午後六時であります。
直ちに歩兵第三聯隊に行き、
第一中隊の坂井中尉、高橋少尉、麦屋少尉の四人にて事件に関する配備を研究しました。
斎藤内大臣の ( 此の配備の要領は別紙要図の如くであります ) 襲撃の配備の研究であります。
此の警備は克く坂井中尉が知って居る筈であります。
特に注意する事は、赤坂離宮より斎藤邸に入る道路、橋梁等の守備に任ずるもの
( 重機一、軽機一 ) 兵十二、三名には聖地の関係上絶対に射撃を禁ぜしめたのであります。
此の総兵力は一個中隊半位です。
其の他之等に関する決行後の配備等に就いて研究しました。
其れから、午前零時 矢野(正俊大尉)中隊の下士官を起しまして下士官十二、三名に自分達の決意を伝えました。
それは将校室にて他の三人の将校も列席して坂井中尉が伝え、後、私が伝えました。
其の要旨は、軍人は陛下の軍人たること、従て陛下の下に直参する心掛けが必要だ、
匹姿たる私利私慾の下に働いて居っては、決して軍人の本分を尽すことが出来ない、
故に軍人の必要なことは高位高官になることでなく、 職務上の役を立派に努め得る事であることを注意した、
其れから坂井中尉が配備を具体的に下士官に割り当て、私が其れに就て意見を述べたのです。
下士官に任務下達後、兵を起し軍装を整へました。
それは第二装着用、雑囊、防毒面を携行、
次に弾薬と食糧を規定に基き、 伝票に依り週番司令 ( 安藤大尉 ) の正規の手続きにて受領配分しました。
兵には大体下士官が教育したものと思ひます。
此の時は二十六日午前三時頃と思います。
午前四時に舎前に集合せしめて、坂井中尉が訓示を与え、兵は大いに勇躍して居りました。
此の中隊を連れて出発したので有ります。

其れから外苑を廻って信濃町を通り 斎藤氏宅に行きつゝ、逐次計画に基き完了したのであります。
其後 私と坂井、麦屋、高橋の四人にて屋内に侵入しました。( 戸は叩き破りました )
庭内に巡査が三十人許り居りましたが何等抵抗しませんので、
此の巡査には部長を通して説論を加へました処 克く判つたと言ひました。
内部には女中の案内に依り階上に行きました。
此の女中は非常に沈着して居り、狼狽の色なく連れて行つて呉れました。
其れから寝室の前には春子夫人が戸を開けて首を出しました。
中に入りました処、
内大臣が 「 何だ何だ 」 と 云つて出て来た処、 私達の姿を見て寝室の方へ逃げて行きました。
其れで三人で ( 麦屋は階上に上らず ) 
「 天誅 国賊 」 と云ひながら拳銃を発射しました。
拳銃は三人は 「 ブローニング 」、私のは 「 モーゼル 」 であって、 軍装整備上 平常より持って居ったのであります。
其れが克く命中して確に即死したと信じたのであります。
此の際 春子夫人は私達の行動を妨害しましたが、其れを離して斎藤氏のみを射撃したのであります。
後、終了 「 ラッパ 」 を玄関にて吹奏して下士官兵を集合させたのであります。
次に橋の下に至り、「 天皇陛下万歳 」 を三唱したのであります。
其の時、「 マント 」 を斎藤氏の邸外正門の前にて掛けて置き、後、兵に取らしめたか未だ判明しません。
後、私と高橋少尉と兵十四、五名を指導して、
田中中尉が恰度通りかかったので 自動車 (トラック) を準備して呉れたので、
赤坂離宮前にて之れに乗り、直に渡辺教育総監の許に行きました。 「 トラック 」 は邸内の側の道迄行き、
兵三名を下の方に出し ( 地方人が弾に当つたら危ないと思って ) 私達は正門の方へ行きました。
此の際 特に申すことは、
昭和維新断行は軍の強力一致にあれば、 渡辺総監も一体となる為めに之を求めんとして、
官邸に先づ迎へると言ふ事が真意であつたのですから 殺す意思は其時迄は無かったのであります。
而して正門から行きました私達は、単に総監を殺すならば裏門から行けばよいと云ふ事を判って居たが、
殺すのが目的でないので厳重なる戸締りある正門に向つたのです。
「 トントン 」 戸を叩く内に、「 ボン 」 という音がしたのでありますが、同時に私は倒れました。
其れから 二、三分経って 又 歩ける様になり 裏口に回りました処、
全部戸が開けてありましたので、直に奥様に閣下の許に案内して下さいと言ひました。
奥様は 「 其れが日本の軍隊ですか 」 と 云ひ返しました。
其れでも案内をしなかったので、閣下が何処に居るか判らなかったのです。
奥様が立って居るので怪しいと思ひ其の後の襖を開けて見ました。
閣下が布団を遮蔽的にして拳銃で射撃しました。
それ故に、私は飛込んで閣下に 二発拳銃を射撃しました。
軽機も射ちましたが、誰が射つ様にしたのか判りません。
私は不安心であつたが表に返しました処、高橋が大丈夫だと云ふので先づ安心しました。
其れから兵を集めて全部自動車に乗せまして、帰途に付きました。
其時憲兵がやつて来て自動車を降りて私達の自動車に近づきましたので私達が止めましたが
兵が二、三発射撃しました。
私は降りて憲兵の乗って来た自動車を 「 パンク 」 させて引き揚げました。
途中 中野付近で、憲兵将校二人の乗った自動車に会ひました。
一寸停車して私達を見ましたが、其の儘荻窪の方に行きました。
此の頃は午前六時半か七時頃です。
直ぐに陸相官邸に引き揚げましたが歩けませんので居りましたが、
憲兵が世話して玄関の側の室に連れて行き、看護長か誰か、手当をして呉れました。
之より自動車に乗り、 中島少尉が前田外科病院(赤坂区伝馬町)に連れて行って呉れ治療を受け、
昨二十九日午後二時頃迄入院して居りました。
此の時状況を 「 ラジオ 」 にて 「 勅命により事の如何を問わず所属隊に復帰すべし 」 と聞き、
之れにて先ず首相官邸に行かんとし自動車に乗り行った処同志が居らず、
陸相官邸に行けと言われ陸相官邸に行きました。
此の時参謀本部砲兵大尉(難波三十四)に会い、同じ砲兵であるので二人相擁して泣きました。
私は此処にて二、三時間待って居りましたか、私は自決の為拳銃を腹の中に蔵って居ったのでありました。
此の時私が考えたものは、自決するのが一番此の世の中では楽だと思いましたが、
自決したならば世の中は如何なるだろうと考えました、
然し 私として、どうしても自決せねばならぬと考えたのであります。
此処には栗原、香田、田中、丹生等の人々が集まって居りましたが、
別な砲兵少佐参謀(公平匡武)が是からの決心を訊きました。
私は 「 何も申し上ぐることはありません 」 と申し述べました。
然るに石原大佐が出て来て 「 検束する 」 と云ひましたが、
栗原中尉が 「 其れは間違いではありませんか 」 と言ったら、
石原大佐は 「 何 」 と 怒った様な口調で云ひましたが、
憲兵将校が 「其れは保護であります 」 と言われましたので、
石原大佐は 「 いや 間違ました 」 と云はれました。
午後六時頃であります。
其の時 石原大佐は 「 お前達は自首して来たのだらう 」 と 侮辱的に聞きましたから、
私は、「 自首して来たのでは有りません。
武人として面目を全うさせて頂き度い為めであります 」 と答へました。
私は 此の時遺憾に思うことは、自決する機会を与えられなかったことです。
即ち、私をして言わしむることを聞き、然る後武人の最後を飾らせて戴きたかったのです。
単に時間丈与えられても、結局それならば私達は何をやったか無意味なものになると思います。
つまり陸相官邸に病院から行ったのは、赤穂義士的の最期を求めたいと思ったからであります。
此の様に取り扱わるるとするならば、病院より陸相官邸に馳せ参ずるは誤りであった。
認識不足であったと思われて返す返すも実に残念であります。
私は陸軍大臣から告示を戴きました。
「 諸子ノ行動ハ天聴ニ達ス。諸子ノ行動ハ国体顕現ノ至情ニ基クモノト認ム 」 と 云う有難き御言葉に対し、
此の結果であまりにも差異があり、
此の分に於てはやがて凡てが暗から暗に葬らるるのではないかと心配し、
之が何より一番残念であります。

・・・安田優少尉の四日間  

宣言
維新と言ひ 革新と言ふは、 人類刷新天剣の行使あり。
吾人は是に奮起し、 左の奸賊を艾除するために天誅を加へむとす
目標                 担当者
西園寺公望       安田優  相澤三郎
一木喜徳郎       村中孝次
寺内寿一          丹生誠忠  安田優
牧野伸顕          水上源一
梅津美治郎       高橋太郎
南次郎             中橋基明
石原莞爾          坂井直  香田清貞
湯浅倉平          對馬勝雄   栗原安秀
宇垣一成          竹嶌継夫
現閣僚(全)        安藤輝三
石本寅三          田中勝
植田謙吉          林八郎
片倉衷             磯部浅一
軍法務官(全)    ( 但除 藤井法務官 )  右同
林銑十郎         中島莞爾
荒木、真崎、山下、石原       渋川善助
右天神地祗の加護を仰ぎ、
吾人全力を効して 是を必ず遂行せむとす
昭和十一年七月十一日  安田優