あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

昭和維新・林八郎少尉

2021年03月08日 05時08分51秒 | 昭和維新に殉じた人達

軍神・林聯隊長 (林八郎の父) 
上海で最も頑強な抵抗を示した江湾鎮攻撃の際、
旅団長から
「 我が旅団は砲兵の協力を待たずして直ちに攻撃を開始する 」
との 命に接し、
林聯隊長は憤慨して、
「 陛下の赤子である兵隊の生命を何と考えるか 」
と 烈火の如く怒った。
林聯隊長はこの日、
「 兵隊達だけ死なすことは出来ない 」
と、みずから第一戦に進出し
壮烈な戦死を遂げた。 
・・・リンク→林大八 


林八郎少尉 
砲兵の協力無く独力で攻撃が成功すれば、
金鵄勲章の等級が上がるからである。
このような栄達主義、兵の生命を粗末にする堕落した軍の幹部、
そのような雰囲気を醸成している今の社会を 徹底的に改革しなければならない、
何よりも国家の革新が急務である、
と そう思った。



林少尉は 二六日の午後、
倉友音吉上等兵を供に銀座の松阪屋に買物に出かけた
蹶起将校たる白襷をかけ、
人々の視線の中 颯爽と店内を歩いた
林少尉は 晒布 墨汁 筆 を購入し、
首相官邸に帰ると 林少尉は
『 尊王維新軍 』
と 大書した幟を作って、
こうして、高々と掲げたのである

二月二十六日午前二時三十分頃

下士官を起こし中隊事務室に集合せしめ、
栗原中尉が

「 昭和維新の為、只今り出て行く。 目標は首相官邸 」
と 言ふ様な命令を出しました。
中隊下士官には、平素より昭和維新に付て充分教育してありました。
直ちに下士官は兵を起し武装をさせました。
服装は軍装にて背嚢を除き、重機関銃九銃は実包銃身六銃、空包銃身三銃、軽機関銃四銃、
拳銃は所持数全部、消防用鉞、梯子を携行せしめました。
兵員二百八十名を小銃三小隊及機関銃いち小隊に編成し、
中隊長栗原中尉は第一小隊長を兼ね、第二小隊長は池田少尉、第三小隊長は林、
機関銃小隊は尾島曹長が指揮をとりました。
午前四時三十分頃、
表門を出発し交番のなき道を選び、
午前五時稍前
岡田首相官邸に到着しました

林は首相官邸西方入口に、
附近にある巡査を逮捕せしむ可く五名を上等兵に附しやりました処が、
正門の所に居た巡査が邸内に逃げ込みましたので、
私の部隊は其の後を追って正門入口より邸内に侵入して了ひました。
そこで私は、池田小隊の一部を引率して西方入口より邸内に突入致しました。
其時交番所に向ひました。
上等兵の一隊は、激しく抵抗しながら西方入口の傍迄逃れた巡査を射殺しました。
西方入口り侵入した林の小隊は、日本間の玄関の扉を開けやうとしましたが開かないので、
向って右側の窓を打ち壊し侵入しました。
其時、警察官が非常に抵抗して兵数名が負傷致しましたので、
私がその先頭に立ち斬り込み追ひ払ひました。
首相の室内には誰も居りませんでしたから、明るくなつてから捜そうと決心して、
兵を邸内に配置して居ると、兵が人が居ると言ふので、
その部屋に行くと、
二人の巡査が居りましたので、 ・・・ 林八郎少尉 「 中は俺がやる 」
私は直にその一人を刺殺しますと、
後の一人が後方から私に抱きつき
倒しましたので直ちに起き上がり、その巡査をも斬殺して、
尚も室内を捜して居ると、

兵が室の側の空地に一人の男が居ると言って銃を構えて報告したので
射てと命令して 殺さしめました。

一発で殺したと思ひましたに、後で調べて見ると顔と腹に各一発宛中つて居りました。
尚、屋内を捜して居る内、
暫時経て 栗原中尉が首相が居たと言ふので行って見ると、
曩さきに自分が命じて撃たせたのがそれでした。
寝室の隣の部屋に揚げてあつた写真と照合せた結果、
其の男が岡田首相い゛あることを認めましたので、首相の寝床に抱え込み、
兵を表玄関前に集結しました。
此時が午前六時頃であります。

此れが済むと栗原中尉は東京朝日新聞社を襲撃する為、
「 トラック 」 二台に兵六十名余を乗せて出発しました。

暫時すると、蔵相を襲撃の目的に有した大江曹長の一隊六十名を
中島少尉が指揮して来ましたので、之れと合併しました。
負傷兵六、七名は衛戍病院に送り、朝食としてパンを市井わり購入しました。
パン代金は栗原中尉が支出しました。
その後は聯隊から給与を受けて居りました。
私は午后一時頃、陸軍大臣官邸に連絡に行き、約二時間位で首相官邸に帰りました。
陸相官邸では村中大尉に会ひました。
其処には小田大尉外数名の将校が居りましたが、記憶は確実ではありません。
私はそれ以来、首相官邸の玄関の方の東端の室を寝室に充て、昼間は玄関口に居りました。
二十八日に至り、
敵 ( 戒厳部隊の意 ) が進出して来たと言ふ事を聴いたので防禦配備に就きました。
最後迄一戦を交へる積りでした。
二十九日
栗原中尉が
「 此処迄やつて来たのだが、
お互い日本軍人が撃ち合っても仕方がないから潔く将校は陛下のお裁きを受けやう 」
と 言はれたので
私は之れに同意し、
兵を邸内の表玄関口に集め、尾島曹長に後事を委し 陸相官邸に参りました。
・・・林八郎少尉の四日間

< 二九日 >
午前十時か十一時頃、
兵は原隊に帰し、将校全員は陸相官邸に集合することになった。
私と林、そしてあとの二人の将校は一緒になって、首相官邸を出て陸相官邸に向った。
私と林と二人並んで歩いて行った。
歩きながら、 私は林に対し、陸相官邸に行ったら自決しようと言った。
林は黙っていた。
私は自決しなくとも殺されることは決っていると言った。
この時林は 私の顔をきっと見詰めて、
「 貴様は殺されるのが嫌なのか、殺されるのが恐いのか。
殺されるなら、撃たれて死んだらいいではないか 」
と 言った。
林の胸の中には軍首脳部の我々に対する態度を見て、
すさまじい反抗心と不屈の闘志が燃えていたに違いない。
後で私は この時の林の態度を思いおこして、
昔賤ケ岳の戦いに敗れた猛将佐久間玄蕃盛政が、秀吉の仕官のすすめを断り、
切腹も返上して縄を打たれて引き廻しの上、斬首された凄まじい闘魂に共通するものを感じた。

・・・丹生中尉 「 手錠までかけなくても良いではないか 」