二月二十六日 午前二時三十五分頃、
自宅より軍服にて中隊に至り、自動車班係下士官軍曹 川原義信を起こし、
「 これより夜間の自動車行軍をやる 」
とて 川原軍曹をして二年兵の自動車手の内 十二名を起こしました。
是等のものは、今回の決行に就いては何も申しませんでした。
川原軍曹には直ちに貨物自動車三台、乗用自動車二台を営庭に集合を命じました。
服装は第二装巻脚絆帯剣であります。
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午前三時十分整列を終りましたが、
貨車三台と乗用車一台丈で側車一台が集りました。
直ちに出発行動して、
先、靖国神社を参拝し、更に宮城前に至り 皇居を拝し、
同正 五時
陸軍大臣官舎に参りましたが、同志は誰もみえて居りません。
門が閉ぢて居りました。
其処で同志はどうしたのかと思ひ、
自動車隊を引率し 右官舎を虎の門、六本木を経て歩一へ見に出発しました。
歩一営門前で私丈下車、
同隊週番司令室に参りましたら山口一太郎大尉が起きて参りまして、
山口大尉に 「 どうですか 」 と 尋ねましたら、
大尉は 「 ウン 」 と 頷きました。
私は其儘 速く表へ出て、
自動車隊を指揮し赤坂の高橋蔵相私宅の前を通り掛りましたら、
同邸表門には、十数名の徒歩兵が機関銃二梃を以て警戒して居たのを目撃し、
陸軍大臣官舎へ 午前五時二十五分頃つきました。
蔵相私邸を通り過ぎる時、私は同乗の運転手、助手に
「 今日から昭和維新になるぞ 喜べ 」
と 申しました。
途中 閑院宮邸前で、約一ケ中隊の歩兵を追越ししました。
之は同志の牽ひきゆる部隊と思ひます。
指揮官は誰か判りません。
陸軍大臣官邸門前には、丹生中尉が兵約六十名を持って警戒して居りました。
私は一人 官舎に入り磯部に会ひました。 ( リンク→第十四 ヤッタカ!! ヤッタ、ヤッタ )
磯部は、私に貨物自動車一台を赤坂離宮前に速に出して呉れと申すので、
私は乗用車に乗り貨車一台を指揮し、
午前五時四十分頃 同所に至り、貨車一台を安田少尉に渡しました。
安田は下士官以下三十名を連れて、既に斎藤内府を襲ひ終り、
赤坂離宮の前に集まって居りました。
此れより貨車に乗り、渡辺大将を襲撃したのであります。
これは後で同志より聞きました。
其後 陸相官邸に貨物自動車全部を引揚げ、
栗原中尉、中橋中尉が東京朝日新聞社を襲撃のため貨物自動車二台を出してやりました。
同所には磯部、村中を始め丹生中尉の指揮する約百名位 居りました。
其後 全部の自動車が帰ってからは、主として乗用車は連絡用に、
貨物自動車は食糧運搬の為め使用として
首相官邸の栗原部隊、安藤部隊、坂井部隊に乗用車一台宛、
警視庁にある野中部隊に同二台配属し、各其指揮下に入れました。
是等の運転手は私の引率して来た兵を充てました。
之等の乗用車は、首相官邸にありました五台を使用したのであります。
三代の貨車の内、一台は渡辺大将襲撃の時、負傷せる下士一、兵一を乗せ、
東京第一衛戍病院へ運搬したる後、進路を違へて市川に帰りました。
残る貨車二、乗用車一、側車一台は指揮下に入りました。
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二十六日 朝昼食は、木村屋よりパンを取り、
夕食は弁当を全兵員の為め何処からか判りませんが取りました。
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二十七日午前七時、
陸相官邸から首相官邸に移動しました。
此処には栗原、中橋、林、中島等が居りました。
首相官邸に移りましたのは、
陸軍省 参謀本部の幕僚襲撃の目的であると云ふことを同志より聴きました。
二十七日夜は
小藤部隊の指揮下に入り、配列割に従ひ農林大臣官舎に宿営しました。
それで私の直接私の指揮下の車輌を農相官邸に集結しました。
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二十八日は午前十時頃、
村中より戒厳司令官より奉勅命令は未だ下すべき時機に非ずと言ふことを聴きました。
それで是から有利に進展すると喜んで申されました。
同十一時頃、
車輌部隊を指揮し首相官邸に行きました。
之より曩さきに同九時頃、
奉勅命令は下ったと言ふことを私の大隊長及中隊長より聴きました。
首相官邸の乗用車は、屡々 使用して各部隊の現況を見に同志が乗って行きました。
此晩は我々は攻撃しない。若先方が発射すれば応戦する。
然し そんな事は絶対ないと確信して居りました。
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二十九日午前七時半頃迄、私及部下十二名は炭酸瓦斯中毒に罹り、
人事不省に陥りましたが、同十時過、漸く蘇生しました。
同九時頃 小藤大佐が首相官邸に参りました。
之は栗原中尉に会ふ為らしくありました。
同十一時頃 山王ホテルに集まると言ふ事で、私は乗用車で参りました。
其処には村中、磯部、栗原、香田、丹生、竹嶌、對馬、山本予備少尉等が居りました。
そして奉勅命令に従ふと言って居りました。
戸山学校の大尉の人と思いますが、みえまして、石原莞爾大佐の伝言をして行きました。
夫れによると 蹶起将校今後の処置は、自決か脱出の二途のみであるが、
今回の挙により 兎角維新の 「 メド 」 は ついたと申しました。
私は特に感激しましたのは、
安藤部隊が中隊長以下 生死を同じうすると言ふ状勢で、
部下は中隊長を、中隊長は部下の為に一丸なり、
不離一体一緒に陛下の御為維新に奉公すると云ふ状景を目撃し、男泣きしました。
そこで私は首相官邸に帰り、部下に此 美はしい情誼じょうぎを伝えました。
それから乗用車二台を指揮して山王ホテルに行きましたが、
軈やがて首相官邸に集まれと言ふ事で、三台の乗用車にて逐次同官舎に参りました。
到着しましたのは午後三時頃です。
山王ホテルに最初集まりましたものは十二、三名丈けで、
これからの処置を協議する為めでありましたのですが、陸相官舎に参ってみますと、
戒厳参謀の命とかで、携帯品は軍刀を除き、拳銃、外套、図囊等を皆解除せられ、
私は玄関に一番近い室に村中、磯部両氏と共に入れられました。
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今迄 申上げました経過中 おとしました個所がありますから 夫れを申上げます。
二十六日朝、決行直前に二重橋前に皇居参拝の時、
警戒線を突破して同橋に参りましたので、皇宮警察吏は非常ベルを鳴らし、
二、三の警察官吏が出て参りました。
衛兵の近衛将校出て来まして、私の官氏名を聞いて行きましたが、
参拝であることを知り 帰って行きました。
私がつれて行きました下士官兵十三名のものは、
各自のやりました行動を各々書かせることを命じてありますので、
皆 其記録を持って居る筈です。
川原軍曹は、いつも側車に乗って進路の障碍排除に当らせました。
午前十時頃
山下奉文将軍が一番初めに、次に満井中佐、鈴木貞一大佐が陸相官舎に来ました。
二時間許り前八時、真崎大将が陸相官舎に来て、
自動車を降りるなり
「 落着け 」
と 云って 内に這入りました。
私の居室には 午前九時頃 陸軍次官が来ました。
そして 予備の斎藤少将と何か話して居りました。
同時に片倉少佐がやって来まして、
「 這入ることはならん 」
と 同志から言はれ、
「 何故這入れないか 」
とて どんどん他の七名位の参謀将校と共に門内にやって来ました。
やがて磯部が拳銃一発放ちましたら、之等の幕僚は一斉に皆逃げました。
玄関には真崎、齋藤少将 両閣下が見て居られました。
次官も居られました。
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二十六日中ですが 時間は不明でありますが、
軍事参議官 林、寺内、植田、阿部、西、荒木、真崎閣下と
村中、磯部、香田、栗原、と 陸相官邸に会見しました。
私は今 非常に疲労しておりますので、諸記憶は明瞭でありません。
二十七日 首相官邸に一同引揚げましたのは、陸
軍省及参謀本部の幕僚を襲撃する為めだと同志から聞きました。
首相官邸には村中、磯部、栗原、對馬、竹島、中橋等が居りました。
二十八日陸相官舎で真崎、阿部及西大将が御出でになりました。
このときは 同志将校は殆んど全部集りました。
今回、蹶起間、同志より一回も命令として出されたことはありません。
たしか二十八日中と思ひます。
陸軍大臣の告示が陸軍省の方から手交されました。
夫れは次の様なものであります。
陸軍大臣告示
一、蹶起の趣旨に就ては天聴に達せられあり。
二、諸氏の行動は国体顕現の至情に基くものと認む。
三、国体真姿顕現の現況 ( 弊風をも含む ) に就ては恐懼に堪へず。
四、各 軍事参議官も、一致して右の趣旨により邁進することを申し合はせたり。
之れ以外は一つに 大御心に俟つ。
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山口大尉は御維新には十分理解ある人と思ひ、
私は山口大尉を同志と思って居ります。
山口大尉は決行当時、週番士官であることは
二月二十三日頃に磯部に聞いて知って居りました。
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事件の計画は誰が作ったのか判りませんが、
多分 村中と磯部 及 栗原等が作った事と推察致します。
私が同志と共に事を挙げるに至りました事は、
平素抱懐して居りまする 昭和維新翼賛の為め、予てから決意しておりましたし、
且 本年二月二十三日 磯部より 私宛 「 本日午後四時磯部宅に来れ 」 の電報に接し、
同人宅に至り 今回決行の時日を聞き、之に参加する事に決意しました。
二月二十三日 磯部に会った時、同紙り車輌は幾何を出動出来るやを尋ねられ、
乗用車二、貨車四、兵員十数名 出せるだらうと答へました。
同志の決定せる襲撃計画に基づく輸送及連絡の分担任務を受け、
夫れに対して決行前前日の二十五日、私の聯隊の第二中隊兵舎暗号室に於て、
一人で何台出るかを計画してみました。
此の計画は計画が終ると共に同室の暖炉の中で焼却しました。
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私は昭和維新の実現に関しては、
何時でも身命を捧げる決意を持って居りましたので、
磯部氏より襲撃決行計画を示されるや 直ちに 欣然参加したのであります。
決行当時も、何等不安の念は無かったばかりで無く、
我が国体の真姿を具現する為め 喜びに満ちて居りました。
現在と雖も 更に心境に変化を来たして居りません。
只 昭和維新の実現を見なかったのは遺憾であります。
私の国体観念、皇軍の状況、軍閥、軍幕僚、元老、重臣、財閥、政党、諸新聞等は
常に大御心を掩おおい、君臣を離間する奸賊と信じ、
之を徹底的に排除せねば
悠久なる我国体を衰亡に導くものなるを以て
一刻の猶予も許さざる現況に直面し、
敢然 起ちて 決行したるものであります。
その他の心境に関しては、澁川善助と全く同様であります。
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二月二十六日晩、戦時警備下令の後、
蹶起部隊は戒厳司令官命令を以て小藤大佐の隷下に入るべきことを
陸相官邸に居りました山口一太郎大尉より聞きましたが、
小藤大佐殿は最後迄 此命令を出されなかった様に思ひます。
ところが 此命令が出されなかった為めに、
遂に私共は小藤部隊の隷下に入る機会を失し、
蹶起も維新を直ちに実現することを得ませんでしたのは残念であります。
小藤大佐も相澤公判に依り、其国体観念を体得されたのではないかと思ひます。
以上 本項は私の想像であります。
田中勝 憲兵調書
昭和十一年三月一日
二・二六事件秘録 (一) から