あを雲の涯

「 二、二六事件て何や 」
親友・長野が問う
「 世直しや 」
私はそう答えた

昭和維新・常盤稔少尉

2021年03月06日 05時48分32秒 | 昭和維新に殉じた人達


常盤稔少尉
二月十六日 ( 日 ) 夜十一時に歩三第七中隊が非常呼集をかけ、
夜間演習と称して警視庁に突撃訓練を行った。
常盤稔少尉 ( 21 ) 指揮下の下、
桜田門通りに百五十名が一列横隊となり、着剣した小銃を構えて、
「 斎藤 」 「 牧野 」 と連呼しながら直突を三度繰返す。
斉藤實 ( 77 ) は内大臣、牧野伸顕 ( 74 ) はその前任者である。共に 二・二六事件で襲撃された。
直突とは着剣した銃を掲げ、敵の心臓部めがけて突き出すことを謂う。
おまけに訓練が終ると 警視庁舎に向けて一斉に立ち小便をしたことから、
侮辱と受け取った警視総監が第一師団長に厳重に抗議する。
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常盤さんが中隊を率いて警視庁襲撃の実施演習をされるのは、
二月十五日でしたか。あれは誰かに云われて・・・・。
常盤
いや、自分で考えてです。
しかし、怒られましてね、企図を暴露するではないかと言われて。
それで僕は
「 いや、受取る方は、第一師団は満洲へ渡る前に決行する筈だったのに、もう 間に合わん、
ええいッくそ、演習で鬱憤でもはらせ、という受取り方をしますよ。
だから企図を暴露することにはなりません 」 と 説明したものでしたよ。
・・・生き残りし者 1 首相官邸 「 人違いじゃないですか ?」 

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この夜間演習に海軍側は反応した。
新聞記者から情報を入手した当時の横須賀鎮守府参議長、井上成美少将 ( 46 ) は、
「 陸軍はいよいよやるな  」 と、直感する。
かねてから米内光政司令長官の内諾を得て進めていた。
陸戦隊二箇中隊の特別訓練と砲術学校二十名の要員の非常招集体制の再点検を行う。
国家非常事態となれば海軍省など関連施設の警備を名目に横須賀から上京派遣させるためだ。
米内は火急の際は、昭和天皇を宮城から救出し、戦艦・比叡に乗艦願うことまで想定していたと云う。


〇五・〇〇
野中大尉が突如正面玄関にツカツカと入って行ったので私の分隊も続いて入り、
本館を通りこし裏手にある新撰組の建物に突入し、瞬く間に二階に至るまで占領した。
屋内はすでに逃げたあとで人気はなかった。
その間 野中大尉は玄関前で予備隊の隊長と称する警官を相手に交渉を進めていた。
占領をおわった私たちが側で見守る前でかなり緊張したやりとりがあった。
「 我々は国家の発展を妨害する逆賊を退治するために蹶起した。
貴方達にも協力して頂きたい 」
「 そのような事件が起ったのなら我々も出動しなければならない 」
「 警視庁はジッとしていればよい。
私のいうことを聞かず出動すれば立ちどころに射撃するがそれでよいか 」
交渉はゴタゴタして相手は野中大尉の意見に従う様子が見えない。
すると側に居た常盤少尉がサッと抜刀して、
「 グズグズいうな、それならお前から斬る ! 」
と 迫ったので、
この見幕に警視庁側の隊長はドギモを抜かれ
遂に
「 解りました 」
と 降伏の意志を告げた。
こうして警視庁は瞬く間に我が手に帰し
庁員を一ヵ所に軟禁し歩哨を立てた。

・・・ グズグズいうな、それならお前から斬る ! 」 



二月二十六日 午前毛零時に、
週番司令安藤大尉の命令で非常呼集をしてから、
歩兵第一聯隊の栗原中尉の下に出発時刻の件に付打合せに行きまして、
出発時刻を歩兵第一聯隊の裏門に午前四時三十分に到着する様に
聯隊を出発する事を打合せて帰り、諸準備を致し、
午前四時二十五分頃歩兵第三聯隊を出発して歩一の裏門に行きました。
栗原中尉は表門から出て来まして、
麻布三河台町赤坂区氷川町福吉町電車通り迄栗原中尉の案内で行き、
電車線路に沿って溜池虎ノ門を経て警視庁に行きました。
二月二十六日午前五時に、
第七中隊野中大尉と共に警視庁表玄関に行き、
野中大尉は決起の趣意書を受付の者に説明して渡し、
現在、警視庁の最高級の幹部の方にお話したい事があるから
呼んで来て呉れと受付の者に言ふて配備を廻らしましたから、
私 ( 常盤少尉 ) はその幹部の方の出て来るのを待つて居りました。
暫くして其趣意書を見まして、
私個人としては大変結構なことでありますと述べましたから、
私 ( 常盤少尉 ) は全部に判って貰った方が良いと思ひましたから、
全部一緒に中隊長野中の下にお出でになる様に申しましたる処が、
特別警備隊小隊長横沢某は私一人の方がよいだろうと言ひましたから、
裏門に居る中隊長の下に案内しますと、 中隊長は趣意書の説明をして、
他の目的が達成する迄一時庁舎を借用したいと述べ、
若しや衝突するやうなことがあつてはならぬから、
庁舎内の者を全部纏めて措いて貰ひ度いと申しますと 二、三問答をしましたが、
中隊長より今は議論する時期ではないから兎に角借用さして貰い度いと述べました。
此間、中隊長野中大尉は衝突することを心配して再三衝突を避け様と言ふて居りました。
すると、特別警備隊横沢某は、其要求部所を取るからと言ひまして庁内に行きましたが、
中隊長野中大尉は 私 ( 常盤少尉 ) に
横沢某を監視する様にと言はれましたから 後をついて行きますと、
警備隊の中隊長だと云ふ人に逢ひ、其方を案内して中隊長野中大尉の処に行きました。
又、中隊長は前同様の事を言って居り、逐次警戒線を裏庭の線迄つめてその儘夜を明しました。
警視庁占領は、主として中隊長野中大尉の命に依り附近の警備に任じて居ったが、
二十七日午後二時頃 中隊長の命に依り議事堂に集合する為警視庁を出発、
途中に於て師団命令を受くると同時に、もう一度警視庁に帰れと云ふ命令を受けて、警視庁に帰りました。

午後四時頃
再び議事堂に集合せよとの事で、
前回には清原、鈴木両少尉及機関銃隊と一緒に行きましたが、
今度は自分 ( 常盤少尉 ) の一個小隊丈引率して行きました。
午後五時頃
陸軍大臣官邸に将校集れと云はれ、 十七、八名集合し、
真崎、西、阿部の三大将と会見した後、 山口大尉より宿営地の配当を受け、
野中部隊 ( 第三、第七、第十機関銃隊 ) は 蔵相、文相、鉄相各官邸の配当を受け、
私 ( 常盤少尉 ) は当時不在なりし清原に伝達し、
清原の部隊と共に官邸に向ひ、清原は蔵相官邸に、常盤は文相官邸に入り、
爾来二十九日午前二時頃迄其処に居りました
奉勅命令が下ったと云ふことを知らずに、其御命令に反して居ったと云ふ行動は、
誠に恐懼に堪へないこと 深く感銘して居ります。
此の事に関して二十七日午後五時頃
陸相官邸にて将校十七、八名が阿部、真崎、西大将に会見し、
其際、真崎閣下より統帥命令に服従すること、
錦の御旗に対して絶対に敵しないことを強調せられたが、
其れに対し全員其通りでありますとお答ひしました。
( 所属隊上官より、解散又は原隊復帰等の ) 命令を受けたことはありませんが、
伊集院少佐 ( 歩三大隊長 ) から原隊に帰らないかと言はれたけれ共、
吾々は 「 一師戒命第一号第一師団命令 」 に依り小藤大佐の指揮下にあるのに
大隊長が斯くの如きことを云ふことは不思議に思って居りました。
(二十九日午前二時以降は) 午前二時頃
對馬中尉より周囲の部隊が攻撃するかも知れぬと聞き、
中隊長の命を受け、文相官邸の西側地区の警戒に任じました。

其後、奉勅命令降下のことを知り、下士官以下は全部聯隊に帰還せしめ、
野中大尉以下将校三名は陸相官邸に集結し、
爾後は大御心に副ひ奉る行動を採る決心を致しました処、
午後五時頃、 某大佐参謀、某少佐参謀、官邸に来り
「 君等は自首したのか 」 と 云はれましたから
「 自首した 」 旨を答へ終ると、
同時に憲兵が這入って来て保護検束を加へられ、
午後六時頃、 陸軍衛戍刑務所に収容せられました。
・・・常盤稔少尉の四日間 
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二九日
事態が重苦しくしている中で、 十一時頃 常盤少尉が急に全員集合を命じ、おもむろに訓示をした。
その内容は 出動以来の成り行きと、 今日までの苦労を感謝する意味のものであったが、
最後に、
「 愈々お前たちと分かれることになった。
 俺は別の所に行って残された仕事をやらねばならんから 堀曹長は全員を指揮して聯隊に帰るように 」
と いった。
日頃 父と仰ぎ 絶対信頼をもって服従してきた常盤少尉と今更どうして別れることができよう、絶対にできるものではない。
「 教官殿、自分たちは別れません。 教官殿が行かれる所ならどこでもお供いたします 」
「 自分たちは教官殿と一心同体であります。絶対に別れません 」
「 今まで一切を投げ出して教官殿と行動を共にしてきました。
 今別れたら自分たちはどうなるのですか、どうか最後まで行動させてください 」
「 教官殿とは生死を誓いあった我々であります。 今更別れるとは一体どういうことでありますか 」
隊員たちは悲痛な声をあげて常盤少尉の翻意を促した。
教官の為なら死んでもよい、 今日まで面倒を見てくれた間柄は、
親子以上の強い絆で結ばれているので絶対に断ち切ることはできないのだ。
兵は皆泣いた。
泣き叫び、号泣し 常盤少尉との別れに反発しながら自らの胸中を赤裸にブチまけた。
常盤少尉はしばし感慨にふけっていたが、
思い出したように状況説明や自分の立場などを述べて隊員に納得を求めたが、
やがて万感胸を打ち絶句した。
「 どうか 俺のいったとおりにしてくれ 」
常盤少尉もやはり人の子であった。
握りこぶしを 目にあて溢れる涙をおさえながら天を仰いで号泣した。
まことに悲愴の極みである。
・・・野中部隊の最期 「 中隊長殿に敬礼、頭ーッ右ーッ 」 


昭和維新・鈴木金次郎少尉

2021年03月05日 05時34分11秒 | 昭和維新に殉じた人達

 鈴木少尉
私は昭和十一年一月十日 現役志願兵として歩三、第十中隊に入隊した
所属は第一内務班で班長は井戸川富治軍曹である。
その頃 中隊長島田信平大尉は教育のため歩兵学校に入校していたので、
新井勲中尉が中隊長代理を務め、初年兵教官には鈴木金次郎少尉が任じていた。
教育が着々と進んで行く内 ちょうど入隊一ヶ月目の二月十日、
外出から戻った晩、鈴木少尉の精神訓話が行われた。
少尉の話は上海に於ける爆弾三勇士から始まり、
色々と戦場の様子を述べた後 最後に、
「 俺が任務の為に燃えさかる火中に入って行ったとしたら、お前達はどうするか 」
と 全員に問いかけた。
すると 二年兵も初年兵も一斉に答えた。
「 教官殿について 火中に飛込みます 」
「 そうか、一緒に飛込んでくれるか 」
鈴木少尉は我々の答えに大分感激したらしく 涙をこぼして喜んだ。
そのような喜び方は今回が始めてである。
まして涙を出すなど尋常な沙汰ではない。
おかしい・・
勘の働く二年兵の中には ただならぬものを悟った者があったと云う。
・・・・
二月二十五日は大久保射場で中隊の実弾射撃が行われた。
我々初年兵は初めての体験なので二年兵の指導を受けながら緊張気味で射撃を行った。
午後三時頃 フト伝令の岡崎一等兵が飛んで来て 鈴木教官に伝言した。
すると 途端に少尉の顔色がサッと変った。
「 これは妙だ、何かあるな 」
少尉は再び元の顔つきに戻ると、後の処置を下士官に指示し一人で去って行った。
私はその時 伝令から、今夜非常呼集があるらしいことを聞いた。
やがて演習が終り 中隊に帰った我々は、夕食後軍装を整え軍靴を履いたまま就寝した。
果して夜中の零時頃突然班長に揺り起こされた。
 各部隊の出撃径路
間もなく出発。
営門を出て歩一の前を通り隊列は警視庁に向かった。
この時の兵力は夜間で はっきりしなかったが、
後刻第十中隊の他、第七、第三、МGの混成で約五百名位であることが判った。
目的地には五時頃到着し
МGがすぐ正面入口と裏門に配置され、
小銃部隊は合図と同時に構内に突入した。
私は鈴木少尉に従って
森泉、井之上 他一名の計五名で庁舎裏手の新撰組の建物に突入し、
三階に寝ていた隊員三十六名を急襲し 忽ちのうちに一室に軟禁した。
彼等は未だ就寝中だったため、
「 起きろ
の声で一斉に起床させ、
片隅に全員を集めると共に武器を全部押収した。
着剣した小銃を構えられては新撰組とはいえ
手を挙げる以外にどうすることもできなかったであろう。

・・・新撰組を急襲 「 起きろ! 」


二月二十五日

午後十時か十一時頃、第七中隊長野中大尉が
第七中隊班長と第十中隊の各班長に本事件の内容を志達し置き、
二月二十六日
午前零時三十分に各班長自ら兵を起床せしめ、

事件決行の内容を伝えたのであります。
夫れから各班長が各兵に兵器弾薬を分配しました。
全部 ( 営庭 ) 集合したのは二月二十六日午前四時十分頃でありました。
午前四時二十五分頃、歩兵三聯隊を出発しまして、
歩兵第一聯隊の裏門を同聯隊の栗原中尉に案内されて、
麻布区三河台町、赤坂区氷川町、福吉町溜池を通り、
市電電車路に沿うふて警視庁に到着しましたが、
その行軍の序列は第七中隊が先頭で、機関銃(八挺)第十中隊、第三中隊、
夫れで此機関銃は三中隊に各一銃宛を配当、
警視庁に向ひ 次の通り配置しました。

警視庁の玄関に在りたる第七中隊の常盤少尉の指揮する小隊が、
警視庁の中に這入り、各通信機関を遮断しました。
警視庁の裏庭に主力を引きつれて居るたる野中大尉が、
警視庁の幹部二名を裏庭の主力の位置に伴ひ出して、
一時此の警視庁を引受けるからと告げ、
沢山の負傷者を出しては御互の為にならんから、
武力行為は避けて庁舎と電話を吾々の専用にして呉れと交渉しました処、
暫く躊躇して居りましたが、
軍隊の事であるから承知しましたと云ひました。
夫れで部隊の主力を警視庁の中庭に集結して、
一部の兵力を以て庁舎内電話室の警戒
及 屋上に陸軍省と連絡の為少数の通信兵を配置、
更に一部の兵力を以て凱旋道路 及 海軍省前附近の道路を遮断しました。
同日午前六時頃
野中大尉より私が内務大臣官邸の占領を命ぜられ、
第十中隊の二ケ小隊を指揮して官邸に行きましたが、容易に官邸を占領することを得たる為、
兵力の多過ぎる事を知り、一ケ小隊を残置、鈴木少尉は警視庁に引揚げました。
二十六日午後六時頃
第一師団の命令で戦時警備下令の事を達せられ、
二十七日の御前八時か九時頃迄警視庁に居りました。
二月二十七日 午前九時頃
野中大尉から帝国議会議事堂に集合を命ぜられ、
警視庁を引揚げ、議事堂に集合しましたけれ共、
野中大尉り警視庁に帰れとの命により、
午後二時頃警視庁に戻りました
再び議事堂に集合せよとの命令を、二十七日午後四時頃野中大尉より達せられ、
同日午後四時過ぎに該議事堂の中に集結しました。
午後四時三十分頃、将校丈け陸軍大臣官邸に集合を命ぜられて集結しましたが、
其時、歩兵第一聯隊第一中隊長山口大尉より宿舎命令を達せられました。
其宿営地区は鉄道大臣官邸に定められ、
鈴木少尉は文部大臣官邸に宿営することとなり、
夕食後何もせず寝てしまいました。
二十八日 午前九時頃
誰の命令か判りませんが陸軍大臣官邸に集まれと言はれ、
鈴木少尉は一人で歩いて行きましたが、
途中で某曹長の乗って居る自動車に乗って行きなさいと云はれましたから、
その自動車に乗って陸軍大臣官邸に来ました。
其の時、野中大尉、香田大尉、山口一太郎大尉、対馬中尉、清原少尉、
村中孝次其他数名居りましたが、氏名は記憶とて居りません。
約二十分位の後に、 安藤大尉から将校は幸楽に集れと言はれて
鈴木少尉は村中、対馬と自動車で幸楽に行きました処、
安藤大尉は悲壮の顔色を以て 部隊を離れてはいかん と叱責せられましたから、
夫れなれば帰りますと云ふて村中孝次の自動車便乗させて貰ひ、文部大臣官邸に戻りました。
二十八日 午後二時頃
清原少尉が来て、外は大変面白いから巡察して来たらどうだと言はれ、
下士官二、兵一を連れて溜池より自動車(円タク)で電車線路を沿ひ、
警視庁参謀本部前、 永田町通りを赤坂見附に出て左に電車線路に沿ひ幸楽に立寄り、
二、三分して自動車で文部大臣官邸に帰りました。
同日午後十時頃
常盤少尉が酒肴を準備して持って来ましたから、その酒肴を飲食してから二階に上り、
二十九日 午前二時三十分頃まで寝てしまいましたが、
夫れから起きた処、班長の井沢軍曹が来て、
只今 近衛の聯隊が吾々を攻撃すると云ふ事を告げましたけれども、
吾々は命令に依って警備配置について居るを以て、配置に就いたのであります。
ところが二十九日 午前五時頃
ラヂオを以て奉勅命令を放送され、夫れを承知しました。
奉勅命令は絶対のものなるが故に、
爾後の行動に附ては中隊長野中大尉の命を待つことと、
同中隊長に連絡をとりましたが 中隊長は行先が判明しなかつたため、
鈴木少尉は無抵抗の決心をして部隊を 文部大臣官邸に集結して置きました。
二十九日午前七時乃至八時頃
戦車に某少佐、大尉両参謀が乗って来て、
下士官兵を所属部隊に帰せと言はれましたとて、
先づ中隊長野中大尉を探しましたが 行先が判明しませんので、
議事堂に兵を集結して中隊長の命を待つ考へでした所へ、
歩兵第三聯隊第十中隊の新井中尉が来て、
内容を良く存じませんが何か訓示をしたやうでありました。
其時、鈴木少尉は参謀から盛んに追及せられましたので、
自ら議事堂の方へ行って見て来るから待つて居って下さいと云ふて議事堂に行きました。
議事堂には、村中、野中中隊長、対馬、竹島両中尉が居りましたから、
鈴木少尉は中隊長野中大尉に情況を報告した処が、
然らば兵隊を帰して、
吾々将校は自決をしやうと云ふ事を協議して文部大臣官邸に帰りました。
二十九日午前九時頃
歩兵少佐参謀から将校は首相官邸に集れと言はれましたから、
途中議事堂へ立寄り、
野中大尉、常盤少尉及鈴木少尉の三人で首相官邸に行きました処が、
其時は既に戦闘状態になつて居った為、陸軍大臣官邸の方へ行きました。
官邸に居りました坂井中尉、高橋少尉、麦屋少尉、清原少尉等が
遺書を認めて自決する 覚悟をして居りましたが、
清原曰く
「 今自決したならば
吾々の精神を伝ふる者がなくなつてしまうから、出来る丈生存することを 」
主張された為に、
自決の決心をしたが清原の意見に左右されて思ひ止まりました。
二十九日昼食後、拳銃 ( 弾丸共 ) を憲兵に渡して、
疲れて居りましたから 陸相官邸に午後四時頃まで寝てしまいました。
午後四時頃、某歩兵大佐参謀、某砲兵少佐参謀来室
「 君等は自首したのか 」 と 言はれましたから、
自首した旨を答へた処、
然らば 直に検挙だと云ふより早く憲兵が這入って来て、
鈴木外十一名は其場で逮捕され、
午後六時頃、衛戍刑務所に収容されました。
・・・鈴木金次郎少尉の四日間 


昭和維新・清原康平少尉

2021年03月04日 05時42分43秒 | 昭和維新に殉じた人達


二月二十五日午後八時頃、
当時週番司令となりし安藤大尉 ( 第六中隊長 ) から、
私に直ぐ来るやうに伝令がありましたから週番司令室に行きますと、
安藤大尉は、 明朝、愈々、昭和維新を断行するから第三中隊も出ろ、
そして今夜十二時を期し非常呼集をやるから次の服装携帯品に付いて準備して置け。
服装、軍服は第三装甲を着用、外套に肩章を附すべし。
軍帽は良きものを着用すべし。
携行品は、 戦帽、白帯、防毒面、三脚架、拳銃、鉄鉢、条鉄、手旗、兵器手は倶乾麵麭、
米、軽機関銃、実包、銃身、水筒、雑嚢、飯盒、衛生材料、 特に看護兵を随行すべし。
維新断行に就きまして内命を受けました。
それで休養して居ると、
二十六日午前零時頃、週番司令の伝令が来て非常呼集の命令を受けました。
私は直に週番司令室に命令受領に行きますと、
安藤大尉は、 午前四時二十五分、野中大尉 ( 第七中隊長 ) の指揮を以て出発、警視庁に向ふべし。
突入時刻は午前五時三十分の予定。
之れが為速に弾薬受領者を弾薬庫に差出すべし。
と 命令を受け、中隊に帰り、下士官を週番士官室に集合を命じました処、
藤倉軍曹、山本軍曹、神田軍曹、野村伍長、宍倉伍長、関根伍長、小座間伍長、平佐伍長、村上伍長、山崎伍長の十名が集合しました。
其処で、安藤大尉より所に休憩後、 交番の無き処を選んで第一師団長官舎裏を経て、
溜池虎ノ門 ( 立番巡査は居眠りしあり ) 警視庁に到着しました。
午前五時過ぎ頃、 警視庁に到着するに先立ち、別紙要図の如く配備を命ぜられました。

私は軽機一ケ分隊、機関銃一ケ分隊 ( 兵力二十 ) を以て 
警視庁と内務省との間の通用門に向って司法省表面附近より射撃準備を命じ、
残余の第三中隊主力を以て警視庁正門前を通り、
同庁西北の破壊せる板塀の個所より警視庁裏庭に歩三の各部隊と共に待機しました。
稍暫らくして、野中大尉が警視庁と折衝の結果、同庁の明渡しを受け、
私は第三中隊の一部 ( 約四十名 ) を以て ( 軽機関銃二ケ分、小銃二ケ分隊 ) 警視庁屋上を占領すべき命を受け、直に占領しました。
第三中隊の主力は、山本軍曹の指揮を以て野中大尉の指揮下にありまして、
午前六時頃、
携帯口糧 ( 乾麵麭一食分 ) で朝食を為し、 警戒に任じ、
正午に至り 歩三より石井一等主計、原山二等主計等の運搬し来れる ( 聯隊長命令に依る )
昼食を各自警戒に就きたる儘あり 私が屋上の警備を藤倉軍曹に命じ、裏庭に下り、其後は何事も無く、
夕食は原隊より給与を受け、 其夜は中隊主力と共に警視庁機関庫内に宿泊せり。

(二十七日) 午前十時三十分
野中大尉より ( 宿営休養の目的を以て) 家族会館を偵察せよ

との 命令を受けましたので、私は一個小隊を率い家族会館に至りました。
主任者に連絡の結果、約三百名の宿営能力あることを知り、
野中大尉の命令に依り中隊主力を招致して中に入れました。
当時の家族会館には、家族約三十名一室に居りましたが、
私の一存で之れらの人を外へ出すことを躊躇し、
自ら首相官邸に赴き栗原中尉の指示を受けました。
すると栗原中尉は、直ぐ家族会館に来り、
彼等に蹶起趣意書を朗読したる上退去を許しましたので、
私は兵が危害を及ぼす事を虞れ、三、四名宛逐次に退去せしめました。
二十七日午後六時三十分頃、
中隊長森田大尉が来ましたので、
私は 「 中隊長の指揮下に入れて戴きたい 」 と 申しますと、
常盤少尉は 「 我等は小藤大佐の指揮にあるからそれはいかぬ 」 と 述べました。
午後七時頃に至り、
小藤大佐命令になりとて蔵相官邸に引揚げを命ぜられましたので、
午後七時半頃 家族会館を出て蔵相官邸に入りました。
(二十八日) 正午頃
野中大尉来り、将校に陸相官邸集合を命ぜられましたので直ぐ参りますと、
磯部等一見在郷将校らしき者集合して居りまして、
之等の人物に依り利用せられて居る事を悟り、
其処を脱出し、
幸楽に居る安藤大尉の下に到り、自己の所信を開陳し、蔵相官邸に帰りました。
当夜は三宅坂の警備に付きました。
二十八日夜、中隊長より私に電話で、
「 俺の中隊へ帰れ 」
との 電話がありましたが、
前述の事がありますので私は常盤少尉から聞いた通り申しました。
(二十九日) 午前五時頃
赤坂方面より 「 ラヂオ 」 の放送を聞き、初めて奉勅命令の下りし事を知りました。
次で赤坂見附方面偵察の為参りますと、
四十九聯隊の大隊長が奉勅命令が下つたから早く帰れと云はれましたので、
中隊の兵を集め営門迄帰りました。
すると憲兵曹長来り、
将校は陸相官邸に集合せよと云はれましたので直ぐ参りました。
・・・清原康平少尉の四日間 


まんじりともせず警戒しているうちに ようやく夜が白みはじめた。
ホッと一息ついた時 再び陣地変換の命令が下り中隊は三宅坂に移動した。
もう その頃になると飢と寒さで誰も口をきかなくなった。

しかしお互いに我慢しているのか 一人として弱音をはく者はなかった。
三宅坂にきた頃はまだ暗く、 そんな中で清原少尉は 全員を集め本人を中心に円陣を組ませた。
少尉は軍刀をつき胸を張ってはいるが何か沈痛の色が見える。
頭の中でいろいろまとめていたがやがて話をはじめた。
「 我々は国家をよくするため昭和維新の断行に踏切ったが、昨日来一部同志の脱落により遂行は今や崩れかけている。
 現在頑張っているのは我が三中隊と六中隊だけとなった。
そこでお前たちの決意を聞きたい。最期の一人に成っても やり抜く覚悟のある者は手をあげてもらいたい」
この言葉に全員は期せずして 「ハイ」 といって手をあげた。
「 有難う、よく決意してくれた。教官は心から嬉しく思う 」
兵隊たちはお互いに顔を見あわせて最後の天皇陛下万歳を唱えた。
やがて明るくなってきた頃、小銃やLGに実包を込め、陣地について戦闘準備に入った。
と、その時半蔵門の坂道を私達の方に向かって戦車の列が登ってきた。

戦車が去ったあと 清原少尉は再び皆を前にして話をはじめた。
「 昨日原隊復帰の勅命が下ったそうである。
 我々は今まで尊皇義軍を誇りにしていたが いつの間にか反乱軍の汚名を着せられてしまった。
 ここに至っては如何ともすることができない・・・・・」
そこで言葉がとぎれた。
そしてまた思いなおしたように、
「 そこでもう一度お前たちに聞く。最後の一人になろうとも頑張る気概のある者!」
その問に全員は前回と同様に 「ハイ」 と答えて手をあげた。
しかし心なしか元気がなかった。
「 有りがとう、教官は心から感謝する。
 しかし反乱軍の汚名を着せられたままお前たちを殺すことは忍びない、よって残念だがこれから原隊に復帰することにする」
少尉は目に涙を浮かべ万感胸迫り、声もつまってよく聞きとれなかった。
その後全員は陣地を撤収、 あと片付けを行い、改めて服装を正し整列の上、
清原少尉の音頭で天皇陛下万歳を三唱、 武装、タスキがけ姿で帰隊の途についた。

沿道は 至るところ鎮圧軍の陣地やバリケードが築かれ、私たちは彼等の大規模な攻撃準備に今更に目を見張るばかりだった。
しかしそれにも増して驚いたのは 私達の進む沿道が黒山の市民で埋めつくされていたことである。
しばらく行進すると鎮圧軍によって行進が停められた。
清原少尉が相手の将校と何やら問答を始めた。
その結果、直進を避けて十字路を右折することになった。
道路沿いの市民たちが 「 御苦労さま! 万歳!」 と 連呼しつつ 盛んに私たちに歓声を送ってくれた。
市民は 私たち蹶起部隊に対し心から声援しているのである。
反乱軍の汚名を着せられていても市民感情は私たちに味方しているのだ。
私たちは嬉しかった。
国政の退廃に愛想をつかした市民が私たちの蹶起に心から感謝していることが判る。
そしてまた数分後 行進が阻止された。
今度は大分強硬で清原少尉も相手将校も興奮した態度でわたり合っていた。
それに呼応して油を注ぐかのように小銃やMGの発砲が断続して響き渡った。
相手側は私たちに武装解除を要求しているらしい。
これに対して清原少尉は、
「 我々は勅命によって原隊に復帰するのだ、 この勅命を阻むものは国賊である。
 どうしても武装解除を要求するなら 我々は一戦を交えても勅命を遵奉するがそれでもよいか 」
と 切込んでいった。
するとこの成り行きを見ていた群衆が
私たちと鎮圧軍 (近歩三)の間になだれの如く割って入り
「万歳! 蹶起部隊万歳!」
と 叫び出し 鎮圧軍を引きはなした。
この劇的なシーンは どう表現したらよいか筆絶し得ない情景で、
今も脳裡に焼きついている

鎮圧軍は遂に群衆の威圧に負け武装解除をあきらめ、
そのかわり  「 取れ剣 」 と 「 弾抜け 」 を命じた後、 私達の行進を許可した。
道路の人垣はなお続いていた。
やがて正午近い頃原隊に着く。

営門の前には憲兵が右往左往し 報道関係の記者もカメラを携えて飛廻っている。
隊列が停止すると清原少尉が中央に立って徐ろに訓示をした。
「 出動以来お前たちには非常に苦労をかけた。
 この清原を中心に一人の落伍者もなく 一糸乱れず指揮に従ってくれたことに対し教官は心から感謝する。
今回の事件は自分一人の責任であってお前達には何の罪もない。
この責任は自分がとるから お前たちは新しい統率の下で、君のため、国のため忠勤をはげんでくれ 」
いいおわった清原少尉は頭をたれ男泣きに泣いた。
訓示が済むと急に隊列が乱れ
「教官殿!」
「教官殿!」
と 叫びながら全員は一斉に少尉にすがりついた。
そして子供のようになきじゃくった。
・・・帰順 ・ 沿道の群集 「万歳! 蹶起部隊万歳!」 


昭和維新・麥屋清濟少尉

2021年03月03日 05時30分08秒 | 昭和維新に殉じた人達


麥屋清濟
・・・
その頃私は三カ月の教育を修了して陸軍歩兵学校から帰隊した。

その時の聯隊長は井出宣時大佐で、帰隊直後本部の貴賓室で令旨の伝達が行なわれた。
これが所謂 「 粛軍の令書 」 で 陸軍騒擾危機を目前にして全軍を対象として下達されたものである。
当時 歩一、歩三には革新思想を抱く青年将校が多数あって、
青年将校運動の中心的存在として益々激化する事態にあった。
そこで 井出聯隊長は令旨の伝達があった数日後 (八月か九月頃と記憶) ひそかに私を呼び、
聯隊内の青年将校運動をスパイせよとの密令を下達した。
聯隊長としてはこのことについて大変心配されていてスパイの適任者を私に求めたのである。
私は受諾したものの同志を裏切ることはできないので、一度も報告したことはなかった。
そのうち第一師団の渡満が内定すると井出大佐は参謀本部軍事課長に栄転され、
後任にはハルピン特務機関長の渋谷三郎大佐が赴任してきた。
十二月二日付である。
渋谷聯隊長も、恐らく情報を把んでいるので青年将校運動には着任早々から頭を痛めていたことと思う。
当時青年将校の秘密会合は聯隊近くの竜土軒というフランス風の小料理屋が使用され、
私も二回ほど出席したが、昭和十一年に入ると謀議はいよいよ核心に入り白熱化した。
中でも蹶起にあたり問題となったのが下士官兵を参加させるか否かの重大事項で、
一部には将校だけで決行すべきだと主張する者もあったが
結論では兵を同行することに意見が一致した。

この理由は要するに---
大御心を実現するには軍隊をもって実施するのが当然である。
政道を正し、天皇道にするためには下士官兵をもあわせて一丸とならなければならない。
それ故 私兵化と見られようが天皇のために行動するのであるから
統帥権の干犯にはならない
---と するもので、この統一見解によって下士官兵の出動がきまったのである。
なお蹶起はあくまで君側の奸を除き昭和維新を断行するのが目的であって、
あとは天皇の命をまつという、かつての他国に発生したクーデターとは全く異質の蹶起である
ことを関係将校は皆承知していた。


かくして 二月二十六日未明蹶起し、
第一中隊は第二中隊の参加兵を併せ指揮し、
午前五時 斉藤内府邸を襲撃した。
この時の私の任務は 最初誘導将校で、
現地到着後は突撃隊指揮官になる予定であった。
しかし赤坂附近にきた時、急に任務が変更された。
それは警官の姿が漸次目立ちはじめたので邸宅周辺の警戒配備、
殊に赤坂見附方向警視庁新撰組の出動に対応するMG二コ分隊の配置という 重要任務が生じたからで、
これを配備した後、突入することになったのである。
そこで早速状況判断の上MG陣地を決定し配備をすませた後
私邸に行き、邸外に待機中の一コ分隊を指揮して邸内に進入した。
屋内に入り奥深くまで進み階上にあがろうとした途端、 階上からけたたましいLGの音が響いてきた。
同時に婦人の声と共に悲痛なうめき声が聞こえた。
やがて階下に降りてきた坂井中尉は 「 状況終わりッ!」 と 叫び
重ねて 「 中隊は赤坂離宮北十字路に集結せよ 」 と 命令した。
全員が正門前に整列すると 坂井中尉は拳銃と共に鮮血滴る右手を薄闇の天高く掲げ
「 奸賊齋藤実を只今打ち取った。 昭和維新は日の出に輝く、日本国万歳!」
と 大音声を放った。
兵もこれに呼応し 万歳 を叫ぶ。
それからすぐ赤坂見附を目標に行進に移った。
私は先頭に立っていたが、この時全員はなお戦闘体制のままであった。
途中、市川野重隊の田中中尉指揮する軍用トラックに会い、
ここで中隊の編成替を行い、
高橋少尉、安田少尉 ( 砲工学校)  が 約一コ小隊を指揮してトラックに分乗、
荻窪の渡辺教育総監の襲撃に向った。
あたりがようやく薄あかりになったので 私の方は急いで赤坂見附の交叉点に行く。

到着と同時に 見附台上に歩哨線を張り、 警備と交通遮断の任務についた。
この時、磯部、村中の両名から
「 チエックリストにある人物が現れたら即時射殺せよ 」
という 強硬な指示を受けた。
以後 警備中私の所に見えた主なる人物は次のとうりである。
1 赤坂憲兵分隊長--同行した花田運転士(憲兵上等兵)
    はその後熊谷憲兵分隊長となった人である。
2 山崎大尉--後にアッツ島で玉砕した人だが、
    彼は指揮刀をさげ単身で私の所にきて
    物凄い見幕で食ってかかり、そのまま歩哨線を突破していった。
3 石原大佐--チエックリストにある人物である。
    彼は悠々と胸を張り歩哨線を突破しようとした。
    この時新品少尉云々といったが 後の言葉は覚えていない。
    只、維新をやるから通せといった事だけが印象深く頭に残っている。
そこで私は
「大佐殿、ここを通らないで軍人会館に行って下さい、 大佐殿のために御願いします。
ここを通れば射殺せねばなりません。
しかし小官にはどうしても射殺できぬ苦しみがあります。どうぞお察しください 」
と いうと 大佐は止むを得ん と いって私の歩哨線を避けて行かれた。
 石原莞爾大佐  陸軍大臣告示
午後三時三十分、待望していた陸軍大臣告示がでた。
我々の蹶起の趣旨が天聴に達したことは、この行動が正しいものと御認め下されたものと
部隊将兵は感涙にむせびながら喜びあった。
この告示はひとり我々ばかりではなく、全陸軍にも伝達され、
陸軍省では早くも維新大詔の起草に着手し、
全国の大多数の将校は昭和維新の実現を期待する態度へと傾きかけた程であった。
我がこと成れり、
これで日本は再び安定した社会秩序が確立されるであろう。
今更に昭和維新断行の偉大さを反芻はんすうせずにはいられなかった。
こうして蹶起部隊は二十七日以後戒厳令施行に伴い、戒厳司令部命令をもって
歩兵第一聯隊小藤大佐の隷下にはいり、麹町附近の警備にあたるべしとの命令に従い
行動することになった。
この間 事件発生と時を同じくして、
村中大尉、磯部主計大尉、歩兵第一旅団香田大尉は

時の陸軍大臣川島大将を陸相官邸に詰問し 昭和維新断行を告げ、
速やかに宮中参内して事態の収拾に全力を尽すよう要請した。
その具体的かつ早急実施の昭和維新要項は次のとおりである。
真の大御心による国家の建設
a 軍制大権、政治大権、経済大権の即時奉還。
b 財閥の解体---これがため資産百万円以上の財産を凍結し生活におののく国民を救済する。
c 軍需産業、独占企業の国家管理。
d 皇族一親等以外の臣籍降下。
e 華族制度の改廃、功績に応じ一代制とする。
f 寺内、林、小磯各大将及び片倉少佐の即時罷免。
だが 我々の要旨とは裏腹に事態は漸次逆方向に推移し、
二十八日になると午前八時に奉勅命令が出された。
この内容は蹶起部隊の原隊復帰を命じたものであったが、
どういうわけか我々には伝達されなかった。
この辺の事情は謎となっているので私にもよく解らないが、途中で握り潰されたものと思われる。
その理由を述べれば、部内の一部に反対者がいたからで、
それは当時第一師団長の堀丈夫中将が部下歩一、歩三の将兵を見殺しにできず、
そのため部下と運命を共にするとの考えに移行したためとみられる。
そこで第一師団は先ず 全力をあげて近衛師団を攻撃する構想をたて、
これを巡って二十八日から二十九日朝まで、
鎮圧軍内部は混乱と錯綜が渦を巻き想像を絶するものがあったという。
この事は 当時我が方に情報として入手もしていたし、後の公判にも出てきたので確かな事実だ。
また 陸軍大臣告示を出しておきながら二日後には反乱軍ときめつけては
蹶起部隊を激昂させ事態収拾はかえって困難になる。
それを承知で伝達する使者など、引受け手がいないというのが筋のようであった。
だから我々には正式な命令など最後まで接することはなかったのである。
それよりも陸軍上層部の考えは、事態がこのようになっては
最早や蹶起部隊全将校に自決してもらう以外になく、
それが国民に対して軍の威信を保持する最良の方法だと割切っていたようだ。

午後になると益々周囲が物々しくなり、各地から上京してきた部隊が我々を包囲し
今にも攻撃してくる気配を示してきた。
今や我々は完全に色分けされ、彼等は鎮圧軍、当方は反乱軍と化したのである。
奉勅命令を知らぬ我が方は相手があまりの高圧的な態度に出てきたため怒りがこみあげ、
やるならやってみろと全員戦死を覚悟で陣地についた。
緊張した一夜を明かし二十九日朝を迎えると、各所からスピーカーが鳴り出し
上空からは飛行機が盛んにビラを撒布した。
最早や 抵抗の余地はなくなった。
順逆の理は度外視され、奉勅命令に従う他に道はない。
これに反抗すれば逆賊になるだけだ。
もう何もかも終りである。
昭和維新がガタガタと崩れてゆく。
私の警備地区たる三宅坂一帯、陸相官邸を中心に布陣した蹶起部隊の最後の秋はきた。
この場に臨み宮城を背にした陣形の中で我々三人の将校は、
各要所の歩哨線で君ケ代のラッパ吹奏し宮城に向って最後の捧げ銃を行った。
こみあげる涙は止めどなくこぼれた。
嗚呼、非理法権・・・・。
午前八時、
今まで人の往来が頻繁だった三宅通り、赤坂見附一帯は、人っ子一人の姿もなく、
昼間だというのに静寂が漂い無気味な気配に覆われた。
道路に面したドイツ大使館のラジオだけが鳴響き、
鎮圧軍の攻撃体制が着々と完了してゆくのがキャッチできた。
彼等は徐々に前進してきた。
しかし皇軍相撃がどうしてできよう。
もしどちらかが発砲したらどうなるか、それこそ生地獄の修羅場が現出するであろう。
しかし天は銃声を取りあげた。
一発の銃火もなく 敵も味方も皆熱い涙に濡れていた。

九時頃 遂に断がくだり、
第一、第二中隊の下士官兵を帰隊させ、我々坂井、高橋、麦屋の三将校は
元 歩兵第三聯隊長山下奉文少将に抱かれるようにして陸相官邸に連行された。
当時陸軍はここで我々を自決させる計画であった。
そのため参謀本譜の附近には我々の屍を収める棺桶が用意してあるのが望見された。
我々もまた遺書をしたため潔く自決する覚悟をかためていたことはいうまでもない。
もう逃げもかくれもしない、従容として死につくつもりであったが、
あまりにも急ぎ立てるので遂に怒りがこみ上げてきた。
この時ここに閉じ込められた将校は十四、五名で皆自決するつもりでいたが誰というとなく
死ぬのはあと廻しにしようと決心をひるがえした。
( 軍は我々の意向を抹殺してこの事件を闇に葬るつもりである。
ここで死んでは犬死になる。そして反乱軍の汚名を甘受したことになる )
そこで多分栗原中尉だと思うが 「 勅使の誤差遣を仰いで然る後自決しよう 」 という意見が出され
全員これを了承した。
早速居合わせた高官連中に依頼し宮中に侍従武官を通して取次いでもらった。
数刻後 我々のもとへ返信が伝えられたが 期待すべきものではなく、
« 勅使などもっての外だ、死ぬなら勝手に死ね »
という 冷水の如き言葉であった。
ここで我々の決心もはっきり決まり 自決を中止した。
隣室では何やら激論が交わされているらしく、大声が漏れてきた。
夕刻五時頃 岡村大佐が顔を出し一人一人の心境を訊問した。
最初は林少尉だったが 「 大御心のまま 」 と 答え 以下同様の答を返した。

この日 自決したのは野中大尉 唯一名であった。
残る我々は以後 軍法会議において堂々と所信を述べ
現状の腐敗堕落と昭和維新断行への憂国の情を天下に知らしめるため刑務所に入った。
収容されたのは代々木陸軍衛戍刑務所の独房で、
私の入った房はかつて幕末の志士橋本佐内が幽閉されていた部屋であった。
ここで私は口頭命令に接し二月二十七日付で免官になった。
その頃実家には憲兵が行き、位階に関する発令書等を全部引上げていったそうである。

裁判は三月五日から七月五日までの間、数回出廷して行われたが、
この裁判は弁護なしの一審制で控訴を認めず、非公開、傍聴人なし
という 東京衛戍特設陸軍軍法会議というものであった。
やがて六月四日 求刑がいい渡された。
勿論死刑である。
今までの裁判過程では当然予想された結果だ。
国家がどうなろうと、
それを憂いて蹶起した精神が正しかろうと、

そんなことは裁判には関係はなかったのである。
要は統帥権を干犯し 国軍を私兵化して人を殺害したことに焦点が置かれていたのだった。
しかも
天皇までが 激怒され 即時鎮圧を下令されたとか、

あまりのことに二の句も出ない有様だ。
だから法廷において 村中、磯部の両名は激しい口調で憂国の赤誠心をブチまけ、
国政の腐敗をなじり、軍閥によって陸軍は崩壊すること、
更に偏見とも思われる大御心を叱責したのである。
また 安田少尉は刑死寸前、大音声を張上げ
「 国民よ、軍部を信頼するなかれ 」
と 叫んだそうである。
これには深い意義がある。
軍部とはこの場合 上層部を指しているが、
本人をして ここまで云わしめたのは並大抵の憤激ではなかったものと推察できる。
事件の結果は真にうたた慟哭どうこくの一語に尽きた。
七月五日 判決がおりた。
私は無期禁錮刑に決まった。
私は意外な気持ちで判決を聞いていたが、この時死刑をいい渡されたのは現役将校十三名、
地方人四名 計十七名でその次に私がランクされていた。
死刑の執行は一週間後の七月十二日 朝七時から三回に分けて行われた。
刑場は所内の西北の隅に特設され、銃殺による処刑方式であった。
その朝 点呼が終り、しばらくすると彼等は五人ずつ一列になり、
先任者が号令をかけ 歩調をとりながら刑場に向っていった。
行進に移ると 誰の口からともなく 「 昭和維新の歌 」 が はじめられた。
汨羅の淵に波騒ぎ  巫山の雲は乱れ飛ぶ
混濁の世に我立てば  義憤に燃えて血潮湧く
歌声は悲壮感がこもり 私の胸にも突きささる思いであった。
死んで行く彼等の心境は真に歌詩そのものである。
私はだんだんちいさくなってゆく歌声を追いながら ひたすら彼等の冥福を祈り続けた。
こうして三つの組が一時間の間に私の目の前を通過していったが、
それっきり戻ってはこなかった。
( リンク→天皇陛下万歳 )

二・二六事件と郷土兵 (  昭和56年・・1981年 )
歩兵第三聯隊第一中隊付 麦屋清済少尉 「挫折した昭和維新の回想」 から 


昭和維新・今泉義道少尉

2021年03月02日 05時25分14秒 | 昭和維新に殉じた人達

宮城赴援隊小隊長
近衛歩兵第三聯隊第七中隊
今泉義道少尉


元来、近衛師団の歩兵連隊に入隊する壮丁は、
各都道府県知事の推薦によって選ばれた人々であった。
これは禁闕守衛の任務につくための配慮によるものである。
従って、裕福な家庭に育った青年ばかりであろうと想像していたが、
身上調書ができ上るにつれて、
過程の事情欄には、小作農、生活貧困が多く、私の心を暗くさせた。
当時の社会記録を繙ひもとく迄もなく 小作農の生活は悲惨そのものであった。
都市労働者は殆どいなかった。
然し彼等には選ばれたものとしての誇りがあり、これは私の唯一の救いであった。
戦場で国家のために喜んで一命を捧げる兵隊を作るためには、先づ何を教えるべきか。
国防の本義と軍人としての死生観を一致させなければ、初年兵教育も単なる技術教育に了る。
仏作って魂の入っていない兵隊ができ上ってしまう。
社会組織の矛盾、経済組織の不合理、政治の貧困さなど、
私は身上調査によって まざまざと現実の問題として受けとめていたのであった。

ああ 吾らが護らんとする祖国
・・・教官が教える祖国とはあまりにも遙かなる理想境に過ぎないではないか。
軍人は政治に係ってはならぬ。 軍人には選挙権すらなかった当時のこと。
政治の批判など軍法をもって禁ぜられていた当時のこと。
一人の初年兵教官が真面目に考えれば考える程 兵隊が可哀想になった。
軍隊を構成する底辺の兵士達は徴兵である。
有無をいわせず地主や資本家達、所謂特権階級の利益のために貴い命を捧ぐべし
と 教育する初年兵教官は一体何者ぞ、こんな筈ではなかった。
こんな馬鹿な話があるものか。
ある日 兵隊を引率して青山通りを行軍していたら、電柱にビラが張られていた。
『 ・・・見よ、財閥は私利私慾を恣にして貧富益々懸隔。
政党は党利党略に走って社稷は累卵の危機。 妖雲聖明を覆いて 天日俱に闇し・・・』
私は咽び泣く思いを辛うじて耐えた。


二月上旬、中橋基明中尉が満洲から帰還した第七中隊付となった。
第七中隊長井上勝彦大尉は陸軍大学校の専科学生として入校したので
中橋中尉が中隊長代理となったのである。
私は毎日初年兵と起居を共にし 一緒になって汗まみれ泥まみれになって、
三月上旬 富士の裾野において行われる筈の第三期検閲に備えて訓練に余念がなかった。
ある晩、代々木練兵場で夜間演習中にひっこり中橋中尉が現れた。
私は訓練を中止して中隊長代理に敬礼し型通りの報告をした。
中橋中尉は江戸っ子らしいキビキビした調子で初年兵に訓示した。
「 俺は最近まで満洲のソ連国境の警備隊に勤務していたが、
今夜の諸子の訓練を見ていると、まるで幼稚園の遊戯みたいだ。
もっと真剣になってやれ、夜間の格闘動作などまるでなっとらん。
近く第一師団は渡満することになったが、
我々近衛師団の敵は国内にあることを忘れてはならん。
俺は国内の敵をやっつけるために満洲から帰ってきたのだ 」
と 思わず ハッとするような言葉を残して闇の中に消えていった。

二月二十五日、 この日は富士の裾野 滝ケ原廠舎に移動する準備のため、
朝から各種の梱包を作ったり、兵器や被服の手入れ検査などで忙しかった。
聯隊会報によれば 明二十六日は代日休暇、
二十七日午前八時 富士御殿場に向け営門出発の予定となっていた。
夕方になったので私は食事のため将校集会所に行った。
そこで私は同じ中隊付将校棚橋新太郎少尉に出合った。
彼は特別志願将校として年配も私より上であり、当時歩兵学校在学中であったので、
あまり話合う機会もなかった。
「 今泉さん、明日はどうしますか?」
「 正月以来家に帰っていないので、今夜は久振りにおふくろに会いに行こうかと思っています 」
「 時に今泉さん、何か中橋中尉殿からお話をきいていますか?」
そういって彼は何かを探るような目つきをした。
「 いや、別に何も・・・何のことですか 」
「 実はねえ、中橋さんが 近頃 歩一の栗原さん達と何かやるような気配があるというので、
聯隊の連中も大分気にしているようですよ。今泉さんも充分気をつけて下さいよ 」
私は棚橋少尉が妙なことをいうなと思ったが、大して気にも留めなかった。
夕食を済ませて第七中隊の三階にある私の個室に戻った。
窓から東京湾の船の灯がチラチラ見える。 初年兵教育も峠を越した。
一人一人の顔も日焼けの頬に目が美しく光り、
口元が引き緊って言語動作もすっかり兵隊らしくなってきた。
可愛い兵士達。
俺は貴様達と一緒に喜び、共に涙し、共に戦場で死ぬのだ。
美しい祖国と愛する人々を護るために。
人間の醜い本性から社会の矛盾は生れるのだけれど、
俺は将来リーダーシップをとるときまで、
じっと目をつぶり、差し当りは自分の職責を果たすほか道はない。
「 三浦上等兵入ります!」
の声に 思わず振り返る。
彼は初年兵教育助教の一人で伍長勤務上等兵、
私が見習士官当時から、全く痒い所に手が届くような世話をしてくれた模範兵であった。
「 教官殿、明日は如何なされますか 」
「 そうだな、明日は代日休暇だし、兵隊も疲れているだろうから、
今夜は何もしないでゆっくり休ませてやってくれ。
俺も今夜は一寸家に帰って英気を養ってくる。
留守中のことは宜しく頼む。生憎手許に酒はないが、
郷里から鯣するめを送ってきたからこれでもかじってくれ 」
富士における訓練計画など立案しおしえたのが午後十時を少し過ぎていた。
私は外套をひっかけて営門を出た。 鎌倉の自宅に帰るべく。

近衛歩兵第三聯隊の兵舎は青山の高台にあった。
高台は赤坂見附と溜池を結ぶ平地にぬっと突出し その端に兵舎がある。
兵舎は赤煉瓦三階建で明治十八年に建てられた。
台地の東側は赤坂の一つ木通り、料亭や待合の屋根がすぐ下に並び、
市電通りを隔てて右手に首相官邸、左手に日枝神社の森がほぼ同じ位いの高さに見える。
これが霞ヶ関の高台である。
私は聯隊正門を出てすぐ左に曲り、旅団司令部側の三分坂という恐しく急傾斜な坂を馳け下り
山王下の電車の停留所に佇った。
新橋行きの市電はどうしたものかそっぱりこない。
昭和十一年の冬は不思議に雪が降り出しそうな空模様だった。
北風が将校マントの裾を音をたてて吹き抜けていった。
夜も十一時に近いので流石に人通りはなかった。
赤坂見附から新橋銀座方面に向ってタクシーが時々疾駆してゆくが、
手を挙げても停ってくれなかった。
随分待ったようだが実際は十分か十五分位だったかも知れない。
長靴を履いた足の指が痛いように冷えてきた。
横須賀線の終電に乗ったとしても家に着くのは午前一時過ぎだ。
何も今日 帰ると通知している訳ではなし、帰っても飯はないだろう。
市電は一向にくる気配がない。
「 決心変更 」
私は呟いて停留所を離れ、桧町の通りから聯隊に帰ることにした。
未だ店を閉めていない寿司屋の暖簾をくぐる。
「 いらっしゃい!」
ねじり鉢巻の馴染の兄貴が威勢よかった。
「 冷えるねえ、一本頼む 」
トロを肴に一杯やり店を出た。
佩剣を握り長靴の踵につけた拍車をコトコト鳴らしながら三分坂を再び登り、
冷いベッドに潜り込んだのは、二月二十五日夜の十二時に近かった。
×  ×  ×
「 おい! 起きろ!今泉少尉起きろ!」
聯隊の兵舎、第七中隊の三階の居室のドアを激しく叩き、 寝入ったばかりの私の耳許で大きな声がした。

ハッとして目を覚ますと中橋中尉と砲工学校学生で同郷 ( 佐賀 ) の 一年先輩の中島莞爾少尉が
軍装も凛々しく傍に佇っているではないか。
時に昭和十一年二月二十六日午前二時三十分である。
私はガバッと とび起き素早く軍服を着る。
着装し終ると、
「 まあ座れ 」
と 中橋さんがいう。
二人に椅子をすすめて私は小机の向うに腰を下す。
「 今泉、いよいよやるぞ、昭和維新の断行だ、
午前四時半になったら中隊に非常呼集をかける。
俺達二人は高橋是清蔵相を襲撃、襲撃隊は中島が引率して首相官邸に向う。
俺は中隊の半分を率いて宮城に入る。
恰度今日はこの中隊が赴援隊控中隊に当っている。
そこで貴公だが、俺達が襲撃している間、控中隊を引率し待機していてもらいたい。
実は貴公は中島を知っているそうだな、
中島の奴、貴公に内緒で中隊全部を連れ出したら面目を失うだろう。
知らせてやるのが武士の情というものだ。
と ぬかすからな。
まあ それはそれとして、 出発迄に未だ二時間ばかり間がある。
俺は貴公に無理に行けとはいわん。行く、行かぬは貴公の判断に委す。
行く以上は貴公に赴援中隊の副指令として参加してもらう 」
中橋さん達は灰皿を引寄せ煙草を吸った。

「 歩一からは機関銃隊の栗原、それから貴公と同期の林八郎、池田俊彦の両少尉、
歩三は安藤大尉が中心となって一コ大体が出動する。
その他、下志津の野戦重砲から車輌部隊、
所沢の飛行学校と豊橋の教導学校からは
同志の将校が参加する。
湯河原の牧野伸顕襲撃隊はもう出発した筈だ。
岡田首相、斎藤内府、鈴木侍従長、渡辺錠太郎教育総監をやるんだ。
首相官邸、警視庁、霞が関一帯を占拠して戒厳令を布告する。
実包は歩一から全部隊に配布した。 まあ ざっとこんな訳だ・・・。
貴公もゆっくり考えてくれ 」
二人はいいおわると悠々と部屋を出て行った。 私は意外に落付いていた。

中橋さん達の態度が優しいのと、自信たっぷりの落着き振りが私の心を打ったのかもしれない。
腕組みをして じっと考えこむ。
軍人として勅諭に悖り、国民として国法を紊すの大罪は固より知っている。
これは正にそれ等を超越した判断による断行なのだ。
ただ存ずるは皎々たる一片の憂国の至情のみ、
壮士征きて亦還らず、成敗蓋いずくんぞ之を論ぜんや・・・
だがまてよ、 この挙に参加するならば、総ては完全に終わる。
人生二十有一年、思いもかけぬ大事件の渦中に入るのだが、俺はこれで悔ゆることはないか。
精魂を傾けてやってきた初年兵教育も完結をみずして終わる。
第一その初年兵達が中隊長代理に率いられて事件に参加するのに、
教官たる自分が、知っていながら参加しないことは卑怯ではないか・・・・、
だが、聯隊内でのこのことを知っているのは現在自分だけだ。
軍隊を私用して暴動を惹起こすことについては根本的には反対だ。
・・・・信念に反して行動を共にすることは付和雷同に過ぎない。
中橋さんも命令することはいっていない。
だから行動に加わらなくても命令違反ではない。
中橋さん達は、
社会の矛盾を一挙に解決するためには昭和維新を断行して国体の真姿を顕現せんとして、
既に命を投げ出しているのだ。
事の正否を問わず、罪を闕下に請うて潔く自刄して果てる覚悟であろう。
大御心は現在の社会を善しとされる筈はない。
社会が悪ければ兵隊は弱くなる。

兵隊が弱ければ国防の任は果せない。
軍人の本分も尽せない。

さて、俺は将校として、教官として、国民として、一個の人間として
今の時点で如何に決心すればよいのか。
その時 誰かがドアをノックした。 斎藤特務曹長が完全軍装で入ってきた。
彼は軍刀の柄を左手に握り走るように近寄ってきた。
「 今泉少尉殿 」
口をワナワナ震わせたかと思うと突然大粒の涙をはらはらと流した。
私は思わず立上って彼の手を握りしめた。
「 私は中隊長殿の命令通りやりました。私は死にます。今泉少尉殿! 私は死にます 」
「 よし判った。帰れ、俺も考える 」
窓の遠くに品川湾が見え、浮船の灯がチラチラ瞬いていた。
遠く船の汽笛が聞える。
軍律違反、重罪、初年兵、名誉、自決・・・頭の中には、すごいスピードでしかも鮮やかに、
さまざまな思いが渦を巻いて揺れ動いている。
祖父の顔、父母の顔、兄妹の顔・・・・。
中馬軍曹が私の拳銃を持って入ってきた。
あけ放れたドアから階下にいる兵隊達の静かなどよめきが伝ってきた。
非常呼集がかかったらしい。
今は一刻の遅疑逡巡は許されない。
「 よし決心だ! 余は行動を倶にせんとす 」
・・・ 今泉少尉 (1) 「 よし決心だ! 余は行動を倶にせんとす 」 



「 よし決心だ!余は行動を倶にせんとす」

抽出しから通信紙を取出し、色鉛筆の靑を使って大きく 「 遺書 」 を書く。
『 時期尚早なりと雖も、事既に茲に至る。
已むなし、私は部下のために死地に赴きます。
不孝の罪をお許し下さい。ご両親様 』
書き終えて静かに机上に置いた。
それから私はすぐ御守衛の軍装を整えた。
今日は特に軍刀と拳銃を携帯して中隊の舎前に出た。
暗闇の中には既に兵隊達が整列していた。
中橋中隊長代理は薄暗い中隊入口の門燈を背に、軍刀を抜き厳然として命令をくだした。
「 中隊は只今より、明治神宮方向に前進する。
第一小隊、小隊長斎藤特務曹長、第二小隊、小隊長今泉少尉、
第二小隊はシャム公使館前にて停止し、暫らく待機せよ 」

こうして中隊は〇四・三〇出発、
私の率いる第二小隊はシャム公使館前まで行き 折敷の姿勢で待機に入った。
間もなく高橋邸の方向から鈍い拳銃音が数回きこえた。

やがて中橋中尉と斎藤特務曹長が駈足で戻ってきた。
夜の帳は次第に明けてあかるくなってきたが、
鉛色の空からは非常の粉雪がチラチラと降り出した。
中橋中尉は私たちに命令した。
「 帝都に非常事態が発生した。 当小隊は宮城守衛隊赴援隊として、
只今より宮城に向い、守衛隊司令官の指揮下に入る 」
第二小隊はすぐ出発した。

赤坂見附より麹町通りに出て半蔵門にさしかかると
中隊長は私をふりむいて開扉させるよう指示した。
私は走っていって門の手前で大声で叫んだ。
「 近歩三、第七中隊、赴援隊として到着、開聞!」
大きな扉が ギーッと軋んで左右にさっと開いた。

歩調をとり 堂々と半蔵門から宮城に入る。
中橋中尉は駈足で守衛隊司令部に先行。
小隊が正門衛兵所につくと、門間 (少佐) 司令官、大高 (少尉) 副司令などの顔が見えた。
中橋中尉は別命あるまで屋外で待機するように指示し、司令部に入ってしまった。

暫らくすると赴援隊は、宮城警備配備に基づき、坂下門の警備に就くこととなり、
私は小隊を率い坂下門に急行した。
下士官の連中がイキバキと兵隊を区署し歩哨線を張り、
門の両側の土手上に二梃の機関銃を配置した。
わたしも以前、宮城の非情警備配備について演習したことがあったが、
下士官の的確な処置には感心した。
雪は粉々として舞い下り、その頃になると既に二十糎以上積っていた。
風はない。
腕時計を見ると早十時を指していた。
聯隊から第六中隊長田中軍吉大尉がサイドカーに乗って到着。
守備部隊の直属上官ではないが、同じ大隊の隣の中隊長である。
「 警戒中異状ありません。 宮内省職員の入門は許可しております。
先刻、杉浦奎吾参内につき、通過させました 」
「 御苦労さん、ついにやったなあ、 詳しい事情はあとで聴くとして、
赴援隊は近衛二の部隊が到着次第交替して聯隊に帰還しろ、
門間司令官からの命令だ、
今泉少尉は近衛師団司令部に出頭し、参謀長に今暁の状況を報告の上帰隊し、
園山聯隊長に状況を説明するように。
すぐ出発する、サイドカーの後部座席に乗れ 」
私はあとの指揮を斎藤特務曹長に委せて田中大尉のサイドカーに跨った。
雪が深くスリップしてなかなか疾走できない。

午前十一時、近衛師団司令部参謀室に入る。
数名の参謀を従えた参謀長の前に立つ。
「 近歩三、今泉少尉、報告 !
今暁 四時二十分、第七中隊長代理中橋基明中尉は非常呼集をもって兵営を出発、
半数をもって高橋蔵相を襲撃、襲撃後赴援隊を率い、正門衛兵所に至り、
守衛司令官の命により坂下門の非常警戒に当っております 」
「 中橋中尉は今、何処にいるか ? 」
「 存じません 」
「 貴公は高橋蔵相を殺ったのか 」
「 やりません 」
「 赴援隊は今、何処にいるか 」
「 坂下門の警備を交替して、目下帰隊中と思います 」
卓上電話のけたたましい響き、参謀長の上ずった声、
騒然として人影の右往左往する司令部。
正午、既に三十糎も積ったであろう雪の中を、
田中大尉と私は師団司令部の自動車で聯隊に帰還した。
聯隊長室に入ると軍旗の傍らに憮然として園山聯隊長が立っていた。
「 聯隊長殿 ! 第七中隊は・・・・」 私は慈父に縋るような思いで報告した。
その時聯隊副官があわただしく入ってきて聯隊長に報告した。
「 第七中隊宮城赴援隊、斎藤特務曹長以下七十五名、只今帰営致しました 」
私はそれを聞いた途端張りつめた気持が急に緩んで思わず声をあげて泣いた。
申告をすませた私はそのまま聯隊長室に監禁された。
この部屋には軍旗があり歩哨が立っているのでその監視下に置かれた。

聯隊は二十八日深夜鎮圧軍として出勤し番町小学校付近に展開、
かくして事件は緊迫のうち二十九日を迎え、
奉勅命令によって蹶起部隊は逐次原隊復帰をはじめたので鎮圧軍も囲みを解き
四日間にわたる事件は終了した。

翌三月一日 憲兵大尉がきて私は出勤下の行動をきかれた。
二日には深川憲兵隊につれてゆかれ、 三日には陸軍刑務所に収監された。
身分は将校のままであった。
入所すると型どおりの予審がはじまり、
やがて七月五日判決が下り 私は禁錮四年の実刑がいい渡された。
この特別軍法会議は一審制で控訴なしとゆう方式なので、
不服であっても判決に服する意外になかった、
そして私は同日付をもって免官となったのである。
身柄は直ちに豊多摩刑務所に移され刑に服したが、
十三年十一月二十三日仮出所の恩典に浴した。
この時 歩三の柳下良二氏も一緒である。
仮出所にあたり所長は明後日陸軍省に出向せよと云った。
そこで当日出頭すると係員は 「 蒙彊に行け 」 といった。
私は即座に断った。
今更軍のお世話などなりたくない。
軍法会議にかけて処刑し、免官しておきながら再び陸軍の恩を着せようとは人を食った仕草である。
私は今回の事件で陸軍に愛想をつかしているのである。
就職など自分で探してみせる。
今更陸軍などにお願いするものか、入所以来陸軍に不審を抱き、
憎しみを持つに至った私は これから少しでも軍から離れた立場に移りたかったのである。
こうして二カ月後上海に渡り船会社に就職した。

思えば 二・二六事件は日本にとって悲しむべき大事件であった。
当時 二・二六事件のおこる以前にも諸々の事件が続発し 日本の危機が高まっていて、
何とかしなければ・・・・という機運もかなり沸騰していた。
だから考え方によっては二・二六事件は起るべくして起ったともいえるかもしれぬ。
主謀者となって指揮した青年将校たちは常に国情に激憤し
政治への堕落を怒り 遂には事件を引おこすに至ったが、
憂国の至情だけではどうにもならなかったことを思い知らされたのである。
いうならば 機関説天皇と統帥権天皇との対立であって、 いずれを是とし、
いずれを非とするかは 時の指導者がとりしきるものであったからである。

・・今泉少尉 (2) 「 近歩三第七中隊、赴援隊として到着、開門!」 


昭和維新・山本又予備少尉

2021年03月01日 05時54分14秒 | 昭和維新に殉じた人達

山王ホテルの前に歩哨がいた。
「尊皇」
と唯何してくる。
私は 「討奸」 と答える。
「尊皇討奸」
は同志の合言葉である。
さらに同志の目印として三銭切手を帽子の庇、
または脚袢に貼っておくのだ。
三銭切手は高山彦九郎先生の詩の中にある
「 其価三銭 」 から 取ったものだ。
二つの案はともに磯部の案である。
本二八日午前、
農相官邸を磯部とともに飛び出し、
新国会議事堂の丁字路の上で、雪の中にこの天真の声を聞く。
天の声だ。
「革命は血なくしては成らず」
天の声、天の声なのか、と三嘆した。
文相官邸に行くと、野中隊がいた。
志気はさかんだった。
常盤少尉が大刀を脇にさして悠然としていた。
磯部に会う。 ともに首相官邸に行った。
栗原、対馬、林、池田がいた。
村中もいた。
磯部が言う。
「 村中さん、おとなしくしていれば陸大を出て、今頃は参謀ですなあ 」
村中が答える。
「 勤皇道楽の慣れの果てか 」
一同は アッハッハと大笑いする。
(大西郷の言葉を借用していたので)
栗原が言った。
「 明日の朝は、雪の中で昼寝か 」
「 未来永劫に起きませんな 」
林が答えると、
栗原が返した。
「 起きるよ。この次の世に青年将校として生まれて、また尊皇討奸だ 」
栗原が 「 山本さん、一杯やりませんか 」
と 言う。
見ると、四斗樽の鏡を抜いて、一本の柄杓があった。
一口、二口、三口、
冷えた五臓六腑にキューッと沁みわたる。
各々も互いに飲み交わす。
酒を慎むべしという取り決めを解いた。
これは涙の物語である。
・・・村中孝次 「 勤皇道楽の慣れの果てか 」


山本 又

≪ 首相官邸 ≫

一老人、
三、四才ノ幼童ニ古キ手拭デホオカムリヲナシ背負ヒ、
自ラモ古キ着物ヲ着、六十以上ノミスボラシキ労働者風ノ一老人、
其日ノ糧ニモ貧シカルナランニ、イズコデ求メシカ、貧乏徳利ニ酒一升ヲ持参。
首相官邸ニ来り。
涙ヲ流シ、泣き乍ラ、
兵隊サンノ心ハ解ツテ居マス。
ドーカ之ヲ呑ンデ下サイ。
コノ老人ノ真心ニハ並居ル将士、心ヲ打レザルハナカッタ。
人ヲ動カスモノハ誠デアル。
真ニ至誠デアル。
少シモイツワラズ、カザラズ、心ヲ込メタルコノ一升徳利ニハ、
赤垣源蔵ノ徳利ノ別レナラデ実ニ心カラ感謝シタ。
コノ酒ハ有難ク戴キ、共ニ呑ンダ其味ノウマサヲ、未ダニ忘レラレナイ。
思ヘハ此ノ老人、今達者カ。
幼キ子供ハ無事成長シテオレカ。
何カ方法ガアツタラ、尋ネテ御礼ガシタイ。
姓モ語ラズ、名モ語ラナカツタ。
二・二六ト貧乏徳利、誠ニフサワシイ天意妙。
雪、血、涙。
今ニシテ思ハム徳利ノ別レナリ。
同志酢ニナシ。
同志ノ遺嘱一念貫徹。
コノ貧乏老人ノ貧乏徳利、一片ノ詩ナリ。
對馬曰ク、国民ノ昭和維新万歳ノ声ガキコエル。
山本曰ク、ソーダ、アナタハ心ノ耳デキクカラ声ナキ声ヲ聞ク。
志士ハ声ナキ天真ノ声ヲキク。
コノ事件ハ雪、血涙事件ダ。
對馬、ソーデス。
君ノタメニ流ス血涙デス。
コノ夜同志、君、国ヲ思ヒ国家ノ前途ヲ憂フ。
首相官邸表玄関入口ニ重機関銃ヲスヘ、コノ傍ニ我等同志語ル。
君、国アルヲ知リ、我、身アルヲ知ラズ。

・・・ 貧乏徳利 「 兵隊さんの心は解つて居ます 」



二月二十五日
午後八時頃
に歩兵第一聯隊に参り、栗原中尉の所に赴き、

同聯隊の第十一中隊に行き丹生中尉に挨拶し、蹶起の趣意書を原紙に書き印刷させました。
(二十六日)
部隊から出るときに機関銃の後から随行し、
陸軍大臣官邸へ参り、

表門の処に居た憲兵伍長と握手し、「 御苦労様 」 と云って 又、「 陸軍大臣は負傷させないから 」
と云った後、出入者を表門の処で監視して居りました。
其の間、時々憲兵の詰所で休んで居りました。
山口大尉は大臣官邸に居りまして、
二月二十七日の部隊を有する指揮官に宿舎命令を下したので、夫々 山王ホテル、幸楽へ参りました。
私は新議事堂の小使室に行きました。
この命令は、小藤大佐の命令だと思ひました。
私は此処から 農林大臣の官邸で夜を明かし、
( 二七日 )

翌日石原大佐殿、満井中佐殿に会ひ、憲兵隊に参りますと、
石原大佐殿は錦旗に向へば討伐されると言はれましたから、
そんな事のないやうに勉めて居りますと申しました。
満井中佐殿が後から来られました。
満井中佐殿と憲兵隊似て面会し、次の事をお願ひ申し上げました。
山本は年長でありますから、心配して個人として参りました。
決して勅命に背きません。
そむかない様につとめ、又皇軍同志討は絶対にさせない様に努力致しますから、
是非、昭和維新の大詔渙発をお願ひ致します。
満井中佐殿申されるには、
大詔渙発に就ては、石原さんが心配して下さるから、先づ隊は命令に従ひ集結し、将校は裁きを受けるが良い。
山本は是非共、命令通り後方集結させたいが、微力ですから中佐殿が行って将校に話して下さいと申しましたら、
中佐殿は憲兵隊長の命を受けて立会った神谷少佐殿と一寸御話の上、
夫れでは行かうと満井中佐殿と山本と自動車に乗り、新議事堂に到り、
山本は将校に集合を願ひ、中佐殿に命令に服する様話して戴きました。
中佐殿は帰られ、山本は便所に行って帰ったら、将校は二、三名居りました。
安藤大尉殿と丹生中尉殿だと思ひます。
暫らくすると、日本山妙法寺の山村上人外十五、六名法鼓をうつて修行に参りましたから、
お願して新議事堂の入口で君国の安泰を祈って戴きました。
夫れから、夕方、農林大臣官邸に行きまして、一夜をあかしました。
(二十八日)
翌日正午頃と思ひます、磯部さんが飛んで来て、攻撃して来るから整列と云ひました。
山本はつかれましたから以前より寝て居りました ( 武装全部を解き )。
磯部さんの声で起き上がり、武装を備へて外へ出ました。
其時聯隊長殿と山口大尉殿が居られ、是非、後方に集結する様にと磯部さんに話して居りますから、
山本は磯部さんに是非、連隊長殿の命令に従ひ、全員整列し、後方に集結させて下さいと云ひましたら、
連隊長殿も是非そうして、私の言葉を生かせろと云ひました。
夫れから山本は後方が大そう騒がしいので、見ると、若い少尉が七、八十名を指揮して新議事堂の横を陸軍省の方に行きます。
兵が非常に競い立って居りますから、大声に静かにせよ、絶対撃ってはならぬと注意しました。
夫れから腹痛甚だしく、鉄道大臣官邸の一室で一人腹をおさへて居りました。
万平ホテルへ行きましたら、安藤大尉殿が居られました。
まだ腹が痛いので応接室に一緒に休んで居りました。
其内、安藤大尉殿は全部山王ホテルに引上げるから、後方を見張ろうと思ひますと、
参謀少佐の方が一名の将校と二人で奉勅命令の書類を持って参りました と 兵が云ひますから、
此事を安藤大尉に伝へました。
安藤大尉は、 夫れは連隊長殿を通してもらいたいと云ひますから、
山本が出て行って少佐殿に、山本は奉勅命令を謹んで服しますと申上げました。
此の時始めて山本は奉勅命令が降つたことを知りました。
夫れから部隊の後尾について行き、山王ホテルに行きました。
そこで、更に一人の将校に、奉勅命令であるから服さなければいかぬと云ひました。
山本は、又戒厳司令官、憲兵司令官に約束申したことがあります。
即ち勅命ら反せない様及行軍同士討せぬ様微力ながら努力致します。
右二件は武士の一言金鉄と考へ居りました。
( 二九日 )

朝、連隊長殿が来られ、兵を集めて呉れと申されますから、兵を集めました。
連隊長殿が兵は聯隊長について来いと云はれました。
其時、山本はついて行きますと云ひました。
連隊長殿は、だまつて居られました。
其中、村中、磯部さんが来ましたから、是非、山本の意見に同意して下さい。
兵を纏めて先づ靖国神社に参拝し、後退致しませうと皆に云ひました。
暫らくして皆同意し、南無妙法蓮華経を三唱し、帰ることになりました。
山本は兵は外に出よと申し、外に出し、皆叉銃して 石原大佐殿の代りの参謀の方の指揮下に入り、
将校も全部外に出て、
香田大尉殿が一切まかしたと云ふ言葉を聞き、

山本は最後のどたん場でやつと勅命にも反せず、同士討もせず、両司令官閣下に約束せし事を果した・・
・・・山本又 予備少尉の四日間