二月二十五日午後八時頃、
當時週番司令となりし安藤大尉 ( 第六中隊長 ) から、
私に直ぐ來るやうに傳令がありましたから週番司令室に行きますと、
安藤大尉は、 明朝、愈々、昭和維新を斷行するから第三中隊も出ろ、
そして今夜十二時を期し非常呼集をやるから次の服装携帯品に附いて準備して置け。
服装、軍服は第三装甲を着用、外套に肩章を附すべし。
軍帽は良きものを着用すべし。
携行品は、 戰帽、白帯、防毒面、三脚架、拳銃、鐡鉢、條鐡、手旗、兵器手は倶乾麵麭、
米、經機關銃、實包、銃身、水筒、雑嚢、飯盒、衛生材料、 特に看護兵を随行すべし。
維新斷行に就きまして内命を受けました。
それで休養して居ると、
二十六日午前零時頃、週番司令の傳令が來て非常呼集の命令を受けました。
私は直に週番司令室に命令受領に行きますと、
安藤大尉は、 午前四時二十五分、野中大尉 ( 第七中隊長 ) の指揮を以て出發、警視廳に向ふべし。
突入時刻は午前五時三十分の予定。
之れが爲 速に彈薬受領者を彈薬庫に差出すべし。
と 命令を受け、中隊に歸り、下士官を週番士官室に集合を命じました処、
藤倉軍曹、山本軍曹、神田軍曹、野村伍長、宍倉伍長、關根伍長、小座間伍長、平佐伍長、村上伍長、山崎伍長の十名が集合しました。
其処で、安藤大尉より所に休憩後、 交番の無き処を選んで第一師團長官舎裏を經て、
溜池虎ノ門 ( 立番巡査は居眠りしあり ) 警視廳に到着しました。
午前五時過ぎ頃、 警視廳に到着するに先立ち、別紙要圖の如く配備を命ぜられました。
私は經機一ケ分隊、機關銃一ケ分隊 ( 兵力二十 ) を以て
警視廳と内務省との間の通用門に向って司法省表面附近より射撃準備を命じ、
殘餘の第三中隊主力を以て警視廳正門前を通り、
同庁西北の破壊せる板塀の個所より警視廳裏庭に歩三の各部隊と共に待機しました。
稍暫らくして、野中大尉が警視廳と折衝の結果、同廳の明渡しを受け、
私は第三中隊の一部 ( 約四十名 ) を以て ( 經機關銃二ケ分、小銃二ケ分隊 ) 警視廳屋上を占領すべき命を受け、直に占領しました。
第三中隊の主力は、山本軍曹の指揮を以て野中大尉の指揮下にありまして、
午前六時頃、
携帯口糧 ( 乾麵麭一食分 ) で朝食を爲し、 警戒に任じ、
正午に至り 歩三より石井一等主計、原山二等主計等の運搬し来れる ( 聯隊長命令に依る )
昼食を各自警戒に就きたる儘あり 私が屋上の警備を藤倉軍曹に命じ、裏庭に下り、其後は何事も無く、
夕食は原隊より給与を受け、 其夜は中隊主力と共に警視廳機關庫内に宿泊せり。
(二十七日) 午前十時三十分
野中大尉より ( 宿營休養の目的を以て) 華族會館を偵察せよ
との 命令を受けましたので、私は一個小隊を率い華族會館に至りました。
主任者に聯絡の結果、約三百名の宿營能力あることを知り、
野中大尉の命令に依り中隊主力を招致して中に入れました。
當時の華族會館には、華族約三十名一室に居りましたが、
私の一存で之れらの人を外へ出すことを躊躇し、自ら首相官邸に赴き栗原中尉の指示を受けました。
すると栗原中尉は、直ぐ華族會館に來り、彼等に蹶起趣意書を朗讀したる上退去を許しましたので、
私は兵が危害を及ぼす事を虞れ、三、四名宛逐次に退去せしめました。
二十七日午後六時三十分頃、
中隊長森田大尉が來ましたので、
私は 「 中隊長の指揮下に入れて戴きたい 」 と 申しますと、
常盤少尉は 「 我等は小藤大佐の指揮にあるからそれはいかぬ 」 と 述べました。
午後七時頃に至り、
小藤大佐命令になりとて蔵相官邸に引揚げを命ぜられましたので、午後七時半頃 華族會館を出て蔵相官邸に入りました。
(二十八日) 正午頃、
野中大尉來り、將校に陸相官邸集合を命ぜられましたので直ぐ參りますと、
磯部等一見在郷將校らしき者集合して居りまして、
之等の人物に依り利用せられて居る事を悟り、
其処を脱出し、
幸楽に居る安藤大尉の下に到り、自己の所信を開陳し、蔵相官邸に歸りました。
當夜は三宅坂の警備に付きました。
二十八日夜、中隊長より私に電話で、
「 俺の中隊へ歸れ 」
との 電話がありましたが、
前述の事がありますので私は常盤少尉から聽いた通り申しました。
(二十九日) 午前五時頃、
赤坂方面より 「 ラヂオ 」 の放送を聽き、初めて奉勅命令の下りし事を知りました。
次で赤坂見附方面偵察の爲參りますと、
四十九聯隊の大隊長が奉勅命令が下つたから早く歸れと云はれましたので、中隊の兵を集め營門迄歸りました。
すると憲兵曹長來り、
將校は陸相官邸に集合せよと云はれましたので直ぐ參りました。
・・・清原康平少尉の四日間
まんじりともせず警戒しているうちに ようやく夜が白みはじめた。
ホッと一息ついた時 再び陣地変換の命令が下り中隊は三宅坂に移動した。
もう その頃になると飢と寒さで誰も口をきかなくなった。
しかしお互いに我慢しているのか 一人として弱音をはく者はなかった。
三宅坂にきた頃はまだ暗く、 そんな中で清原少尉は 全員を集め本人を中心に円陣を組ませた。
少尉は軍刀をつき胸を張ってはいるが何か沈痛の色が見える。
頭の中でいろいろまとめていたがやがて話をはじめた。
「 我々は国家をよくするため昭和維新の断行に踏切ったが、昨日来一部同志の脱落により遂行は今や崩れかけている。
現在頑張っているのは我が三中隊と六中隊だけとなった。
そこでお前たちの決意を聞きたい。最期の一人に成っても やり抜く覚悟のある者は手をあげてもらいたい」
この言葉に全員は期せずして 「ハイ」 といって手をあげた。
「 有難う、よく決意してくれた。教官は心から嬉しく思う 」
兵隊たちはお互いに顔を見あわせて最後の天皇陛下万歳を唱えた。
やがて明るくなってきた頃、小銃やLGに実包を込め、陣地について戦闘準備に入った。
と、その時半蔵門の坂道を私達の方に向かって戦車の列が登ってきた。
・
戦車が去ったあと 清原少尉は再び皆を前にして話をはじめた。
「 昨日原隊復帰の勅命が下ったそうである。
我々は今まで尊皇義軍を誇りにしていたが いつの間にか反乱軍の汚名を着せられてしまった。
ここに至っては如何ともすることができない・・・・・」
そこで言葉がとぎれた。
そしてまた思いなおしたように、
「 そこでもう一度お前たちに聞く。最後の一人になろうとも頑張る気概のある者!」
その問に全員は前回と同様に 「ハイ」 と答えて手をあげた。
しかし心なしか元気がなかった。
「 有りがとう、教官は心から感謝する。
しかし反乱軍の汚名を着せられたままお前たちを殺すことは忍びない、よって残念だがこれから原隊に復帰することにする」
少尉は目に涙を浮かべ万感胸迫り、声もつまってよく聞きとれなかった。
その後全員は陣地を撤収、 あと片付けを行い、改めて服装を正し整列の上、
清原少尉の音頭で天皇陛下万歳を三唱、 武装、タスキがけ姿で帰隊の途についた。
・
沿道は 至るところ鎮圧軍の陣地やバリケードが築かれ、私たちは彼等の大規模な攻撃準備に今更に目を見張るばかりだった。
しかしそれにも増して驚いたのは 私達の進む沿道が黒山の市民で埋めつくされていたことである。
しばらく行進すると鎮圧軍によって行進が停められた。
清原少尉が相手の将校と何やら問答を始めた。
その結果、直進を避けて十字路を右折することになった。
道路沿いの市民たちが 「 御苦労さま! 万歳!」 と 連呼しつつ 盛んに私たちに歓声を送ってくれた。
市民は 私たち蹶起部隊に対し心から声援しているのである。
反乱軍の汚名を着せられていても市民感情は私たちに味方しているのだ。
私たちは嬉しかった。
国政の退廃に愛想をつかした市民が私たちの蹶起に心から感謝していることが判る。
そしてまた数分後 行進が阻止された。
今度は大分強硬で清原少尉も相手将校も興奮した態度でわたり合っていた。
それに呼応して油を注ぐかのように小銃やMGの発砲が断続して響き渡った。
相手側は私たちに武装解除を要求しているらしい。
これに対して清原少尉は、
「 我々は勅命によって原隊に復帰するのだ、 この勅命を阻むものは国賊である。
どうしても武装解除を要求するなら 我々は一戦を交えても勅命を遵奉するがそれでもよいか 」
と 切込んでいった。
するとこの成り行きを見ていた群衆が
私たちと鎮圧軍 (近歩三)の間になだれの如く割って入り
「万歳! 蹶起部隊万歳!」
と 叫び出し 鎮圧軍を引きはなした。
この劇的なシーンは どう表現したらよいか筆絶し得ない情景で、
今も脳裡に焼きついている。
鎮圧軍は遂に群衆の威圧に負け武装解除をあきらめ、
そのかわり 「 取れ剣 」 と 「 弾抜け 」 を命じた後、 私達の行進を許可した。
道路の人垣はなお続いていた。
やがて正午近い頃原隊に着く。
営門の前には憲兵が右往左往し 報道関係の記者もカメラを携えて飛廻っている。
隊列が停止すると清原少尉が中央に立って徐ろに訓示をした。
「 出動以来お前たちには非常に苦労をかけた。
この清原を中心に一人の落伍者もなく 一糸乱れず指揮に従ってくれたことに対し教官は心から感謝する。
今回の事件は自分一人の責任であってお前達には何の罪もない。
この責任は自分がとるから お前たちは新しい統率の下で、君のため、国のため忠勤をはげんでくれ 」
いいおわった清原少尉は頭をたれ男泣きに泣いた。
訓示が済むと急に隊列が乱れ
「教官殿!」
「教官殿!」
と 叫びながら全員は一斉に少尉にすがりついた。
そして子供のようになきじゃくった。
・・・帰順 ・ 沿道の群集 「万歳! 蹶起部隊万歳!」