心の風景

晴耕雨読を夢見る初老の雑記帳

ジャカランダの季節に「西行」を読む

2022-06-17 10:05:28 | 四国遍路

 先日、水彩画筆とスケッチブックを買いに天王寺の画材店KAWACHIあべのHoop店に行った帰りに、一心寺に寄ってきました。そろそろジャカランダの季節です。まだ咲き始めでしたが、至るところに淡い紫色の花が咲いていました。ここ大阪も4日前に梅雨入り宣言。雨が降ったりやんだりしていますが、この春小さな植木鉢に植えた我が家のジャカランダの苗もスクスクと育っています。
 その傍らでは、ブルーベリーとミニトマトの実を今年初めて収穫しました。まだ僅かですが、食卓を賑わしています。連日、朝早くからブルーベリーの収穫を小鳥たちと競いあっています。うっかりしていると啄んでしまいます(笑)。これも夏の楽しい光景かもしれません。

 
 さて、話は変わりますが、先日ご紹介した上田秋成「雨月物語」の世界を、未だ引きずっています。夜な夜なのめり込んでいるのですが、日本史に疎い私には、頭の中で人物と時代背景がもうひとつ繋がっていません。
   そんな折、NPOの帰りにジュンク堂書店を覗いて出会ったのが白洲正子著「西行」(新潮文庫)でした。崇徳院(1119年生まれ)、西行(1118年生まれ)。ほぼ同世代の人物が平安から鎌倉という時代の中でどう生きていたのか。怪談ではなく、歴史的事実に基づいて探ってみたいという知的好奇心が蠢いています。 「讃岐の旅」の章を読んでいたら「八十場の霊泉」という言葉が飛び込んできました。その霊泉は78番郷照寺から79番天皇寺に向かう途中にありました。さっそく当時の写真を探してみました。「サヌカイトの出る金山から流れ出る水は清らか」で、「崇徳院が崩御した際、(都から勅許が下るまでの約ひと月の間)遺骸をこの泉につけておいたという」とあります。
 1156年、後白河天皇と崇徳上皇が争った保元の乱。敗れた崇徳院は讃岐の国に島流しにあいます。その後も、天皇側の執拗な虐めに会った崇徳院の都に対する恨みつらみは想像を絶するものがあったに違いありません。
 白洲さんは「このあたりには陰鬱な空気がたちこめており、木にも草にも、崇徳院の怨霊が息づいているような気配がある」「実際に白峯の周辺を歩いてみると、院の亡霊が至るところに充満していることを実感せずにはいられない」と綴っています。一人でトボトボと歩いた山深い遍路道でしたが、いろんな歴史が刻まれていることを改めて知ることになりました。

◇   ◇   ◇ 

 ところで、NPOのお仕事もなんとなく忙しくなってきましたが、そんな折、大学時代の先輩からメールが飛び込んできました。「私もそろそろ歳だから、どうだろう、クラブの世話役を引き受けてくれないか」と。既に解散してしまった会なので今は存在しませんが、現在100名ほどのOB会員がいます。毎年、文集を発行したり、同窓会を開いたりして近況を確かめ合っています。さあてどうしたものか。とりあえず来週月曜日には、京都・四条河原町のビアレストランで打ち合わせという名の呑み会があります。
 おっと忘れていました。先週末は、京セラドームで30年ぶりの野球観戦(阪神&オリックス戦)でした。セリーグ最下位だった阪神ですが、この日の交流戦では大差で勝利。その勢いに乗ってその後も勝ち進み、いつの間にかセリーグ4位にまで上がっています。チームの雰囲気も良さそうです。頑張っていただきましょう。

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