愛しきものたち

石仏、民家街並み、勧請縄、棚田景観、寺社、旧跡などが中心です。

都祁白石町 興善寺の石仏/観音堂の石仏

2012年05月15日 | 石仏:奈良

旧都祁村、名阪国道近くの国道369号線沿い、融通念仏宗、興善寺の裏山「寺僧墓」に有る石仏さん。

あの針IC依り榛原室生方面に向かうことほんの2~3分、旧街道の匂いが嬉しい白石街道との交差点、南西角に建つ興善寺は田舎風情の中にも良く整備され、大きい駐車場も在り、この付近では稀に見る大きい寺です。

本堂脇から裏山に登ると目に付くのが、この一列縦帯に居並ぶ三体の石仏さん・・、何故に横並びでなく、わざわざ見え難い縦並びなんだろう??

先ず先頭に立つのは腰が折れ、光背も破損している名も無き地蔵石仏さん。

その背後三角頭の六字名号板碑、二重襷の下、小さな舟形に阿弥陀と地蔵の坐像を並べていて一際目を惹く意匠です。

高さ135cm、幅約35cm、天文二十一年(1552)室町後期の刻銘がある。

どん尻控えているのが一寸前が詰まって窮屈そうな・・・・この阿弥陀さん。

上品下生の来迎印を持ち、高さ約130cmの舟形光背を持ち、像高84cm、穏やかで落ち着きの有る顔つき。

同じく天文二十一年の銘を持ち、六字名号板碑とはセットで造立されたものでしょうか??

裏山の三十三観音石仏を見ながら少し南に下れば・・・、観音堂跡空き地にも古びた石造物が居並んでいます。

双体仏や、地蔵と五輪塔とのコラボレーション、伊賀辺りでは当たり前に見られます。

かなり傷んだ地蔵石仏・・・などなど、殆どが室町後期から江戸初期の石造物です。

ホンワカ、のびのび歩いてみるには良いところです。

撮影2009.9.26/2012.4.14


奈良市別所町 旧道の地蔵石仏

2012年05月14日 | 石仏:奈良

石仏そのものはそれほど特別とは思いませんが・・・、地蔵さんの居る景観としては捨て難く何度も足を運びたくなる所です。

この場所を訪れたのはGWも終わった五月の中旬、むせ返る新緑が初夏の風にゆれ眩しく輝いていた。

柳生方面から都祁方面に向かう国道369号線、途中水間辺りで走りやすい直線道路となるが・・、右手集落の終わる辺り「地産品販売所」の辻を右手に、田舎道を進めばまるで山間に突然現れる別所集落。

集落をどんどん奥に詰めれば、やがて大きな山桜の古木の下に、古びた祠の有る懐かしい匂いの景観に出遭う。

 

今にも壊れそうな程、簡素な祠に祀られた地蔵石仏は、凡そ総高160cm、舟形状に粗く整形された自然石に像高約120cm、蓮台に立つ地蔵立像を中肉彫りで刻みだしている。

いつまでも足腰が弱らぬ様にと願いの為か?? 祠の軒先には草鞋が一塊ぶら下がり、これがまた景観を盛り上げるのに一役かっている。

すらっとした細身の地蔵はさぞかし足も軽かろう・・、この先この旧道は山道となり檜峠を越え、田原の里へと、奈良市内へと・・・・。

そんな時代もまだそれ程昔の話ではないはず。

撮影2011.5.15


奈良市 月ヶ瀬嵩(つきがせだけ)四尊磨崖石仏 

2012年05月13日 | 石仏:奈良

旧月ヶ瀬村、嵩の集落内道路脇に立つ大岩に刻まれた都合四体の磨崖石仏。

嵩集落は奈良市最東端、名張川左岸の深い峡谷を成す山上の僅か20軒ばかし、茶畑に囲まれた長閑な集落です。

蔓性植物が大岩全体を覆い隠すように繁茂し、石仏の刻まれている部分だけがかろうじて岩面が見えている・・・しかしその岩面とて白っぽい地衣類が蔽っている。

大岩は高さ5m、幅7m、 西側面に大小二つの方形枠を造り、地蔵立像を二体づつ刻み出している・・・、どうも小さい方は後補の様な気します。

お参りも途絶え勝ちな磨崖地蔵は、地衣類と風化に拠る劣化も激しく、殆どその像容も詳らかではない。

江戸初期の造立、大和高原多尊仏と同系のものだろう・・・・・。

山上の小さな集落にも磨崖の地蔵さん。

撮影2011.5.14


相楽郡内 一石六阿弥陀石仏

2012年05月12日 | 石仏:京都

伊賀地方や大和高原の古い墓地では数多く見かける一石六体地蔵、しかしこれは我が目を疑う一石六阿弥陀石仏。

何処からどう見ても地蔵には見えず、間違いなく阿弥陀さんです。

高さ50~60cm、幅1m足らず・・・頂点の尖った絵馬形花崗岩に押すな押すな状態、びっしり並んで何が愉快なのか??大笑いしている阿弥陀さん。

一見、端から端までの通し蓮台に見える上に立つ阿弥陀さんは中肉彫りの像高40cmばかり・・・・・

この手の一石多尊石仏としては古く、室町後期の造立・・・もしかして一石六体地蔵のモデルだったりして・・・。

なんとも心温まるユニークな石仏さんです。

撮影2011.5.14


木津川市山城町 泉橋寺(せんきょうじ)の地蔵石仏

2012年05月11日 | 石仏:京都

このブログを始めた2005年最初の頃、たった1枚の写真と2行の短文でUPしていたのを思い出し、その後何度も訪れ、写真も溜まっているのについつい再UPするのを忘れていました。

我が山城の母なる河、木津川は往古、和韓川とも泉川とも呼ばれ、この地の少し下流で大きくその流れを東西から南北に変える。

この山城大仏とも称される、丈六の地蔵石仏は天平12年(740)、泉川に架け渡された橋守寺として、名僧「行基」が建立した泉橋寺門前にある。

創建時は七堂伽藍を備え、権勢を誇った様ですが??平安末期、平重衡の南都攻めの際、その戦渦に依り焼失、その後鎌倉時代、般若寺の僧、真円上人がこの大地蔵菩薩を発願、泉橋寺も再興されたようです。

大乗院雑事記によると永仁三年(1295)に石材が切り出し始められ、十三年後の徳治三年(1308)に地蔵堂が上棟供養された大掛かりな建立だったようです。

建立当時は大きな地蔵堂に鎮座する丈六の丸堀地蔵石仏坐像で、境内に残る礎石からもその荘厳さ窺うことが出来ます。

後、京都の町を戦火に包んだ応仁の乱がこの南山城にも及び、文明三年(1471)大内政弘の軍により木津や上狛が焼き払われ、 再びこの泉橋寺と共に地蔵堂も犠牲となり、石仏も無残にも焼け爛れてしまったようです。

現在見られる大地蔵石仏は、焼け爛れた蓮弁や体躯の一部に当時を偲ぶだけで、頭部や両手は、後江戸時代の元禄三年(1690)に後補されたものだそうです。

総高約5m、二重の蓮華座に端坐する像高3.8mの大地蔵菩薩坐像は日本最大の地蔵石仏として知られています。

残された体躯にも蓮座にも殆ど鎌倉期の面影を見ることは難しいほどに焼け爛れ、いかに戦いが残酷なものであったかが窺えます。

蓮坐の上には、ずらっと小石仏が並べられて居ます。

頭部の穏やかな顔付がいかにも嘘々しく、虚しく見えるのはどうしたことだろう・・・・所詮無理な話だが当時の顔もみてみたかった。

大いなる歴史の渦と血なまぐさい権力の戦いを知って居るのはこの焼け爛れた岩塊だけなのだろう。

撮影2007.5.5


和束町 撰原(えりはら)墓地の石仏

2012年05月10日 | 石仏:京都

撰原(えりはら)集落外れ、古墓で見かけた石仏さんが、ちょっと素敵だったのでUPしておきます。

前回紹介、撰原(えりはら)集落の四辻を西へ進めば直ぐに家並は途絶えて茶畑を眼下に見下ろし、下島へと続く尾根道となる。

集落外れ、新道と旧道の交わる道路脇、新しく基台を設えられた石仏さんが六体・・・、向かって左端の石仏さんは胸から上をなくして何さんやら??

中央の一体は飛びぬけて大きく、右手錫杖の定形地蔵・・・、残りの四体は同じような大きさなのですがどうも光背の形が違って年代も違うようです。

新道を造る際、此処に寄せ集められたものでしょうか??、茶畑を背景に古い石仏さんが良く似合います。

この先眺めの良い道を少し進めば、右手斜面の木立の中に古い撰原の墓地がある。

墓地入り口には・・・・、こちら間違いなく六体地蔵さんです、一寸高さがちぐはぐだけど良く似たお顔です。

斎場脇の小さな木立を背に古い石仏さんが並んでいて中々の気配を醸し出しています。

下半身を土に埋もれて居ますが二体は大きな地蔵で・・・向かって左は錫杖を持って無いように見えますが・・・・、掘り出して見ると、共に総高150cmぐらいでしょうか??。

どちらも室町期の像立??

傍らにはちょっと小さいながら施無畏印(せむいいん)、与願印 (よがんいん)の阿弥陀さん。

その横手には右手を肩先に挙げ錫杖を持たない古式の地蔵石仏。

整った像容、清々しい尊顔、光背に「應」だと思われる文字が読み取れるのですが・・・・

全体の像容からは、室町後期造立のような気がします。

撮影2011.7.23


和束町 撰原(えりはら)峠子安地蔵(再)

2012年05月09日 | 石仏:京都

撰原口の阿弥陀磨崖を訪ねたので、此処に寄らないては無いと足を延ばし、新しい画像を加えて再UPです。

集落の辻に案内板も有り、道路は細いが・・・近くに空き地も有るので難なく出遭える。

民家と茶工場の間、茶畑に続く登りを歩くこと5~6分、茶畑沿いを登り詰めると左手に最近新しく立派になった標柱がある。

標柱脇に石段があり、その奥によく清掃が行きとどいた小さな平地があり、小石仏が何十体も並べられ、 目指す地蔵石仏はこの奥、石段上に居られます。

<2006年撮>

石仏は板状の石材を立て、その上に笠石を被せ石龕とし、総高170cm穏やかな曲線の舟形光背を背に円形の頭光を持ち合わせている。

石龕は当初からのものでは無く、後世に設えられたようですが、そのせいか保存状態は極めて良好。

像高約130cm、往時この前を奈良から信楽方面へ抜ける古道が通じていたようですが・・・道中安全の峠の地蔵としては立派過ぎるような??

今は子安地蔵として地蔵護持会が管理をし、今もお参りが後をたたないようで真新しい花がたむけられていた(撮影には一寸失礼しましたが)。

光背の左右に「釈迦如来滅後二千余年 文永二二年(1267:鎌倉中期)丁卯僧実慶」とあるそうですが肉眼で確認する事は不可能です。

釈迦没後二千年、末法の世に救いを求め、右手は与願印、左手は宝珠を胸の前で持つ古式の地蔵菩薩、鎌倉期石仏の一典型を示す傑作だと言われています。

近く和束川岸にも、同じく鎌倉中期の和束弥勒磨崖石仏があり、鎌倉中期この地は何か末法思想に繋がる特別な土地だったのだろうか???

撮影2005.10/2012.5.5


和束町 撰原口(えりはらぐち)の阿弥陀磨崖石仏

2012年05月08日 | 石仏:京都

二度目の訪問で何とか出遭えた磨崖の阿弥陀さん。

和束町はまさしく茶源境、集落は山々に拓かれた茶畑の間に点在している。

宇治茶の主産地、和束の茶畑は、今まさに新芽が出揃って目にも目映いほどの素晴らしい景観です。

我が家からはそう遠くない、一山いや二山越えた和束撰原、集落入り口付近、急斜面の谷底近くに蹲っていました。

府道5号線、撰原口から集落への道を進むと大きく左カーブする崖下、枯葉が急斜面を埋め尽くし、ちょっとしたアドベンチャー・・・・・

下を流れる谷川近くの笹薮の中、椎の古木が岩を噛み、当の阿弥陀さんは気の毒にも前かがみ。

上の新道が出来るまでは、この谷川沿いを石仏の前を通り、旧道が集落へと伸びていたのだろう??・・今ではすっかり笹薮に埋め尽くされ、殆ど旧道の痕跡もない。

石仏は岩の中央辺りに高さ40cm位の二重光背を深く彫り沈め、蓮台に座し、定印を持つ像高30~40cmばかりの小さな阿弥陀坐像を刻み出しています。

肩や膝の力強い張り具合、全体の像容からも鎌倉期の像立。

小さく、今や忘れ去られた様な石仏さんですが・・・・、因みに案内板等は一切ありませんので悪しからず。

撮影2012.5.5


和束町 正法寺の阿弥陀石仏

2012年05月07日 | 石仏:京都

京都南東端,滋賀県旧信楽町と境を接する和束町正法寺で見かけた可愛い阿弥陀石仏さん。

前回紹介の木屋峠を越えそのまま府道62号線で北上、里山道を五分も走ると左手山裾、木立に包まれ森閑とした中にも立派な石段参道の山寺が見える。

<境内の高みより見た和束町中心部辺り>

<鐘楼の横に立つ大銀杏>

<参道脇の紅葉>

この正法寺は京都府南部を代表する紅葉の名所の一つとして知られ、秋の彩りが素晴らしい山寺として紹介されることも多い。

寺伝では天平年間(729~49)、聖武天皇の第二皇子・安積親王(あさかしんおう)の菩提を弔うために名僧行基が開山したと伝えられる古寺ですが、中世の兵火によって荒廃、その後江戸時代の正保元年(1644)に再建され、今の寺観を整えたと言われています。

しっとり落ち着いた石段参道の中程、参道が二手に分かれる処にこの石仏が佇んでいる。

総高1m、像高70cmばかりか・・舟形光背の頂部にキリーク、円頭光を持つ阿弥陀石仏です。

意匠化された衣文や、光背左側に有る刻銘が何とか江戸時代の正保(江戸初期)と読めそうな処から再建当初に造立されたものだろう。

石仏としての価値は余り見出せそうにないが・・・・、この石仏居る空間がなんとも捨て難い。

裏山墓地付近には室町期のものと思われる石仏も並んでいましたが・・・。

撮影2006.11.10/2011.11.24


和束町 木屋峠(こやとうげ)磨崖石仏

2012年05月06日 | 石仏:京都

石友さんと二人してこの石仏の存在は知りながら、どうしても解らなく現地を訊ね訊ねて何とか見つかった石仏さんです。

石友さんと一緒に探したところ、現場まで行っていたのに見つからず、その後石友さんが再チャレンジで見つけ出し、土砂や枯葉に埋もれて居るとの連絡を受け、後日スコップを持ち掘り起こしたと言う曰く因縁の石仏さんですが・・・・、期待したほどには報われない姿でした。

和束町木屋は、国道163号線で伊賀方面へ向け笠置町に入る少し手前、大きな砕石場を越えて直ぐの小さな集落、その東外れから一山越えて和束町の中心に至る府道67号線で一気に急斜面を登り詰めた峠が木屋峠。

木屋峠付近から流れ落ちる谷川沿いに旧道を登り詰めていく・・・、旧道と言っても現在は所々にその痕跡は確認できる程度、最早獣道にも等しいですが・・

谷川沿いの急勾配で途中かなり危険な場所に何度も遭遇します。

こちら上流部からの撮影ですが、現場はこの岩を廻りこんだ奥の方・・・

大きく迂回してジグザグに登る府道が出来るまで、木屋の子供達はこの旧道を小学校まで通ったと・・・・この場所を訊いた50代のおばさんが教えてくれた。

学校の帰り道、この岩に登って遊んだものだと・・・、それにしても小学校は峠を越えても遥か彼方??

友達が探し出してくれた石仏さんはこれ・・・すっかり胸から下は枯葉と土砂に埋もれて居ます。

岩盤は聳えるほどに高く、その幅も何m有るかも解らない程の巨岩です。

掘り起こしてみますが、雑木の根が縦横にまとわりつき如何にも成りません・・・此処まで掘り起こすのに約1時間。

これが精正一杯、おばさんの話だと「いつも見て通った」と云うから、この30~40年の間に相当埋もれてしまったようです。

他にも左右やもっと下部にも何か彫られているのでは??と思うのですが・・・

石仏は幅40cm、高さ60cmぐらいの方形龕部を造り、中に俵の上に立ち、大きな袋を担いだ稚拙な大黒天像を中肉彫りで刻み出している。

まるで小便小僧のようなその姿、像高凡そ50cmぐらいだろうか??

再度行き、もう少し広範囲に掘ってみようかなとも・・・?もっと何かが出てくるかも??しかし何故この岩に大黒天が一尊だけ彫られているのか解らない。

因みに付近に恵比寿の名を持つピークが在ると聴いたような・・・・。

撮影2011.5.2


奈良県山添村菅生(すごう) 峯出の「山の神」

2012年05月05日 | 勧請縄:山の神:野神:人形道祖神

山添村菅生(すごう)では「山の神場」の事を小場と呼び習わしている。

菅生は山また山の山添村に有っても、辺境感の強い山里、そんな集落には五ヵ所もの小場があるらしいが、今回都合よく訪れられたのはこの「峯出の小場」という「山の神」

名阪国道「神野口IC」で降り、旧国道25号線で伊賀方面へ、名阪の下を潜り暫く行くと山間に軒を並べる菅生の山里。

「峯出の小場」は旧国道25号線の東側山腹に軒を並べる東端、道路分岐点の小さな林の中に有る。

中央部によく目立つ藁苞付けた長い勧請縄が杉の木立の間に掛けられ 、地面には供物らしき物・・・・・。

 

荒々しく切株を出した勧請縄に付けられた藁苞を、此処ではホウガンと呼び、勿論陽物、♂シンボルそのもの・・・

脇に鍵の手の枝切れに掛けられているのは三本木股と二本木股、これも♂♀を表し、命の再生産を願う印のはず・・・。

傍らの木枝にはカギヒキの鍵の手の付いた小枝がかけられていた・・・、ここでもカギヒキ神事は行われているのだろうか??

地表には峯出小場と書かれた木枝を削った木刀・・、鋤、桑、鋸、鉈など農山の七つ道具、脇にクラタテの篠竹を突き立てている。

此処での山ノ神は総てのものを叶えてくれる万能の神のようでもあり、かっての山村が「山の神」と深いつながりであった事を窺わせてくれる。

撮影2012.4.15


奈良県山添村 毛原の山の神

2012年05月04日 | 勧請縄:山の神:野神:人形道祖神

大和高原南東部、山里毛原、集落西の入り口辺りに有る「山の神」

カギヒキ神事の盛んな三重県名張や伊賀地域西部は大和高原の山添村や宇陀市の東北部山間地域と一体になってるような山里地域 です。

<西の口よりの毛原集落>

此処もまた古くは奈良時代の毛原廃寺跡などを残し、古い民俗習俗をよく残し、懐かしい匂いのする集落です。

名阪国道脇から伸びる県道244号で万寿GCを抜け急な峠を下り切ると毛原の里、県道が最後に大きくヘアピンカーブする右手、林道を少し奥に入ったところにカギヒキ場がある。

入り口には知る人ぞ知る一石六体地蔵が有り、僕も何度か訪れていますが、この「山の神」に気づいたのは今回が初めて。

新しく車が乗り入れられるように造られた林道脇の大きな杉の木、地上よりはるかに高い枝にカギヒキのウツギノ枝が掛け吊るされています。 

この地域では縄は掛け渡さないようで、傍らの椎の木にもたくさんのウツギの鍵が吊り下げられ、形状は名張国津地域の物と酷似しています。

ここでもやっぱり枝束には、しっかり 此処では「ワラチンチン」とも呼ばれる藁苞が結わえられていますが、どこか頼りなさげ・・・。

ここでは山の神の神体となる石碑は見当たらず「クラタテ」と呼ばれる篠竹につけた幣が何本も斜面に突き立てられていた。

「クラタテ」は蔵が建ちます様にとの呪具だともされているようです。

撮影2010.4.29


三重県伊賀市 鍛冶屋の「山の神」

2012年05月03日 | 勧請縄:山の神:野神:人形道祖神

伊賀市南部、古山界外(ふるやまかいげ)と鍛治屋(かじや)集落の境界の丘に山神遺跡と呼ばれる古代磐座遺跡が在り、現在もその磐座を神体として祀り、その場をカギヒキ場としている。

いづれも伊賀名張バイパス国道368号線の旧道、名張街道筋に点在する小さな里山集落の一つで、鄙びた集落景観が嬉しい地域です。

地図で確認するとちょうど古山界外から鍛治屋集落に入った丘の頂上付近に巨岩があって注連縄が巻かれ、この大石が古代磐座で有ろうと想像出来る。

この磐座付近からは皿形土器、土師器皿片などの祭祀遺物が出土しており、この場所が古代から特別な祭祀場であったらしい。

今でも磐座自信が山の神の神体として崇められ石碑等は無く、巨石の前に供物などが置かれた痕がある。

カギヒキは杉木立に細いロープを掛け渡し、ここでは青葉の付いた樫の木枝の鍵手を利用している。

ここでも藁苞は重要な意味を成すのだろう・・・・、しっかり枝に結わえられている。

もうごく少人数の村人しか参加しないのか・・・・、ロープ(縄を略式化したのだろう??)に掛けられた鍵の手もたったこれだけ。

名張東南部国津地域から少し離れるとカギヒキも伊賀流になって少し趣が変わる様です。

撮影2011.4.2


三重県名張市 滝之原下出の「山ノ神」

2012年05月02日 | 勧請縄:山の神:野神:人形道祖神

小さな祠に六体の山ノ神、此処も又、国津神社に祀られた山の神です。

春四月、桜並木が続く集落奥の国津神社への参道・・・ここは名張市東南部滝の原地区、周りを新興住宅やゴルフ場にすっかり開発され、すっぽり取り残されたように懐かしい景色の残る里山です。

滝の原下出の国津神社は平成10年9月、紀伊半島を横断した台風7号により、倒木や拝殿の倒壊等大きな被害を受け復興され、神さびた厳かさには欠ける幹事の境内です。

拝殿右脇、山裾に小さな覆屋の祠を設け、山の神を一列に並べています。

脇の杉の木から縄を渡し、この地方ではお馴染み、鍵の手のウツギの枝が吊り下げられている。

ここでは、ウツギの枝以外にもクリ、クヌギ等の枝も使われるようです。

鍵手枝に付けられた福俵と呼ぶ藁苞もその形態が集落ごとに少しは違う様にも感じないではない。

撮影2012.4.15


三重県名張市 奈垣の「山の神」

2012年05月01日 | 勧請縄:山の神:野神:人形道祖神

名張の新興団地、つつじヶ丘住宅からほんの其処、景色が一転する山懐に抱かれた奈垣の国津神社にも山ノ神の「カギヒキ」場がある。

深い考察は専門家に委ねるとしても、国津神社はこの名張東南部から旧美杉村にかけてはどの集落にでも鎮座してるほど多く、奈良県東山中に多く見られる葛神社や九頭神社と同系列の神社と考えられている。

<棚田と山懐に抱かれた奈垣国津神社付近>

前回紹介の布生(ふのう)近くに奈垣地区が有り、国津ふるさと館や国津小学校などの施設が集まり、国津地域とも呼ばれるこの辺りの中心地なのだろう。

国津神社拝殿脇に続く森の磐座に立つ樫の老木の根元に三体ほどの山ノ神石碑が祀られ、「カギヒキ」の痕が見られる。

縄は樫の木老木と藪椿古木の間、地表を這うように掛け渡されている・・・・、

ここでもカギヒキの鍵はウツギの枝・・・多くの人が参加したようでこちらは一寸大掛かり。

家族の男性の数と山の神の分だけウツギの枝を束ね、それに此処では「お年玉」と呼び習わす藁苞をつけている。

ウツギの枝の鍵手で「山の神や金銀財宝を引き寄せる」・・・と言うのは、余所者の僕達にとってはかなり奇想天外な発想のように思われるのだが、どんな曰く因縁があるのだろうか??

撮影2012.4.7