ピアノの音色 (愛野由美子のブログです)

クラシックピアノのレッスンと演奏活動を行っています。ちょっとした息抜きにどうぞお立ち寄り下さいませ。

ラフマニノフについて その3

2010年04月09日 | クラシック豆知識
ラフマニノフの人生は裕福な家庭に生まれながらも、ロシアの政治情勢に翻弄されて、後半生を亡命者として異郷の地で過ごすというものでした。音楽的評価にしても、その才能は早くから認められていましたが、真の名声を確立するまでの道のりは決して平坦なものではありませんでした。

学生時代から作曲家/ピアニストとして注目を集めていたラフマニノフは、1897年ペテルブルグで、自ら作曲したピアノ協奏曲第一番が初演される栄誉に恵まれました。しかもピアノ演奏するのは作曲した自分自身です。その時ラフマニノフは24歳。どんなに希望を膨らませてその舞台に臨んだことでしょう。この公演が成功すればさらに輝かしい未来が約束されるのは間違いない!

しかし結果は、著名な批評家から酷評されて、「記録的な大失敗に終わった」のでした。後になって、指揮者に問題があったとか、オケとの練習時間があまりにも少なすぎたとか、色々言われているようですが、ともかく、その当時の評判は散々で、ショックを受けたラフマニノフは深刻な鬱状態に陥り、数年間にわたって作曲の仕事が一切手に着かなくなるほどでした。

その後、専門医の催眠療法で自信を取り戻し、彼の作曲したものの中でも最も有名な傑作、ピアノ協奏曲第二番を1901年に完成させて見事に復活します。けれども、彼の生前、ピアノ協奏曲第一番が再演されることは一度もなかったそうですから、当時のラフマニノフが負った心の傷の深さをうかがい知ることができます。

コンサートというのは本当に一発勝負、やり直しが効かない恐ろしさがあります。当然、うまく行くときと行かないときはあります。その1発勝負の中で、やはり、うまく行かなかったら酷評を受けるわけです。あるいは、なんの感想も頂けず、いわゆるスルーするような態度。これには、やはり傷つきます。それも覚悟して、乗り越えて、やるしかないと分かっていますが、「良かった」と言われれば嬉しいし、そうでなければ、おそろしく落ち込みます。(自分の努力や実力の不足と分かっていても)一生懸命、命をかけてやってきたことを否定されているよう感覚に陥るのです。でも、その痛い感想も受け入れ克服した時に、あのご指摘があったからここまで成長したと思えるんですよね。

作曲家も新作の発表の時は、自分の作品が世に受け入れられるかどうか、勝負の時です。彼に対するそのときの酷評は、ひどかったそうです。その傷つき方は、いかほどかとこちらまで心が痛みます。その苦しみから立ち上がったからこそ、より素晴らしい成長を遂げたのだと思います。

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