
復活祭新制作「蝶々さん」制作に関して読む。ベルリナーフィルハーモニカーのサイトに既に出ていたことだった。一幕をざっと見て、気になることったことがそこにも特にペトレンコの言葉として触れられている。誰でも真面な人なら同じようなことを考えるからだろう。
あり得るべき思考としては、屡特に日本などで話題となる西欧から見た極東やアジアへのオリエンタリズムやこの場合はジャポニズムと呼ばれる東洋趣味としての見解に関するものではない。そうした至近で狭義の扱いの精々日本の人からの着物やその所作に関するような「月指す指を見るバカ」は論外としても、ジャポニズムの本質はどこにあったかということにもなる。それはそのものパリ万博に語られるようなグローバルな見識への広がりや所謂植民地政策とその後の世界戦争へとの歴史的展開の共通認識に終らない。そこの広義な意味がこのプッチーニの作品に読み取れるというものである。
既に記した様に「15歳の少女の人身売買」と語っていたペトレンコの真意がここで分かる。その状況をして作曲家プッチーニが1900年6月にロンドンで出合った原作のべラスコ作の芝居「日本の悲劇」が作曲の動機となり、1904年2月のスカラ座で二幕版初演となる。一幕に既に多くのことが語られていて、特にピンカートンの口から「合衆国に帰る前に、いつでも捨てられる日本の女」とそれに留意する領事のシャープレス。
そのシャープレスの受け身の態度こそに聴衆が曝されることを作曲家が意図したことで、ミラノでは折角のヤンキーの堂々とした男がケチつけられた様になって、成功とはならなかった為に、90分に及ぶ二幕の結末への大きな流れを三幕に別けることで誤魔化したことになる。ペトレンコは、この改訂をプッチーニはその死まで懐疑的に考えていたとしている。
そこで掻き鳴らされる「星条旗よ永遠なれ」への音楽的表現もまさにそれであり、上の場面が如何に重要かが分かる。音楽劇場における表現方法としては勿論どのような視線で聴衆がそれを受け取るかにその成功の可否が掛かっている。創作家プッチーニの表現意図も動機もそこにある。そのペンタゴナルの五音階の使い方やその終結などに関してはじっくりと観察して改めて味わうことになる。
近代芸術音楽の表現意図は啓蒙思想と切っても切り離せないが、そこにおいて劇場で少なくとも件の個所での決定的な視点は、そのもの植民地主義への支配者として歴史を顧みることで生じて、もしこのオペラを今日多大な費用と労力で新制作上演するときに我々が今そこに落とす視線こそが問われている — 「記憶の政治」という言葉に対して意味が重なるようでもあるが「記憶の芸術」と呼べるだろうか。
ピンカートンの口を借りて語られる男尊女卑の「三行半」の日本社会への視線は今でもまだまだ世界中にある「目覚めぬ民族」なるヘーゲル的世界観が根拠とはならない。然しペトレンコが自ら語る様に、「恥も外聞もない、ネオ植民地主義者のエゴイズムで攻撃する力を持つ者が為すことを、理性的な声で見識を示すところで、決して置き換えることが出来ないのが、上のシャープレスがその最後を分かりながら関わっているのと同様」としている。当然のことながらこれはプーティン独裁のロシア批判でもあるが、現在のワシントンとその仲間たちに考えを及ばさせない者はいまい。
先日の新制作「ランヴィジブル」フランクフルト公演の大好評で今年はと思ったのだが、ペトレンコ監督の復活祭はその芸術性でもとても手強い。
参照:
Puccinis »Madama Butterfly« - So klingt ein Aufschrei, Malte Krasting
おっぺけぺピンカートン 2025-04-07 | 文化一般
玄人を教育することから 2025-04-03 | マスメディア批評
あり得るべき思考としては、屡特に日本などで話題となる西欧から見た極東やアジアへのオリエンタリズムやこの場合はジャポニズムと呼ばれる東洋趣味としての見解に関するものではない。そうした至近で狭義の扱いの精々日本の人からの着物やその所作に関するような「月指す指を見るバカ」は論外としても、ジャポニズムの本質はどこにあったかということにもなる。それはそのものパリ万博に語られるようなグローバルな見識への広がりや所謂植民地政策とその後の世界戦争へとの歴史的展開の共通認識に終らない。そこの広義な意味がこのプッチーニの作品に読み取れるというものである。
既に記した様に「15歳の少女の人身売買」と語っていたペトレンコの真意がここで分かる。その状況をして作曲家プッチーニが1900年6月にロンドンで出合った原作のべラスコ作の芝居「日本の悲劇」が作曲の動機となり、1904年2月のスカラ座で二幕版初演となる。一幕に既に多くのことが語られていて、特にピンカートンの口から「合衆国に帰る前に、いつでも捨てられる日本の女」とそれに留意する領事のシャープレス。
そのシャープレスの受け身の態度こそに聴衆が曝されることを作曲家が意図したことで、ミラノでは折角のヤンキーの堂々とした男がケチつけられた様になって、成功とはならなかった為に、90分に及ぶ二幕の結末への大きな流れを三幕に別けることで誤魔化したことになる。ペトレンコは、この改訂をプッチーニはその死まで懐疑的に考えていたとしている。
そこで掻き鳴らされる「星条旗よ永遠なれ」への音楽的表現もまさにそれであり、上の場面が如何に重要かが分かる。音楽劇場における表現方法としては勿論どのような視線で聴衆がそれを受け取るかにその成功の可否が掛かっている。創作家プッチーニの表現意図も動機もそこにある。そのペンタゴナルの五音階の使い方やその終結などに関してはじっくりと観察して改めて味わうことになる。
近代芸術音楽の表現意図は啓蒙思想と切っても切り離せないが、そこにおいて劇場で少なくとも件の個所での決定的な視点は、そのもの植民地主義への支配者として歴史を顧みることで生じて、もしこのオペラを今日多大な費用と労力で新制作上演するときに我々が今そこに落とす視線こそが問われている — 「記憶の政治」という言葉に対して意味が重なるようでもあるが「記憶の芸術」と呼べるだろうか。
ピンカートンの口を借りて語られる男尊女卑の「三行半」の日本社会への視線は今でもまだまだ世界中にある「目覚めぬ民族」なるヘーゲル的世界観が根拠とはならない。然しペトレンコが自ら語る様に、「恥も外聞もない、ネオ植民地主義者のエゴイズムで攻撃する力を持つ者が為すことを、理性的な声で見識を示すところで、決して置き換えることが出来ないのが、上のシャープレスがその最後を分かりながら関わっているのと同様」としている。当然のことながらこれはプーティン独裁のロシア批判でもあるが、現在のワシントンとその仲間たちに考えを及ばさせない者はいまい。
先日の新制作「ランヴィジブル」フランクフルト公演の大好評で今年はと思ったのだが、ペトレンコ監督の復活祭はその芸術性でもとても手強い。
参照:
Puccinis »Madama Butterfly« - So klingt ein Aufschrei, Malte Krasting
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