日々・from an architect

歩き、撮り、読み、創り、聴き、飲み、食い、語り合い、考えたことを書き留めてみます。

生きること(21)顔を見合わせて微笑みあっているだろう

2007-04-15 15:25:07 | 生きること

元旦の午前1時過ぎ、母は逝った。
一年余り母は良く眠っていたがもう眼を覚ますことはない。僕の撮った微笑でいる母の顔と、きりっとした顔で僕たちを見やっている父の写真を見ると、「お前よく来たね、62年も待っていたよ、でもちょっとふけたね」と母に笑いかける父の姿が目の前に浮かんでくる。そういうことがあるような気がする。6年しか一緒にいることができなかったがそんな夫婦だったと思う。

僕たち三人の子供たちの見る母の姿は少しずつ違う。妹はオールマイティの母だったという。母と過した時間の一番多かった弟は、母親ではあるが母に対して身近な自分の子供のような気持ちを抱いていたような気がする。
僕は母に一度も叱られた記憶がない。そういうとあなたはノーテンキだから感じないのよ、と妻に言われそうだがそれでもどこかに近寄りがたいところがあった。

僕には小言を言わなかったが、オールマイティではなく僕にとってはちょっと頑固な一人の女性だった。それなのに何故そう感じていたのだろう。こういうことを思い出す。卒寿の祝いで僕たち三人の子供たちとその家族、つまり一族が浅草に集まったときに、しばらく弟の家にいて久しぶりに会った母は、ニコニコするだけでほとんど喋らなかったものの、思わずドキッとした。
髪が真っ白でなんとなく品がありそして可愛いのだ。僕はまだ及ばない、いやたどり着けないかもしれないと思ったのだ。

戦争という存在があった。
幼子を抱えて多くの人に支えられてきたが、それでも一人で生きなくてはいけなかった。頑固に寡黙に。そういう時代だったといえるかもしれない。母と接するごとに笑顔の底の戦争を僕はみてきた。人にはただ居るだけで教えられることがあるのだと思う。だから居るだけでもいいのだ。

大晦日の夜、気になると病院から電話があり、弟と妹に電話をした。年を越したが医師が、僕たちが着く前に母は息も脈も一旦止まったが甦生したという。父が亡くなったのは6月だが、祖父から電報でその知らせがあったのは元旦。僕たちが枕元に来るのを待っていたのかもしれないが、夫の死の知らせのあった元旦に夫のところへと、夫への気持ちを僕たちに伝えたかったのかもしれない。岡崎に居て来ることのできなかった妹も同じことを考えたという。

密葬のとき従兄弟たちから、僕の生まれる前の付き合いの様子と様々な母への想いが語られた。母は僕たち家族だけの存在ではないのだ。人の「生きること」の不思議さと大切なことを教えられる。母は92歳だった。

<写真 母の文字のある「吾児の生立」に僕の描いた落書き。口がなかなかおそくて二歳誕生過ぎでやっといろいろ云えるようになった。カキクケコが云えないのでオタアチャマである。と書かれている>




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2 コメント

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いつも思います。 (moro)
2007-04-20 17:30:45
一所懸命、日本を守ってきて下さったかたが亡くなられるときに、本当にお疲れ様でしたと。
巾着袋、本当に大切にさせて頂きます。毎日仕事に行く時も持ち歩いております。
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みなさまにお礼を・・・ (penkou)
2007-04-21 22:03:17
有難うございます。
いろいろと考えることもありますがよく生き抜いてきてくれたと思います。
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