日々・from an architect

歩き、撮り、読み、創り、聴き、飲み、食い、語り合い、考えたことを書き留めてみます。

生きること(17) 一年生になる

2006-10-17 15:57:24 | 生きること

『昭和21年4月13日 千葉県柏国民学校へ入学。出山先生(女)
庸介と敬子も一緒につれて入学式に行く。
紘一郎は新しい金ボタンにお母ちゃまの作った靴をはいてうれしそうだ。お父様がいらしたらね。
始め組み分けがあって(紘一郎は三組に入いる)次に先生につれられ講堂に入り、校長先生のお話があり、お教室に入って先生のお話がある。明日から八時はじまりである。
紘一郎は講堂からお教室に入る時に、お母ちゃまいないと泣いたのよ』

読み返すとちょっと恥ずかしい。弟や妹が一緒なのに情けない。
僕は今は涙もろくなったが、泣き虫だとは思わない。しかし思い起こすことがあるのは僕はシャイだということだ。そう言うと冗談を言うな、という顔をされるが、言い換えれば心細がりやだ。父が早世したからだろうか。

僕はこの入学のことを覚えていない。学校が記憶に残り始めるのは天草の下田小学校に転入してからだ。その間の生活は生々しく記憶に新しいこともあるのだが。
僕は柏小から長崎の勝山小学校に転校し、すぐに天草の下田小学校へ、中学は兼松家の総領息子なので家族と離れて都会の長崎中に入学、祖父が亡くなって下田に戻り、中学2年のときに柏中学に転校した。
この時代僕のように転校する子供も多かったのではないだろうか。

母は父が戦死するなんて思ってもみなかったに違いない。父が生きて帰るぞ、と宣言していたからだ。戦死の報を聞いてもどこかできっと生きているとは思っただろう。同時に心の奥底では死んだことも受け入れただろう。そして子供たちをしっかり育てなくてはいけないと無意識にも考えたと思う。

母はラジオの「訪ね人」を何年も何年も聞いていた。ラジオに聞き入る母の姿が僕のまぶたに焼き付いている。しかし僕は口には出さないが父はもう死んだのにと気になりながらも母の姿を見ながら思っていたような気がする。
子供は残酷だ。すぐに記憶は薄れ今何をするかに眼を奪われる。

父がいなくても小学生になる。母の作った靴をはいて。