日々・from an architect

歩き、撮り、読み、創り、聴き、飲み、食い、語り合い、考えたことを書き留めてみます。

生きること(16) ごうの寅

2006-10-09 12:36:05 | 生きること

母は大正3年(1914)6月4日、`小寺松次郎`と`すみ`の末っ子として三重県四日市で生まれた。ごうの寅の生まれなのよねと時折口に出した。強くないのにね、と言いたいようだ。
長男は後に品川区の明電舎の近くに家を借り、`大崎の`と言われた伯父で、男3人女4人の7人兄弟、次男と三女は早くして亡くなったようだ。
長女はここに書いてきた父の手紙やこの「吾が児の生立」に良く出てくる`阿佐谷`の伯母で、僕の父や母が頼りにした伯母だった。僕はこの母方の祖父の記憶がないが、阿佐ヶ谷の伯母のふっくらした笑顔やゆったりした物腰は良く覚えている。

父(僕にとっては祖父になるのだが)松次郎は、四日市の水道局長など務め、市の水道敷設に貢献したと母の自慢の父だった。太っていてお酒が好きだったと母が言うが、四日市の自宅の庭で撮ったらしい着物を着た松次郎おじいさん夫婦のセピア色になった写真がある。いかにもお酒が好きそうだが、どっしりと貫禄がある。やはり父方の祖父と同じ明治の男だ。
写真を見ていると、改めて僕はこの祖父や祖母の血を引いているのだという不思議な感じがしてくる。僕の娘が「おじいちゃんってかっこいいよね」と仏壇の上に掛けてある長崎に生まれた父の写真をみながら言うのを聞いて、そうだ、僕の父は娘の祖父でもあるのだと不思議な気がしたことを思い出した。

さてもう一つの母の自慢は、自分の母校四日市高女が、全国バレーボール大会で優勝し街中が大騒ぎをして凱旋行列をしたことだ。更に卒業式のとき「右総代兼松千代子」と卒業生を代表して卒業証書を貰ったようで、お酒を飲むとよく「右総代・・・」と嬉しそうに繰り返した。級長もやったようだ。

母は甘いものも好きだが、何時の頃からか晩酌で日本酒を飲むのがなによりの楽しみになった。自分では味はわからないとは言いながら、おじいさんもお酒が好きだったと、嬉しそうに飲んでいるのを見ていると、酒は母の生きがいのひとつだと言いたくなる。飲めなくなった今でもお酒を送ってくださる方がいる。おいしいお酒なのでたいてい僕が飲んじゃうのだけど。

さて母と父がどこで出会い、或いはお見合いをして一緒になったのかよくわからない。聞きそこなった。
一緒に晩酌をやりながら四方山話をするときに出てくるのは、中野に住んでいたとか、千駄ヶ谷にいてよく神宮球場に東京六大学野球を一人で見に行ったことだ。背が小さいので前のほうで観たいのに案内人が上へ上へと指差すので、いつも上のほうから見ることになってしまったと文句を言っていた。お酒を飲むときの定番話だ。

何故末っ子の母が父母の元を離れて一人で東京に出てきたのか本人は口にしない。末子のお嬢さん育ちだった母をよく一人で東京に行かせたものだと思うが、僕たちが`アヤコババア`とよぶ泰伯父の娘、母と仲の良い僕の従姉妹(といっても母の妹と言っても良いくらいの年で僕よりづっと年配)に聞くと、四日市にいたのでは良い人に巡り会えないので東京に出したんじゃないのという。
そして父と出会い僕が生まれた。

「吾が児の生立」十一ヶ月目の記事にこう書いてある。
『十二月二十二日。私たちの結婚記念日。紘一郎をつれて、高円寺へ写真をうつしにゆく』
昭和13年のことだ。式場は目黒雅叙園だったと聞いた。集合写真はないが、二人の立派な記念写真が残っている。二人とも緊張感に満ちている。父と母の生活はこの日からの6年間だった。

<写真 昭和23年僕が3年生、弟が1年生のときの写真だ。母は生活の苦しい中でも、毎年4月1日から3日まで行われた天草下田村の温泉祭のときに家族の写真を撮った。僕は靴をはいているが、弟と妹は藁草履だ。この草履も母が作ったのだろう>