日々・from an architect

歩き、撮り、読み、創り、聴き、飲み、食い、語り合い、考えたことを書き留めてみます。

生きること(18)  「吾が児の生立ち」最後の記述

2006-10-26 23:52:05 | 生きること
 
『六月十三日。お母ちゃま、紘一郎、庸介、敬子の四人は、阿佐ヶ谷のおばちゃま、アパートのおじちゃまに送っていただいて、長崎にきました。
これから長崎での生活が始まります。みんな元気に育ってくださいね。』

東京から長崎まで汽車で24時間では着かなかった。長崎の駅のホームは屋根がなく、ぐにゃりと曲がった鉄骨がむき出しのままだった。
祖父に引き取られた僕たち四人は、原爆の投下後まだ10ヶ月しか経ってない街に来たのだ。諏訪神社の近くの父の実家はその山にさえぎられて直接の被害は受けなかったが、ケロイドの刻印された瓦が屋根にあった。

食べるのにさえ困るときに長男とはいえ、戦死した息子の家族を引き取とる厳しさが祖父にはあったと思う。僕たちはそこで生活する辛さを味わうことになるのだが、60年を経た今でもまだその様子は書けない。
小学校一年生の僕がほんの少しだが大人の世界を垣間見た数ヶ月だった。

実家は中庭のある、間口がさほどなく奥の深い町屋風の作りだが,傷みはひどくなったものの今でもほとんどそのままの状態で建っている。中庭に面して大きな仏壇のある座敷や、そこに掛かっている額などが即在に頭に浮かぶ。家族と離れ、長崎中学に入学して約1年ここで生活したので懐かしさと共に,愛おしさも覚える家だ。しかしこの家の存続にも難しい問題がある。

<天草 下田へ>
その年、昭和21年の11月、僕たち家族は長崎から熊本県天草郡の西海岸、下田村に移住した。
祖父が陶石採掘事業をやっており、母はその管理や事務処理を担うことになる。同時に採掘した陶石を船に積む管理をやりながら作業も手伝った。潮の満ち干にもよるのだろうが、僕の記憶では、早朝まだ薄暗いうちから川の河口に着けた船にゆらゆら揺れる足場板を渡して猫車で船に積み込むのだ。150センチにも満たない小さな母が、良くそういう作業に耐えたとおもう。母は若かったのだ。
明け方に作業をやるのは、皆昼間は農作業があるからだろう。下田の人にとっては貴重な現金収入の機会だったのかもしれない。

そうやって母は難しい天草弁の下田の人々に、少しづつ受け入れられるようになったのだと思う。

坑道の奥にある採掘場では、カンテラで明かりを取り、爆薬を仕掛けて石を掘り出す。その爆薬管理も母が行うことになる。家の目の前の頂上まで段々畑のある丸い山の人目につかない一角にその爆薬庫があった。僕たち子供には立ち寄り難い場所だった。

天草陶石は品質が良く、高級陶器の材料としての評価は今でも高い。
村の中心部に日本陶器の出先があった。ぼくの祖父とは違う形態で陶石事業に関わっていたのだとおもう。そこの子息井上君が僕の同級生だった。背が高く足も速く、成績は抜群だった。彼は理系で音楽や絵が苦手、僕とは正反対だったが仲良くなった。と言うより僕たちの学年(クラス)はとても仲が良かった。

僕の家にはクラスの男の子がよく遊びに来た。でも井上君は一度も来た事がない。そして彼の家には敷居が高くて立ち寄りがたかった。その彼は後年九州大学の教授になったと聞いたことがある。気になってインターネットで調べてみたが名前が出てこない。さてどうしているのだろう。
男性12名の小さなクラスだった。何十年経っても忘れがたい一人一人が個性豊かな子供集団だったのだ。12名のうち3名が床屋になった。
末吉君は今でも下田で開業しているし、大阪で店を開いている二人のうち、西条君は嘗て技術を競う全国のコンクールで優勝したことがある。

なにより先生に恵まれた。いわゆる代用教員だったかもしれないのだが教育に対する志があった。いやそういう言い方ではなく、子供が可愛くて一緒にいることの楽しさを自然に受け止めていたような気がする。

半農半漁の平地の少ない小さな村だが村の真ん中を下津深江川が流れ、温泉が出たし、温泉祭というお祭りもあった。夏には部落対抗のペーロン、沖縄で言うハーリーも行われた。信じられないくらい貧しかったが、やはり新しい時代を切り開く気概が先生にもあったし村にもあった。戦争には負けたが開放感に満ちていた。

この『十一月二十四日。船に乗って、おじいちゃまにつれられて、私たち四人、天草の下田に来ました。下田はお芋の多い所で、毎日毎日お芋をたべています。』

『十二月二日。下田国民学校に入学する。
一年生は三十五人。小さい学校だ。
けれど、高いところに建っていて、けしきはよい』

『吾が児の生立ち』の母の記述はこれが最後だ。
この小学校時代に今の僕の原点がある。天草で僕の「生きること」が始まった。


<写真 「吾が児の生立ち」の表紙>