光年・千年

纏わりつくが、纏まらないおはなし、日記ふう。

最後の冬の春風

2008-02-29 18:53:22 | 散策
  きょうは、4年に1度の2月29日で、はたしてやたら増えた電子機器の表示が正しいか見てみたが、それに間違いはないようで、この先100年くらいのカレンダも出来ているのであろう。ただ、これは、いつがうるう年か、その定義に則って決められているのであって、そのうち変わる可能性もある。10年電池がもちますという時計があるが、はたして10年後はどうなっているか、そんなことはだれもわからないから、特に違和感もない。
  5年日記というのを使っていて、それを見るわけだけど、ただ1ページだけ、今日の日付と曜日が印刷されている。これは、2007年度の発行のもので、こうゆうものは昔からあった。かなり昔に10年日記というものを、これは珍しいでしょといって持ってこられたかたがおられる。それより、10年、そのノートというか、本というか手帳のようなものが、本体が分解せず、さらにどこかに消えて無くなったりせず、また気が変わって、ある年から、新しい10年日記を購入して、その昔の10年日記は、3年で終わって、あとはどこかに放置された、と言うことはないか、そうゆうことも心配になってくる。
  2007年にスタートした5年日記は、購入したのは、2006年であって、やけに昔に思えてくる。その5年日記を使っているというか、文字やら数字を書き込んでいる。去年の文字の方がきれいに見えるのはなぜだろうか。それから、まだ分解もする可能性はない。それを見る時間もかなり短い。しかし、ときにはっとすることが書かれている。「同じ発行所の一昨年の手帳」は、ものの見事に背のところから、スパッと切れていて、今年もそのシリーズを使っていて、たぶん背のところは、切れ目が入るだろう。それに比べると、人間の皮膚は丈夫である。
  5年先、いや4年先か、そんな時間がはたしてやってくるのだろうか。

  風が吹いていた。朝にこの風を浴びているとかなり冷たく、一気に体が冷えて、すぐに窓を閉めた。何しろ4年に一回だから、その朝日を拝みもし、記念にも撮った。何かがあるわけでもないのにね。一日、2月が余計にあったから、ありがたみは、ある人にとってはなく、またある人にとっては、それはあった。一体何を書いているのだろうか。しかし、そうゆう話しをしたのも事実である。風が強く、この風はあまりありがたみはなかった。少し気温は上がって、元気なかただと、部屋の中をこの風を行き渡らせたかも知れない。しかし、なかなかそうはいかない。そうゆうことは、この寒いところではなかなか出来ないものである。
  ときに残っている雪が溶けてその水が空を舞って来るし、それ以外に、これは少し神経質かも知れないが、細かい砂なども舞う。車が走ってゆくと雪が残していった、細かい粘土質のようなものが宙を舞うのがわかる。マスクもし、鼻もつままないといけない。日向ではかなり暖かくなって、これでは、うたた寝を誘う。今日も外を歩いてきて、まずはある花壇にクロッカスの黄色い花を見つけた。植物は温度より、光に敏感かも知れない。今日が3月なら、ちょうど春になった証拠にこの花がピタリであるようで、しかし何も持っていない。その姿を見て、やっぱり春はそこまで来ていると思う。雪とともにあったフキも今日はもしかして、その固い緑をそっと開いているかも知れないと思ったが、そこまではいかなかった。うたた寝の続きで、あるワンちゃんは後ろ向きでしかし、横座りのような格好でいた。もう一人のワンちゃんは、完全に横になってお昼ねをしていた。
  ハクモクレンも、その蕾を輝かせている。




  水があって、それからコンクリートがあると、そこには土も少し溜まって緑が生えてくる。清水のような流れがあるが、これは雪解けの水である。この緑は少しまぶしいくらい。




  緑とそれと赤となると、去年の10月ころからか咲き始めている、このサザンカしか今はない。これだけ長い時間次々と花が咲くと、なるほどこれは垣に使われるのも納得する。




  ファイルの名前もなるべくわかりやすいものにするが、これは、爆発スイセンにした。いかにもという感じがする。傷みがあるのが気の毒だが、強い青空に負けず劣らず、気を吐いている。

夢のなかでも、忘れ物

2008-02-29 07:10:51 | 散策
  朝のお天気、晴れ。かなり透明度のいい晴れ。南の風が吹いていて、冷たい。朝焼けがきれいでもう太陽も出てしまった。アメダスの気温1.5℃、積雪0cm。室温4℃、この辺りの雪は、まだ残っている。
  夜もずっと晴れていて、放射冷却があると思っているが、さほど冷えていない。ただ部屋の中は、どうゆうわけか結構冷たい。目の前に下弦の月、これは、もう起きてから見た。お祈りか、すぐには思い浮ばない。

  眠っていて、それで夢を見ている。いい夢、悪夢、怖い夢、嫌な夢、考えられない夢、色々で、いい夢って最近見ない。
  夢の中で、宿題忘れた、なにもやってない、半べそをかくような夢がある。これが、どうゆうわけか長く続いたときもある。きょうの夢は、何かやらないといけないはずのものが、まだ眠っていて、私は、夢の中でも眠っていて、それで何にもしてなくて困ったな、と思って。それで、どこかに出てゆくのだが、そこで何が行なわれているのかよくわからない。これくらい、妙な夢も少ない。学校なら、まだわかるが。
  それから眠っていて、体が痛いというのもよくある。これは夢ではなく、ホントに痛い。寝返りというものをあまり打たないからか、右向いていたらずっと右を向いている。布団も薄い。しかし、この長年使用している布団が一番合っている。あまりよろしくない夢を見て、さらに体のあちこちが痛いとなると、どうしても目も覚めるものだが、まだ眠く、結局眠っていて、痛い、と思っていた。

  起きてしばし呆然、まずはシャツを温めないと。何しろ4℃。しかし、明るい。遅れている。体が痛いのは、きのうは確かに、父の体を動かないように、引っ張っていた。この力は、大人のもので、力を入れないといい、とも思うが、そう簡単ではない。これで、体のあちこちが痛いのもおかしい。これくらいでは、大丈夫のはず。最近は、あっさりと早寝をする。これでは体も弱くなる。そうか、梅の写真のせいか。少し高揚として、体をねじったりもした。それだ、それにしておこう。梅のためなら仕方がない。
  空が明るく、太陽の出る位置もどんどん北側に向かう。真東ではないが、ほぼ真横から、日が出る。すでに剱岳の左側から、太陽は出る。そのうち、白馬岳よりも左側から、太陽は出て来る。この日の出も、また2、3日、見られそうにない。それにしても、窓を開けて、その太陽が出てくるのを待つのの寒いこと。

梅の花は咲いていて

2008-02-28 19:11:41 | 植物・花(春)
  寒い朝で、雪も舞っていたが、なんだか梅の花が少し咲いていたからか、朝のことが嘘のようにも思えるから、困ったものである。
  梅の実についてはずいぶんと先の話しになって、今ここにそのことに付いて書くのは、早すぎる気もするが、他に何かが思い浮かばない。
  梅の実がある。それは、梅酒用ではなくて少し黄色い。そういえば、梅酒のことも気になるけど、それはもう出て来ないかも。それで、黄色い梅で、その梅をまずは、すでにここにあるものとして、それをどうしたか記憶をたどると、まずは鉄製のバケツに入れてしばらく水に浸していた。鉄製のバケツか、トタンのようなメッキのしてあるバケツだった気がする。こちらに間違いない。まだ今みたいに、それほどガタガタ、バタバタしていないから、少し余裕もある。梅干しはあって当たり前で、それを作るとき少し手伝うのも、当たり前でしかし、どうゆう風に作ったらいいのか、それもわからず、確か何かの広告に書いてあったものを参考にしたようである。
  少し古い話しになると、ここにも梅の木があって、それに実もなった。だから、それほど早い季節ではないが、その梅干用の梅ではない、そうゆう梅の実がなる、大きくなるときに、その梅干し作りは行なわれていた。はたしてそのとき、別にスーパから梅干用の梅を買っていたかどうか、はっきりしない。ただ、
  梅干用の梅ではない、その梅の実も小さいが、残らず全部取って集めると、かなりの量になって、梅の実は小さいほど、一定の量で長くもつから、それは重宝された。この話しは、この季節になると書いているようで、あまり繰り返すのもどうかと思えてきた。それを書いてみて、1年前のものと比べて、いかにその変化が激しいか、客観的に自分を見直すということも有益であるような気もするが、ここは、
  一所懸命、シソの葉っぱを取ることをやり、相当な束があった、それでかなり疲れて、その後に灰汁出しのため、塩でもんだがそのときに、すり鉢を使うから、自分の手の皮膚もぶよぶよになって、ときに血も混じった。その血も鉄と塩気を含むからか、なんら悪影響はなかったようである。

  朝の雪のことが思い出されて、それからその雪は次第に溶けてきたようで、つまりはいつの時間からか、晴れ間も出たようで、私の気分はあまりパッとしない。これはこれでいいのだけど、それに外は明るいし、さすがにもう雨やら雪も降りそうになく、でも念のため傘は持って、それからきのう書いた、ガスレンジ用の予備の乾電池も忘れず買うように、お財布も持った。それから毎度のように、ミニも懐中に忍ばせて、そんな大仰な言い方は必要ないか、お散歩ミニをも持って外に出た。それで、引き寄せられるように、少し早めに咲きそうな梅の木のあるところにいったのだけど、予想に反していくつか、2、3の花はまだ完全ではないようだが、花弁を広げていて、これでようやく手の届くところに、今年も梅の花が咲いてくれた、と一安心した。

  ちょっと不安定なところにあって、つまりは垣になっているようなところで、安定してこれをファイルにおさめるのはむつかしいが、そうゆうことは言ってられない。少し背中も熱くなるし、小さな小さな梅の花がうまく写るように、祈る気持ちで、ボタンを押す。かなりの数押さないといけない。これも梅のためなら仕方がない。それで、普段滅多にやることのない、その出来具合をもモニタで確かめて、少し気分も晴れて、しかし空の青すぎる、このときはそう思えて、実際に青かったし、さらに帰って来てかなり汗もかいていたから、その青空も本物であった。
  スイセンの咲いているところ、にも行った。それから、いつもは忘れてしまいそうであるが、ちゃんと乾電池も買ってきて、あっという間にお札が消えていくのに溜息。値上がりひどくない?


  それで、梅の花である。



  一輪だけ、咲いているようなところを選ぶ。それはここしかなかった。枝やらがたくさんあって、なかなかいい場所を探せない。この梅の花の感じは、去年撮ったものとまったく同じ。花の中にゆくにしたがって、黄色が濃くなり、最後は茶色に、が特徴。




  これは、最初は気が付かなかった。花が枝にくっ付いて咲いている。これも、見方のよっては面白く、また花も大きい。この梅らしさが出ている。




  ここは、すでに一度、登場したところ。ここにも、少し開いた花はある。蕾がたくさんあって、なんだかウキウキしてくる。

  スイセンも。



  少しくたびれているが、朝まで雪をかぶっていた感触を振り払っている。

  梅とスイセンの小さな、けなげな、花を見て、少し元気をもらった。

ユキダスとイビキダス

2008-02-28 07:20:11 | 散策
  朝のお天気、雪。ちょっと積もっていて、凍っていそう。風は弱く、穏やか。6時のアメダスの気温。マイナス0.3℃。積雪11cm。室温4℃、この辺りの積雪、やっぱり10cmはありそう。

  「寒いのは嫌だー」。大きな声で叫びたいが、どうも大きな声もなかなか出ない。花粉が来ると、のどもいがらっぽくなってガラガラ声になるが、それはともかく、大きな声というのも出なくなった。昔はピーピー泣いていたからどうもその反動で、声も出しづらくなっている。お前の声ははっきりしない、もぞもぞ言っている、こもっている、なに言ってるかわからない、色々言われる。だんだん、話すこともなくなるというものだ。
  それにしても、寒いねー。どうにかならんかね、お祈りが足りないか。何しろ、お供のものは何もないので、効果はもともと薄い。それ以上のことを願うのは筋違いか。布団を暖めるの一回忘れたが、それからはかなり入念にスイッチを入れたかどうか確かめている。この布団の暖かさは、まことに好ましい。これも、
  もしかして、いつもが寒いから、寒いがゆえに、感じられるものなのか。そうすると、ただの、相対的なものであまり面白くもなく、ありがたみも少ない。

  調子がいいと、朝方の気温がいくら下がっても、一旦トイレにいってまた布団にもぐりこんでも、さほど寒いと思うことはなく、そうゆうときはしかしときに考え事も始まりそうで、あまりよくないかな。きょうは、布団が段々ちめたくなって、もう自分の体温で、布団を暖めることも出来なくなった。寒い、と思いつつそれでも眠っていて、眠っている時間がずいぶん長い。冬眠か、うまく出来ている。しかし、
  やっぱりデプレッシブもある。「何万人の孤独」てな感触がある。どこかの、境界のある、閉じた集合があってその数は、その中の要素は、1000万を越えたといわれるが、そのなかの一つの要素である孤独というものを考える。さぞかし、寒いだろう。そのグループに入ったところで、結局のところはじき出されることもあれば、無視もされるわけで、それならもともと境界のない、開いた境地にいるのが心地もいい。どうゆう風になるのも、その人の問題だし、特に新しい次元を求めなくても、そこには色々な社会の現実が反映されて、その中でもいくらでも仲良くなれるし、またけんかというか、口げんか程度が一番だが、言い合い論戦、いろいろなものが、現実に即したものが可能である。あーまたぐちが出てしまった。

  いびきというと、最近は肥満と関係があって、まことによろしくないものの一つにもされる。そのいびきを聞くことは今はない。ときどき父が、なんでかはわからないが、なにかを歌っている。これは意味が通じなく、だが音楽に聞こえる。これから、想像されるものを紙に書いて、ミソヒトモジにするのもいいようだ。
  肥満で思うことは、お腹周りの大小が問題にされることが出てきそうだ。何を考えているのだろう。こんなもの引っ込めようとすればいくらでも引っ込む。さらに逆立ちすれば、それは、ま違いなく小さくなる。横になっただけで、私のお腹などもぺちゃんこになる。ただ、重力で引っ張られて、それで弱くなった筋肉のせいで、それぞれの組織が垂れ下がるだけの話しである。まったく、お腹のサイズで、なにかを判断するという、こうゆう傑作なことを考える、その精神構造はどうなっているのか、覗いて見たい気もする。

乾電池かい!

2008-02-27 19:07:19 | 散策
  あー寒い。かなり寒く、ウー寒い。あ行で始まる溜息。
  穏やかだが、雪がチラチラ、ときに、吹雪いて、それ以外はどうだったか、曇りのお天気で、気温は上がらなかった。だから、当然寒い。
  少し変だと思わないといけないことが、なんとも思わなくなって、しかし、脳裏のどこかにこれはおかしい、という感じの痕跡が残っていた。はっきりとおかしいことが確認されて、それはどうも、呼び鈴、チャイム、ピンポンが鳴らないようであること。この人くらい腰の低い方を存じ上げないが、水光熱に関する仕事をされているかたで、その方が来られて、どうもすいません、調子が悪いようでうかがいました、と言う。が、しかしどうもワタシンチから、その件について電話をしたことはないようで、同じ苗字のかたは多いから、うちではないようですが、と話した。そういえば、ガスの湯沸し器はなかったですね、そのかたも、冷静である。これで、和んだが、しかし、どうもチャイムの、ピンポンの音が聞こえないのは事実であることが確定して、これは面倒になったと思った。
  どこにチャイムはあるか、これはわかっていてしかしその場所は説明が難しい。高いところにある。その程度の高さで高所恐怖はない。それより、ぐらっと来て倒れる可能性の方が高い。それと、乗っかっている椅子は、それようのものでなく、ちゃんとこの上に乗っからないで下さい、と書いてある。他にも丸椅子みたいなのはあるが、みな同じことが書いてあるが、でもそれしかないから、それで、少し身長を高くして、そのピンポンなるものを目の前にする。中を開けた。さびた電池があって、くっ付いているようで、またいらぬところに指先が当たった。それより、何とも作業のしにくいこと。単二か、危うく間違えるところである。

  電池で思い出したが、今時のコンロというかガスレンジは、さすがにライタと同じ火打石でぼっと火が付くことはない。カチカチカチと最低3回は音がして、どうゆう理屈か知らないが、電池を必要とする発火装置が働いて、ぼっと火が付く。だから、ときに、その電池が、乾電池である、なくなったときなど、その代わりにそれこそライタを使ったり、マッチも使ったりして火を付けたりしたものだが、それが今も有効に作用すると思っていた。きのうか一昨日までそう思っていたが、またレンジのコンロの火が付かないというので、仕方なしにその電池をはずして、ちょっとごろごろさせたりあるいは、ヒータで暖めたりして、またカチカチカチという音はして、ぼっと火が付くがどうゆう訳か、またその火が消えて電池交換せよの、ランプが付く。
  はて、なんでやねんとなるわけであるが、何度同じことをやってもランプが付いて、火は付かない。付いていた火が消えるのである。ようやくわかった、今時のコンロというかレンジは、電池がある程度ないと、そのガスは消えるようになっているのだ。何とも、安全性の代償というと変かも知れないが、電池で安全を確保していたのである。そうか、知らなかった。今どきのレンジは、常にあるレベルの電圧と電流が規定に達しないと、他はよくわからないが、それは動かない、働かない。よって、もしも停電などになって、いつでも使える暖房、熱源と考えていたコンロも、電池がなければ、ただの石みたいなものなのである。書いていて、これは慌てて、もう一度、予備の電池、これは単一である、を買っておかないといけない、と思う。

  しかし、なにがしかし、か、世の中もむつかしい御時世になったものだ。それから、電池にも、乾電池であるが、色々種類があって中にはびっくりするような値段のものがある。大体、定価があるのに、その値段が明記されなくて売っている場合も多い。一番困るのは自然放電であって、どこにも何にもつながっていないのに、電池というものは放電していて、そのうち、それは電池でも何でもなくなってしまう。一体それはどうゆう形で、どうゆう色で放電されているのか、それを目で見てみたい、などとも思う。枕の後ろに懐中電灯があるが、これがほんまに必要なときはまだ来ない。それをときどき使う。寒いときはふっさくる。そうすると少し明るくなったりする。はたして、この懐中電灯に入っている電池、いったいいつのものか、これも調べたみないといけなくなった。

  雪が降って少し積もっている。止んでいる時間も長いが、春は遠く3月になってもたぶん寒そうで、雪もある。




  フキ。どこからが「フキ」かわからないが、かなり大きくなったフキで、パンクしそうでしない。雷が鳴ると、この固い蕾も開くと思われる。




  梅も変化がないが、ちょっと開きそうな気配はある。




  同じ時間に撮った紅梅であるが、一輪開き始めた、左上、ようで、これは目で見ていてわかった。先にこちらの花が咲きそうで色も、かなり赤味がはっきりしている。

雪と、明るい空と、カラスと

2008-02-27 07:14:35 | 散策
  朝のお天気、晴れ間もあるが雲が優勢で、曇り。風は弱く穏やか、そして明るく静か。アメダスの6時の気温、0.3℃、積雪は0cm。室温、5℃。この辺りの雪は2、3cm、多くて5cm。

  瓦に雪が残っていて、また目線を上にすると白いところがかなりある。雪は、日付が変わるころには、すでに降っていてそのころのアメダスの積雪も1cmとある。風がその嫌な音をたてなくなったのは午後も夜も遅くで、それで雪になったようだ。それにしても嫌な雨と風であった。この風も、ときに大いに期待される。その内、またどんよりした空気の動かないお天気になることは、これもまた間違いなく、いかにも汚れている感じがする。隣の街がかすんで見えるということは、お隣から見てもこちらの方が、黒く薄汚れて見えているのに違いない。そうゆう時もあって、この風こそ期待されるが、きのうの風はいただけなかった。あまりに寒すぎたのである。

  晴れると、やけに空が明るくなっている。きのうと違って、もう空は十分明るく言うことはない。この空を見上げていると、南東の方角から飛んで来る鳥がいる。それが、ときにトビであることもあるが、多くはなぜかカラスである。カラスは、山から来ることになっているがその方角には、山というか丘は確かにある。河もあって、それから、ビルと空き地と工事中と、民家のある、街もある。このカラスの移動というものも、いつの時からかわからない。ぽかんと空を見ることも最近始めたことで、それ以外は、ただ外を見て天気がわかればよかった。今は多少なりとも、なにか変化があれば、懐中から何かが出る時もある。暖めるものである。
  そのカラスであるが、なかなか賢くかつ簡単にふわりと空に飛び上がる。人とカラスは、なかなか仲良くなれないが、それだからカラスの歌も歌われないのかね。カラスも大変で、ある方の映画には、恐怖の正体として登場する。そのカラスであるが、きのう雨風の中を歩いていて、少しその涼しさが増したのは、このカラスが、雪解けの水で行水をしていたからである。カラスの行水とはよく聞くが、本物を見ることはなかなか少ない。この寒いときに、一羽のカラスはきれい好きなのか、虫酸が走ったのか。もういいと思ったのか、一旦プールから出て羽から水を落とした。こっちも震える。しかし、このカラスはきれい好きで、その虫酸がおさまらなかった。もう一回また水たまりに向かう。それ以上は寒くて見ていられない。

  夕空が、実に身にしみる美しさを醸しだす。まったくの無垢なその薄赤い色を見ていると、赤子のほっぺたをも思い出す。そして、ただやけに、面の皮だけが厚くなって、自分で見ても何とも不気味な、容貌魁偉ともいえる、この言葉は一回おぼえると何度も使いたくなる、顔が鏡にあることをすぐに思い出した。これでは、カラスも逃げてゆく。その紅い、ちょっと感傷的にもさせる空を、カラスの大群が、南東の方向へ飛んでゆく。朝にその方角からやって来たから、やっぱり南東の方へ帰ってゆくのだろう。その先にねぐらがある。このときのカラスは、ただの黒い鳥で、ヒチコックをも、思い出すことはない。眠るところはまだあるのか。そうゆうことを思う。自分の眠るところも、どうなるかわからない御時世である。  

冷たい雨風のときは

2008-02-26 19:11:37 | 散策
  少しずつ、日が長くなるが、寒さとか、雪とかは、まだまだ続きそうで、こうゆうものは何とも思わない方もいれば、寒くて、寒いのは勘弁と、内心思っている方も多い、そう私は思っている。寒いのも時にはいいが、ある程度限られた期間ならいいが、やはりそれ以上は、ダメージなりストレスのもと以外の何ものでもなく思えるから、やっぱり、最後は早く暖かくなれ、と思う気持ちが強い。どうしてこんな寒い思いをするのか、これは気温の問題だけではないだろう。
  何かと比較して、例えばより寒いところ、は簡単にわかるけれど、そこに比べると、プラスの気温は暖かともいえる。そう、それほど、いうほど寒くはないし、より寒いところにいる方と比べると、その差は歴然としている。同じ人だから、そのくらいの我慢は出来て当たり前だし、気温がプラスであることの感謝もしなければいけなくなる。こうして、長い間、寒い冬を過ごしてきたような気がするが、これが暖冬ともなれば、またそれはそれで、調子が狂う。結局のところ、なるようにしかならないものか、あるいは、諦めるのはまだ少し早いか。この辺りで揺れている。

  それで、話しは非連続的で、断片的で、この寒いときに、わざわざより寒い外を歩くべきかという、悩ましい問題が生じる。外にいる人もたくさんいるのに、そうゆうことを考える。少し前は、まずは歩かないとね、と言われたことを理由にしていたが、それはかなり昔のことになった今、それを判断するのは自分である。健康ではなくて、健康のためでもないような、外歩き。ただ、散歩という観点から考えてみる。外の気温はどの程度か。雪ではない。幸いかどうか、雨も小ぶり。風だけが少し心配で、しかし落雷の可能性もなさそうである。大体、小学生だって学校へ行っている。まったく、
  しかし、こうゆうときに、健康ではないが、健康おたくでもないが、さてどうするというとき、老化がどうの、ということが頭の隅に残っているというか、引っかかる。歳とともに、変化が怖いというもので、よって、歳を重ねるごとに、日常の習慣行為は、続けられる、というものがあるのだそうだ。そうゆう風になる要因の一つに、続けないといけないという恐怖心があるという。繰り返しだった。さらに、ある行為を今日もやったという安心感も必要になって、この作業が止められなくなるともいう。ウーン、そのとおりかも知れない。特に、健康など考えてないし、検査で要注意の項目などざらであるが、それとは関係なく、歩かないといけないとも思うし、歩いてきて、どうにか大丈夫だった、など大仰にも思う。

  心配ごとは多い。なかなか書けないことも多いが、ふとこのごろ、マウス、ハツカネズミのことではなくて、PCで、カチカチやる方、の調子がよくない気がする。これも、ときに掃除が必要だ。いっとき、その中が綿ぼこりだらけになっているのを経験した。しかし、それを分解するときは、問題がある。基盤は問題ないが、くるくる回るものと、それを支えるプラと、さらに適度に反発力を与えるスプリングが入っていて、これらがバラバラになると、その後に、あれはどこへいった、という大問題が起こる。ものが小さいし、転がるし、跳ねるし、一旦離れ離れになると、知恵の輪より、元に戻すのが難しい。これをやった。
  案の定、まずは考えられないが、まあるいリングが消えた。これは掃除機の中から出てきた。ついに、スプリングとプラの部品と、それと、まあるいリングが離れ離れになって、この寒いときに途方にくれたが、今ほとんどマウスで動かしているPCを使っているという現実を考えると、神様がそのマウスを元に戻してくれたとか、いいようがない。さらに、カチカチいわせると、それに対する反応も少しよくなった気がして、少し生きた心地もする。

  寒い中、まだまだ寒い思いをするが、それよりまた明日の方が冷え込む可能性が出て来た。冷え冷えして、ある程度時間がたつと、また嫌なことが強く思い出されるが、それに冷静に対処することしか方法はないことがわかる。それが結果として、理不尽なことに対する一番いい方法で、逆にいうなら、それが一番効果のある対処方とも考えられなくもない。




  ネコちゃんの人気はすごい。それで、これは失敗作だけど、何しろスイセンは、あまりに下を向いて咲いているし、適当に方向を定めるが、結果はこのようなものが残った。ネコの目線で見たスイセン?。




  かなり接近してのタンポポ、中央のものは見えていたが、少し上にもそれがあった。これなども、かなり低いところに目がないと、見えないものである。  

富山地方鉄道・宇奈月温泉行

2008-02-26 10:03:11 | 鉄道
  おはようございます。ちょい鉄のレールです。
  富山地方鉄道というと、私はどうしてもガタンゴトン揺れて走る
  市内軌道の、ちんちん電車を思い出すのですが、
  やっぱり本線のことを忘れるわけにはいきません。

  この日は、というかこの時間帯は、最初は、1編成だけ駅に
  止まっていて、寂しかったのですが、この後、わずかの時間に
  何本もの到着電車があって、いっときは4番線まで
  全部埋まる時もありました。これはなかなかよかった。
  でも一応、入場券も購入したので、当然かな?。

  本線を走る、普通・宇奈月温泉行の発車。



  ヘッドライトが付いて、発車まじか。3番線です。




  ここまでに、何枚か撮りましたが、ここは音があれば、最高ですね。
  クロスするレールの多いこと。これが好きなんですね。




  まだ、レールの交差するところで、ガタゴトいっています。
  先頭の方を見てもらうと、ちょっと変でしょ。先っぽは、JRの金沢行です。




  金沢行の顔が見えました。駅には、色々なものがあって、
  なにが何やらわからないのですが、こうゆうときは、
  どうしても車両が優先されて、ちょっと邪魔にも思えます。
  ガタゴト、各駅停車の宇奈月温泉行の旅は始まりました。


  時間的には、こちらの方が早いのですが、旧西武鉄道の5000形。



  16014ですね。ものすごくゆっくり走っているのですが、うまく撮れません。
  顔が、真ん中にあって、左右のどちらかにその後ろが続いて、
  というのが多く、「鉄」はむつかしい。これはかなり練習しないと、
  ドンと来るものをものに出来ないです。    

植木鉢に、水。

2008-02-26 07:12:35 | 散策
  朝のお天気、雲り。ときに、ぱらっと雨が降る。外を見るが、全天に雲があって、木の枝が揺れるときもある。アメダスの6時の気温、5.8℃、積雪は0cm。室温6℃。それから、この辺りの雪は、まだまだ残っている。
  長く眠っていて、それはいいが寝すぎるとどうも体がもたつく。あれはどこへいった、ということが多発する。ここで肝心なことは、一番最初に着るものをヒータで十分に暖めることであって、これがうまいこといくとその後もマーマな気がする。6℃はやっぱり寒い。厚めのシャツから、湯気が出てくる。燃やしてはいけない。ちょっと熱いのが、首筋にゆき渡る。この感じが最高である。

  後は、またゼロからのスタートで、ここの灯油ヒータはきょうは3℃を示していて、少し鳥の鳴き声にも元気がある。そういえば、きのう餌不足に苦しむヒヨドリが木の枝に止まって、なにかを必死に飲み込もうとしていた。それは、どうも何かの花でも、また実でもなく、枯れているアジサイの一部のような気がした。それは、見当違いの可能性も高いが、アジサイの枝をつつく、ヒヨドリを見ている。ことしは、なぜかいつもはたくさんの赤い実を付けるモチノキが、その実を赤くしない。よく見ると、青いままの実はたくさんありそうでしかしそれが赤くなる気配はない。たくさんのサザンカが咲いて、ぽろぽろと花弁を落とすが、これなどもどうしてヒヨドリは食べないのか不思議。のっこめないのかも知れない。

  地面の草も、今年はまだ生えていないところが多い。似ているね。植木鉢に去年植えた植物のことをたまに思い出す。そこは雪は当たらないし、ときに日がさすから、ちょうどいい場所のようであるが、しかし忘れられる場所でもある。そこの植木鉢を、何度目か、今年に入って、見てみると、まだ緑の植物はあって、しかも元気そうである。アカンかと思われたものも、緑緑して、一部は虫に齧られている。しかし、かたそうな葉もあってそれにはさすがに齧られたあとはない。少し土が乾き気味で、プラの桶に水を汲んで、ザーッとかけてきた。4度目くらいである。今年になっての水やりは。これも、下手にやると凍ってしまいそうで、これはしかしへ理屈のようだ。もう少しで、雪も降らなくなる。あるいは多少の雪では、へこたれないものにもうなっているかも知れない。そうなると、今度は大きくなる可能性もあるから、この鉢では小さすぎる。どうするか、それはそのときに考えよう。
  そういえば、この植物のタネはまだ余っている。さらに、セキチクのタネもあるが、これなどももう蒔いておいて問題ないようであるが、また雪のときがあるし、このタネ蒔きは4月くらいでいいか。

  パンを齧りながら、きょうも大して書くことはない、どうしようと思っていたが、表層のものがよみがえってきた。何かしら、書くことは出てくるようだ。

日の当たる場所

2008-02-25 19:04:58 | 植物・花(春)
  朝はかなり寒く、それから、見えていた月も、空の中に消えていって、先ほどの月の姿は本物だったのか、キツネにつままれたのか、など思ったりする。
  寒い中、寒い思いで体を動かす。思い出されることはいい事だけにしておくこと。そうでないと、どうも顔付きがよろしくない。鏡に写る自分を顔を見ると、恐ろしくなる気もするから、これはどうしたことだろうか。何かがのりうつったのか、それにしても自分の感情とかなりかけ離れている表情がそこにあって、それから、血のつながりのある人間を想像する。
  いつの時間か曖昧だが、かなり寒かった朝も時間ともに暖かになる。お天気のことなど少し前に見ていれば思い出すこともあるが、そうでないと、ホンの少し前のお天気も忘れてしまう。日が出ていたような気がする。そうゆうことにしておかないと。寒さも、彼岸までというが、その彼岸までまだ一月はある。これからも、また寒くなるし、春も名のみのものと昔から決まっていて、暖かい冬が来れば、その後の春は寒い。
  何か、変化があればそれに対して、元に戻ろうとする力が働くのは必定のようである。温暖化が普通の出来事のようで、そうでない方向に力が働くことはないように思えるが、それは別の問題として、その力が目に見えてくるのではないか。ただ、地球の温度が上がって、氷が溶けてという直接的なものだけではなく、すでに過去に現われているかも知れない、忘れ去られた形の力も、現われてきそうである。

  外は青空であって、しかし着ているものは真冬のそれで、これでちょうどよかった。風も弱めである。雪は、また新たに積もり、一部は道の真ん中にもある。それが日に当たって溶けている。きのう歩いていたら、噴水が激しかったが、今日はさすがにそれはない。それから、ふと体を真っ直ぐに伸ばすと、目の前にある、ある梅の木に、小さな白い花が、一つ、二つ咲いているのを見て、ことし初めて見る梅の花だと思った。探してみればあるものである。道路の南側に面していて、その木はかなり高く、また花も高い枝に小さく咲いていて、これはもしかして、猫背のままなら見つからなかった。これに少し元気をもらった。それなら、もしかしてと。もう一つの梅の花が咲いている可能性のあるところに、それは歩いている道を少し変えればすぐに着いてしまうところで、こっちを歩いていても、必要とするエネルギ、カロリでいえば違いはない。そこに行くと、予想より梅の蕾は大きくなっていて、行った甲斐があったというものだが、しかし、ほころび始めているというのが精一杯の言葉である。

  背中が熱くなるのがだんだんとわかってきた。何しろ、真冬の格好でしかも北側に向かって歩いていて、背中に、あと一月足らずで春分を迎える太陽の光を浴びているから、それも当然であった。このまま、北に向かうと海に出てしまう。ここはかなり手前で180度回転して、南へと向かう。そうして、大したことのない、ちょっとした運動をしたわけだが、汗をかいていた。で、
  新聞を見るのは、夕方というか、もう夜である。さらにTVの画面を見るが、近くのところで、高波の被害が出て、なくなられた方もいれば、大きな被害を受けた方々も多い。これまた、どうしてと思う。ごく近くで、海水の浸水の記事も出ている。そういえば、少し前に帆船が座礁したこともあった。なにも知らないで、きのうも外を歩いていた。自分のいるところは安全と思っているが、いつ何時、自分がそうゆう被害にあうかわからない時代になった、とあらためて思う。




  オオイヌノフグリのちょっとした群生を見つける。この青さはよすぎる、本物と遠い。




  膨らんで来た、梅の蕾。この大きさは、一番合焦しにくいもので、その中に、2、3枚いいのがあった。日当たりがいい場所、そういえば、まわりに比べて風も穏やかである。




  そのときはわからなかったが、ちょっとだけ開きそうな蕾もあった。もう少しであるが、ここからがまた大変で、この先のお天気次第というところである。