光年・千年

纏わりつくが、纏まらないおはなし、日記ふう。

寒風・青空散歩

2009-02-28 18:55:41 | 散策
  空の明るさがあり、日も出ている。きのうは日が出ている時間はなかったような感じがしたが、これが間違い。ちゃんと夕方、その明るい、まあるい、光の玉があった。これなどは、写真を見て思い出すことになる。でも、きのうの夜は、星空はなかった。
  土曜日はこのところずっと雨か雪というお天気で、これも何かの巡り合わせというか、しょうがないことで、その逆というのも当然ある。忘れているだけであって、それで印象が深い。今日は晴れだが、しかし午後から風が強く、この風は海に近いほうだともっと強いだろう。住んでいる場所によっても、またその風の強さは違う。今風が、また花粉を運んでいる。これはもういいか。

  ごろごろする時間は終わった。風の子でもないけれど、外に出てお日様に当たらないとというときでもないが、今日くらいは多少は日に当たったほうがよさそうだ。目からくる明るさが、体の動きにも影響を与えるだろう。多少は弱っている体だが、もっと傷んでいるかも知れないが、それはそのときで、歩くのは日常のもっとも普通の運動だから、これには特に問題はない。それよりも注意力というか、回りの変化にちゃんと対応できるような機敏さはこれは要求される。車が来る。体をどけるスペースのあるところに急ぐ。信号を渡るときは、左右だけではなく、前後も見る。後ろから来ている場合がある。こうゆうものを判断できないと、危なっかしい散歩になる。時代から、のんびり感は大体なくなってしまった。
  もっとも、ミニカメさんを持つこと自体も、何かにせっつかれているようで、ほめられたことではないだろう。この辺りは苦しいいいわけが続く。

  いつもの道を行く。時も変化するが、道も変わり、地面も変わって、また建物も変わり、人も変わる。時代は否応なく変化を要求する。で、そのことに気付くことなく、あるとき、ふとこんなことがあっていいのか、自分の年齢を知って驚く。いつの世も、ウラシマさんはいる。いやーな感じが誰にでもあるが、しかし生きている以上、若返ることはなく、また長く生きれば生きるほど、老化の長い階段を歩かないといけない。なんとも背反するものがある。それに、気を取られすぎてもだめ。またそのことを考えなさすぎるのもだめ。いつか、そのときは来る。しかし、この覚悟は、出来ません。こんなことを考えるのを止めるために、寒風下の青空散歩はある。
  
  オオイヌノフグリが、さらにまたその花弁を増やしている。驚くべき生命力で、この花は疲れを知らない。小さな青い花をいくつも咲かせて、しかし枯れることはないようだ。特に、種を播かなくても、いつでもどこにでも咲き誇っている。もっとも、よりたくさんの、オオイヌノフグリの咲く場所がある。大体が、日当たりがいいところ。もっともなことだが、この花がなぜこれだけ辺りに謳歌するのか、それもよくはわからない。

  ここを見ていると、梅の花もあるが、今年はここの梅はまだチラホラ、そこに赤い、小さな虫がいた。テントウムシで、ナナホシテントウのようである。チョコマカよく動く。これを見つけると、ようやく虫の世界も春が来たと思う。もっとも、テントウだと、1月でも暖かいと、また晴れると、その辺りにいるのが普通。今日は、もう一匹もすぐに見つかった。でも、何を食べているのか。で、花の葉っぱの写真というと、何も葉っぱ以外は写っていなくそうに見えて、実は小さな虫のようなものは、よく見かける。すると、アリマキもいても不思議ではない。テントウの、チョコマカと動く姿を見て少し元気になり、遠回りもして帰ってきた。

  でも、なんだか、目が痒い。それに鼻もやはりグズグズ。もう花粉のことは、書かないのだった。でも、やっぱり帰ってくると、いろいろなゴミというか、塵というか、そうゆうものにもみくちゃにもされているという感じは強い。若いときはこんなもんは、まったくなかった。最近は、もう地球温暖化は決まったこととして、その対策が日常になりつつあるが、昔の公害といったものはさておいて、地球環境はきれいかというのは、なんだかあまり言われることはなくなった。温暖化も、この汚れと大いに関係があるのだろう。温度だけではなく、環境全体に注意を払わないといけないが、
  それとこれとは、少しあるいは大いに論点が、違うかも知れない。きれいな、というものの本質はむつかしい。




  空に向かって咲くオオイヌノフグリだが、その先の空も明るい。
  中央少し右に、黒いのと赤いのの丸いものがあるが、これがナナホシテントウで、しかしこのときは気が付いていない。




  テントウムシの動きは早い。これを追うように、カメさんも動かす。下に見える白い中央が黒い小さな点が、ナナホシテントウ。




  それより、やはり、オオイヌノフグリの青と、空の青のほうが、よかったようだ。爽快である。




  順序でゆくと、次はアネモネ。この紫というか青紫の花は、まだ小さい。




  タンポポも今は探さないとなかなかない。ようやくあった三兄弟のうちの、真ん中。




  その脇に、冠毛もある。少しほっとする時間である。

オウレンの花と、光と

2009-02-28 16:30:25 | 植物・花(冬)
  北風で、晴れ。快晴は朝で、今は薄い雲がある。
  西の空は、春霞がかかっているが、これが霞か、舞い上がる
  細かい塵か、あるいは黄砂か、はっきりはしない。
  段々と視界が悪くなって来ているのは、事実。
 
  なかなか落ち着いた晴天は続かない。
  外の風が少し強い。強くなってくる。
  すると、暖かそうな空があるが、実際の感じは、結構に寒い。
  少し早足になって、それで、風の来ないところを探して
  そこで、一服する。

  花粉は飛んでいると思う。この時期、空気はきれいな気もするが
  花粉症だとあちこち、ぐずつく。目といい、喉といい、それから
  頭全体がモヤっともしている。目玉も洗いたいくらいだ。
  だから、なんだか歩いていると、汚いものが纏わり付く感じも強い。
  散歩はいいものだが、同時に、汚れたというものも、一緒になる。
  おかしいかも知れないが。


  花はオウレン。




  光が当たると、なかなか美しく、これを撮る。一番むつかしいもの。




  光の束が大きいと、こんな感じ。これでもいいけど。




  明るいと、なかなか近づけないところのものも、薄っすらその様子がわかる。




  オウレンらしさ。




  近づけないものを、別の角度から。明るいとこうゆうことも出来る。




  目の前の、ぽつんとあるオウレン。ボケの程度。




  最低、2箇所くらいの、焦点域で撮らないと、全体はわからないかも。

晴れの土曜日

2009-02-28 06:44:32 | 散策
  朝のお天気、晴れ。ほぼ快晴、まもなく東に見える北アルプスの高峰の頂から、朝日が出そうで、まことに美しい景色がある。きのうとは大違いで、もしかしたらきのうは太陽の顔を見なかった。今朝は少し寒い、また風もある。アメダスの6時の気温、2.6℃、気圧は1022.2hPa、湿度、85%。室温、7.5℃、ほどほど。
  
  2月もおしまい。28日は土曜日だが、土曜の空はずっと曇りか雨だったはず。今朝の新聞はかなり厚く、郵便受けから引っ張り出すときの、感触が違った。それから、外にも出てみたが、空は晴れている。晴れて、星はというと、すでに明るさがあるから、わかったのは、うしかい座のα星である、アルクトゥルス、これ書くのはむつかしい、昔はなんか違う呼び名ではなかったか、くらいである。北斗七星ももう見えず、あと3週間に迫った春分が、これからはもう朝も明るいことを暗示する。星が見えるのもいいが、これからは、朝の光が満ちている時間に起きることになる。

  その前に夜があった。花粉はというとこの影響はある。しかし、鼻うがいも、普通のうがいも、また歯磨きもしていて、特に苦しいことはない。目の方はというと、これは顔を洗うときに痒い。それ以外の時間は、まだ大丈夫である。しかし、なにか鬱陶しいものがあるのは間違いない。
  夜中に起きるのは、普通で特に苦にもならない。またくせで、外を見る。きのうから今日にかけて、空を見上げる時間は何度かあったが、今朝になると、空が晴れているような感じがあって、しかし星はまったくといっていいほど見えない。雲がかかっていれば、これは無理だが、しかし見えてもよさそうな空である。しかしここは、雲で星が見えないとしておいた。こんなことで悩んでも仕方ない。
  夜の星はなかったが、朝の太陽が出て来たようだ。このほうが、どちらかというとありがたみはある。

  珍しく、土曜でしかも晴れた。2月はおしまいの日は、晴れで、これはよかった。なにかお願いでもしておかないといけない。

梅尽くし、梅三昧

2009-02-27 18:53:47 | 散策
  毎日、鬱陶しい話しを書いていて、これはいけないと思うが、それにはそれなりの理由みたいのもあるが、これもしょうがないもの、順番で来るもので、これから逃げるわけにもゆかない。で、なんだかわからないが、冴えないことを書いている。苦しいような、その反発で書いているようなところもある。この反発のエネルギというのもかなり強力で、下手に溜めてもいけなく、徐々に薄める必要がある。そう思う。ダイレクトにそのことを書く方というのもあって、なんだかわからないようなことを書くのも一つ。それ以外は、勝手に想像というか、思いに浸るというか、昔はこうではなかった、というようなことを思い出してみるのも一つで、これは、出来そうで、出来ない。

  それで、今は早い気がするが、ある梅の木は、もう満開で、あるものはチラチラで、あるものは咲かない。色々ある。梅の花に、黄色いものがあったらと思うこともあるが、この現実感はない。花の話しも詳しくはないので、ここでは食べ物のほうが面白そうである。梅というと、まずは梅干しで、昔は皆ご家庭で作ったもので、昔むかしでいうと、ここにいたご先祖様のものがあって、これが入ったおにぎりというものは、おいしい。大体、味噌汁の味噌にしろ、漬物にしろ皆自家製で、「おいしいでしょう」と、この土地の言葉でご先祖様は、いった。特に、自慢げでもなく、恐らく他の家庭でも皆同じだった。ただ、そうゆうものを食べていない、より今に近いところで育ったものだから、これはおいしいの一言である。

  梅干しとか、梅酒とか、梅酒は最近は余り飲みたいと思わないが、あれば飲むという感じで、しかし少しでいい。梅酢というのもあって、これはお酢に梅を入れたもので、なんだそれは、梅をどう思っているといわれそうだが、「梅の酢」というのもあった。お酢にしろ、アルコールにしろ、その他いろいろにしろ、どのようにするのも本人の勝ってで、たださすがに梅の酢は、梅の持つ酸味、有機酸のありがたみを消してしまう。これは、もったいないの一言。梅酒は、省略して、

  梅干しというと、昔、かなり今に近いと、ここにある梅の木の梅の実を、ほぼ根こそぎちぎってというか、もっと手荒い方法で、梅の細かい実を取っていた。梅の花をここでもう一度思い出すと、梅の緑はあるが、梅の実を見にいくということは意外に少ない。すでに刈り取られてどこにも梅の実はないからかも知れない。梅の実の見物は、この感覚からいうと贅沢なお遊びということになる。
  で、その小さな梅はッ、昔のバケツに一杯になって、梅以外のシソは、結構たくさん購入した。さほど値も張らない時代だった。これの葉っぱを取るというのがまずは大仕事で、これをやるとしばらくの間シソの赤いというか、紫というか、シソ色いうかで、爪の中まで染まったような感じがある。このシソの葉っぱをちぎった後に、塩で揉むという作業がある。これも余り詳しく書くと、梅干しも食べられない。どこで揉むかというと、すり鉢で、である。予想するのはさほどむつかしくはなく、手の一部というか、そうゆうものもシソに入っていったようだ。

  その時間が過ぎると、こんどはいつに梅干しが食べられるかとなるが、それもやらなくなって、時間がたつから、忘れてしまった。作らなくなると、もうこれは食べるのは「だめ」ということになったようで、その残りがどこかにありそうだが見たい気もあまりない。でも、梅干しは今も出れば食べたいと思うが、高級食材になってしまって、よっぽどの安売りをしているときくらいしか、買うこともない。
  梅も、今と昔ではあまりに違いすぎて、なんだか寂しい。

  ここにあった梅は、一本は手荒いことをされて、実を取られたからかどうか知らないが、今は跡形もない。不思議なもので、私なら枯れていてもそのままほっとくが、どうもそれは気に入らないという人がいて、切られてしまったようだ。もう一本、ここに昔から知っている、ずいぶんと古い梅があって、これは昔の、今はない、茅葺のいえの、ある位置の目印にもなっている。そのいえの写真とかも探すとあるかないか、はっきりしないというくらいのもので、惜しい気はしないが人の記憶はいい加減だから、この梅の木の位置は、重要なのである。最も、このことを思う人は私以外にはいないはずだ。この梅の花は今も咲いている。木自身はかなり大きいが、日当たりは余りよくなく、これはこれでいいかと思う。
  木というと今は、半分以上は邪魔者扱いを受けて、大きくなると、あっという間に切り倒されるのがおちである。たしかに大きくなるとどうしていいやらわからないから、ただただ黙っているしかない。しかし、梅の木だとさほど大きくはならない。途中で切ることも出来る。今あるものは、まだ切らないといけない大きさではない。これも、そのうち切られる運命にあるのか。それより、梅の実も背より高い位置に出来て、取るとなるとこれも大変。そのままであるが、梅の実も取るべきなのかどうかもよくはわからない。





  朝、お医者さんに出かける用があって、このときに雨になったが、小雨だから、枝垂れ梅をもう一度撮らせてもらった。色が不安定で、これは設定を変更したのは失敗だった。




  これだけ、花が咲くと、実もたくさん成るのではないか、想像に難くない。




  いつもの白梅。ことしは、この梅も早く咲いた。また花の数も多い。この梅の実はどうなるか、じっと睨んでいたことがあった。まだ緑のきれいな実が付いている、と思ったが、やっぱりある日、突然なくなった。




  縦に長くなり過ぎた。見る角度によって、疎と密が出来る。




  早くから、花を開いた、上の白梅と一緒の場所の紅梅。毎年だが、水気が少し足らない気がする。




  そんなに設定を変えていない。写す位置を右側から左側に変えた、その程度の変化だが、色的にはずいぶんと明るい赤になった。梅干しの色と言えそうだが、この梅の実はどうなるか、これについてたしかめた記憶はない。

もう一つの春の花

2009-02-27 16:26:51 | 植物・花(冬)
  朝は曇りで、このままずっと雲ると思っていたが、
  シトシト少しの時間、小雨。小雨でも、これは雨。
  鳥の落し物でも、スズメの涙でもない。

  外の気温というともう少し暖かければと思うが、
  さほどは寒くはないが、2月も終わり、という時期にしては
  寒いほうだと思う。2月は明日が最後だが、先ほどまで
  きょうが28日と勘違いしていて、思い違いも甚だしい。

  春はもう来ているのか、あるいはまだなのか、
  それで、もう一つの春の花というのも、変な気がするが
  いいタイトルはなかなか思い付かない。




  アオキの花の芽はずいぶんと前から出ているが、小さな花はまだ出ない。
  空気の玉がたくさん出来た。




  イチョウ。苔の生えている、あのイチョウ。イチョウの細かい、
  これは葉っぱの芽が出ている。イチョウの花はなかった?。




  こうゆうものが目の前にあると、さすがにドキッとする。
  たぶん、カエデのはずだが、秋まではこんな姿ではなかったと思うが。
  他の木かも、これはそのうちはっきりする。




  ようやく咲き出した、白梅。芽の数が多いから、きっと長持ち。




  長く咲いて、何度も足を運んだ。ここにゆくのに2回、木の枝に頭をぶつけた。




  オウレンで、失敗写真だが、これもありかと思って。本日のオウレンは
  皆といってもいいくらい、失敗だった。

曇り空と北風

2009-02-27 06:48:17 | 散策
  朝のお天気、曇り。風はきのうから北風。天気は曇りで、これからは、たぶん雨。近くでも晴れの予報もあるが、何が違うのか、こちらは、のち雨となっている。アメダスの6時の気温、3.3℃。この気温は、春かも知れない。気圧は1020.6hPa。湿度、88%。室温、8℃、もう少し暖かいと楽だが。

  天候の変化が激しく、また花粉も飛んでいるようで気分も落ち着かない。腰の痛みというか、体全体の硬さもあるのだろうが、少しよくなったと思うが、また体を動かすと、その反動か痛みというか、つらい感じで出て面白くない。動きながら直すつもりだが、思うようにはいかない。しかしきょうは、不思議と朝の目覚まし時間まで、夢を見ていた。起きて、しばらくするとまた目覚ましは鳴った。なんか翻弄されている。

  時計というと、腹時計は最近は余り活発ではなく、それ以外だと時計を見る時間も少ない。腕時計もはめているのは格好だけでこれを見ないときも多い。でも時計も大切といえば、大切で、最後はこれの判断を仰ぐ。
  同じ体内時計でも、PCの時計とかカメさんの時計があって、これが自動的に補正されることはなく、自分で毎日でもあるいは気が付いたときに合わせる。PCは、これはその手段がコマンドにあって、特に難しくはない。2秒くらいの精度で合わせることが出来る。カメさんはというと、これが面倒で

  まずは説明書見ないといけない。それから、大体0秒、例えば、7時10分00秒を待たないといけなく、多いと40秒とかの時間差がある。他が間違っている可能性もある。日付くらいはあっているが、1時間違っていた。これは初期化のときにあり得る。一回正しく合わせると、よっぽどのことがないと、1年くらいで多くて、2、3分くらいの変化がある。そのくらい遅れたり進んだりしている。これは少し困るので、電波時計を見て合わせる。
  カメさんも多機能化が進む。ケイタイも電話ではないのではないかという気もする。カメさんに電波時計は載らないか。

  今日のお天気は、春寒い感じで、これでは元気出そうになく、それはそれでまたいい。

淡い春の晴れ間

2009-02-26 19:02:36 | 散策
  先ほどまでは、ようやくの春の晴れ間が出たと思って喜んでいたが、それくらいしか嬉しいと思うこともないが、その晴れ間もなぜかまた雲によって、かき消されたようで、この後のお天気は晴れのはずが、少し調子が狂った。春だから、ということか。
  2月は、4週間しかなく、もうすぐ3月になる。段々と時間がたつのが早く感じられる。もう少し眠っていたいと思うときは、よく眠っている証拠で、何度も目が覚めるのはありがたくはない。まだ、こんな時間かそうゆうときもあるが、残りがまだこれだけの時間があるという、余裕があって、それはそれでいいかも知れない。

  なかなか春の実感はつかめない。カレンダの日にちこそ少ないものの、冬のようで、早春のようで、早春に慣れると、少し寒いだけでもまた冬に逆戻りだ、とか思う。そんなことより、1年は大体、人にとって同じように感じるはずだけど、段々と短くも感じられるようにもなるから、不思議なものだが、これもまー順調なせいであって、一時お医者さんで待たされれば、時計の進み方もおかしいと思う。その他、普段はすいているお店で、人が並ぶとこのときの時間の進み方もまことに遅い。次のバスを待つというのは、滅多にないが、頼んだ車が来ないときはどうなっているのか、そわそわもする。いずれにしろ、どっちだというと、時間の立ち方が早いというほうが、幸せであるというのは、正しいようで、またそれゆえ、その時間が短く感じられる。

  晴れ間も出る時間で、手元の引き出しにも、なにもないことはないが、繰り返し、周期的でありながら、時間はまったく同じようには回転はしない。人は皆、老いてゆく。そうゆう風に時間は動いていて、そのときの感じ方があって、これは実は新鮮であったりもする。自分には、長距離走の能力があった、とか、山登りが不思議と苦にならない。これでは山にゆくしかないではないか。そうゆう方がおられる。こちらはというと、段々と体はガタガタになるだけで、それ以上のものはない。わかってはいるが、それでも持つものをもって、用心深くその辺りを歩いてみる。
  すると地面の上だが、あるものは目の前だが、そこに変化があって、毎度のように、あるいは、初めての感激があったりもする。フキノトウとか、そうゆうもので、ことしも遅れて?ようやく出てきた。


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  2月24日の日に、朝方、午前3時前、2時50分くらいという時間、珍しく目が開いて、ようやく、話題の星である、ルーリン彗星(C/2007 N3)を探すというか、眺めることが出来そうな時間になった。星であるから、大体夜でないといけない。しかも晴れで、なるべくなら、雲もない方がよく、風も弱いか、ない、まったくの暗闇が求められる背景だが、でも、そんな贅沢もいえない。自然現象であるから、あるがままの状態で、このルーリン彗星を探すことになるが、空はかすかに雲があって、星は滲んでいる。が、である、ルーリン彗星は、
  もうしし座にあることも、それから、土星のそばにあることも、またそれが、双眼鏡で見ると、土星と同じ視野に入る、ということまで、情報はそろっていたから、これで見えないとなると、運が悪いとしかいいようがない。

  このときは、見た感じ、真っ暗ではなかった、薄い雲があってそれでもそれが薄くなったり、また濃くなったりと、濃淡の繰り返しがあって、しかし土星も、そのそばにある明るめの恒星、しし座のσ(シグマ)星も見えていて、あとは、地平に対してその左下の辺りを探すだけということになった。時間とともに、暗い星も見えて来たから、これまでの経験からも、これが、ルーリン彗星であろうというものは、見えて来た。このイメージは、白い雲であって、しかし動くものではなく、回りにいくつかの明るめの微光星の中で、ぼんやりとした光芒をはなっていた。
  このイメージは、土星を除くと他は点光源だから、かなりに大きく感じられて、この光が蓄積されれば、写真と似たイメージになることは、十分にあり得ると思われた。でも、その見えていた時間は、わずかでもあって、しかも半分は寝ぼけているときでもある。あとは、2月24日の午前0時前後の写真が、天文関係のサイトで公開されないかを待つだけとなった。これが出ると、かなりはっきりした事がいえると思う。

  それで、今朝になって、AstroArtsさんの、天体画像ギャラリーを見てみると、2月23日の夜から、2月24日の午前の早い時間の、ルーリン彗星(C/2007 N3)の写真が公開されていることがわかった。

  これを見ていると、いざ見てみると写真のイメージは強すぎるが、私が双眼鏡で見ていたものと、星の位置的には、ほぼ同じであることがようやくわかった。
  また、そのときの気象状況も、雲が薄くあるというものが多く、星が滲んでしまうという状態で、この感想も同じである。
  写真で見ると、土星がかなり明るく、またその横にあるしし座のσ星もかなり明るく、また彗星自身も大きく明るいものになっていて、肉眼とは見ているイメージはかなり違う。また、彗星のある位置には、細かいがはっきりとした恒星が少し集まって存在して、それもかなり明るい。肉眼だと、この星は見えるが、明るいというものではない。また、彗星そのものがこの周りにある微光星辺りにまで広がっている感じも受けたが、これも写真では違う印象がある。

  長々、このルーリン彗星のことについて書いてみたが、ほぼ肉眼で見ていたものと写真のものが一致して、よかったと思う。素晴らしい写真を見せていただいた方に、お礼申し上げます。

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  一つ前の書き込みの続きのようなもの。





  枝垂れ梅。紅梅で、なかなかきれいで、しかも逆光でないと撮れないものである。お散歩モード。




  後ろに、まだたくさんの蕾がある。これをきょうも見ていたのだが、帰りにはすっかり忘れていた。




  瑞々しいフキの芽が、これはあった。日が出て来て、緑も少し濃く、ちょうどいい。




  柔らかく、ほろ苦そうである。




  春の地面を飾る代表の、ヒメオドリコソウ。この草は、枯れないようだ。

北風の晴れ間の花

2009-02-26 16:30:17 | 植物・花(冬)
  予想よりは、遅めだったが、順調にお天気は回復。
  ようやく、明るい空を見ることが出来る。
  大体空の色も、毎日見ていないと、忘れそうな気もするから
  おかしなものだ。

  ただ、外に出てみると、北風。高気圧の張り出しだから
  北風はしょうがないが、あまり暖かい感じはない。
  ただ、せかせか歩いていると、最後には暖かい感じにもなる。
  やっぱりもう冬ではないのか、とも考えたりして
  フラフラ、冬と春を揺れる感じがある。

  それから、やっぱり花粉は飛んでいる。
  海のほうに杉はあるかないか、そんなことはに関係なく
  花粉は飛んでいる。鼻はグズグズという。




  期待はしていなかったが、このツバキの花もようやくたくさん
  咲き始めた。もっと探せばきれいな花弁もあるが、枝葉の中に
  隠れていたりもする。しかし、十分きれいだと思う。




  ほぼ目の前にあるので、特にむつかしくないが、風がこの花を揺らせる。
  花の奥にぼんやり黒いのは、たぶんハエではないか。




  「なに」というものが出た。これは、イチョウの木に生えている苔。  
  光も強くなると、この古木の緑の苔が、結構目だつ。




  普段はほとんど気が付かないが、大写しだとちょっと
  気色悪いかも知れない。でも、カビではない。




  このクロッカスにも光が当たるが、なぜかちょっと色がおかしい。




  見過ごしそうになったが、紫のアネモネの、蕾が少しだけ
  開き始めていて、これが一番印象的。
  ここには、白いものもあるが、それには蕾さえ付いていないようで
  同じ花でも違いは大きい。

春らしい曇り空

2009-02-26 06:48:05 | 散策
  朝のお天気、雨も上がって、曇り空。すでに明るく、春分も迫っているから、これは当然のようだ。段々、明るくなる時間は早くなる。嬉しいような、そうでないような。静かな朝で、ヒヨドリの囀りも聞かない。しかしこの鳥の最近の動きは、他のもそうだが激しい。アメダスの6時の気温、2.7℃、気圧は1022.4hPa、湿度は95%。室温、8℃。これもほどの値。

  痛いところというのは幾つかあるが、体の痛みは少しずつ消えてゆくようで、まずはよかった感じがある。消炎鎮痛剤が効いているが、これはピリッとくる痛みとは関係はなさそう。雨がもっと降るかと思ったが、こちらの祈りも届いて、その量は少なめ。今日は、そのうちに晴れ間が出るだろう。

  起きて、顔を洗うが、腰の位置も少しさげる。それはいいが、はっきりと目の回りが痒いのがわかる。痒いというか、何というか、鬱陶しいというか。顔を洗うまではさほど感じないが、イザ顔を洗う、それから、目の回りを洗うという作業に入ると、急に痒みが生じる。明らかに、花粉の影響がある。でもまだ眠っていて自分の手で目をかくまではいっていない。これは外が雨と関係がある。
  黄砂も、降っていると思う。これは、屋根の瓦の色がその証拠と思うが、専門家によると違うといわれそうだ。黄砂は遠くからやって来る。これが空を舞って来ること、地球をもしかしたら1周してやって来るかも知れず、そんなものが、つまり非常に細かく軽いもんが、瓦を汚すかという考えかたで、今思い付いた。なるほどなー、そうすると、黄砂ではないか。

  TVで、朝のお天気情報を見る。ウーン、お隣の県も、雪の量が少ないようだ。最も、豪雪地帯だとこうはなっていないはずで、こちらのお山だって、いくら暖冬といっても、雪の10mくらいはあるに決まっている。これだけ積もるというのも珍しいのかも知れない。多いときは15mにもなるという。きっともっとひどいところがある。

  都会の空も、TVカメラを通して見るとかなりきれいなことがわかる。そこで、気象予報士の方は、寒い朝を待っている。これが早く暖かくなれば、フトそうゆうことも思う時間、季節でもある。

梅雨のようなお天気

2009-02-25 19:03:46 | 散策
  あちこち痛いところが出ると、なんだか世も末のような気もするから、不思議である。もっとひどいというか、腰痛のときがあったが、それも忘れての今がある。今日のお天気などは、まるで梅雨の空ではないかとも思えるくらいで、なんだがジメジメとし、憂鬱でもあり、神経質になる。つまらないことにこだわりを感じたりする。

  腰が痛いのが、これはお散歩カメラの問題もある。座ったりもすると、あちこち体が悲鳴をあげたのだろう。それから、きのうはもう宵も半ばという時間から、晴れ間が出たから、ずいぶんと慣れないこともやった。結構くたびれる時間でもあるが、立ちっぱなしから、疲れてきて、膝を折り最後は、膝も完全に曲げて、正座の感じにもなった。こんなことをする予定もなかったから、その後に結構体のあちこちが痛んだようだ。体は正直で眠ってると、大して痛みもないが起きると段々じわじわ痛いところが出てくる。

  右利きであるから、右手を酷使する。いつも力を入れるのは右手で、なぜ右利きがあり、左利きがあるのかこれも不思議だ。重いものも、それは灯油のポリタンクであったりもする、またこの右手で持つし、また重さがないようなボールペンも右手でしか持てず、しかしキーボードだとときどき左手が活用される。こんなことを考えていると、左手の動きが妙にもなる。マウスを使うしか脳がないというか、キーで操作出来ないことが多く、このマウスをコントロールするのも右手全体が痛むような気がして、弱っている。

  人の臓器などで、一つしかないもの、それの代表が心臓であったりもするが、左右平等に働いているはずの臓器もあるはずで、右だけの肺臓が呼吸機能が高いなど聞いたことがない。左の腎臓だけが血液の濾過作用が劣るというのも聞いたことはないが、違いがあっておかしくもない気がしてきた。でも、左手で文字を書けとかいわれると困るだろうな。ギターという楽器があるが、左利きの人はどうなのか。同じく、バイオリンなども、どうも弦を押さえるのは、左手で、弓を引くのは右手のようだし。
  そんなことよりも、いつのまにか、それまでなんともなかったことが、例えばポリタンクを右手で持ったくらいで特に違和感が残ることもなかったわけだが、それが段々顕著になって、痛みも増すような気もしている。これは左手で持てないわけでもないが、ものをおいている場所でいうと、右手が使いやすい。

  ときどき、「ばたり」というような音がする。あまり気にしないようにしている。何かが落ちた感じはあるが、予想が付かない。これ以外にも、もっと大きな音がしてびっくりするときがある。鳥が窓にぶつかるときが、これがたまにある。過去に2回はあった。10年に一回はある勘定である。その他、なかなか予想出来ない音もする。建物の木がきしむ音というと、これはかなり頻繁にする。それには慣れている。その他近くで工事があれば、それも土を重機でほじくるもんだと、いえも揺れるのでこれは地震ではない。安心だがよく揺れるいえだと思う。どうなっているのか、わからないが、揺れるのはたしかで、砂上の楼閣という感じがないわけではない。音が原因となる不可解なものの話しだが、ようやく何がその原因だったというのが、わかった。

  PCの電源に差し込んでいる、その電気コードを持ち上げている、ボール紙で作った、支え、ブリッジみたいのが、その支えというか、ボール紙で作った橋が落ちて、そのコードがずさっと床に落ちたのだった。PCの後(うしろ)というと、何もないようで、これは広告などの場合は見るとよくわかる。実に整然としている、美しささえ感じる。TVなどもそうだが、これが実際となると、そのコードの絡まり方はどうだろうか。
  2台のPCで、PCの電源が二つ、それとモニタが一つ、他に音源だの、USB関係の外部ディスクなどを使っている。この中に、切り替え器というのが入るから、マウスとキーボードの全面のコードは二本だが、PCからはビデオ、それにこの二つで3本、それが2セット。これを経由して、モニタにつながる太いケーブル。音源関係は、右と左があって、それに電源。いくらコードがあっても足らない感じだ。ルータにゆくネット関係のケーブルが、PCに二本、それとモデムにゆくのが一本。ルータの電源が一つ。これにラジオが加わる。いったいどうなっている。USBだって、カメさん用もある。汎用性があればいいが、ないものもある。こうゆうものが後ろに前に出ていると、いつの日か「これはおかしい」と思うときが来ないか。
  神経質でなくても、いったいにこれはどうなっているのか、ある日突然思う。こんな状態でいいのだろうか。

  ガタっという音をたてて、落ちたものの原因がようやくわかったが、PCの後というものを今あらためて見てみると尋常ならざるものがあって、慄然とする。
  これも、原因は、恐らく腰の痛みから来たものではないか。体は鍛えればいいというものでもなく、でも、体を動かさないと何ごとも進まないというか、生きてはいけない。なんだか、結構憂鬱感が増して来ている。
  これも、梅雨のような雨の天気にも原因がありそうで、これはやはり晴れの天気に越したことはない。また、しかし私は思う。

  こうゆう憂鬱感に浸り、そこにあるものを見て唖然とするのも、この梅雨のようなお天気があるから。これがないと、PCの後というものはもっとひどいことに、押しなべて、ここの部屋の中は、なんだか「もの」で、がんじがらめにならないか。  
  憂鬱でもあり、見直しの時間でもあったが、何も変化はというと、今はない、腰が痛くてねー。


  お散歩写真の続き。




  こんな花があるのも、お店やさんだから。ときどき借りている。




  典型的な、お散歩モード。




  ぷちぷちしているのは、梅の蕾。イガイガしているのは、柿のへた。鳥の食べた痕。




  去年の11月ころから、こんな感じの、暖かさと太陽光を待つ、ハクモクレン。




  蕾はまだ、硬いようだ。




  ユキヤナギ。白い花が、ポツポツと咲いているが、ほとんど意識しないとわからないくらい。この花が咲かないと、春が来た感じはないのだが・・・。