一月の終わりになって、今年の出来事、今年に書かれたものが載る、雑誌が来る。でも、まだ去年のモードのものも多いような気がするが、最初にPCの雑誌が来た。
昔は、色々なものを、詰め込んで、ときに入れ替えて、そうゆうことをPCでやった。まだやろうという気があったし、でも、それも、もうやることもないような気がしている。次は、かなり先か、あるいはすぐにかも知れないが、その必要性は今はないようで?、その雑誌を見ることも、パラパラ程度。
目がゆうことをきかなくなった。文字も細かいものは極端に見にくいし、小さなものも、ネジ一つつかむのも苦労する。針の穴に糸が通らない。針を持つのも苦労する。眼鏡もそれこそ、10cm単位くらいで変えないといけない。ちょっとある焦点で固定していると、例えばモニタを見ていると、今度は、手元にあるものが何がどこにあるのか、すぐにはわからない。こんな早くこんな状態になるとは思ってもいない。細かいものをつかめない。手からすべてゆく。当たり前のことになる。こうなると、セマッ苦しい代表のような、PCの箱の中の作業はもう出来ない。
ハードの世界では、一応、普通の人が使う範囲ではすでに完成形に近いものがあって、問題はソフトで、そちらこそ、何とかならないか。PCウイルスに辟易しているが、ソフトを作るという、システムを作るという意味では同じだろうから、これは、半永久的に新作の登場が続く気がする。シロウトにはさっぱりわからないが、予想は付く。
雑誌を定期購読するのは、特に本屋さんのないところでは、大いにやりたいという気もするが、しかしこれらの本もかなり溜まる。たまりに溜まる可能性があって、躊躇する。で、他には、PR誌2冊のみである。この一冊がやって来て、本の世界も新年になったと思う。まだまだ、少し見た程度であるが、面倒であっても、わからない文字は辞書で引く。すると、やはり読みも、意味も間違っていて、これはやっぱりアカンかった、と思うが、これも半永久的に続く作業だ。一旦おさめられたところの扉が開かない時もあるだろうし、忘れられる、住所が見たいなもの、こともあるだろう。これは、何かが働くと、ときに思い出される。
最後に、紙に書かれた文字に飽きるときは、ネットで検索というのもやる。知らないことだらけである。ほぼ、読み物に書かれていることそのものが、ネットで探索したページに出ることもあるが、この辺は、少し面白い。それから、一番いけないのは、あまりに高度で、ついていけないもので、こうゆうのは、無論「本」の世界にもある。これ以外に、ネットの情報の信憑性の問題があるが、これなども、気をつけないといけないことの一つだと思う。
お天気は、外を見ていると、気象台の観測、アメダスのそれと少し違って、晴れの時間帯は長めだ。が、外に出てみたら、思ったより寒く、冷蔵庫の中の世界と変わらなかった。きのうよりぐっと寒く思えた。ここは、しかし、晴れであるから少しでも、写真、ファイルを溜め込む気持ちを高める。なんとなく、この行為にも限界がみえてきて、しかし、今はただ、これまでと同じように、なにかを眺めて、それを撮るしかない。そんな悩むことの問題でもないのだが、心の内ではそれに対する反発が自身になぜかある。
それから、ここの地面のあるところに、草も生えないところが出来てしまって、幻滅している。赤土がそのまま出ていて、枯れたコケがひっくり返っている。泥が流れている。だが、このことに気がついているのは、たぶん私だけで、不機嫌を通り超えたものがある。
寒いと思いながら、いつもと少し違ったところへゆく。大きなイチョウが生えている一画であるが、またこの木の辺りも何度となく見ているが、木が枯れている。少し前は、これには気が付かなかった。どうしたのだろうか。
場所が限られてしまって、スイセン、と思うけど、の、花が咲きそうなところにゆくが、やはり蕾のまま。2週間くらいこんな感じで、この蕾はいつ咲くのか。
シャクヤクの咲くところ、何度も登場するが、ここの畝を見ていると、この小さな芽が見つかった。接近して、チューリップだと思う。2、3cm出てきたところで、保護色のようで、なかなか判りにくい。手前は、スイセン?。
チューリップはここにもあるけど、これの芽が出て来ていいはずだが、コケが裏返っている辺りにあるから薬を撒かれている。もしかしたら、もう出て来ないか。
昔は、色々なものを、詰め込んで、ときに入れ替えて、そうゆうことをPCでやった。まだやろうという気があったし、でも、それも、もうやることもないような気がしている。次は、かなり先か、あるいはすぐにかも知れないが、その必要性は今はないようで?、その雑誌を見ることも、パラパラ程度。
目がゆうことをきかなくなった。文字も細かいものは極端に見にくいし、小さなものも、ネジ一つつかむのも苦労する。針の穴に糸が通らない。針を持つのも苦労する。眼鏡もそれこそ、10cm単位くらいで変えないといけない。ちょっとある焦点で固定していると、例えばモニタを見ていると、今度は、手元にあるものが何がどこにあるのか、すぐにはわからない。こんな早くこんな状態になるとは思ってもいない。細かいものをつかめない。手からすべてゆく。当たり前のことになる。こうなると、セマッ苦しい代表のような、PCの箱の中の作業はもう出来ない。
ハードの世界では、一応、普通の人が使う範囲ではすでに完成形に近いものがあって、問題はソフトで、そちらこそ、何とかならないか。PCウイルスに辟易しているが、ソフトを作るという、システムを作るという意味では同じだろうから、これは、半永久的に新作の登場が続く気がする。シロウトにはさっぱりわからないが、予想は付く。
雑誌を定期購読するのは、特に本屋さんのないところでは、大いにやりたいという気もするが、しかしこれらの本もかなり溜まる。たまりに溜まる可能性があって、躊躇する。で、他には、PR誌2冊のみである。この一冊がやって来て、本の世界も新年になったと思う。まだまだ、少し見た程度であるが、面倒であっても、わからない文字は辞書で引く。すると、やはり読みも、意味も間違っていて、これはやっぱりアカンかった、と思うが、これも半永久的に続く作業だ。一旦おさめられたところの扉が開かない時もあるだろうし、忘れられる、住所が見たいなもの、こともあるだろう。これは、何かが働くと、ときに思い出される。
最後に、紙に書かれた文字に飽きるときは、ネットで検索というのもやる。知らないことだらけである。ほぼ、読み物に書かれていることそのものが、ネットで探索したページに出ることもあるが、この辺は、少し面白い。それから、一番いけないのは、あまりに高度で、ついていけないもので、こうゆうのは、無論「本」の世界にもある。これ以外に、ネットの情報の信憑性の問題があるが、これなども、気をつけないといけないことの一つだと思う。
お天気は、外を見ていると、気象台の観測、アメダスのそれと少し違って、晴れの時間帯は長めだ。が、外に出てみたら、思ったより寒く、冷蔵庫の中の世界と変わらなかった。きのうよりぐっと寒く思えた。ここは、しかし、晴れであるから少しでも、写真、ファイルを溜め込む気持ちを高める。なんとなく、この行為にも限界がみえてきて、しかし、今はただ、これまでと同じように、なにかを眺めて、それを撮るしかない。そんな悩むことの問題でもないのだが、心の内ではそれに対する反発が自身になぜかある。
それから、ここの地面のあるところに、草も生えないところが出来てしまって、幻滅している。赤土がそのまま出ていて、枯れたコケがひっくり返っている。泥が流れている。だが、このことに気がついているのは、たぶん私だけで、不機嫌を通り超えたものがある。
寒いと思いながら、いつもと少し違ったところへゆく。大きなイチョウが生えている一画であるが、またこの木の辺りも何度となく見ているが、木が枯れている。少し前は、これには気が付かなかった。どうしたのだろうか。
場所が限られてしまって、スイセン、と思うけど、の、花が咲きそうなところにゆくが、やはり蕾のまま。2週間くらいこんな感じで、この蕾はいつ咲くのか。
シャクヤクの咲くところ、何度も登場するが、ここの畝を見ていると、この小さな芽が見つかった。接近して、チューリップだと思う。2、3cm出てきたところで、保護色のようで、なかなか判りにくい。手前は、スイセン?。
チューリップはここにもあるけど、これの芽が出て来ていいはずだが、コケが裏返っている辺りにあるから薬を撒かれている。もしかしたら、もう出て来ないか。