光年・千年

纏わりつくが、纏まらないおはなし、日記ふう。

梅の花は咲いていて

2008-02-28 19:11:41 | 植物・花(春)
  寒い朝で、雪も舞っていたが、なんだか梅の花が少し咲いていたからか、朝のことが嘘のようにも思えるから、困ったものである。
  梅の実についてはずいぶんと先の話しになって、今ここにそのことに付いて書くのは、早すぎる気もするが、他に何かが思い浮かばない。
  梅の実がある。それは、梅酒用ではなくて少し黄色い。そういえば、梅酒のことも気になるけど、それはもう出て来ないかも。それで、黄色い梅で、その梅をまずは、すでにここにあるものとして、それをどうしたか記憶をたどると、まずは鉄製のバケツに入れてしばらく水に浸していた。鉄製のバケツか、トタンのようなメッキのしてあるバケツだった気がする。こちらに間違いない。まだ今みたいに、それほどガタガタ、バタバタしていないから、少し余裕もある。梅干しはあって当たり前で、それを作るとき少し手伝うのも、当たり前でしかし、どうゆう風に作ったらいいのか、それもわからず、確か何かの広告に書いてあったものを参考にしたようである。
  少し古い話しになると、ここにも梅の木があって、それに実もなった。だから、それほど早い季節ではないが、その梅干用の梅ではない、そうゆう梅の実がなる、大きくなるときに、その梅干し作りは行なわれていた。はたしてそのとき、別にスーパから梅干用の梅を買っていたかどうか、はっきりしない。ただ、
  梅干用の梅ではない、その梅の実も小さいが、残らず全部取って集めると、かなりの量になって、梅の実は小さいほど、一定の量で長くもつから、それは重宝された。この話しは、この季節になると書いているようで、あまり繰り返すのもどうかと思えてきた。それを書いてみて、1年前のものと比べて、いかにその変化が激しいか、客観的に自分を見直すということも有益であるような気もするが、ここは、
  一所懸命、シソの葉っぱを取ることをやり、相当な束があった、それでかなり疲れて、その後に灰汁出しのため、塩でもんだがそのときに、すり鉢を使うから、自分の手の皮膚もぶよぶよになって、ときに血も混じった。その血も鉄と塩気を含むからか、なんら悪影響はなかったようである。

  朝の雪のことが思い出されて、それからその雪は次第に溶けてきたようで、つまりはいつの時間からか、晴れ間も出たようで、私の気分はあまりパッとしない。これはこれでいいのだけど、それに外は明るいし、さすがにもう雨やら雪も降りそうになく、でも念のため傘は持って、それからきのう書いた、ガスレンジ用の予備の乾電池も忘れず買うように、お財布も持った。それから毎度のように、ミニも懐中に忍ばせて、そんな大仰な言い方は必要ないか、お散歩ミニをも持って外に出た。それで、引き寄せられるように、少し早めに咲きそうな梅の木のあるところにいったのだけど、予想に反していくつか、2、3の花はまだ完全ではないようだが、花弁を広げていて、これでようやく手の届くところに、今年も梅の花が咲いてくれた、と一安心した。

  ちょっと不安定なところにあって、つまりは垣になっているようなところで、安定してこれをファイルにおさめるのはむつかしいが、そうゆうことは言ってられない。少し背中も熱くなるし、小さな小さな梅の花がうまく写るように、祈る気持ちで、ボタンを押す。かなりの数押さないといけない。これも梅のためなら仕方がない。それで、普段滅多にやることのない、その出来具合をもモニタで確かめて、少し気分も晴れて、しかし空の青すぎる、このときはそう思えて、実際に青かったし、さらに帰って来てかなり汗もかいていたから、その青空も本物であった。
  スイセンの咲いているところ、にも行った。それから、いつもは忘れてしまいそうであるが、ちゃんと乾電池も買ってきて、あっという間にお札が消えていくのに溜息。値上がりひどくない?


  それで、梅の花である。



  一輪だけ、咲いているようなところを選ぶ。それはここしかなかった。枝やらがたくさんあって、なかなかいい場所を探せない。この梅の花の感じは、去年撮ったものとまったく同じ。花の中にゆくにしたがって、黄色が濃くなり、最後は茶色に、が特徴。




  これは、最初は気が付かなかった。花が枝にくっ付いて咲いている。これも、見方のよっては面白く、また花も大きい。この梅らしさが出ている。




  ここは、すでに一度、登場したところ。ここにも、少し開いた花はある。蕾がたくさんあって、なんだかウキウキしてくる。

  スイセンも。



  少しくたびれているが、朝まで雪をかぶっていた感触を振り払っている。

  梅とスイセンの小さな、けなげな、花を見て、少し元気をもらった。

ユキダスとイビキダス

2008-02-28 07:20:11 | 散策
  朝のお天気、雪。ちょっと積もっていて、凍っていそう。風は弱く、穏やか。6時のアメダスの気温。マイナス0.3℃。積雪11cm。室温4℃、この辺りの積雪、やっぱり10cmはありそう。

  「寒いのは嫌だー」。大きな声で叫びたいが、どうも大きな声もなかなか出ない。花粉が来ると、のどもいがらっぽくなってガラガラ声になるが、それはともかく、大きな声というのも出なくなった。昔はピーピー泣いていたからどうもその反動で、声も出しづらくなっている。お前の声ははっきりしない、もぞもぞ言っている、こもっている、なに言ってるかわからない、色々言われる。だんだん、話すこともなくなるというものだ。
  それにしても、寒いねー。どうにかならんかね、お祈りが足りないか。何しろ、お供のものは何もないので、効果はもともと薄い。それ以上のことを願うのは筋違いか。布団を暖めるの一回忘れたが、それからはかなり入念にスイッチを入れたかどうか確かめている。この布団の暖かさは、まことに好ましい。これも、
  もしかして、いつもが寒いから、寒いがゆえに、感じられるものなのか。そうすると、ただの、相対的なものであまり面白くもなく、ありがたみも少ない。

  調子がいいと、朝方の気温がいくら下がっても、一旦トイレにいってまた布団にもぐりこんでも、さほど寒いと思うことはなく、そうゆうときはしかしときに考え事も始まりそうで、あまりよくないかな。きょうは、布団が段々ちめたくなって、もう自分の体温で、布団を暖めることも出来なくなった。寒い、と思いつつそれでも眠っていて、眠っている時間がずいぶん長い。冬眠か、うまく出来ている。しかし、
  やっぱりデプレッシブもある。「何万人の孤独」てな感触がある。どこかの、境界のある、閉じた集合があってその数は、その中の要素は、1000万を越えたといわれるが、そのなかの一つの要素である孤独というものを考える。さぞかし、寒いだろう。そのグループに入ったところで、結局のところはじき出されることもあれば、無視もされるわけで、それならもともと境界のない、開いた境地にいるのが心地もいい。どうゆう風になるのも、その人の問題だし、特に新しい次元を求めなくても、そこには色々な社会の現実が反映されて、その中でもいくらでも仲良くなれるし、またけんかというか、口げんか程度が一番だが、言い合い論戦、いろいろなものが、現実に即したものが可能である。あーまたぐちが出てしまった。

  いびきというと、最近は肥満と関係があって、まことによろしくないものの一つにもされる。そのいびきを聞くことは今はない。ときどき父が、なんでかはわからないが、なにかを歌っている。これは意味が通じなく、だが音楽に聞こえる。これから、想像されるものを紙に書いて、ミソヒトモジにするのもいいようだ。
  肥満で思うことは、お腹周りの大小が問題にされることが出てきそうだ。何を考えているのだろう。こんなもの引っ込めようとすればいくらでも引っ込む。さらに逆立ちすれば、それは、ま違いなく小さくなる。横になっただけで、私のお腹などもぺちゃんこになる。ただ、重力で引っ張られて、それで弱くなった筋肉のせいで、それぞれの組織が垂れ下がるだけの話しである。まったく、お腹のサイズで、なにかを判断するという、こうゆう傑作なことを考える、その精神構造はどうなっているのか、覗いて見たい気もする。