光年・千年

纏わりつくが、纏まらないおはなし、日記ふう。

乾電池かい!

2008-02-27 19:07:19 | 散策
  あー寒い。かなり寒く、ウー寒い。あ行で始まる溜息。
  穏やかだが、雪がチラチラ、ときに、吹雪いて、それ以外はどうだったか、曇りのお天気で、気温は上がらなかった。だから、当然寒い。
  少し変だと思わないといけないことが、なんとも思わなくなって、しかし、脳裏のどこかにこれはおかしい、という感じの痕跡が残っていた。はっきりとおかしいことが確認されて、それはどうも、呼び鈴、チャイム、ピンポンが鳴らないようであること。この人くらい腰の低い方を存じ上げないが、水光熱に関する仕事をされているかたで、その方が来られて、どうもすいません、調子が悪いようでうかがいました、と言う。が、しかしどうもワタシンチから、その件について電話をしたことはないようで、同じ苗字のかたは多いから、うちではないようですが、と話した。そういえば、ガスの湯沸し器はなかったですね、そのかたも、冷静である。これで、和んだが、しかし、どうもチャイムの、ピンポンの音が聞こえないのは事実であることが確定して、これは面倒になったと思った。
  どこにチャイムはあるか、これはわかっていてしかしその場所は説明が難しい。高いところにある。その程度の高さで高所恐怖はない。それより、ぐらっと来て倒れる可能性の方が高い。それと、乗っかっている椅子は、それようのものでなく、ちゃんとこの上に乗っからないで下さい、と書いてある。他にも丸椅子みたいなのはあるが、みな同じことが書いてあるが、でもそれしかないから、それで、少し身長を高くして、そのピンポンなるものを目の前にする。中を開けた。さびた電池があって、くっ付いているようで、またいらぬところに指先が当たった。それより、何とも作業のしにくいこと。単二か、危うく間違えるところである。

  電池で思い出したが、今時のコンロというかガスレンジは、さすがにライタと同じ火打石でぼっと火が付くことはない。カチカチカチと最低3回は音がして、どうゆう理屈か知らないが、電池を必要とする発火装置が働いて、ぼっと火が付く。だから、ときに、その電池が、乾電池である、なくなったときなど、その代わりにそれこそライタを使ったり、マッチも使ったりして火を付けたりしたものだが、それが今も有効に作用すると思っていた。きのうか一昨日までそう思っていたが、またレンジのコンロの火が付かないというので、仕方なしにその電池をはずして、ちょっとごろごろさせたりあるいは、ヒータで暖めたりして、またカチカチカチという音はして、ぼっと火が付くがどうゆう訳か、またその火が消えて電池交換せよの、ランプが付く。
  はて、なんでやねんとなるわけであるが、何度同じことをやってもランプが付いて、火は付かない。付いていた火が消えるのである。ようやくわかった、今時のコンロというかレンジは、電池がある程度ないと、そのガスは消えるようになっているのだ。何とも、安全性の代償というと変かも知れないが、電池で安全を確保していたのである。そうか、知らなかった。今どきのレンジは、常にあるレベルの電圧と電流が規定に達しないと、他はよくわからないが、それは動かない、働かない。よって、もしも停電などになって、いつでも使える暖房、熱源と考えていたコンロも、電池がなければ、ただの石みたいなものなのである。書いていて、これは慌てて、もう一度、予備の電池、これは単一である、を買っておかないといけない、と思う。

  しかし、なにがしかし、か、世の中もむつかしい御時世になったものだ。それから、電池にも、乾電池であるが、色々種類があって中にはびっくりするような値段のものがある。大体、定価があるのに、その値段が明記されなくて売っている場合も多い。一番困るのは自然放電であって、どこにも何にもつながっていないのに、電池というものは放電していて、そのうち、それは電池でも何でもなくなってしまう。一体それはどうゆう形で、どうゆう色で放電されているのか、それを目で見てみたい、などとも思う。枕の後ろに懐中電灯があるが、これがほんまに必要なときはまだ来ない。それをときどき使う。寒いときはふっさくる。そうすると少し明るくなったりする。はたして、この懐中電灯に入っている電池、いったいいつのものか、これも調べたみないといけなくなった。

  雪が降って少し積もっている。止んでいる時間も長いが、春は遠く3月になってもたぶん寒そうで、雪もある。




  フキ。どこからが「フキ」かわからないが、かなり大きくなったフキで、パンクしそうでしない。雷が鳴ると、この固い蕾も開くと思われる。




  梅も変化がないが、ちょっと開きそうな気配はある。




  同じ時間に撮った紅梅であるが、一輪開き始めた、左上、ようで、これは目で見ていてわかった。先にこちらの花が咲きそうで色も、かなり赤味がはっきりしている。

雪と、明るい空と、カラスと

2008-02-27 07:14:35 | 散策
  朝のお天気、晴れ間もあるが雲が優勢で、曇り。風は弱く穏やか、そして明るく静か。アメダスの6時の気温、0.3℃、積雪は0cm。室温、5℃。この辺りの雪は2、3cm、多くて5cm。

  瓦に雪が残っていて、また目線を上にすると白いところがかなりある。雪は、日付が変わるころには、すでに降っていてそのころのアメダスの積雪も1cmとある。風がその嫌な音をたてなくなったのは午後も夜も遅くで、それで雪になったようだ。それにしても嫌な雨と風であった。この風も、ときに大いに期待される。その内、またどんよりした空気の動かないお天気になることは、これもまた間違いなく、いかにも汚れている感じがする。隣の街がかすんで見えるということは、お隣から見てもこちらの方が、黒く薄汚れて見えているのに違いない。そうゆう時もあって、この風こそ期待されるが、きのうの風はいただけなかった。あまりに寒すぎたのである。

  晴れると、やけに空が明るくなっている。きのうと違って、もう空は十分明るく言うことはない。この空を見上げていると、南東の方角から飛んで来る鳥がいる。それが、ときにトビであることもあるが、多くはなぜかカラスである。カラスは、山から来ることになっているがその方角には、山というか丘は確かにある。河もあって、それから、ビルと空き地と工事中と、民家のある、街もある。このカラスの移動というものも、いつの時からかわからない。ぽかんと空を見ることも最近始めたことで、それ以外は、ただ外を見て天気がわかればよかった。今は多少なりとも、なにか変化があれば、懐中から何かが出る時もある。暖めるものである。
  そのカラスであるが、なかなか賢くかつ簡単にふわりと空に飛び上がる。人とカラスは、なかなか仲良くなれないが、それだからカラスの歌も歌われないのかね。カラスも大変で、ある方の映画には、恐怖の正体として登場する。そのカラスであるが、きのう雨風の中を歩いていて、少しその涼しさが増したのは、このカラスが、雪解けの水で行水をしていたからである。カラスの行水とはよく聞くが、本物を見ることはなかなか少ない。この寒いときに、一羽のカラスはきれい好きなのか、虫酸が走ったのか。もういいと思ったのか、一旦プールから出て羽から水を落とした。こっちも震える。しかし、このカラスはきれい好きで、その虫酸がおさまらなかった。もう一回また水たまりに向かう。それ以上は寒くて見ていられない。

  夕空が、実に身にしみる美しさを醸しだす。まったくの無垢なその薄赤い色を見ていると、赤子のほっぺたをも思い出す。そして、ただやけに、面の皮だけが厚くなって、自分で見ても何とも不気味な、容貌魁偉ともいえる、この言葉は一回おぼえると何度も使いたくなる、顔が鏡にあることをすぐに思い出した。これでは、カラスも逃げてゆく。その紅い、ちょっと感傷的にもさせる空を、カラスの大群が、南東の方向へ飛んでゆく。朝にその方角からやって来たから、やっぱり南東の方へ帰ってゆくのだろう。その先にねぐらがある。このときのカラスは、ただの黒い鳥で、ヒチコックをも、思い出すことはない。眠るところはまだあるのか。そうゆうことを思う。自分の眠るところも、どうなるかわからない御時世である。