3月の、夕日。一番新しいもの。古いというと、私のそばにあるものだと、それは私ということになるのではないか。その半径は、というと2、3mということ。ここにある古いものは、皆ある程度新しいもので、昔の時代のものが混じっている可能性はあるが、それもものすごく古いわけではない。だから一番古いものは自分自身で、この体も、日一日と一定でないという。が、脳細胞だけは新しくはならないらしい。
脳の細胞が新しく作られないで、血球などは結構に頻繁に、壊されては再生されるという。それに、人は呼吸をしているし、またいつもものを食べてもいるから、物質の交代はこれもかなり盛んで、こうなると、脳細胞だけが化石のように古くさく、また過去の歴史を知っているらしい。それ以外の細胞はいつも作られているものがあって、また壊されるものがある。こうなると、私というのはいったいに何なのか、という気もするが、見た目は老化している。ぜんぜん若くはない。だから、細胞の合成もさほど行なわれていない。古いままではなかろうか。
中には、新しく出来たものもあるだろうが、結局のところ見分けは付かない。不老不死はあり得ないが、新陳代謝の真実を見抜くこともむつかしい。
この2、3日、日没を見ることが出来て、だから天気は悪くはない。また日の沈むことも見ることが出来ないというところにいるわけでもないが、どのくらいの間、こうして太陽が安定してエネルギを放出してくれるのか、など思うこともたまにはある。そうゆう時間がないと、生き物も出ては来ないだろうが、これは先が続かない。
時間がずいぶんとたったという感じがする。それより、残りの時間の少なさというものも、ひしひし感じられるものがある。これは、何をどの程度やることが出来るのか、ということにも等しいと思えるが、そのことが最も気になることの一つだろう。しかし、こんなことも書くことが出来るわけがない。出来れば、こうゆうことを考えもしない。
ものも古さでいうと、机がある。これがやたら古い。後生大事に使っている。壊れそうである。かなり前だが、この机を足台にしてその上につまり乗っかったわけだが、多分何か高いところに電球でも付けるか、これはしかしおかしい、まーそうゆうことがあったのは事実で、少しぐらぐらする。で、その後によく調べてみると、足が、あるいは脚が、しっかりと机の本体に納まってなくて、つまりは斜めに入っていたのである。こうゆうことを覚えているが、この時代がずいぶんと昔、古い。だから、ときに何でも乗せている、机を見ると大丈夫か、と思う。これは真実で、だから右足がいつも机のある部分に当たるので、それをなるべく避けようと今もしている。
その他、箪笥というものにこれまたもう着ないものが山ほど入っていて、この箪笥よりその中身は古い。
ナゼ、古いものと新しいもの、など思ったかというと、
これは、今はもう沈んでいるはずの太陽、日没寸前の太陽を眺めていて、そうゆう風な何かが思い付いたのだが、それがいったい何か、今思うと忘れている。
これ以外に、建物の問題もある。最近富に思うのは、あるところはやけにへっこんでいる、というもので、もう少し詳しくいうと畳が湾曲していて気色が悪い。いくら安普請のいえとはいえ、畳が中央がタルンデというのはあり得ない。あり得ないことはないが、あってはおかしい。
その他、立て付けがよろしくない、というのは昔からあって、戸が閉まりにくいだの、斜めになっているだの、もう二度と開かないのでは、というところもある。これが、建ててさほどはたっていない。100年とかだとどうしようもない気がするが、その半分の、半分もたっていないらしい。その割には、畳はへこむし、戸はゆがむし、そのうち2階にいる私のところの床が抜けないか、そうゆう心配もしないといけない。
夕日を見て、古いものと新しいものがあることを思い、その後に、使っている机は古くて、これはしかし今は壊れそうにはない。が、建物の方が、新しいはずで、しかし「箍」、たがが外れたようなことになっている、というところに落ち着いた。なんだかトンチンカンだが、的は外れていないような、あるいはやはりおかしいか。いろいろ、体にガタが来ると、あらゆるものがガタガタであるとも思えるのである。
突然、モンシロチョウが迷い込んできて、あたふたしたが、それがないと、大体この白いツバキが、出ていた。ツバキでなさそうで、ツバキというもの。これはその後、他の2箇所でも見ているので、格別に珍しくはない。
まさしく、ハクモクレンだが、これも春の光が明るすぎるときだから、と思う。たしかに純白に近い、肉眼でもそう思えるが、白すぎる。
日は照るが、比較的低温で推移していると、このユキヤナギも長持ちしている。
雪だって、こんなに白くは見えないし、もう少し透明である。
もっと大きいユキヤナギを見ていたが、小さい花がいったいいくつ咲いているのか。感嘆。
このスイセンの色からもわかるように、明るすぎて、結果はこれ以上どうすることも出来ない。
これも、一世代前の撮像素子だからと思ったりもするが、関係ないですね。
脳の細胞が新しく作られないで、血球などは結構に頻繁に、壊されては再生されるという。それに、人は呼吸をしているし、またいつもものを食べてもいるから、物質の交代はこれもかなり盛んで、こうなると、脳細胞だけが化石のように古くさく、また過去の歴史を知っているらしい。それ以外の細胞はいつも作られているものがあって、また壊されるものがある。こうなると、私というのはいったいに何なのか、という気もするが、見た目は老化している。ぜんぜん若くはない。だから、細胞の合成もさほど行なわれていない。古いままではなかろうか。
中には、新しく出来たものもあるだろうが、結局のところ見分けは付かない。不老不死はあり得ないが、新陳代謝の真実を見抜くこともむつかしい。
この2、3日、日没を見ることが出来て、だから天気は悪くはない。また日の沈むことも見ることが出来ないというところにいるわけでもないが、どのくらいの間、こうして太陽が安定してエネルギを放出してくれるのか、など思うこともたまにはある。そうゆう時間がないと、生き物も出ては来ないだろうが、これは先が続かない。
時間がずいぶんとたったという感じがする。それより、残りの時間の少なさというものも、ひしひし感じられるものがある。これは、何をどの程度やることが出来るのか、ということにも等しいと思えるが、そのことが最も気になることの一つだろう。しかし、こんなことも書くことが出来るわけがない。出来れば、こうゆうことを考えもしない。
ものも古さでいうと、机がある。これがやたら古い。後生大事に使っている。壊れそうである。かなり前だが、この机を足台にしてその上につまり乗っかったわけだが、多分何か高いところに電球でも付けるか、これはしかしおかしい、まーそうゆうことがあったのは事実で、少しぐらぐらする。で、その後によく調べてみると、足が、あるいは脚が、しっかりと机の本体に納まってなくて、つまりは斜めに入っていたのである。こうゆうことを覚えているが、この時代がずいぶんと昔、古い。だから、ときに何でも乗せている、机を見ると大丈夫か、と思う。これは真実で、だから右足がいつも机のある部分に当たるので、それをなるべく避けようと今もしている。
その他、箪笥というものにこれまたもう着ないものが山ほど入っていて、この箪笥よりその中身は古い。
ナゼ、古いものと新しいもの、など思ったかというと、
これは、今はもう沈んでいるはずの太陽、日没寸前の太陽を眺めていて、そうゆう風な何かが思い付いたのだが、それがいったい何か、今思うと忘れている。
これ以外に、建物の問題もある。最近富に思うのは、あるところはやけにへっこんでいる、というもので、もう少し詳しくいうと畳が湾曲していて気色が悪い。いくら安普請のいえとはいえ、畳が中央がタルンデというのはあり得ない。あり得ないことはないが、あってはおかしい。
その他、立て付けがよろしくない、というのは昔からあって、戸が閉まりにくいだの、斜めになっているだの、もう二度と開かないのでは、というところもある。これが、建ててさほどはたっていない。100年とかだとどうしようもない気がするが、その半分の、半分もたっていないらしい。その割には、畳はへこむし、戸はゆがむし、そのうち2階にいる私のところの床が抜けないか、そうゆう心配もしないといけない。
夕日を見て、古いものと新しいものがあることを思い、その後に、使っている机は古くて、これはしかし今は壊れそうにはない。が、建物の方が、新しいはずで、しかし「箍」、たがが外れたようなことになっている、というところに落ち着いた。なんだかトンチンカンだが、的は外れていないような、あるいはやはりおかしいか。いろいろ、体にガタが来ると、あらゆるものがガタガタであるとも思えるのである。
突然、モンシロチョウが迷い込んできて、あたふたしたが、それがないと、大体この白いツバキが、出ていた。ツバキでなさそうで、ツバキというもの。これはその後、他の2箇所でも見ているので、格別に珍しくはない。
まさしく、ハクモクレンだが、これも春の光が明るすぎるときだから、と思う。たしかに純白に近い、肉眼でもそう思えるが、白すぎる。
日は照るが、比較的低温で推移していると、このユキヤナギも長持ちしている。
雪だって、こんなに白くは見えないし、もう少し透明である。
もっと大きいユキヤナギを見ていたが、小さい花がいったいいくつ咲いているのか。感嘆。
このスイセンの色からもわかるように、明るすぎて、結果はこれ以上どうすることも出来ない。
これも、一世代前の撮像素子だからと思ったりもするが、関係ないですね。