風が吹くと、葉は散る。お寺の大きなイチョウの木というのを横から眺めた気がし
た。そのイチョウの木にまだ黄色い葉は残っている。これは今日の午後にそう思った。イ
チョウでなく、カエデだとここにもあるが、その目に付くカエデの葉が残り少なく、まだ
あった。まだあったという不思議というのはある。品物というか、商品みたいな感じで。
日の出。今頃、日の出を見るというか、稜線から出る太陽は遅い。
時間は飛んで風が出て来た頃。
常緑の木々、で出来るゴーストは青い。なぜか。
晴れていて、風が吹いていて、残るわずかのカエデの赤い葉。
ま、多くの落葉樹は春に芽吹く新芽の準備はしている。さほどメランコ
リックなものでもないというのは事実。新陳代謝。
もうすこし何とかできた。見ていて時間がない。
こちらのカエデはもう葉はないだろう。こうして減量できるとか思うの
は、なぜか。
減量に関係ないのだけど。
木がある。ありがたいこと。それで剪定したというところ。ケヤキの黄
色、その外の常緑の木々。スギももちろんある。スギは花粉症を発生さ
せるものだろう。
こんなところにもサザンカ。
サザンカというのはどうして増えてゆくのかね。
少し道を歩くと、梅の木がある。この梅の葉も残り少ない。
アジサイ。アジサイは葉っぱは黄色くはなるが、ならなくて冬でも緑と
いうのがある。アジサイの葉っぱは柔らかそうだが、茎というのだろう
か、この固いこと。
この木はちょっと高い。少し前に枯れたという葉は写っていて、今はどう
だろうか。ないようなあるようなで、葉の色も今年はおかしいものがある。
常緑の木というと、この辺りでよく見るのはモチノキで、これはまだ多くの御家庭
にあるようだ。サザンカも多くて、その次はどうだろうか。スギは昔むかしはたくさん
あって、でもその木も倒れるとこれは厄介。木の枝葉もスンバとかいっていたが、これを
風呂の燃料にするというところはもうなく、これは時代錯誤のもので、五右衛門風呂が
ないといけない。
そうゆうお風呂というのを知っているが今はよっぽどの愛好家の方くらいしか入
らないのだろう。さすがに、ドラム缶の風呂は知らないが。
スギは、いってみると、木の油でもあって、よく燃える。でも燃えすぎて、脂とか
が多いのだろう、暖炉ににもよくないということらしい。むかし、昔、ある方が木を
切ったということを聞いて、暖炉にくべるからというのでもらいに来たような気もす
るが、一回だけで終わった。いろいろな意味合いがあるが、燃えすぎというのもある。そ
れから、遠方の方だと割が合わない。
竹がある。竹のいくつかは物置にして、お化け屋敷と化したところにいくつか、昔
の人というか御先祖様か、御先祖様の代のときに枝葉を落として、竿なりに使うため、
だろう、残っている。この竹も勢いがさほどでないとかわいい。でも破竹の勢いで繁殖
すると困ったものである。でも多くの、雪囲いとかに使われるのは天然の竹であって、プ
ラではない。
そうゆう「雪囲い」、あるいは「雪吊り」を見て、なんとなく苦い思いをする。昔は
竹が役に立ち、今も立つのだが、その竹をもてあましている。
た。そのイチョウの木にまだ黄色い葉は残っている。これは今日の午後にそう思った。イ
チョウでなく、カエデだとここにもあるが、その目に付くカエデの葉が残り少なく、まだ
あった。まだあったという不思議というのはある。品物というか、商品みたいな感じで。
日の出。今頃、日の出を見るというか、稜線から出る太陽は遅い。
時間は飛んで風が出て来た頃。
常緑の木々、で出来るゴーストは青い。なぜか。
晴れていて、風が吹いていて、残るわずかのカエデの赤い葉。
ま、多くの落葉樹は春に芽吹く新芽の準備はしている。さほどメランコ
リックなものでもないというのは事実。新陳代謝。
もうすこし何とかできた。見ていて時間がない。
こちらのカエデはもう葉はないだろう。こうして減量できるとか思うの
は、なぜか。
減量に関係ないのだけど。
木がある。ありがたいこと。それで剪定したというところ。ケヤキの黄
色、その外の常緑の木々。スギももちろんある。スギは花粉症を発生さ
せるものだろう。
こんなところにもサザンカ。
サザンカというのはどうして増えてゆくのかね。
少し道を歩くと、梅の木がある。この梅の葉も残り少ない。
アジサイ。アジサイは葉っぱは黄色くはなるが、ならなくて冬でも緑と
いうのがある。アジサイの葉っぱは柔らかそうだが、茎というのだろう
か、この固いこと。
この木はちょっと高い。少し前に枯れたという葉は写っていて、今はどう
だろうか。ないようなあるようなで、葉の色も今年はおかしいものがある。
常緑の木というと、この辺りでよく見るのはモチノキで、これはまだ多くの御家庭
にあるようだ。サザンカも多くて、その次はどうだろうか。スギは昔むかしはたくさん
あって、でもその木も倒れるとこれは厄介。木の枝葉もスンバとかいっていたが、これを
風呂の燃料にするというところはもうなく、これは時代錯誤のもので、五右衛門風呂が
ないといけない。
そうゆうお風呂というのを知っているが今はよっぽどの愛好家の方くらいしか入
らないのだろう。さすがに、ドラム缶の風呂は知らないが。
スギは、いってみると、木の油でもあって、よく燃える。でも燃えすぎて、脂とか
が多いのだろう、暖炉ににもよくないということらしい。むかし、昔、ある方が木を
切ったということを聞いて、暖炉にくべるからというのでもらいに来たような気もす
るが、一回だけで終わった。いろいろな意味合いがあるが、燃えすぎというのもある。そ
れから、遠方の方だと割が合わない。
竹がある。竹のいくつかは物置にして、お化け屋敷と化したところにいくつか、昔
の人というか御先祖様か、御先祖様の代のときに枝葉を落として、竿なりに使うため、
だろう、残っている。この竹も勢いがさほどでないとかわいい。でも破竹の勢いで繁殖
すると困ったものである。でも多くの、雪囲いとかに使われるのは天然の竹であって、プ
ラではない。
そうゆう「雪囲い」、あるいは「雪吊り」を見て、なんとなく苦い思いをする。昔は
竹が役に立ち、今も立つのだが、その竹をもてあましている。