光年・千年

纏わりつくが、纏まらないおはなし、日記ふう。

新聞散歩、初夏のお祭り

2008-04-30 18:53:59 | 散策
  暑いので、何ともどうしようもない。暑すぎる。目の前の、アルコール温度計は、25.5℃をさしていて、やはりこの自分の感覚もそうおかしくはないように、思える。4月だというのに。

  新聞を見ていた。皆さんお元気で、あちこちお出かけになられていることがよくわかる。それから、見ていて楽しい広告も載る。これを見ていると、何でも博士になれそうである。あちこちの山々、それに川、水辺にお城。花公園に、古刹巡り。それから、街の中心街。まだまだ書き足らない気がするが、そういえば路面電車の記事もいかにも賑やかで、またそれがのどかな感じもして、まことにうららかである。チューリップの公園、もう少し山に入って岐阜県との県境のあるところ。そこは冬は豪雪地帯で知られるが、そこの民家の建物がやっぱり今も残っていて、これが素晴らしいの一言に尽きる。

  これ以外に、走ったりするものもある、運動である。きのうはかなり暑いと思ったがこの程度でバテタなどは言ってられないらしい。確かにね、それで身軽な格好で颯爽と走るのである。これが、普通の感覚なのであろう。もうそうゆうことは忘れてしまった。さらに一応は、熱中症などに注意しながら、故郷のあるところ歩くという催しがある。なるほどねー、確かにいくら自分がそこに住んでいるといっても、何でもかんでも知っているわけではない。こんなところに、こんなものがあった。と言うことは誰もが経験する。
  少しマニアックになると、ネコ道探索などというものもあるようだ。これなども、無論新聞やら雑誌、TVで紹介されることは、ニャイが、ネコ語で書くとこうなるかも、そうゆう道の探索というのがありそうで、これはざっくばらんなTVや、ラジオの中のおしゃべりでは、登場しているし、これからも、登場しそうである。
  迷子になる、道の歩き方というのも面白そうで、これなど都会でやってみると、さほどおかしくは思われないだろう。すいません、ちょっとネコの後を追いかけて来たら、いやネコの歩きそうな道をみていたら、ここがどこかわからなくなりまして。すると、やっぱりそうゆう方が、過去にもおられて、そのあたりに住む方は、的確に最寄の地下鉄やら、それから、JRだの、東武東上線だの、小田急だの、池袋線、東急に伊豆急に、それに、これを忘れてはいけない、京浜急行の駅を教えてくれる。

  少し、遠回りし過ぎた。近くに戻ると、例えば、ライトレールに乗ってみる。それには、まずは北陸本線の駅で降りてそれで、北口に出るのが便利だ。目と鼻の先でもないが、その通りなのである、もうお馴染みのライトレールは、待ってくれている。しかし、用心が必要である。ここは、ターミナルとか、乗り換えの駅ではなく、ここも単線で、それから少し先に進まないと、複線にはなっていない。ただ、ホームは二つあるが、大概の場合は、一本電車が止まっていると、その間隔はかなり短く、また発車してゆくようである。であるから、急ぎの方は注意。でも余裕がある場合は一本は見送るのがいいようである。
  しばらく、電車は街道を走る。この先は書いてしまうとお楽しみがなくなってしまう。まず、迷うことなく、終着駅まで行くことが出来るし、途中で降りることも、可能である。

  この路線の最大の見所は、海に近いところにゆくから、乗っていると潮の香りがしてくることであって?、さらには、運河なども見ることが出来る。そのはずである。さらに少しいにしえの、あるいは古風な、街並みも探索できるようであって、この楽しみは大きい。しかし、これ以上は書くこともない。行ってみてのお楽しみである。

  今日も暑かったので、もうただ歩いただけ。ときどき見かけるワンちゃんもかわいそうなくらいであって、建物のうちと外の違いは大きい。




  カエデの小さな花が咲き、それから散るものが散って、その後にこんなものが残る。知らなかった。




  きのうの朝のもので、日がまぶしい。探せどもなかなか見つからない。これも、ようやくあったものだが、上とそれに下側にも出来ていて、これは、最新式かな。




  ヒメジョオンだと思う。そのヒメジョオンの参考写真を拝見していると、これがハルジオンに見えてくる。この反対もある。なんとも、わからない。




  これはかなり、桃色の濃いものである。でも、花弁がもっと大きくなると、その色も薄まって、最初のものと同じような感じになりそう。  

夕日と朝日と

2008-04-30 16:18:07 | 散策
  今日も暑い一日。きのうよりも暑いようで、
  最高気温、午後3時まで、アメダスで、28.4℃。
  確かに暑いし、暑かった。

  夕日も、ほぼ真横から当たるような位置になる。




  風も弱くなって、少しどんよりのんびりした、きのうの夕日。




  夕日で、まるで水が、麦酒色に染まってしまった。
  まーこれを出したかったわけですが。

  今日の朝日。




  早めの時刻ですが、もう太陽は顔を出していました。
  これより北側にゆくと、木の影になってしまう。

水槽の中、緑揺れる

2008-04-30 07:09:21 | 散策
  朝のお天気、晴れ。ほぼ快晴だが、霞か、靄か、スモッグかというものがあって、どうも梅の咲いていたころの、青空がない。風はそよそよ。窓を開けて眠っていた。室温17℃。きのうが異常に暑かったので、この温度でも涼しい。何しろ、起きたばかりだし。

  水道水を使いつつ、顔を洗うスタイルは変わらない。90パーセントは、そのまま流れて行く。もっとかも知れない。顔をなぜる水の量はわずか。水か、もともとは日本海の海水。それが、雪になって、山に積もってそれが雪解け水になって今の水道を流れている。どのくらい前のものだろうか。それから、窓越しに、ヒメジョオン、もしかしたらハルジオンの花の群生を眺めていると、ここもどこかわからない異国の地と思えなくもない。それで、緑と水がイッショクタンになったものはないか、というと、少し古くなるが、水槽の金魚とその中を揺れる藻の絵が浮かび上がった。
  まだまだ誰かさんが小さかったころに、おばあさんである人と、その女の子はお祭りにいって、それで金魚一匹おまけにもらってきた。それでは、と、おばあさんは、その金魚の面倒を見ないといけないと思い、それからおじいさんに、水槽と酸素供給モータ、面倒になった、金魚飼育装置一式を購入するように命令した。あるときに、気が付くと、そのおうちには、金魚が泳いでいて、泡がプクプク出ていて、それから、なにか水車のようなものが回っていた。よき時代であった。その小さい、かわいい女の子はしかしもうすぐに、金魚に飽きてしまった。これまたよくある話し。
 
  藻みたいなものは、ままきれいな水の中に揺れていると、かなり美しい。それから、その藻にも色々あって、似ているかどうか、ミドリムシなどが思い出される。水滴をグラスにたらして、顕微鏡に見えるその水の中の光景はなかなか美しく、虜にもなる。さらに藻の中に、光のエネルギを、化学エネルギに変換する能力を持つものもあって、この化学エネルギは、人の、あるいは一般の生き物のエネルギ通貨といわれる、ATP、のことである。
  藍藻という言葉がときに思い出される。真水に生きているもののようである。この辺りはかなり、曖昧のままである。さらに、海水に生きる、藻というものもあるようで、この海水というのもその表面からある程度の深さまで光は届くようで、この生き物も小さいながら、世界中の海にいると、かなりの炭酸ガスを固定する。ガス、気体ではなく、これを、固体の有機物質に変えてくれているはずである。

  再び、水槽の世界に戻ると、そのもはや誰も興味を示さなくなった金魚と水槽の藻は、しばらくの間は生きていた。ときに、年に数回水を替えた記憶もある。それは、その後姿を消した。夏には水に接する機会が増えるし、また、その水が不足することもしばしばである。水槽に、金魚は要らないが、藻の一つも泳がせてみるのもいい、ふと、パンを焼く間にそんなことも考えてしまった。

何でこんなに暑いのだろう

2008-04-29 18:56:38 | 散策
  暑いと言ったらいいのか、それともこの気温で、かつ乾燥がある、体がおかしくなると言うべきか、いずれにしろ体にはよろしくないお天気で、こうゆうときは、なるべく外に出ず、薄暗いところで静かにしていたい。そう思うが、その部屋の中の気温も、23℃か24℃にまで上がっていて、これは夜にも気温はすこし下がっても、部屋の中はよどんでいそうである。
  変化についていけないというのが、体の老化の特徴であると思う。昔は、もう少し若かったときは、それなりにしんどい思いをしたが、それでもやっぱり一年し一年体は変化し、一部らくちんになるものもありそうだけど、言い訳というものが幅を利かせることにもなる、やっぱり、このとんでもない気候の変化には、もうついていけない。でも、ラジオのアナウンサの方、DJの方はいいお天気で、絶好の行楽日和など言われる。
  ここで、少しカチっと来るものはあるが、これはしょうがないというか。そもそもラジオというものも、そんな一人一人の健康状態を考えて放送されるものでもなく、かつ、特に花粉で苦しめられた放送関係のお仕事の方は、その花粉症の対策をしつつ、それに苦しめられつつ春の行楽のガイドなどやっていたから、そう考えると、明日もいいお天気で、気温も上がって、やっぱり行楽とはいかなくても、いいお天気でやっていけそうですね、傘の心配はなく、仕事帰りのビールがおいしいかも知れませんね、などいわれるのも当然か。そうか、そうだな、自分もそうゆう立場なら、そうゆう風にいうだろうな、もしもお酒が飲めないとしても、など、ぐるぐる一回り今日の揺れる一日を、アナウンサの方の言動で振り返ってみた。

  それにしても暑かった。いつもの道を歩き、歩数計があったら、どのくらいになったか考えてみたりする。しかしそれはもうやっていて、平均すると30分歩いていいところ、3500歩である。これは正しくは、歩数計の振り子がそれだけ揺れて、と言うことになるが。それでは、一日一万歩というと、1.5時間も歩かないといけないのか、これは今日などこれを実行すると熱中症になることは請け合いである。まー歩けないこともないが、水とかそれから、熱の放出機能のいい洋服なども必要だろう。さらに、紫外線もこれもかなりきつそうであってそれの対処も必要である。
  一気に、初夏か、あるいは夏といってもいいかも知れない、そうゆう気候に、不連続にジャンプしてしまった。風は吹いていたが、これが熱風に近い。途中で、私は用を済ませたから、もう一番短い道を選んでさっさと建物の中に入ってしまった。いやー今年一番の暑さ。驚きの暑さ。かなりかっか来ているって、それはないが、こう暑いと頭痛も出てくる。まったく、このお天気が明日も続くという。元気な方はいいだろうが、この気候特に異常でもないから、おっかなくなってくる。

  まずは水分を十分に取る。それから、汗。そういえばあまり汗をかいていない。背中が焼けると思ったほどだが、汗はあまり出ない。なるほど。メタボリズムも狂うが、人の体温調節機能も大いに変調していそうである。この程度にしか、思い付くことはないが、この辺りのことは結局は自分でどうにかしないといけない。そのための策も考えておかないと。色々ややこしいことの多い世の中であるが、頼りは自分の感覚。もう寒くはなくなった、嘘のようだ。これからは、この暑さ、高温、それとこれもよくない、乾燥に対してどうするか、これくらいはやっぱりどうしたらいいか、手掛かりだけでもつかんでおきたい。

  朝の様子。




  ガクアジサイか、その変種のアジサイの花芽が出来ている。今朝見て初めて知った。もうそうゆう時期なのかいね。




  こっちも、そうゆうものが出来始めているようだ。朝だから、緑がやけにしみる美しさを持っている。




  白いツツジ。この花がこれだけ咲くのも珍しい。そう詳しくは覚えていないが、これほど咲いているのは記憶にない。




  キラキラするものもある。この白いツツジの花に、今日の強い日の光は、かなりきつかったと思ったりもする。でも、多分このツツジのほうが丈夫かも知れない。

日の出

2008-04-29 16:52:51 | 散策
  暑い一日、熱中症になりそうな感じです。
  それから、なぜかのどの痛み。
  ややこしいお天気。ついていけません。

  日がすでに、高くなって来ました。それから、その位置も
  真東より北側に移動しています。




  4月27日、日曜の朝日。少しどんよりで、眠そう。




  今朝の朝日。外の気温は、ひんやりモード。
  それから、25℃くらいまで上がった、という。




  今朝の、瓦。真冬の冷たさは、さすがにないみたいです。  

ヒメジョオンの咲くころ

2008-04-29 07:08:37 | 散策
  朝のお天気、快晴。ピカピカの朝日がかなりまぶしい。風がすでにあって、南風が吹いている。これは日中に北風に変わるかも知れない。室温13.5℃。この気温は、少しピリピリ来る。

  小さな畝があって、ほとんど裸だが、そこに小さいタネ、大きいタネを播いて、それからかなり時間がたつが、大きいのは芽が出た。これは、ヒマワリ。去年購入したのが、余りに小さいものだったから、今年はよくわかるものにした。この回りも、薬に強いスギナが繁茂し始めて、このタネの芽もさすがにこのスギナの生長には負ける。よって、花切りバサミを持ってきて、まずは足をまげて、地面に座るようにし、その挟みを地面に平行にチョキチョキやってみる。
  この挟みは、もともとは垣の手入れ用だから、大きいし、よく切れる。よってスギナの虎刈りは程なく完了して、それでもまだまだ残っている高さと、ヒマワリのそれは同じ程度。
  この5、6分の作業で足がやけに突っ張る感じがその後に出た。なんとも、やわな体。普段何もやっていないことが、ここに証明された。なまくら権現である。それにしても、多くの方はプランタにたっぷり土の入ったものを、いかにも重そうである、移動されているようで、新しいチューリップなどを見ることが出来るが、それにしても、よくあの大きさのものを移動できるものだ、と変に感心する。

  ヒメジオンと書いて、「姫路四」と出て、それから、ヒメジョオンでしょっと出る。その通りであった。ヒメジョオンの花がようやくすこし賑やかになって来ている。この花が咲かないと、なんかもう一つの春が来た気がしない。しかし、このヒメジョオンもハルジオンかも知れないので、でもここは、ヒメジョオンにしておきます。
  この春の雑草とされるお雛様も、いくつか春に咲く花の順番があって、そのいくつかの花が咲いてから、この花が出てくる。この順序は、ほぼ狂いがない。今年は、薬の行き届かなかったところのみ、この白を基調とするそれに淡い桃色の入った花が咲き始める。さらに葉っぱも茎も見事なグリーンを呈するので、これはまことに目にもいいし写りもよく、これに似ているカラスノエンドウ、それからときにレンゲの花も一体になると、そこにはまたたくさんの虫がやって来て、楽園が出来上がる。
  ハナアブだけではなくミツバチもやって来そうで、しかしこの虫はまだ、これっというものを見ていない。これ以外の、ハチやら、アブやら、甲虫やら、チョウが現われるのはもう必然であって、まー余りに興奮するのもよろしくないので、まずは、今咲いているヒメジョオンの白い、淡い桃色もある、その花を見ている。
  このヒメジョオン、日が強すぎても、頭が重くなるらしく、うなだれている。また朝になると、少し元気を取り戻す。緑と、白と、ときに濃い桃色が入り混じる。やっぱりこれだけ見ていても、楽園のような感じがして来た。

  この花が、そよそよと揺れる。そこにチョウがふわふわとやって来る。まことにどこにでもある景色であるが、これを見ていられる仕合せというものも、まことにありがたいもので、皆さんはいかがでしょうか。

新緑のもと、地下水道

2008-04-28 19:00:10 | 散策
  ときどきであるけれど、昔に比べて木の数が少なくなったということを、強く思う。目の前にあった、杉の大木が、丸3年かあるいはもう少し前の台風で無残に倒れたときは、その木の弱さみたいなものが出て、これが現実かと思ったりもした。しかし、その風はいつもと反対からの風で、それで、あっけなく長い間防風林として役立ってきた、その木は倒れて、それからはそのことが気になって、ついに、杉らしき木はみんな切ってしまった。これなども、今思うともう少し考えようもあると思うが、そのときはなるほど、しょうがないかとも思った。でも、それはやはりやりすぎで、ある程度の高さを残して、切るのがよかったようだ。
  最近は、杉ということで、花粉症の元凶のように言われる。この人の症状も、それまでには、あまり無かった。で、出始めのときは、風邪で済ましたし、しっている方は、それがかなり昔からあることもわかっていて、しかしなぜ今頃になって、その症状が出るのか、不思議でもある。私もこの症状が出たのはすでに学生を卒業していた。新緑のいかにもすがすがしい若葉を見て、この緑のもとはなど、やっぱり思うし、ばっさばっさ、切り取られた、古木の杉の切り株を見て、どうも悪いことをしたものだ、など思う時もある。

  水の話しというのもある。水道水ではなく、地下水。こちらには、若干ロマンというものを感じる。湧き水である。名水など言われると、それを飲みたいなど思うこともあるし、ときに歩いていて、山道ではなく、普通にわき水が出ていて、コップか、ひしゃくが置いてあれば、一口飲んでみたい、そいゆう気にもなる。
  名水というと、そこに人が集まる。これも、あまり望まれるものではないようで、人知れず歩いていると、そこに湧き水があるとまことに今日はいい日であった、など思うのは間違いがない。でも、今はそうゆうものもなかなか出会わない。水辺の道、山里の道、昔と変わらないところ。これはもしかしたら大都市の回りの、少し鄙びた道辺りには、今も残っているような気がする。
  人も水も飲むが、大木も潅木も水を求めている。大木があると、その下には地下水が流れているかも知れない。そう思うことは何度かあって、同じようなことを書いている。昔からの大木は減ったが、鎮守の森の下、どこかの集落の片隅、あるいは旧家の庭の大木の下には、地下水が流れている。そして、その大木は、あるいは周りの木々は、どの程度その水を吸い上げているか、きっとかなりな量になる。それこそ、プールの水など、一気になくなってしまいそうである。川に流れる水、それから、地面に残る水。地下にもぐって、長い長い間地面の奥深く旅する水を考えてみる。それから、

  新緑のもとというと、これは光合成の原理から、もう一つ忘れてはいけないもに、炭酸ガスがある。もし、炭酸ガスが無かったらどうなるか。無論、ありすぎてもいけないことは、強調されている。しかし、この気体の二酸化炭素がないと、太陽のエネルギを植物は、あるいは一部の細菌なども、固定出来ないのもこれも明らかなのである。なかなか、調和を保った時代のあり方が、存在出来ないのはなぜ、などこの緑を見つつ、毎度のことだが、反復して思う。

  これで、いくつかの木が登場する、お膳立ては出来たかどうか知らない。そんなものは要らなかったかも知れない。




  梅の木。今はこの木の実が、非常に小さいが出来ている。




  なかなか見かけない、そうゆう美しい木を見る。何の木だろうか。お庭にあるもの。借景。




  この木は、かなり大きい。よく街路樹にある。その木をよく見かけるが、これだけのものはなかなかない。




  ちょうど、まともにお日様に当たっていて、実際はもう少し赤いカエデも、変化する。下側の赤い色がお馴染みである。

フキノトウの今

2008-04-28 16:52:48 | 植物・花(春)
  フキノトウだって、そんなものがまだあるの。
  自分でそう思ったりもするが、やっぱりそれはフキノトウ。
  
  木の影になって見えなくなっていたが、そのフキノトウは、
  おじいさんになっていました。




  お行儀のいい写真ですね。オリジナルをそのまま縮小しました。
  右上に、ぼんやり全体のものが見えています。
  
  これを、拡大すると、



  
  これだけ見ると、何がなんだかわかりませんね。
  フキノトウが、よんでくれたのかも知れません。  

朝の湖面を眺める

2008-04-28 07:15:41 | 散策
  朝のお天気、雲の多い晴れ。太陽が顔を出したり、引っ込めたり、忙しい。きのうの強風が嘘のような、静かさ。また、吹くかも知れないけれど。室温、14℃、さっき顔を外に出したら南の風が冷たい。見るのと、感じるのは違う。

  TVを見ている。聴いたりもする。でも、ラジオに耳を傾けるときが多く、でもそれに集中すると、どうも何事もおろそかになるので、ときにボリュームをしぼる。でも、やっぱりラジオはいい。そのラジオも、電気ヒータやら、PCやら、ルータやら、別個においてあるディスクのオン・オフ、自分がいるかいないか、あるいは、あからさまにアンテナを手で握るかいなかによって、雑音が入り、その程度も変調する。この雑音が、ときにシャクにさわる。お天気が怪しくても、そのようになる。ジージーいう雑音が入る、ラジオによって天気の様子もわかりそうだ。

  湖面、懐かしい言葉で、また懐かしいそのもので、最近見たことがない。まったく、いったいいつに、湖というものを見て、それから見ていないか、覚えていない。そのサイズをずっと小さくして、せいぜい25mプールくらいにすると、そのようなものだと、お城のお堀が、最近見た水面かも知れない。
  そのお堀に波は立っていなかった。ここにポチャンと石でも投げたいが、しかしそれをやる気にもならない。それで、本物の湖面を想像すると、そこにはモーターボートが走る。かなりの勢い。ジェット噴射式かも知れない。その後には、波しぶきが残り、さらに線上の波は段々横に広がっていく。果てしなく、広がるようで、これの拡大版が津波だが、再び、モーターボートの波に戻ると、その波によって、湖面の陸に近いところに生えている、蘆をゆらゆらと揺らす。この蘆はたくさん生えているから、一斉にゆらゆらと揺れる。この蘆は、風によってもゆらゆら揺れて、モーターボートと、風の揺れによって、その動きはさらに複雑になるかも知れない。

  なかなか、朝の湖面の光景というものも素晴らしいもので、本物を見ていると、少しめまいを覚えるような気がする。電波というのも、AMでもFMでもいいが、ラジオの電波というものも、このようにして伝わると説明されているものを読むことがあった。ここでようやく、湖面の揺れと、ラジオが結びつく。それで、雑音に相当するものは、何かというと、小学生か中学生の、まだまだ元気な子供さんが、向きになって、石の投げ合いをする。何回湖面をたたくか競争する。そうゆうものが、たまに蘆の揺れに影響して、その振動に変調を与える。それが、雑音ではないか。これまた、想像である。

  電波、電磁波というものも、ずいぶんと長い間その正体を間違って認識されていて、よってこれをごくごく簡単に理解するのはむつかしい。よって、これはもうあまり考えないことにして、ラジオに耳を傾ける。これが一番いいようで、お気に入りのDJさんが登場する、アナウンサがおしゃべりするときは、静聴する。いっときの安寧の時間がここにあり、また湖面の揺れも思い出すことが出来る。

強風でちんまりの一日

2008-04-27 18:48:14 | 散策
  いつの間にそんな強い風になったのか、朝は、まだまだ穏やかだったが、それから一気に風が出て来て、飛ぶものは飛ぶ、薄いカーテンやら、ハンガにぶら下がっているものも、窓から外にはみ出て、窓を閉めようとすればその風の勢いは増すから、その着物も窓に挟まってしまう。よく、閉じられている窓から、カーテンだけが外に出て、ふわふわしている。窓ガラスはきちっと閉められている。そうゆう経験をすることがあって、慌てて、窓を開けて、しっかりとカーテンを中に入れて、それで安堵する。まったく、

  風邪でもないだろうが、朝から鼻詰まり。でも、鼻風邪というのもあるし、しかしいくらなんでももう花粉症は、特に杉のものはないだろう。頭痛もあるし、気分も今一つだし、暖かかったり、涼しかったり、思うようにいかない毎日が続くから、体もおかしくなっても、特に不思議はない。
  鼻詰まり、なんだか懐かしい、もう目の痒みはないし、でも喉の違和感は、やっぱりある。体があちこち痛い。これはしょうがないか。痛いなら痛いなりに、直してゆくしか方法はない。体を取り替えるわけにはいかない。よく、そうゆう自分を大切に、あるいはそうゆう自分であることにありがたく思う、などの言葉もあるようだが、なかなか自分の都合の悪いものをよしよしとする気にはなれないもんだ。
  それでも、長い間自分は自分であり続けた。そうゆう、格好なり考えなり、知識なり、その、つまり知識の反対のもので、生きて来たから、やっぱりこの体、いくら性能が悪いとか、うまく動かないとか、もう少しお利口ならなど、考えるものだが、愛着を覚える。いとおしくなる。もう一度生まれてくるなら、やっぱり今の感じでいいなど思ったりもするし、そうゆう考えでないと、こうありたいということが際限なく続いて、心の安寧もやって来ない。

  ただ風が強く、物が飛んで来て、花粉症のあるいは、鼻風邪の症状が出た、というところから、かなり、あるいは少し飛躍したようである。大体が、そうゆう風に思うことは思うが、最後はこれでいい、そうゆう風に完結する。4月であって、そういえば、4月病があった。皆さんは大丈夫だったでしょうか。これから、5月病が始まる。こちらの方が、本格的というか、重いものがある。より、身にしみるものが、目の前に山積する。あれあれ、これでは応援にもならない。これはいけない。余りに悲観過ぎるのもだめで、ほどほどであることが望まれる。自分にもそう言い聞かせて、それでこれからも、このややこしい時代を生き抜いていかないと、など思ったりもする。

  きのうの続き。どこにあるのか、わからない、川べりの風景。



  時間的に遅い時期遅れに感じる、菜の花。風もあって、ふわふわ揺れている。水路の水の色は、お世辞にもいいとはいえない。




  バラと、提灯の取り合わせ。この白い花を下から見た人はいらっしゃるのだろうか。機械を使うと、出来そうだが。




  真っ赤なツツジの花があった。これはよく目立つが、そばに行かないとその正体はわからなかった。川は、用水だった、このもう少し向こう側にある。




  これは、もう用水からすこし離れてしまった。用水は道と分かれてゆく。このヤマブキ、風が強くて、きのうも強かった、それで、どうにかこんな感じになったが、やっぱり風で揺れているようで、取り上げてみました。