光年・千年

纏わりつくが、纏まらないおはなし、日記ふう。

歩いていないこと

2008-09-30 18:47:25 | 散策
  秋も一足飛びに、本物の秋に近付いているようで、紅葉前線はどうか気になるところ。紅葉というと、どこが有名とかTVで見ていたのはなぜか、思い出したが、なるほどあのときか、そのくらいの程度で、日光もいったし、箱根もちょっといった。その程度でいいと思うし、自分の紅葉というのは何なのか、考えてみることもある。紅葉の美しさと日頃の行ないとは何か関係があるのだろうか。

  紅葉といっても色々で、それで寒すぎる紅葉もあるだろうし、暖かな紅葉もある。寒すぎる紅葉は、人の顔が赤かったのか、青くなるときで、それはいつになるか、誰もわからない。このことがあるから、少し憂鬱で自然の掟には人は逆らえず、ただその時間を待っている。
  高山から降りてくる紅葉は美しいと思う。そちらの紅葉は最近はまったく見ていない。これはTVでも放映されるはずだが、その印象も少しぼやけたものとして、脳裏にに再生される。これも、その人の年齢だとか、調子だとか、状況だとか色々反映される。紅葉は自然の変化を反映している。人はその色を見て、自分がどの位置にいるか、わかるような気がするが、ただの相対的なものだけなのか、もう少しなにか真に迫るものがあるのか、わからないことが多い。

  まったく歩かなくなった、とはいえないが、散歩道を歩くことは減った。その道はまだあるし、しかし歩く気がしない原因も一つあってしかしあまりに個人的なことである。そこを回避すると、またもとに戻ることが出来る。選択肢はあるが、気が乗らない。
  歩くことも減ったが、今はもう夏の暑さが懐かしいくらいで、汗もほどほどである、青くなるときの、冷や汗のほうが多いだろう。だから、歩く気はある。なんだかおかしくなってきた。あるく気はあって、少ない距離を歩いてはいる。ほとんど用事で歩いている。もう少し歩きたいという気がなくなった。ただ単純に歩く、まー多少の横道は、油売りはあってもいい、それが出来ない。おかしなものである。これも、そのうち変化が出るだろう。それでいいことに。

  それで、またその散歩道の一部だが、短い距離を歩いて、虫探し、チョウ探しといった方がいいかも、それをやっている。特に、それだけではないが、今はチョウも、アカタテハ、ヒメアカタテハ、ツマグロヒョウモン、などゴクゴクそこにたくさんいるタテハチョウを探して、これを見つけると少し高揚する。なんだか今は、特にタテハチョウだが、それに注目していて、返って他がおろそかになっているかも知れない。

  彼岸も最後というとき、畑のようで、またコスモスたら、その他の花を咲かせているところに行った。コスモスは、一度倒れていたものが、あるものは刈り取られて、すっきりしている。またあるものは新しく花を咲かせる。ちゃんと面倒をみる人がいる。その後に、ちゃっかり花だけ見させてもらっている自分だが、これはしょうがないか。位置でいうと、反対側というところにも、人がおられてあまり気にもしないが、この花はきれいとかいわれている声が聞こえた。それでよかった。
  コスモスの花、そこに呼び寄せられるヒメアカタテハ、これはちょっと手に届かないので、ここにあるフジバカマの方へとゆく。いつも、いい香りがする。するはずだが、ことしはまだその匂いがない。それで、花もかなり開いているフジバカマのそばで静かに息を吸った。やはり、いつもの、フジバカマの匂い、香りはなぜかない。おかしいと思ったが、それ以上近付くことも出来ず、そこを退いた。
  なんで、ことしはフジバカマの香りがしないのか、不思議である。

  歩いていないということでした。

  身近なところ



  まったく身近。秋の瓦、この露の輝きが今頃戻ってきた。この瓦もずいぶんと長く雨に雪に鍛えられている。




  なかなか気が付かない、道端、舗装路の端っこ、ちょっとした土から出ている植物。これは絵になる、そう思った。




  もう少し下がって、もう一度。タンポポみたいなものだろうけど、見かけない。




  シソ。これだけのものがあると、安定感があって見栄えもする。シソだけで、探検が出来そうである。

9月も最後の朝

2008-09-30 16:20:40 | 散策
  朝は晴れ、昼も晴れ、今は曇りで気温も下がった感じ。

  物忘れというのは自分でもひどいものがあるが、
  紙に書いたりして何とか大切なもので、ミスはない?。
  もともと記憶力ナシ。それゆえ、何度やっても覚えられない
  ギリシャ文字がある。

  物忘れの人がそばにもいて、それで、これしかないというような
  薬を飲んでいる。この薬も機嫌がいいと飲んでもらえるが、
  そうでないときがあって、苦労する。どうにか、最後は飲んでくれるが。
  たまに、今日はナニナニをする日だよというと、馬鹿にしている
  など言われるのも、つらいものだが、こっちもそれを忘れる
  というときもあるから、なるほどなー、とも思う。

  しかし嫌がられようと、言うときは言わないといけない。
  今のところ、あり得ない話しというのは出ない。
  私のほうがそれをしているかも、と思ったりもする。それは十分あり得る。


  9月最後の朝。




  いい感じの朝。もう少し透明感があれば。




  目を下に向けると、草があってかなり大きな露が付いている。
  雨ではないと思う。




  少し明るくなる。




  ちっちゃいカエデ。赤い葉の上にも、見にくいが小さな露が降りている。  

秋晴れになるか

2008-09-30 06:45:13 | 散策
  朝のお天気、雲りのようだと思ったが、間違いで晴れ。少し朝焼けがあった。風は体では感じないが、雲の動きから南西の風がありそう。煙はゆっくり上昇して、そういえば北東へ向かっている。アメダスの6時の気温、13.6℃、気圧は1017.5hPa。室温17.5℃、慣れると快適?。

  透明な空がある。そこに白い雲があって、下から煙が立ちあがる。朝風呂とか、ご飯をたくそうゆう煙ではないみたいだ。結構朝早くから、朝だからかも知れないが、煙があがる。きのう火事のニュースというのがあった。その煙を見ていると、私がときどき煙いなとか思う、その煙の立ち方と似ている。遠くで、煙が見えてしかし確認しないと、火事かあるいはただゴミを燃やしているのか見当が付かない。朝の透明な空が白く茶色く変色する。
  もっともゴミは出しているし、そのゴミは燃やされる。どこで燃えているか、その差だけということだが。

  朝日は久しぶり。秋晴れの記憶は曖昧で、9月が終わろうとしている。ずいぶんと早い。それに暗い時間も多くなる。読書の秋とかいうが、暗くなると電気もたくさん使うし、読書っていう感じはしない。読書とは縁がないが、本は買いたい。ただ置く場所がない。
 
  外に出ると、空はかなり青い。日はまだ出ていない。白い雲と青空と、やっぱり物の燃えている、煙たい臭いがする。日は山の向こうの下にあって、もう少し地球が回転しないと出て来ない。そんなに寒くはなかった。大きな蜘蛛が巨大な巣を張って、しかしあの蜘蛛はどうなってしまうのか。

  灯油ヒータのスイッチを入れた。少し寒い。これをしばらくつける。今だと、なかなか灯油も減らない。それでも、火をつけると暖かい、ないよりはましだ。日が出た。カーテンが明るくなる。TVニュースを聴く。
  今日も太陽が出た。

水ボトルの容量

2008-09-29 18:44:47 | 散策
  9月も終わりで、10月がそこに来ている。郵便配達の方のやって来る気配があって、そのことは忘れた。テーブルの上に、購入しているPR誌二誌が、置いてあってこれは早いと思った。もう年末モードに入っているかのようで、私は慌ててはいけない、と思う。逃げることもなく、逃げられることでもない。構えていればいい、そう思うが小心ゆえどうもビビッている。ビリビリ揺れることもある。
  地震かと思うような揺れを自分だけが感じる。これは今に始まったことではなく、もっというと昔のときのほうがひどかったかも知れない。それくらい何かがあると、ビリビリ、あるいはユラユラしていた。今は、その頻度がまた少し増している。

  バッグに水というのは、もう夏だけではなく年がら年中で、それでもあまり気にしなかった。でも、水もいざ水があればというときにないものである。そうゆうものはたくさんありそうだが、今は水が気にかかる。水の値段もピンからキリまであって、水道だと、ピンと間違えそうだが、キリのようだ。これを間違えて使いそうになる。しかし何が一番いいか、やっぱりいざというときは、水道水あるいは水であって、お茶でもないし、また電解質、イオン、無機質、無機塩類、言いかたは色々だが、そうゆうものが入っているものが売られているが、さほど安いとはいえず、やはり水が一番のようである。
  水はかなりたくさん飲むほうで、またときにラジオを聴いていると、ペットボトル1リットルを一日に飲んでいる、とかいわれたアナウンサがいたと思うが、これはかなり職業的な事柄もあってさすがに、1リットルの水を、水道水を入れた、もとは商品だった、その入れ物を持ち歩く気はないし、また必要性もないと思う。

  今は350mlのものを使っている。緊張するときがある。こうゆうときはのどが乾く。あーここに水があれば、と思う。さっと取り出して、ごくりと飲む水、これはおいしいし、緊張感も和らぐ。やけにのどが渇くもう一つの理由は暑さだが、自然の暑さというものは、彼岸を境にはっきりするようで、たしかに彼岸を過ぎて、暑いという感じはない。多少はあっても、汗は蒸発している。それでも、
  のどは乾く。緊張すると、トイレにもいきたくなるが、また水も飲みたくなるもので、これは年がら年中付きまとうものに思えて来る。それでも、まだ、350mlの水入りのボトルが空になったということはないが、帰って来て一気に飲み干すことがあって、これは350mlでは少なくないか、とも思えて来た。500mlのものがいりそうだ。

  新幹線が、何と都の真ん中で止まった。かなりたってこのニュースを知ったが、最初はちょっとしたことと思われていた人も、待つ時間が刻々長くなると、イライラもし、また緊張もし、そしてトイレに、これはもういいか。このニュースを聴いて見て、新幹線なら、知っているところで、東京・名古屋間は2時間で行ってしまう。その時間を止まっている新幹線の中で待っていた方にとって、それはその2倍とか3倍くらいの長さに思われたのではないか。自分がそうゆうところにいたとしたら、どんな思いをしたことか、小さな不満がかなり大きくなっていたに違いない。

  それで、これはそのケースに当てはまるかどうかわからないが、水の一杯も飲みたいと思って、しかしそれがないとイライラ、不満もさらに増幅したに違いない。持っているだけで安心という場合もあるが、こうゆうときは、水も飲んで、また本でも読めるくらいの余裕があればなー、なかなかそうゆうことに遭遇しない私は思う。たかが水だけど。

  それで、今は350mlだが、さて500mlにするかどうか、空きのペットボトルがあるかどうか、やはり出かけるときのバッグの中は500mlの水があると安心。350mlだと少し心細い。
  朝からどれだけ水を飲んだか考えてみる。考えるというより思い出してみる。1リットルは軽い、朝だけでそのくらい飲むかも、一日だと、2.5リットルくらいかな。一々、メスシリンダで測るわけにもいかない。しかしそのくらいの水は飲んでいそうだ。水は大切で、まだ大事に扱わないといけなく、またこれほどありがたいものはなく、粗末に出来ない。自分によく言い聞かせないと!!!。


  色付きの秋。新鮮味はない。



  花に接近するアブ。まったくぴたりと空中停止。色がちょっと浅め。




  桃色、とモンシロチョウ。この花に蜜はなかったようだ。




  ツマグロヒョウモンは回数が増えた。秋の色の代表。決定打がない。




  ホタルガ。触角は、あるものは櫛のように分離して見えるが、これではそれがなかった?。

冠雪した、剱岳

2008-09-29 16:15:06 | 散策
  朝もさえない天気だが、今もどんよりしたお天気。

  途中少雨。台風の影響もあるのかな、など考える。
  しかしその雨も一旦上がった。
  田園地帯の田んぼも稲刈りを終えてひっそりしている。
  ナシの木を見ても、ある種のものは実もなくなって、あとは
  晩生のものが、しかしまだあるそうだ。
  そういえばまだ白い袋がかぶせてある、ナシ畑があった。
  ブドウではないはず。
  
  涼しいのと、雨もあるのか、
  きのうは飛んでいたチョウも今日は姿が見えない。
  ひっそり、どこかにいるのだろう。

  剱岳の初冠雪が観測された。
  いつもの、剱岳遠望。




  雲の上に出ている、剱岳。目で見ていると、あまり感激もないが、
  ファイルで見てみると、白い雲が剱岳を引き立てている。




  太陽が西の空に移動すると、剱岳の表面がわかるようになる。
  岩肌に雪。双眼鏡で見ると迫力がある。




  ガスか雲が、尾根辺りに巻き付いているようである。



  
  中央奥が、立山といわれる辺り。左が、奥大日岳、右が大日岳と思われる。

薄墨色

2008-09-29 06:51:03 | 散策
  朝のお天気、雨にはなっていない。曇りのまま。風はあまり感じないが、隣の街の工場の煙突、の白い煙は北に向かっている。アメダスの6時の気温、14.4℃、気圧は1020.2hPa。室温、18℃。着替えるときは寒い。

  曇り空で、まだ泣いてはいない。泣き出しそうな空があるが、遠く東に見える、北アルプス、剱岳、立山連峰は薄く黒く色付いて、その上のさらに薄い雲の色とは違う。こんな天気でも、高峰の山々が見える季節になった。空気がきれいと言いたいところ。
 
  いつものように、外に出る。しかしあまり上を眺めることはない。引っくり返りそうな気もするが、もともと体を伸ばして、という発想がない。かなり涼しいから猫背もさらにひどくなっている。しかし忘れたころに天上を見る。あー自分は小さいと思う。それから、ずいぶんとちっちゃな世界に閉じこもっていることもわかるような気がする。もっとも、その先に見えた白い、下弦を過ぎた月もかなり小さい。小さく見えて、これは遠いところにあるとは露考えない。

  地図を見る楽しみがあるが、せいぜい高校のときに使ったというものとあまり変わらないものを使っている。古びていて、国の名前も今は違ってという、そうゆうものである。これもいい、古地図ももっといいが、新しいものを購入した。これは、山だの川だのは書かれているが、その他、地面の高さなどは、標高線だった、まったく書かれていない、市内図、それから道路地図が大部分で、そういえば今頃このことに気が付いた。
  地図というのは、大体が、ここが知りたいと思うところがちょうど拡大版からずれていたりする。面白くない。事件が起こる、そこはどこだ、と地図を見る。これは、推理小説だが、地名は本物が登場する。そこはどこだというとき、地図はなかなか役に立たない。

  新しい地図で、最近通ったところを確認する。かなり大きな(小さいの間違いか)縮尺になると、実際の詳細度はそれに反比例するが、いろいろ情報が書いてある。ここから眺める山々は美しい。ここの産物はナーニナニ。なーるほどね。知らないね、知らないことが、実にたくさんある。なんだか物知りになった気がする。しかし、総じて地図から読み取れるものは薄墨色だな、とか、かってにくっ付けた。
  道は歩いて見ないといけない。そういえばこれを忘れた、つまり自分の住んでるところ、これに関しては、これまで購入した古い物よりもダメで、なんにもわからない。

スイフヨウ(酔芙蓉)

2008-09-28 18:53:17 | 植物・花(秋)
  スイフヨウ(酔芙蓉)の花が、去年見たのと同じところで咲いている。
  白いのが赤くなった、ような気がするが、これは本当か自分でもよくはわからない。

  いつもゆく道は、大体同じだが、ときに気が変わって、ということもある。でも、病院の場合だと、大体同じ。そこの道をゆく。ずいぶんと通った。それで、慣れたような気がするが、そうでもないという感じだ。いつも辺りの様子を眺める。この緊張感がある。最初はここはどこというものがあった。今はそれこそないが、昔はこの辺りにも来たことがある。頭の中で、そう思う。それは実際のことだが、もはやかなり昔のことになって、その面影は今はない。
  開発だとかいう。新しい住宅が増える。道路も、昔のものはそのままのところ、それから、昔のものはなくなって、新しく出来たというもの、いろいろ。それだから、昔あったものはなくなって、という場合もある。田舎だから変わらないと思っていると大間違いで、変化はもしかしたら都会以上かも知れない。ガラリ、変わってしまう。その辺りのすべてが消えてしまう。でも、そうゆうことはさらに昔から繰り返されていて、その時代にいい眺めと思っていたものは、遠い昔の人が見ると、途方もない違和感のあるものだろう。時代はどうゆう方向に向いているのか。

  昔はクマは出て来なかった。それはありそうで、しかしクマも出て来る必要はなかった。何かが変わって、クマも住宅地に出て来ているのだろう。
  虫でいうと、トンボの類はほとんどいなくなった。これなどは父から、かなり昔に聞いたことだが、そういえば、まだ昔という時代にホタルなどもいた。それから、トンボはというと、そのときにはあまり気にならなかった。なぜ、トンボもみな消えてしまったということを今思い出すのか、それはわからない。ある程度の昔だと、田舎ではホタルが飛ぶのは当たり前で、それから私の子供のときと同じように、父が子供のときもトンボを取って遊んでいたのだろう。それもギンヤンマやら、オニヤンマやらの大型のものもいたのだろう。田んぼで遊ぶ子供の姿は今はまったくないが、昔はやはりあった。

  田舎とはいえ、他にも変化がある。それの第一は高齢化だろう。それから、お店がなくなってゆくこと。これは一番困ること。どんどんお店もなくなってゆく。困ったことだが、お客さんもいなくなったからこうなるので、新興住宅地の、あるいはさらに増殖中の住宅街では、相乗効果で、スーパさんも横並びになる。ここのスーパ、あそこのスーパでどこにゆくか、考える。ある人はこれで、休みのはずが疲労する。
  人の住まない建物も、増えたという感じはないが、ある程度歩いていると、それらしきものと出会うことが出来る。一つは、都会に出た子供さんと一緒に住むために、ふるさとを離れるというパターン。他にもあるのだろうが、住む人の数、あるいは住宅も増えたようで、片一方で寂しい光景を見ることになる。解体される家屋というのを見ることもある。まー、秋らしくシンミリしているが、決して明るい話しではないだろう。


  スイフヨウの花。芙蓉の花があって、スイフヨウがある。似たり寄ったりで、知らない人を困らせる。スイフヨウだから、色が変わる。そうゆうことも聞いたし読んだ。




  ここのおうちの方が「スイフヨウ」といわれたので、まずは間違いないと思う。白いスイフヨウで、クリーム色をしていて、この色も心の落ち着きにはいいような気がする。




  かなり高い位置にある。この植物、高さは3mはあってもっとあるだろう。白いのは、いいとして赤味がかったのは若干くたびれている。まさか、白いものが赤くなったのではないだろう。




  これも、白で新鮮な感じがある。咲きたて。




  赤めのもの。この赤めの色をしているものも、少しくたびれている。新鮮な花弁が変色を始めているかのようである。でも、これも最初から赤い花だろう。

  そう思って、今日が来た。このスイフヨウをしみじみ見た。元気そうな、白い花が薄っすら赤くなっている。薄っすらというのとかなりというのとがある。

  スイフヨウの花の色の変化は、そんなものはない、白はずっと白、赤は最初から赤と思い込んでいたが、どうも違うようである。白いものが赤くなるのは事実のようだ。ただ、花弁の様子、くたびれ方はどうだったか、そこまで詳しくは見ていない。

緑葉の今

2008-09-28 16:21:25 | 植物・花(秋)
  天気は雨ではないが、パッとしない。曇り。
  運動するにはちょうどいいようで、しかしゴロゴロしていた。
  ゴロゴロだと冷えるようで、電気ヒータも使用する。

  ちょっとした用もあって、外に出なければいけないときに
  珍しく、明るくなり、日が顔を出した。なんだか嬉しいような。
  そんなに秋が深まったわけではないのに。

  ご家庭の、静かな道に面している、キバナコスモスがきれいで
  奥まったところに、本物のコスモスがあって、しかし
  キバナコスモスに目がいった。
  ツマグロヒョウモンが、群れを成している。これはたしかに
  オーバーな表現だが、ツマグロヒョウモンが、オスばかりだった、
  少なく数えても5匹はいて、しばらく立ち止まった。
  音のない世界。黄色いチョウはキバナコスモスの蜜に
  酔いしれているようで、しかし一瞬ふわっと2、3の個体が
  浮かび上がった。またもとに戻った。


  秋は深くはないが、手短なところ。




  こんなものがあったけ、という感じのもの。朝だったら
  忘れていることもある。




  ツツジは常緑だろうけれど、雪が降ってこの木々は埋まってしまう。
  それでも、真っ黒になりながら、また春に新緑を出すはず。




  ちっちゃな秋。実際、このカエデの赤い葉は、小さい。

寒い朝

2008-09-28 06:48:05 | 散策
  朝のお天気、曇り空。思ったよりよくない。ただ雨は降りそうにない。さっさと外に出て、サミーのひとこと。風は少しあるようだ。アメダスの6時の気温、12.9℃、気圧は1021.2hPa。室温17℃、これに少し足りない。

  昨夜はうす曇り、日付が変わって、快晴。いい星空で、これは冷えると思う。星がにじむ空があると思う。実際は、目も疲れているし、焦点がうまくあっていない。でも自分の目で、にじむような星を見ると印象的で、明るい星が大きく、暗い星はそれなりに小さく、特殊な装置を使ったと思われる、にじむような星野写真があるが、それを見ることが出来たようだ。しかし寒そうですぐに窓を閉めた。眠ったときだか、そのときだったか忘れたが、厚めの秋ようの布団に変えた。それでよかった。

  朝が来るが感じは暗め。あれ、曇りかい。布団から出るのが少しいやだったが起きた。朝がそこにあった。寒いと少しシャキッとする。外の空気をよみにゆく。
  最初はなんとも感じない。それより、なぜこんな曇り空なのか、一人ぶつくさいう。晴れていればなー。まー曇りもたまにはいいが。それからすぐに寒いとわかった。ブルッとくるかこないか、その境目にいる。さっさとうちの中へ。
  試しに、ヒータをつける。今日も無事点火した。ヒータに温度センサが付いていて、これによると、その温度は15℃。信頼している水銀温度計は、17℃。やっぱり17℃だろうなー。しばらく燃やして、またスイッチを切る。水はまだ冷たくないが、牛乳は冷たい。1個25円相当の、大きなリンゴの半分の皮をむく。まったく、100円で売っていたものと変わらない。満足している。何しろ25円だし。このくらいの数字がちょうど安心の数字ということになる。なんだかそう思った。

  晴れて来たのか、太陽が出た。最高気温は22℃か23℃。もしかしたら、これを越えるかも。まだ9月だが、紅葉前線は一気に下って来そうで、今日もお山の上はさぞかし冷えただろう。凍っているはずだ。

5年日記の空きを埋める

2008-09-27 19:02:44 | 散策
  大そうなタイトルになってしまったが、まずは手帳を見て、このごろはどうだったか見直す。何がどうだったか、わけわからなくなるときがある。後から付け足したりする。それが間違っていたり、書いてあることの間違いも発見する。

  手帳はもう背も破れて、これはいつものことだが、5年日記の最近の2週間くらいを埋めるのに、これが必要になる。その時間があった。忘れていた時間で、時間そのものには余裕がある。まずは手帳を眺める。それで、こんなことしか書いてないのか、唖然ともするが、例えば今日の気温と、晴れのちクモリなど書いてある。曇りと漢字で書けない。
  2週間に近いとなると、いろいろ思い出すことも多い。病院にいったこと。それから、病人の状態のこと。お医者さんとの話し、あの時はにこやかだったが、なんで今は雲行きが怪しいのだろう。他の病院に紹介状を持っていったこと。その返事は、すでにお医者さんに渡してあるが、ある医師から、その後の転院の件はどうなりましたか、など聞かれたこと。これは、ちょっと特殊で簡単には書けなくて、そうゆうことがあり得るということ。それから、ちょうど2週間前は、父の状態はよかったこと、いろいろ思いだす。

  それで、5年日記である。5年分書ける。ただ、日付が同じでも曜日が違う、例えば今年の9月27日は、土曜だが、去年は木曜である。これが意外とすぐに飲み込めず、わざわざ、曜日のみ印刷されている、今年のところに日付を書く。これをやったほうが、間違いが少ない。逆にゆうと、それだけ視野が狭いというか、そのくらいの所のみ、集中していて、それ以外は見えていても認識していない。
  それで、まずは一ヶ月の一覧表のようなものがあるから、ここを埋めてゆく。面倒な作業だが、温度などなぞってゆくと、やはり今年の9月は結構気温の上がり下がりが激しいことがわかる。これなど、考えてみると当たり前のことだが、ただしこの気温も自分の目の前にある温度計の値で、さらに最高気温などは書いてないから、それのほうの変化は激しいはずである。そうゆうものがわかるように、天気を書く。雨のち晴れのち雨、雲り、アメ、晴れ、他には、雨、アメ、雨などまー色々であって、ときに前日から罫線をまたいで直角に曲がる線を引いて、きのうの夜から今朝にかけて、雨などとも書く。

  こうして、2週間くらいの、空きのままの5年日記は、一覧以外の個々の欄も無事埋まって、なんだか記憶も少ししっかりもして来ていいような気がする。嬉しい記憶、大変だったときのこと。急変するときのこと。これも同じようなサイクルで進行している。それで、5年日記は、どうにか埋まった。この先また、なにも書かないでほったらかしになるような気がするが、最小単位としては、1週間がいいところ、2週間はしんどくなる。もしかしたら、途中で止まってしまうかも。
  でも、まだその5年日記は、たった1年と9ヶ月しか使っていない。5年日記の醍醐味というか、そのありがたみというか、あるいは満足感みたいなのは、少なくとも3年はたたないと味わえないだろう。意味もないような気がする。なんだか結構大変なことをしている。時間はある。それを忘れる可能性が高い。


  朝からいいお天気、といえて、特に回復したというのも変だった。暖かい、あるいはときにちょっと強い日差しがあった。いつものように、外に出てみる。5年日記も埋めたし、少し余裕がある。
  田んぼ、あるいは休耕田。あるいは過去の田んぼ。その辺りに咲く小さな花を求めて、チョウは食事をしあるいは休憩してあるいは自身の更なる繁栄をめざして行動をしている。かなりひっそりしている。お邪魔している感じだが、それでもヒラヒラ舞うチョウを見ていて、植物に止まっている、あるいはひっそりとその影でで休んでいるものは、まずは目には入らない。





  こうゆう場面だと、なんだか遠くからでもよくわかってしまう。もう少し近付いてさらにびっくりもする。このチョウはモンシロチョウ?だろうが、この翅の色は何だろうか。




  ツマグロヒョウモンはすこし緊張する。うまくゆかない場合が多い。これはたしかメスで、接近はむつかしい。




  同じく、ツマグロヒョウモンのオスだと思う。コスモスの花にいる。非常に警戒心が強い。




  アゲハもまだまだいる。

  チョウの魅力は、一つに翅の美しさがあると思うが、これはチョウならではであろう。それ以外は、あまり見たくないような気もするが、加えて蛾がいる。これも、蛾だからいいと思う。