秋も一足飛びに、本物の秋に近付いているようで、紅葉前線はどうか気になるところ。紅葉というと、どこが有名とかTVで見ていたのはなぜか、思い出したが、なるほどあのときか、そのくらいの程度で、日光もいったし、箱根もちょっといった。その程度でいいと思うし、自分の紅葉というのは何なのか、考えてみることもある。紅葉の美しさと日頃の行ないとは何か関係があるのだろうか。
紅葉といっても色々で、それで寒すぎる紅葉もあるだろうし、暖かな紅葉もある。寒すぎる紅葉は、人の顔が赤かったのか、青くなるときで、それはいつになるか、誰もわからない。このことがあるから、少し憂鬱で自然の掟には人は逆らえず、ただその時間を待っている。
高山から降りてくる紅葉は美しいと思う。そちらの紅葉は最近はまったく見ていない。これはTVでも放映されるはずだが、その印象も少しぼやけたものとして、脳裏にに再生される。これも、その人の年齢だとか、調子だとか、状況だとか色々反映される。紅葉は自然の変化を反映している。人はその色を見て、自分がどの位置にいるか、わかるような気がするが、ただの相対的なものだけなのか、もう少しなにか真に迫るものがあるのか、わからないことが多い。
まったく歩かなくなった、とはいえないが、散歩道を歩くことは減った。その道はまだあるし、しかし歩く気がしない原因も一つあってしかしあまりに個人的なことである。そこを回避すると、またもとに戻ることが出来る。選択肢はあるが、気が乗らない。
歩くことも減ったが、今はもう夏の暑さが懐かしいくらいで、汗もほどほどである、青くなるときの、冷や汗のほうが多いだろう。だから、歩く気はある。なんだかおかしくなってきた。あるく気はあって、少ない距離を歩いてはいる。ほとんど用事で歩いている。もう少し歩きたいという気がなくなった。ただ単純に歩く、まー多少の横道は、油売りはあってもいい、それが出来ない。おかしなものである。これも、そのうち変化が出るだろう。それでいいことに。
それで、またその散歩道の一部だが、短い距離を歩いて、虫探し、チョウ探しといった方がいいかも、それをやっている。特に、それだけではないが、今はチョウも、アカタテハ、ヒメアカタテハ、ツマグロヒョウモン、などゴクゴクそこにたくさんいるタテハチョウを探して、これを見つけると少し高揚する。なんだか今は、特にタテハチョウだが、それに注目していて、返って他がおろそかになっているかも知れない。
彼岸も最後というとき、畑のようで、またコスモスたら、その他の花を咲かせているところに行った。コスモスは、一度倒れていたものが、あるものは刈り取られて、すっきりしている。またあるものは新しく花を咲かせる。ちゃんと面倒をみる人がいる。その後に、ちゃっかり花だけ見させてもらっている自分だが、これはしょうがないか。位置でいうと、反対側というところにも、人がおられてあまり気にもしないが、この花はきれいとかいわれている声が聞こえた。それでよかった。
コスモスの花、そこに呼び寄せられるヒメアカタテハ、これはちょっと手に届かないので、ここにあるフジバカマの方へとゆく。いつも、いい香りがする。するはずだが、ことしはまだその匂いがない。それで、花もかなり開いているフジバカマのそばで静かに息を吸った。やはり、いつもの、フジバカマの匂い、香りはなぜかない。おかしいと思ったが、それ以上近付くことも出来ず、そこを退いた。
なんで、ことしはフジバカマの香りがしないのか、不思議である。
歩いていないということでした。
身近なところ
まったく身近。秋の瓦、この露の輝きが今頃戻ってきた。この瓦もずいぶんと長く雨に雪に鍛えられている。
なかなか気が付かない、道端、舗装路の端っこ、ちょっとした土から出ている植物。これは絵になる、そう思った。
もう少し下がって、もう一度。タンポポみたいなものだろうけど、見かけない。
シソ。これだけのものがあると、安定感があって見栄えもする。シソだけで、探検が出来そうである。
紅葉といっても色々で、それで寒すぎる紅葉もあるだろうし、暖かな紅葉もある。寒すぎる紅葉は、人の顔が赤かったのか、青くなるときで、それはいつになるか、誰もわからない。このことがあるから、少し憂鬱で自然の掟には人は逆らえず、ただその時間を待っている。
高山から降りてくる紅葉は美しいと思う。そちらの紅葉は最近はまったく見ていない。これはTVでも放映されるはずだが、その印象も少しぼやけたものとして、脳裏にに再生される。これも、その人の年齢だとか、調子だとか、状況だとか色々反映される。紅葉は自然の変化を反映している。人はその色を見て、自分がどの位置にいるか、わかるような気がするが、ただの相対的なものだけなのか、もう少しなにか真に迫るものがあるのか、わからないことが多い。
まったく歩かなくなった、とはいえないが、散歩道を歩くことは減った。その道はまだあるし、しかし歩く気がしない原因も一つあってしかしあまりに個人的なことである。そこを回避すると、またもとに戻ることが出来る。選択肢はあるが、気が乗らない。
歩くことも減ったが、今はもう夏の暑さが懐かしいくらいで、汗もほどほどである、青くなるときの、冷や汗のほうが多いだろう。だから、歩く気はある。なんだかおかしくなってきた。あるく気はあって、少ない距離を歩いてはいる。ほとんど用事で歩いている。もう少し歩きたいという気がなくなった。ただ単純に歩く、まー多少の横道は、油売りはあってもいい、それが出来ない。おかしなものである。これも、そのうち変化が出るだろう。それでいいことに。
それで、またその散歩道の一部だが、短い距離を歩いて、虫探し、チョウ探しといった方がいいかも、それをやっている。特に、それだけではないが、今はチョウも、アカタテハ、ヒメアカタテハ、ツマグロヒョウモン、などゴクゴクそこにたくさんいるタテハチョウを探して、これを見つけると少し高揚する。なんだか今は、特にタテハチョウだが、それに注目していて、返って他がおろそかになっているかも知れない。
彼岸も最後というとき、畑のようで、またコスモスたら、その他の花を咲かせているところに行った。コスモスは、一度倒れていたものが、あるものは刈り取られて、すっきりしている。またあるものは新しく花を咲かせる。ちゃんと面倒をみる人がいる。その後に、ちゃっかり花だけ見させてもらっている自分だが、これはしょうがないか。位置でいうと、反対側というところにも、人がおられてあまり気にもしないが、この花はきれいとかいわれている声が聞こえた。それでよかった。
コスモスの花、そこに呼び寄せられるヒメアカタテハ、これはちょっと手に届かないので、ここにあるフジバカマの方へとゆく。いつも、いい香りがする。するはずだが、ことしはまだその匂いがない。それで、花もかなり開いているフジバカマのそばで静かに息を吸った。やはり、いつもの、フジバカマの匂い、香りはなぜかない。おかしいと思ったが、それ以上近付くことも出来ず、そこを退いた。
なんで、ことしはフジバカマの香りがしないのか、不思議である。
歩いていないということでした。
身近なところ
まったく身近。秋の瓦、この露の輝きが今頃戻ってきた。この瓦もずいぶんと長く雨に雪に鍛えられている。
なかなか気が付かない、道端、舗装路の端っこ、ちょっとした土から出ている植物。これは絵になる、そう思った。
もう少し下がって、もう一度。タンポポみたいなものだろうけど、見かけない。
シソ。これだけのものがあると、安定感があって見栄えもする。シソだけで、探検が出来そうである。