いいお天気で、西の空の太陽が、まぶしくきのうまでの梅雨のようなお天気が嘘のようだ。とい
つも晴れると思うものだが、晴れも三日も四日も続くと、いい加減鬱陶しくなって、雨の一つも降ら
ないか、という気になるから、人はないものを求めるし、また飽き飽きとする。ないものがそれが
目の前にあるとなると、すぐに大体飽きてしまう。これは人のことでなくて、自分のことだった。飽き
っぽい、その先がない。繰り返しがよくて、退行現象も見られる。何か追い求めるものがあるか、と
いうとないようで、それでいて、不満だけは一人前。お天気に向かってしゃべるのは、その点、気楽で、
お天気ゆえの苦労もあるから、お天気に向かって、あーだのこうだのいうのは許されるような気がす
る。それゆえ、お天気もあまりいい気がしないようだ。
喜怒哀楽、うまいこと四字の漢字が出てきました。喜怒哀楽、いい言葉ですね。最初の「き」、こ
うするときは出ない。それで嬉しいとか思うときはある。滅多にないこと。でも嬉しいときはある。
これは間違いはないようだが、その数は少ない、余り嬉しがっている場合でもない。喜怒哀楽、という四
つの演算子があるとすると、これは大体、足したり引いたり、かけたり割ったりすると、もとに戻って
しまうというか、平坦な何か、が残るだけというようなことを、感じてしまう。こうゆうことをいう学者
先生、研究者は多いようだ。新しい発見があれば、それの何倍もの未知なる疑問が生じるとか。これなど
は、相補性で代表される、ボーア博士の言葉が思い出されるが、それに接近することなく、その問題は
どうゆうことか、ということを知ろうとすれば知るほど、わけがわからなくなる、という、そうゆう
問題が私にはあるようで、あるところまではいくような気もするが、それ以上は追い求めない方
が、嬉しい状態であったりもする。
いいお天気になったということである。花でいうと、シャクヤクの花は咲かないか、あちこち
探しているが、なぜか咲く品種がある。これはここのいえでも咲いた。そうでなく、真っ白に近いと
いうシャクヤクもあって、それが一番お気に入りであって、これを見ると、たしかに嬉しいような
気がする。喜怒哀楽の、最初。その先というのは考えない方がいい。楽だというのも何のことだか。
だから追い求めてはいけない。シャクヤクの花が今は季節で、しかし去年はもっと早かったはずであ
る。で、シャクヤクの蕾は、ずっと早くから出来ていて、咲かない。
例えば、シャクヤクの本体の芽、というのも一度見ると、忘れることもなかなかない。そうゆう
点で、ボタンはずっと木でそこにあるから、消える状態はなく、返って存在感はないかも。シャク
ヤクはきれいさっぱりとこの世から消えて、それで、夏が来て、秋が来て、冬が来て、その冬の終り
に、芽が出る。うまいこと出来ている。なんだか、とっても不思議な花に思えても来る。もちろん、
そうゆう、多年生の植物、宿根草の植物は多い。
消えて、また出てくる。そうゆう風に見える。地面の下は、考えない。こうゆうものが、世の中
をまずは安穏と生きてゆくために必要なことのようにも、思える。秋の、マンジュシャゲ、ヒガンバ
ナ、同じような花だ。これは、それこそ春に、その緑を見せるが、一体にいつ枯れてというのも
わからないものだ。それで、その根っこの方を探ると、これに毒があるとかもいう。恐ろしい話しだ。
そうゆうところが今の世の中で、すべて見えるようになっているので、TVなど見ているとハラハラ
ドキドキすることが多いのだろう。これは精神衛生上、好ましいとは思えない。こうゆうこと
に、余り興味を持たない、というのが最近で、それゆえTVを見ていると、なんだか嫌になってくる
のだろうか。臭いものの蓋はしっかりしておかないといけない。
きのうは、今日もさほど変わらないが、ま、虫の写真の用意をしていたときは、たしかにそれ以上
のことを考えていなかったが、それから、その間というのも、いつもゴタゴタとものごとはあるも
ので、それで、ここの画面に向かうときというと、あさっての方向をむいて、おつむは働いて
いるようで、これが日常なのだが、今日こそお隣の町かも、というところで見ていた、田んぼ、イネ
の植えられている、水田というものを持ってこようと思った。これに間違いはなく、ここまで来るの
に、それ以外のいろいろなことがやっぱりあるので、いらないこと、いらんことを書いたと思う。
時系列でゆくと、このジャーマンアイリス、ドイツアヤメが一番最初。
これ、あちこちにあるが、真っ黒に近い色、というのもあった。それと
今日の印象でもないけれど、今もこの花は、あるいは今頃この花は最盛
かも知れない、という状況があるようだ。
身近に見た、田園、イネが植えられている田んぼ、水稲である。
端っこのほうに、苗の塊が大体置かれている。カセットみたいなものか
も知れない。イネランド。
嬉しくなる、また楽しくなる、楽はラクチンででなくて、楽しいだった、
そうゆう花々。
幾つか、どうゆうものがいいか考えるが、ごく普通に。
密集する、白い花。もともと、こうゆうところが好きなので。
イネの植えられている、田んぼはいくらでもある。で、その道の脇まで
田んぼはある。落っこちないようにしないといけない。いつも注意して
いる。田んぼにズルはいけない。もっといけないのは、農業用水とか
で、これははっきりいうと、私の場合は近づいてはいけない。
遠いところから眺めるのがいい。
曇り空の水田もいい。
その大きな水田はその先にある。で。入り口のようなところで、バラ。
何度かその辺りは歩いていて、このバラに気が付かなかった。きれいな
色。惜しいことは少し時期がずれたことか。
蕾はでも期待できる。
距離的には一番、離れたところ。秋も花が咲くかな。
つも晴れると思うものだが、晴れも三日も四日も続くと、いい加減鬱陶しくなって、雨の一つも降ら
ないか、という気になるから、人はないものを求めるし、また飽き飽きとする。ないものがそれが
目の前にあるとなると、すぐに大体飽きてしまう。これは人のことでなくて、自分のことだった。飽き
っぽい、その先がない。繰り返しがよくて、退行現象も見られる。何か追い求めるものがあるか、と
いうとないようで、それでいて、不満だけは一人前。お天気に向かってしゃべるのは、その点、気楽で、
お天気ゆえの苦労もあるから、お天気に向かって、あーだのこうだのいうのは許されるような気がす
る。それゆえ、お天気もあまりいい気がしないようだ。
喜怒哀楽、うまいこと四字の漢字が出てきました。喜怒哀楽、いい言葉ですね。最初の「き」、こ
うするときは出ない。それで嬉しいとか思うときはある。滅多にないこと。でも嬉しいときはある。
これは間違いはないようだが、その数は少ない、余り嬉しがっている場合でもない。喜怒哀楽、という四
つの演算子があるとすると、これは大体、足したり引いたり、かけたり割ったりすると、もとに戻って
しまうというか、平坦な何か、が残るだけというようなことを、感じてしまう。こうゆうことをいう学者
先生、研究者は多いようだ。新しい発見があれば、それの何倍もの未知なる疑問が生じるとか。これなど
は、相補性で代表される、ボーア博士の言葉が思い出されるが、それに接近することなく、その問題は
どうゆうことか、ということを知ろうとすれば知るほど、わけがわからなくなる、という、そうゆう
問題が私にはあるようで、あるところまではいくような気もするが、それ以上は追い求めない方
が、嬉しい状態であったりもする。
いいお天気になったということである。花でいうと、シャクヤクの花は咲かないか、あちこち
探しているが、なぜか咲く品種がある。これはここのいえでも咲いた。そうでなく、真っ白に近いと
いうシャクヤクもあって、それが一番お気に入りであって、これを見ると、たしかに嬉しいような
気がする。喜怒哀楽の、最初。その先というのは考えない方がいい。楽だというのも何のことだか。
だから追い求めてはいけない。シャクヤクの花が今は季節で、しかし去年はもっと早かったはずであ
る。で、シャクヤクの蕾は、ずっと早くから出来ていて、咲かない。
例えば、シャクヤクの本体の芽、というのも一度見ると、忘れることもなかなかない。そうゆう
点で、ボタンはずっと木でそこにあるから、消える状態はなく、返って存在感はないかも。シャク
ヤクはきれいさっぱりとこの世から消えて、それで、夏が来て、秋が来て、冬が来て、その冬の終り
に、芽が出る。うまいこと出来ている。なんだか、とっても不思議な花に思えても来る。もちろん、
そうゆう、多年生の植物、宿根草の植物は多い。
消えて、また出てくる。そうゆう風に見える。地面の下は、考えない。こうゆうものが、世の中
をまずは安穏と生きてゆくために必要なことのようにも、思える。秋の、マンジュシャゲ、ヒガンバ
ナ、同じような花だ。これは、それこそ春に、その緑を見せるが、一体にいつ枯れてというのも
わからないものだ。それで、その根っこの方を探ると、これに毒があるとかもいう。恐ろしい話しだ。
そうゆうところが今の世の中で、すべて見えるようになっているので、TVなど見ているとハラハラ
ドキドキすることが多いのだろう。これは精神衛生上、好ましいとは思えない。こうゆうこと
に、余り興味を持たない、というのが最近で、それゆえTVを見ていると、なんだか嫌になってくる
のだろうか。臭いものの蓋はしっかりしておかないといけない。
きのうは、今日もさほど変わらないが、ま、虫の写真の用意をしていたときは、たしかにそれ以上
のことを考えていなかったが、それから、その間というのも、いつもゴタゴタとものごとはあるも
ので、それで、ここの画面に向かうときというと、あさっての方向をむいて、おつむは働いて
いるようで、これが日常なのだが、今日こそお隣の町かも、というところで見ていた、田んぼ、イネ
の植えられている、水田というものを持ってこようと思った。これに間違いはなく、ここまで来るの
に、それ以外のいろいろなことがやっぱりあるので、いらないこと、いらんことを書いたと思う。
時系列でゆくと、このジャーマンアイリス、ドイツアヤメが一番最初。
これ、あちこちにあるが、真っ黒に近い色、というのもあった。それと
今日の印象でもないけれど、今もこの花は、あるいは今頃この花は最盛
かも知れない、という状況があるようだ。
身近に見た、田園、イネが植えられている田んぼ、水稲である。
端っこのほうに、苗の塊が大体置かれている。カセットみたいなものか
も知れない。イネランド。
嬉しくなる、また楽しくなる、楽はラクチンででなくて、楽しいだった、
そうゆう花々。
幾つか、どうゆうものがいいか考えるが、ごく普通に。
密集する、白い花。もともと、こうゆうところが好きなので。
イネの植えられている、田んぼはいくらでもある。で、その道の脇まで
田んぼはある。落っこちないようにしないといけない。いつも注意して
いる。田んぼにズルはいけない。もっといけないのは、農業用水とか
で、これははっきりいうと、私の場合は近づいてはいけない。
遠いところから眺めるのがいい。
曇り空の水田もいい。
その大きな水田はその先にある。で。入り口のようなところで、バラ。
何度かその辺りは歩いていて、このバラに気が付かなかった。きれいな
色。惜しいことは少し時期がずれたことか。
蕾はでも期待できる。
距離的には一番、離れたところ。秋も花が咲くかな。