光年・千年

纏わりつくが、纏まらないおはなし、日記ふう。

続・惜別花集

2007-05-31 19:00:23 | 植物・花(春)
  久しぶりに、大雨の中を歩いてきた。さすがに、バカだなって思う。
  雨の天気だとわかっていても、それまでの状態がさほど深刻ではない。ポツポツ、ときに瓦に雨粒が落ちる。痕跡が残る。そんな感じ。
  でも、まーやばい感じはあった。でも忘れてしまう。先ほどまで、5月も終わりだが、白い雲が流れていた。さわやかである。それが、予報どうり、怪しくなって来た。観天望気は、大体が自分の都合にいいように解釈される。実際、今日はひどい天気だったな、という感想を持ったとする。それが、例えば、病院に行くときだったりする。こりゃ普段の行ないが悪いからと思うが、その翌日がもっとひどい天気だったりすると、なんでこんな事になるのか、人事のように感嘆する。自分のときの方が楽だったなー、これは嬉しくもない。
  ひどい雨の場合、今日もそうだが、ホンの少しの時間の違いでその岐路はやって来るが、普通は少し様子を見る。今日なども、ひどい雨の時間は限られているから。これ以外に、雨が少し強いが、濡れる事は覚悟で歩くこともある。そうゆう状況にいつか鉢合わせすることがあるだろう。練習の意味もあって、それをやる。しかし、やはり今日の判断は間違っていたというか、天気の怖さを忘れている、と思う。なにしろ、すぐ近くで、落雷が。
  もう丸2週間前になるが、カメラのCCDにゴミを見つけて。こんなもの、ブロアで送風すれば問題なく取れる、と思っていた。それが、正反対な結果になって、よりひどくなって、これは修理に出さないとだめ、ということになった。長く待っていたが、それがきのう夜ようやく返って来た。運送業の方の仕事の大変さは十分わかっているので、夜遅くでも届けてくれた事に感謝。その結果だけど、電池など入れて、ファインダを見た感じでは、ファインダのゴミも取れていて、これは修理の必要に特に指定していない、まーまーかなと思った。もう夜も遅いし、確認は明日。それで、今日になって確かめて見たけど、やっぱり、CCDのゴミは、完全には取れていない。明るい雲を撮ってみて、絞り開放で、すでにゴミらしきものは写っている。でも、これでいいと思った。

  惜別って、そんなー、自分で書いていておかしくなった。それで、毎度になったシャクヤク。



  何が少し違うか、花の中心にオシベらしきものがあること。一昨日、撮りました。が、きのうが、よりよかった感じなのだけど手ぶら。で、じっくり観察したかな。



  最後は、わからないけど、白がいいかもと思う。この花少し中心が黄色、はっきりしないが外側は薄い桃色がある。でも、虫、ハチかハエか、どちらかわからないけど、がいることが肝心。花には、虫がいないといけない、あるいは、やはり、花には虫がよく似合う。  

光を出す生き物の謎

2007-05-31 07:29:03 | 散策
  朝の天気、曇り。どんよりとした天気で、風はほとんどない。室温19.5℃。
  外に出てみると、ポツポツ雨が降っている。眼鏡にこの雨滴が付く。朝の空間には、ある種のエネルギが満ちているというが、どうもその気配はない。ちょっとジメッとしているからか。植物は元気そう。
  きのうか一昨日からか、ふと蛍のことが思い浮かんだが、この画面に向かうとそのことが不思議と消えてしまった。それで、珍しく今日はそのことが脳裏にあり続ける。
  この蛍、小学校くらいで学ぶのかどうか忘れてしまったが、ずいぶんと本物に出会うまで時間があった。その本物の蛍と対面したの場所は、ずいぶんと昔の、ここの場所の近く、確か田んぼだったはず。中学生だったか、その蛍は確かにいて、牛乳瓶に入れて持ち帰り、それをその日の夜に眺めたかどうか、それははかないもので、その牛乳瓶の中で光る蛍を見たかどうか、多少は光っていたが、その日のうちだけのようだと記憶する。
  蛍の発光の仕組みというのは、これは、それからしばらくして解明された。あっけない感じだが、それはご苦労があったことだろう。化学反応で、可視光が出て、と言うことになって、ちょっと寂しい。しかし、私にとって、それは机上のことで、それがどれほど具体的に、実際的に、あるいは汗と涙とともに、あるいは、昔から詠まれた歌と一緒に理解されたかというと、これは、まったくないと書かないといけない。それより何よりも、その化学反応そのものが、まず理解しがたい。
  虫から遠ざかると、例えば、これは有名かな、ホタルイカというのがあるが、これはどのくらいの波長の光を出しているのか、実際に見たこともないし、その発光の仕組みもそういわれれば、説明できない。海に棲む生き物に、発光するものは多そうで、だが実際のところ何も知らない。さらに、可視光以外のものを出すもの、発光の仕組みが違うもの、そうゆうものもありそうで、ただ、想像してみるだけだある。
  少し前に、黒いネコを遠くから見かけて、その目が遠くからでもやけにはっきりギラリと光っていたのを見て、ここにも書いてみた。どうも、目から光を出すとはやはり考えにくい。黒いものが見えたのだから、それは反射光で、当然目にも、瞳にもそのくらいの光は当たっていた。そのネコの瞳は、かなりよく光を反射するのかも知れない。人の眼球、瞳もそういえば、やけになまなましく光るようだ。しかしそうすると、どうもその人の視力に影響があるようにも、思える。目は、光を特異的に受容する。同時に、また、怪しげな光を反射する。何とも、厄介な存在である。
  発光する植物、もあってよさそうである。これが、やはり一番安心して見ていられそう。そうゆうものは、すでに存在しているかも知れない。しかしそれを見つけた、あるいは創った人は、こっそりそれを眺めていて、これが世に出てくる、そうゆうことは、なかなか考えにくい。

惜別花集

2007-05-30 18:52:48 | 植物・花(春)
  お天気からゆうと、午後も少したって、3時のおやつころちょっと激しい雨。風はほとんどなく、ほぼ垂直に落下している。アメダスの結果を先ほど見ていたが、9mm、そのときの1時間の降雨量、ほどの値が出ている。これは気象台のもののはずで、それほどひどい降り方は、この辺り、ピンポイントでもあり、シロウトの感じでもある、していないと思う。空気の湿度は高そうで、気温がもう少し高ければじめじめしたかも。でも、外気温の最高は20℃くらい。湿気があっていい感じでもある。
  いつものように、歩いていた。ちょっと靴を変えた。妙な言い方だがそうなのである。はいていた靴は、運動靴だが、靴底が厚いもので、前、中間は、大してないが、かかとに近づくにつれて厚くなるもの。かなりはいた結果が、ひどい磨り減り方。均等でなく、右も左も外側がゲッソリなくなっている。これは、よろしくない。こんな些細なことで体の調子がおかしくなる?、そうゆう事はよく聞く。例えば、歯の噛み合わせの問題などが、よく例に出るようで。歯だけでなく、体の他にも影響が出るというもの。
  すでに、私は、かかと辺りもさほど厚くない、またちょっとだけ靴底の外側が減っている、そうゆうものを履いている。不思議と、この靴を履いて歩くと早足になってしまう。こんな事は聞いたことはない。
  きのうと今日の間で何があったかわからないが、ふと、きのうも見た小さなユリのような植物が、黄色い花を咲かせていて少し、驚く。私は、てっきりオニユリだと思っていた。ここの、こうゆうのが幾つかあるが、花壇ってホントびっくり花壇だな。埋蔵金なんていうのも出てきそうな予感がした。
  雨の降る前の状態は、ほどほどの気温と湿度があった。明日は雨のようだし気温も上がりそうにない。一旦咲いたこうゆう花も閉じてしまうかも知れない。

  きのう、薄紫のアヤメ科の植物の写真で、アヤメ科の植物の種類は何百もあるので・・・、という表現を使いましたが、これは、もっと狭い範囲の、例えばそれが、アヤメ科のハナショウブという花だとして、そのハナショウブの中にも、たくさんの種類がある、ということを言いたかったわけです。言葉が足りませんでした。訂正します。

  それで、惜別花って、また大仰な感じのタイトルを考えたわけだけど、結局のところ、ずいぶんと撮った、シャクヤクのまだ登場してなかった花、それの紹介です。



  ごく平凡な感じですが、かなり大きくまた、花弁もきれいに並び咲いて、これをそのまま記憶にだけ留めるのは、さすがにもったいないと思って。



  こちらの桃色のシャクヤクの写真の上に、ちょっと紅色のところが窺えますが、はたしてこの花の実態はいかに?。この辺り、自分でもまだよくわかっていません。この色の花の蕾のときのものは、すでに一度登場しました。
  もう一回、これでいって、5月の締めくくりにする予定です。   

梅雨を予感させるもの

2007-05-30 07:29:03 | 散策
  朝の天気、雲の多い晴れ、これって曇りって言ったっけ。雲は、いかにも雨を降らせますよ、といった感じ。室温20℃。
  久しぶりに、モズが木の枝に止まった。しかし、鳴かない。もういない、どこかに移動したと思ったら、いるようで、動いてくれた。それより、1分くらい前、何かドスンという音がして。なんで、色々なことがいっぺんに起こるのだろう。網戸のある窓ガラスに何かがぶつかった感じだが。見回したが、むろん何にも痕跡は残っていない。
  梅雨らしい、と思えること。まだ、雨が降っても梅雨とは言わないだろが、どうも梅の木の実も十分に大きくなっている。見事であって、でも青梅には毒があるから、これを食べる生き物はなかなかいない。最も、青酸は、梅の実の中では、糖と結合していて、その状態では毒性はない。梅干にすると、もう安心というのは本当のようだが、これを作っているときには、なぜ梅干になっちゃうと安全なのか、納得できず、結構ドキドキする。
  アジサイが育ってきている。この緑も、人一倍濃く目立つ。普通のアジサイ、ガクアジサイ、その他のアジサイ、それぞれ少しずつ蕾の状態が異なって、なるほどねーなんて思う。何がなるほどなのか?。この植物が大きくなってくるのも、なぜか梅雨が近いことを思わせる。アジサイ寺など、これもあちこちにある、も、行ってみたいところの一つ。これは、一人より二人の方がいい。
  そのアジサイであるが、まだまだ子供と思っていたが、きのうちょっと色がうす紫になっているものを見つけてギョッとする、ちょっと大げさかな。はっきり近くで見てないので、また人の記憶はものすごく曖昧だが、どうも葉っぱがそのような色になるはずはなく、もう”花”がそんなに育ったのか、と思うわけで同時にびっくりもする。アジサイの花とは何ぞやという大問題はここでは、書かないし、書けもしない。
  室温が20℃もある。たぶん外気温も高いだろう。雨は、今年の雨の量は極端に少ない。植物はもっと雨を必要としているし、地中の隙間も同様に思える。ここは、ゆっくりと、少しずつ、長い時間雨になって欲しいところである。さっきから、太陽光が当たってまぶしいけれど!!!。  

春なのか、夏なのか

2007-05-29 18:50:55 | 植物・花(春)
  目の前に名前はわからないが、ある木があって、それが珍しくたくさんの白い花を咲かせているが、一週間くらい前から、その花が、ぽつりぽつり落ちてゆくのがわかる。
  気候の異常はもはや当然の感があるが、今年の新緑はいつもより派手な気がする。この時季にこんな緑が輝いていいのか、そうゆう状態。それで、目の前にある木の花だって、普段は何とも思っていない。去年もそうだったし、おととしもそう。この白い花が咲くことは知っているが、その後になぜか今度は黄色い色の何かが出てくる。そっちの方が、気にかかっていた。今、記憶をたどっても割合はっきりしている、白の花が咲いて、その後しばらくして黄色い花?のようなものがまた出てくる。今年は、あまりにビッシリ白い花を付けて驚いてもいるし、この後どうなるか心配もする。何も木々だけでなく、より大きい範疇で、気象とか、あるいは地震とか、夏は本当に暑くなるのかなってなことも。
  一つの直線がある。また出てきた。これは、春とか夏とか直接関係はない。瞬間という直線で、ここにすべての生き物がちょうど”一直線”上に並んでいる。人に限ると、生まれたばかりの赤ん坊から、元気があふれている人、少しくたびれたおじさん、元気なおばあさん。それから、病気と闘っている人、皆この一直線上にいる。この一直線は、動いている。二度と同じ位置に戻る、重なることはない。そうゆう風な空間が考えられるかどうか、それには一抹の不安があるが、常に違う位置にある。ここに、生き物は乗っかっている。どんな状態であってもこのある瞬間の一直線に、皆同様に乗っかている。その状態は、瞬間、限りなくゼロに近い瞬間で、それは、その直線が常に移動しているからだ。
  この瞬間という直線に乗っかってある程度時間がたつと、人は、あるいは生き物は、生きているという実感と時間を味わう。今日も無事生きて来た、ただまだ、今日は終わってないので、何ともそこまでは言えないが。昔から、こんな考えを持っていて、年齢なんて結局あとからくっ付いて来るものだ、なんて思っていた。今もそうだが、なんでこんなことを書いているか、この辺りは複雑なところ。
  春なのか、夏なのかという問題だった。もう”半袖で”という言葉を聞く。それはニャイだろう、齢を重ねた私は思う。それで、今日は十分汗をかく、そうゆう一日で、ずっとシャクヤク詣でをしていた、その紅色のシャクヤクが、ようやくちょっと落ち着いたというか、形が整ったというか、それに、このシャクヤクは八重で、もしかしたらオシベがないものかもと考えたりしたが、ちゃんとあった。ようやく、一段落した、そうゆう気分である。長かったなー。



  アヤメ科の植物の時季というのもわからないもので、春よりやはり初夏というのが一般的な感じがする。なぜか、このようなちょっと見かけない色のものがあった。



  漠然と見ていると、特に何もないようで、でもちょっと今までに見たことのない風貌である。ただ、アヤメ科の花の種類も数多い、ということを読んだりしていると、ごく普通のものかも知れない。

野菜を育てています、ラジオ編

2007-05-29 07:22:18 | 散策
  朝のお天気、晴れ。全面にうす雲。風弱く、穏やか。室温18℃。
  ラジオを聴いているのは楽しい。ただ、楽しすぎるとそれだけに集中してしまう。それは、ちょっと困るので、聴こえるか聴こえないか、その程度までボリュームをしぼることもある。
  世の中には、色々、様々な人がおられて、まことに結構なことである。それで、なぜか虫がどうのこーのという言葉が、上記の状態にあるラジオから聴こえて、少し音量を上げた。この辺りは、虫が付きやすい、などというメールを紹介して、それはそれでいいが、それを紹介したアナウンサは、私は虫がだめで、という話しを始めた。ありとあらゆる虫がだめらしい。何回となく聴いている。ただ、昆虫は、かなりの種類いる。何十万は確実で、百万種といってもあながち嘘ではないだろう。
  その方が、話しは不連続だが、今度は野菜を作ってみようかな、と思って、と言われる。少し、リズムと音程を変えて。それで、本屋さんに行き、例えば『誰でも作れるミニ野菜、通信販売葉書付き』という本を手に取ったらしい。しばらくして、私にも出来そう、と思ってレジに行きかけたが、どうも虫の字が目に入って、立ち止まった。この先、書くこともない。
  そういえば、私の趣味は、雑草を育てることだ、ふとそう思う。
  夜になって、今度は音楽番組を聴いている。ミュージック・スクエアである。長ーく続いている。それで、音楽と関係ないところで、やはり野菜を育てる話しになった。葉っぱの野菜で、この女性ゲストはすでに、葉っぱが出てきてるところの話しだ。種を植えて、するとやはり芽が出るまでが気になって仕方なく、かなり眺めた。功あって芽は出た。この感激が歌になるのだろう。さらに食べるとおいしい、などまるで虫になったようなことを言われる。感心感心。ただ、虫の話しは出なかった。
  もとに戻って、この辺りは、虫が多いという便りを思い出す。ここの局のアナウンサ、もし、さほど虫の多くないところなら、ミニ野菜を育てているかも知れない。部屋の中で育てる限り、そんなに虫のことなど気にしなくていいのにと思うが。
  なんか、ラジオ話の丸写しでした。すいませーん。

黄砂降る暑い風の吹く一日

2007-05-26 19:07:35 | 虫、その他
  空が白く感じられたのはいつだったか、それからしばらくして、あまり歓迎されない風が強くなった。目がしょぼしょぼする。外をときどきに見るが、晴れているはずだが、青い色が見えない。
  最近、なぜかグレープフルーツを食べている。これが、あるからで、これしかない。しかしふと、この果実とある種の薬の関係について、こうゆう事はよくない、という記憶がよみがえる。一体何が、グレープフルーツと薬の組み合わせに起こっているのか、まずは調べてみた。
  ますます風は強くなる。さらに、青空は現われず、何だか自分の目がおかしくなったような気にもなる。強風だが、まさか黄砂が観測されたとは、そこまではわからない。何が起こっているのか、ぽつんと一人考えていても、何もわからない。黄砂か、なんかいやな感じだな。不潔恐怖はないが、
  除草剤とか、殺虫剤など、あちこちで撒かれているのを知ると、ちょっとびっくりする。”じょうろ”に入れて風のないときに撒いているのではない。コンプレッサを使って、本格的に散布している。それも、まープロの方がやっているのだが、当然ながら、自分たちの方に、その散布剤はやって来ないように撒いている。風がある。風上にいる。加えて、いつも思うが、そのうちの何パーセントが木々にかかっているのか、それは遠くから見てもわかる。まー、知らないことが一番だが。
  この黄砂、今日は黄砂がにくい、を含んだ空気を吸いつつやはりふらふらと、外に出てしまう。イネの苗は、もう土壌になじんだようで、ひとまわり大きくなった。水没していた苗は、今はちゃんと上部を水面より上に出して光を浴びている。それがこの風で、苗の先がちょうど水面をなぞる感じになる。列をなして、苗は水面になびいている。これもいい景色だな、と思う。黄砂がなければ、だけど。これで、苗も打たれても倒れなくなる。

  先ほどから、風が止んだ。そういえば今頃空は少し青い。くものこと、空の雲やら、宇宙のクモのようなものやら、地上の生き物の蜘蛛のことまで、何度となく書いて来たが、やはりここは、まずは、アンパンマンに似た蜘蛛に、登場してもらう。ようやく、ここにたどり着いた。



  まったく、この蜘蛛は、毎年決まって出てくる。まだ小さい。でも蜘蛛だから、足は8本ある。また、小さな虫を捕らえる、そうゆう仕事をしている。



  蜘蛛も色々で、こうゆう豪華な花をベッドにしている緑のものがいる。ここまで、何度も登場した花にいる。いつもなら、ここでおしまいだが、写真は2枚までで。花を食べている蜘蛛もいておかしくないと思ったが、ふと、もう少し見ていたら、こんなのがあった。



  三枚目、右下に、少し黒い小さな昆虫みたいなのが写っている。この後、どうなったか、定かではないが、この小さな黒い虫の運命はどうなってしまったか。これは、想像するしかない。  

お母さんと子供と犬と

2007-05-26 07:30:28 | 散策
  朝の天気、晴れ。穏やかで、きのうの夜の、この書き込みの後の、強風と雨と、大蛸のような雲がうそみたい。室温19.5℃。
  本の広告が新聞に載らない。本屋さんがない。ネットで買えるが、実際は買ってない。映画は、見ない。どうも体質か、合わない。TVで、たまに、映画をやってることがあるが、30分見て、なんとなくもういいと思って切る。結構どきどきしたし、眠るときにあまりアドレナリンは出ないほうがいい。
  PCを見ていると、時間は超高速度撮影のように進行する。時計の針の進み方が違う。これも、やはりあまりやらない方がよさそうだ。
  窓から、ときにぼんやり外を見る。ときにではなく、結構多く、長い時間見ている。そこに、人の姿とワンちゃんが現われた。たぶん夕方の、お散歩なのだろう。少し遅れて、小学校にはまだ行かなくていい、そう感じの子供が歩いて行く。子供は、普通はお母さんの手を求めるものだが、どうもそうゆう気配はない。ちょっと子供さんが遅れて行くが、それでも、何かに依存することなく、ぽつんと一人歩いている。
  犬の方はどうか、犬の気持ちはわからない。歩いていて、ときどきワンちゃんと目を合わせるが、彼か、彼女か、あるいはそのどちらでもなくなったワンちゃんは、概して無反応で、少し寂しい。でも、やはり、彼らは自分と同じ生き物である、ワンちゃんがやってくるとかなり活発になる。また、となりで、工事などあって異様な音なり振動がすると、これまた切ない鳴き声をあげる。
  犬と散歩をされる方はかなりいるようで、ときに鉢合わせするが、このときも、犬の反応は特に変わらない。
  そうか、家の中にずっといるワンちゃんもいる。ときどき、ガラス窓に身を摺り寄せている犬を見ることがある。同時に何か吠えているようでもあるが、何を言いたいのか、ただの習慣かそれはわからない。
  お母さんと、まだ幼い子供さんが歩いている光景はまず見る事はない。犬と歩いている人は多い。家の中でなぜか外にいる人に向かって吠えている犬がいる。何だかなー、何がどうなのか、やっぱり最初に書いた、お母さんと子供さんとワンちゃんと、この三人の方が歩いている、歩いていた光景が、一番印象的だ。  

ぽっかりと空いた虫空間

2007-05-24 19:16:11 | 植物・花(春)
  この三、四日いいお天気が続いて、初夏を通り越して、夏が近いことを感じさせる。それで、少し前まで、窓は閉めたまま、さらに眠るときは、冬モードという事をやっていたわけだが、さすがに建物も温まり、朝の冷却もなくなると、これは、何か確実な変化があると言わざるを得ない。
  木造の建物は生きている。ホントかどうか、それに近いものでいうと、例えば、私は床の、板の間の、カタカナだとフローリング、の上にいるわけだけど、ミシミシという音がする。あまり気分のいいものではない。木造の建物がどのように作られているか、もっと詳しく知っているべきであった。それが、思うとおりにゆかなくて、わずかに、かろうじて、この建物をつくりあげているある時間に、そのときの写真を撮っていただいていて、それはもうずいぶんと昔になるが、少なくとも、この板の間の下には、何本かの水平方向の支えの木材が入っていることがわかる。
  この板の間が、なぜギシギシ音をたてるか、これは乾燥して、木材も悲鳴を上げていると言うことだろう。重力に対して、床板は、抗力で支える。このとき、板のどこかのレベルで、ギシギシいう、一種の非常事態、あるいは、よくある変形作用が起きていて、それゆえこの板の間は安全である、と言うことも出来るようである。まさか、合板ではないだろうな。
  これと、似て非なるものに、虫の今どきの活動があげられる。いっとき、かなり虫に出会って運よく、ファイルにおさめることも出来た。最近は、どうしたことか、あまりぱっとしない。それでも、小さな虫はたくさんいる。例えば、白色のシャクヤクの花に、蟻かあるいはそれより小さいアブか、ハチが、ぽつんと写っている。そうゆうファイルを選んで載せた。そんなに大仰に言うことではないが、これが今どきの、花の周りの事実である。また、ここにあるシャクヤクも、どうにか二つ咲いてくれたが、そのまわりは、蜘蛛の巣がどっかとあって、申しわけないが、撮る時に少し、それを払った。
  そうゆう事があるかも知れない。花のまわりには、まず蜘蛛が寄ってきて、花には巣を張らないが、そのまわりの小さな草やら、木々の枝を支えどころにして巣を張る。花が咲けば、いやでも、その花そのものあるいは甘い蜜を求めて、虫たちはやって来る。蜘蛛は、まるでおとり捜査をやってるごとく知らん顔をして、獲物がかかれば、それをいただく。
  小さな蛾のようなもの、それにハナアブが、すでにだたの物質として蜘蛛の巣の中にある例は、何度か見た。自然界の位置でゆうと植物は、虫の餌であって、もっとも、同時に植物はそれを利用して、自身の更なる繁栄を達成している。それで、虫と蜘蛛の関係はどうか。何だか、怪しげなところに来てしまった。そんなこと考えていない。今ひとつ、なぜ、虫の姿が、目に付かないか、小さな虫は別にして、ただ、今はそうゆう時期なのかも知れない。

  シャクヤクのことだけが頭にあって、いざ一応出てしまうと、他に何があったか、なかなか出て来ない。ここは、少し昔のもので、



  この花ですね、アヤメ科のある花。大きいし風が吹くと大きく揺れるし、でも花だけでなく全体が写っているものがあって、平凡だけど選んでみました。



  これは、コンクリートつながりで、何だかわからない花。ただ、この近く、地面にも咲いていて、まず庭に咲いて、それが、こんな道路の端にも咲いたのだろう。花の上に、緑、これも花かな。それと、赤い点のようなもの、小さな生き物、虫かどうか。ちょっとしたアクセント。これ見て、痒くなる事はないと思う。

どんどん拡大すると、どうなっちゃうか

2007-05-24 07:31:24 | 散策
  朝の天気、晴れ。三日続けて晴れで、風は弱く、空気はよどんでいる。靄があって視界は悪い。室温21℃。夜は、窓を開けっ放しにした。
  外の大きな木の白い花や、きらきら光る畑の反射テープを見る。このテープは、やっぱりカラス対策かな。ここで書いている事は、要はと書くと一行で終わりそうで、それを最近ずいぶん膨らませていることに、少し危惧を抱く。自分で書いていておかしな気もするが、もう一人の自分が警告もし、失笑あるいは苦笑する。
  それで、例えば、なんでもいいが、ここにある今年の手帳を拡大していくとどうなるか考える。白い紙に、罫線と文字が印刷され、私の読めない、のたくった文字が、黒か、ブルーのボールペンで書かれている。
  印刷文字は、これは拡大すると、全体はもう見えない。そこには、薄いインクの粒子とまだ白い紙が混合している。新聞の写真などは、拡大鏡で見ると、小さな円の大小で構成されていて、これで類推すると、その先には、白地と、印刷粒子が、ぱらぱら見えることになる。さらに、大きくすると、もはや印刷粒子はなくなって、全部が白になってゆく。でも、まだ、そこは植物の繊維の世界だ。
  対照的な、あるいは次元の違うものに、一本の直線がある。そこに、0、1、2、3、・・・と座標を打てば、これは数直線の世界で、これまた拡大できる。
  0と1の間だけを考えても、そこを拡大すると、色々な数字が見えてくるが、決して、まばらにならないで、色々な数字は、実に密にきざまれている。すでに、原子の世界に入るくらい拡大しても、そこには、まだいやっというほど、数字は存在して、いくらクオークの世界だからといって、ぱらぱら、あるいはある特定の値しか存在しない、そうゆう事はない。そこには、無限の数字がきざまれている。また、線には太さはない。いくら拡大されても、それは、線としてある。
  そこで、最近思うのは、ある連載小説を例えばある広報誌で読んでいるが、話しが、今年のお正月から始まったとして、もう第5回終了したのだが、だが、話しはある男女がめぐり合って、ようやく喫茶店に入り、ようやく何を飲むか注文したところ、そうゆうところまでしか来てないことがわかると、この先どうなるか、1年たってもまだ、ジュースをすすっている、その辺りではないか想像にかたくなく、少し気が抜ける。こうゆう感想が、話しを膨らませる、あるいは拡大していることを意識させるのだが、どうも自分も、これはプロの作家さんと同一にはどう考えても出来ないが、やっぱり少しは、ピリッとスジの通った、簡潔な文を書くことを意識しないと、っと思う。
  それはいいが、やっぱり、これも、ただの拡大、あるいは拡散で終わっていて、あきませんです。もう一人の自分は、あきれて無視している。