光年・千年

纏わりつくが、纏まらないおはなし、日記ふう。

北風の恐怖

2009-01-31 18:55:23 | 散策
  北風である。風が北から吹くのは、晴れているときに多いが、今日は雨で、北風。それもきのうの夜からずっと続いている。雨あめ、風風で、よく吹いている。その割に、部屋の温度は、下がっていないから、これはまずはアメダスの観測値を見ると低くても7℃はあって8℃台のときもある。体感だと、これは味わえないくらい雨風で、そんなことは出来ないが、もう少し弱い雨のときの感じでいうと、たしかに雪が降る、そうゆう気配はない。もしかしたら、北風で、春というのも嘘とは言えないかも。北風はしかし怖い。これは海の荒れ方からもわかる。また大体において、北風は晴れの印象だが、これが強いと、木が倒れたりもする。

  1月も終わりだけど、もしかしてこうして2月も終わってくれればと思う。一番寒いときが終わる。これにはしかし、2月の28日間を耐えないといけない。ことしは、普通の年で、1年は365日。去年はたしか「うるう年」で、このときだけ、5年日記のところに29という字が印字されている。へーと思うものがある。うるう秒というのもある。ことしがそうだった気もするが、こんな微妙な変更も必要な時間の敏感さには驚くものがある。4年に一回のうるう年と、いつ来るか知れない、うるう秒のときの感覚というのはどうだろうか。あー少しだけ長生き出来たと思うのだろうか。

  新年になると、2月号が来る。これはPR誌で、いつもはぎりぎりに来る、そうゆうもののほうが早く来て、これの一部だけを読んでいる。本の広告というか、自身による採点のようなものが書かれている。それくらいの自信がないと本も書けない。こうゆうのはどうか、本は後になればなるほど、評価がきびしくなるように思うが、これもそれだけの本を読んでいないと、評価の「ひょ」の字も出来ない。多くは、PR誌の広告で、おしまいとなる。それ以外に、ここから単行本が出るが、これを買うかというと買わない。後でどのような変化があったか、などはあまりに気にしない。その中味をまた見直すことも少なく、ただPR誌といえお金を出して買っているから、最低一回は読みたいが、これもやらなくなった。なんでかなー。

  本を買うのは、大体得をしていると思う。お金の印刷も大変だが、本を作るのはもっと大変で、交換した価値はある。これも写真が多いとだめというか、まー図鑑とかは別だが、大体は字が多いほうが、あとあと後悔もしない気がする。その点でいうと、PR誌は、写真は少なく文字がほとんどで、これで、マルマル円は安い。でも、この古本を買う人はいない。「これくた」は、多いはずで、私もある期間だけだがすべてそろって持っている。この多くがもはや見返されることのない運命になる。ただ、燃やしたりも出来ず、溜まる一方である。

  PR誌というくらいだから、宣伝も大切である。宣伝文を書く人はこれも本の続きと思っている。それ以外の、宣伝集というのがPR誌の最後に来るが、これを見ていると、なんだかやりきれなくなる。多すぎるのである。こんな細かい文字で、こんなたくさんの本を並べたところで、すべてを見ることも買うことも出来ない。ぱらっと見ておしまい。
  これに比べると、昔の文庫本には、タイトルと著者名だけの、広告が、何ページかあって、これは昔の文庫本ほど懐かしく思えるし、また消え去った人というものもよくわかる。値段も100円前後というのも多く、これを今も見ているが、100円の本を今も大事にとってあって、読み直すから、こうゆう本はたぶん幸せだろう。そうゆう運命にあった本をこれからも手にとって読み直すだろう。
 
  ということは、売れる本というか、それから読める本は残ってゆくということだが、しかし、最近の夏休み、名作100選というと知らないもんが半分以上あって時代も変わったもんだと思う。買おうと思っても買えない本もあれば、絶版も多い。あれあれということになる。
  時代によって、そのときのブームは変わるようだ。それが周期的に舞い戻るときもあるようで、これも読まれ方が違う。PR誌は要るか要らないか、これはわからないが、時代に乗り遅れた本というのが、いままた脚光を浴びるのは、いかにも皮肉っぽいが、時代は繰り返して、周期的なのかも知れない。

  北風を浴びていると、どうにもこうにもやり切れない気分になるが、ほんの少しだけPR誌を見ていて、またまたブルブル寒気みたいなものにも襲われるから、この本も今も売れて、また50年、100年後にも再び読まれるときが来るのか、雨中白い空を見つつ、思うことは少ない。




  雪も晴れると、空の青さが戻ってくる。これも1月の雪の特徴か。




  東の空の、夕時に近い時間、空の青さが出る。




  青空とユラユラゆれる太陽があって、




  雪の落ちた、今は枝しかない、大木が青空とともにある。




  この空にだけ、青色はなく、電球のような、あるいは夏ミカンのような、そうゆう感傷的な色があった。  

雨と、風と、暗と

2009-01-31 16:22:29 | 散策
  雨。止むことなく、降り続ける。
  強弱はあって、今は少し弱め。
  この状態で、せいぜい1分くらい濡れていることが出来る。
  
  風、またこの風も止まない。北から流れてくる、灰色の雲の濃淡が
  その速度を教えてくれて、またこれが雨を流すから、
  その冷たさは、目でもわかるし、また肌でもわかる。
  そういえば、お昼のニュースでもこの荒天の様子をやっていた。
  傘など役立たない、濡れて歩くしかない。

  TVを見ていて、外を見るとまったく同じなので、寒さも伝わる。
  最小のエネルギで息をしている気分で、
  これも冬の一つ。さらっと流せないのは、修行が足りない。
  相変わらず腰が痛い。変わらない。


  ファイルを別のディスクに保存して、PCの中のものは適度に、
  ばっさりと削除する。その中からだと、限られていて、
  何かを探すのは楽だ。なんだかわからなくなってゆくが  
  1月はどうだったか。



 
  緑に雪が積もって、




  太陽は何度か出た。太陽の出た日はこれは多かった。




  田んぼの雪融けの水は、ここのものはなぜか少し濁っているようで、




  太陽を見ると、瓦には、雪が残っている。




  再び、雪の風景で。これもまだ明るいから、救いがあるが。

  きょうのような、強い雨と風と、日の出ない一日が、一番暗いようで、
  こんなことを書いていたら、余計に北風と雨が強くなってきた。

大雨で、大荒れの予感

2009-01-31 06:48:31 | 散策
  朝のお天気、雨。かなり強い雨で、戸を開けるとドラムのような音をたてる、波板がある。地面に落ちる雨音も大きめ。乱風があって、右から左から雨が入ってくる。アメダスの6時の気温、7.9℃、気圧は1006.5hPa、積雪は、0cm。室温、10.2℃、なるほど10℃もある。

  宵の時間は、雨は弱かったが、もう目が開くころというと日付も変わるころが最初だが、結構な雨の量で、この冬の雨というのもちょっと信じられない。その後も、雨はかなり強く降り続けていて、暖かいようだが、何度か目が開いた。この時間の雨がこんなに多いとき、って、これは去年の夏の局地的な大雨以来ではないか。

  目が先に開いて、朝が来ていることを知る。起きる。10℃もある。それにしては安眠出来ない。これも雨の音でかどうか。
  色々やることをやってと思うが、少し数が増えた。暖房のスイッチやら、やかの水を沸かすことやら、ポットを洗うことやら、新聞を取り出して、その辺りに、郵便物が迷い込んでいないかどうか探す。小さいものだと、下にこっそり落ちたり、金属のところに張り付いていたりする。
  水気のせいか、玄関の戸はスルーと開く。大雨、あまり聞きたくない雨の音。泥が流れてゆく。草も枯れているから、どっちだというと矛盾するが雪のほうがいい。この辺りは、平地で、雪崩や融雪でどうのこうのもめることは少ないが、これだけの雨が降ると、山沿いの地域だと心配事でもあって、頭の痛くなることは間違いない。

  きのうは、あれとあれと、あれをやってと紙にも書いて、忘れないと決めたが、なんとコタツのスイッチを入れっぱなしにしていた。コタツの布団は、入っていたところは上げてあるから、ほぼ外の、室内の温度がそのままコタツの中の温度となる。ぼけたもので、この逆もある。逆はいいが、布団を上げてのコタツのスイッチの消し忘れはいけない。スイッチの文字そのものもよくわからなくなる。

  少し前に郵便局で、お年玉年賀葉書きの発表があったようなことを書いたが、それは何かの早とちりで、間違いだった。その当選番号が決まったのは極最近のことで、またまたびっくりした。大体15日だった。それが今はもっと後になっている。一枚だけ、当たっていた。4等。これはめでたい。たまにはいいこともある。

犬は寒そうだった。

2009-01-30 18:52:00 | 散策
  もう金曜日で、もう1月も終わる。あっさりと、終わりが来て、明日がきょうになる。1月が2月になって、そのぶん歳をとる。どの時間の進みかたが一番遅いかというと、これはなかなか進まない、病院での待ち時間で、一番早く時が進むのが眠っているときなら、なんだか不公平な、また不幸な気もする。眠っている時間がゆっくり進めば、と思うが、いつかは目が覚めないと、大変なことになってしまう。これを、恐れるし、またそれゆえ、朝が早く来るのをしょうがないなと思うのも、もっともなこと。人はそのときを感じないものだが、それで、そのときを畏怖しないのは誤りであって、とこうゆう話しを書くのが目的ではない。

  色々とゴチャゴチャするのは、それまでがゆるい生活をしているのが原因のようで、これは考えてみると幸せだった。そうゆう時間を過ごせたことが、はっきりと記憶にあるからだ。それがなくなるというか、バタバタの連続だとどうもこうも振り返ることも出来ない。そんな必要がないという生き方もあるだろうが、そのときどきに思うことはあるし、それがないと結構不幸かも知れない。記憶にそれが残っていって、そのうちにだんだん忘れる。いい事だけが残るかというと、そうでもない。
  夢の内容を、自分で思うわけだが、どうしてこんな夢をみるのかということは多い。結構な罪悪感が心底にあるのか、自分でもはっきりしない。いくつかの夢のパターンがあって、それが大体において、面白くないというか、自分でも「おかしく」なるような内容である。どうかしているというより、それが事実なのかも知れない。
  何でこんなとか、今頃こんなと思うことは多いが、その反対に浮かれるというか、望ましい夢というのは滅多にない。これも、結構に過去の歴史を、歴史は大体過去のものだが、そのまま現わしている。いいことはなかったというのは嘘だが、それを覆い隠すものがあるのが、本当のところ。これも自分の脳で起きている現実だが、自分に不利なような思いをさせて、脳にいいことなどあるのかと思うが、これは自分の意思という同じところにあると思われる、そうゆうものと相反するものとして、存在している。夢くらい、夢にこそ、そこで悩ましげなものがあるというのは、これは本当にどうゆうことなのか。現実も夢もごっちゃになっているのかも知れないが、
  いずれにしても自分に有利でないことはたしかなようだ。

  暖かな一日で終始しそうな感じであるが、これが、また南国のような暖かさ、あるいは暑さとなると、脳の方はどうゆう反応を起こすのだろうか。ドコドコで、史上最高の温かさではなかった、暑さになってということが、かすかに記憶に残っているが、これはいったい何のために、流れたのだろうか。
  暑いときの夢というと、これは脳みそのほうもかなりに参っていて、それで安眠というものを与えてくれないのかも。よって、その正反対にある、悪夢の再放送もないような気がするが、それも昔のことである。たしかに、冬のほうが、きつい夢を見るような気がする。

  きょうは暖かだった。でも、せいぜい10℃を少しだけ越したようで、それで歩いていて、手に持った荷物もそれほどでもなく、行きは直線で帰りは曲線で帰って来た。少しでも歩こうとする気力があるのはいいこと。本来なら、行きもそれでいっていいが、なかなかスタートのときはそこまで考えは及ばない。
  雪が少しだけ残っている。ユキヤナギの蕾があった。これが開いていたはず。その他、去年の柿のへたとか、それからことしの春に咲くだろう、コブシの花芽も少しだけ銀色に染まっている。このものを見ると、ネコヤナギを思い出すが、もう見かけることはない。少しずつ、梅の枝の花芽も成長しているが、これが開くにはまだまだ暖かの積算が必要で、気温が下がるとまたゼロに戻る?。

  犬のことだった。もう最後というところで、犬が出て来る。
  最初に見かけるのは、何度も出て来る老犬だが、外にはいたが、犬小屋にいるようである。おうちの中というときもあるし、段ボールも、彼か彼女は好きで、それ以外だと、ごく普通に外にいる。私が、たしか反対方向から歩いていたらびくっとしたように起き上がったのが、この前に会ったときの様子。
  それから、数少ないが、もう一人。このワンちゃんは、同じようにベッドにいたようだが、はっきりしなかった。自分が歩いているときは、まだ寒いなと思っていたが、これは寒がりだからで、犬はもう少し寒さには強いはずだが、静かにしていた。というと、暖かなというのも、犬にとってはさほどでもないということで、これは大体私の感じている寒さと同じかも知れない。


  画像の何がどこにあるのか、というのが頭の中にないというか、そのとき初めて見直したりするから、似たようなものも多いし、ただ漠然と並べるのは止めようと思うけれど、それに近い状態にある。
  これが名残の雪ならいいが、と思ったりもするが、当然もっと降る時が来るだろう。




  たっぷりと残っている雪。これは半分は凍っているから、そのまま放置。




  去年の夏にも秋にもよく来ている、また最近もあったところ。この枯れているようなものは、ハナトラノオだと思う。強い植物で、また虫もよく集まる。




  時代がもう少し古かったら、ソリ遊びとか出来そうな田んぼである。でも、そうゆうものを見ることはまずはない。




  重い雪。下の、ドウダンツツジは、なにかの支えもあって、どうにかこの雪の重さに耐えている。




  サザンカの垣に、雪。これでは、サザンカも散々な思いをしていることだろう。しかし、これが運命というものでもある。

まだ、雨にはならない

2009-01-30 16:25:57 | 散策
  曇りだと、寒そうな感じがするのが、1月だから、
  何しろこれからの一ヶ月が、一番寒いように思えるもので
  それで、真冬の格好で、外に出るのも、当然だが、
  結果といえば、少し歩くと、ホカホカとした。

  気温が10℃以上あることをその後に知ったが、
  暖かさというのは、それを知ることによってより確固たるものとなる。
  不思議。

  もっとも歩くのを止めると、しばらくすれば
  いつもの寒さがやって来る。

  頭の中もこんがらがっている。いつに雪が降って
  いつに晴れていて、いつ雪を撮って、どこに晴れたものがあるのやら。
  寒い朝もあれば、ほどほどの時間の晴れもある。
  こんがらがるし、混乱もする。




  光っている感じ。それと緑の濃さ。



  
  寒さで退色した、緑。もともとこうゆう浅い緑かも。



 
  明りとツバキ。




  晴れで雪も溶けた、田。冬の感じはない。




  苔。




  今は鳥がここにたくさんいそうな、そうゆう木々の集落。

  これから雨で、明日は雪が降るか降らないか。やっぱり腰が痛い。

小雨の朝

2009-01-30 06:46:31 | 散策
  朝のお天気、曇りと思っていたが、雨。音のない雨で、小雨。風もないようで、穏やか。アメダスの6時の気温、5.6℃、気圧は1022.3hPa、積雪は、0cm。室温が、9℃もあって、なるほどこれは暖かい。

  小雨である。湿度は適度にあって、安眠した。するとさっと目が開くかというとそうでもない。なかなか布団から出ることも出来ず、さらに布団の引力は増大する。ここから出るには、かなりの力がいる。
  それでも、寒いときと大して時間差はない。TVをつけて、灯油ヒータのスイッチを押して、やかんを沸かして、パンを齧る。

  TVの天気情報の時間である。秋田県は、湯沢町。秋田県だった。サクランボの木が雪に埋まっている。だから、サクランボはあんなに甘いのだろう。それでも、ことしは雪が少ない。ほとんどアナウンサの方の言葉を借りて、さらにそれをうまく伝えられない。TVを聴くこともなく、無心にパンを齧る。塗る、ファトスプレットの量も最小にする。もうTVの前を立ち去る時間であるが、
  こんどはチョウの話し。

  そういえば、このあたりでも今はチョウは見かけない。恐らくチョウを自宅で飼っている、というか、増殖させている方のうちでは、実物がそこにいるはずだが、それ以外の雪の積もる、原野に近いこの辺りに、チョウの一匹もいない。いったいどこにチョウはいる。

  チョウ以外だと、パッと晴れると、どこかから迷い込んだ、テントウムシもいることはいる。でも、滅多にそうゆうことはない。きのうは、霜柱の上を胴体が赤とブルーの蜘蛛が歩いていたが、蜘蛛も寒いながら、土の中をうろうろしている。
  しかし虫の世界は、今は大体冬眠しているようである。チョウの一羽も出て来るときが早く来ればなー。都会のチョウのVTRの頭だけ見て、チョウも人も冬を越すのは大変だ、と思う。きっとそう思う方がいて、これも作製されたのだろう。

時間を遡る

2009-01-29 18:42:35 | 散策
  「タイムトンネル」というタイトルの、TVドラマがあったが、いよいよ危なそうになると、そこで番組は終了した。ここには、歴史は本当かどうかの描写もあるが、本人がそこにいて、歴史を変えるとすると後々困るので、この番組はいいところで終わった。その最後のほうで、どうなったかもう覚えていないが、はっぴエンドで、今に戻ってきたか、どうか。しかし、現在の考えでは、過去にも未来にも、人はいけないということになって、これで一安心も出来る。

  どうして自分という人間が現われたのかが一番の不思議だが、どうして、ここのうちに生まれて、よそのうちでなかったか、というのも大いに不思議なもので、誰がこれを決めたかというと、今のところはご先祖様ということになる。皆、ご先祖になれるかというと、そうでもないようで、それにはそれなりの方法が残されているようである。
  自分がいるのは、これは両親がいる、あるいはいたからで、そのことを繰り返すと、ずいぶんとたくさんの人がいないといけないが、これにはその不思議を解決出来るものがあって、つまりは多くは兄弟であるとすると、親の数の心配も少しだけ減少する。それでも、親には親がいてと思うところである。

  この反対があって、原始の人がまずは親二人であっても、その子供がいて順調にその数は増えるかというと、これは色々問題が多い。初期問題というのはいずれの分野においても悩ましいものの一つで、これが現在と矛盾するようだ。
  単純に、二つが四つになり、四つが八つになる、という感じで、人の数が増えていったとして、これで、かなりの数の人が増えると、そろそろ親には親がいて、その親にはまた親がいて、これは無限に親がいないといけないということと、あるところで接点を持ちそうである。無限でなければよく、また人の数は、恐らく無限数いることはない。どのような人の増え方が起こっていて、自分がどの辺りに今いるのかというのは、最初の辺りを適当に端折ってみて、そのある数に達したときに、その人を親の親の・・・と思えば、何とか自分の親は、という問題は何となくだが、納得出来るのではないか。

  自分の親に、自分のご先祖様のことを聞くが、これもある年齢に達するとどうでもよくなる。せいぜい、自分が生きていた時代に、祖父祖母のその前のことを聞くくらいで、それ以上のことも、親のほうも知らない。その血のつながりと、戸籍上のつながりには不連続があるようで、完全に不連続かというと、もう少し遡ると同じ血を少しだけ引いているというようなことにもなる。たぶん、あまり行き来のなかった時代というのは、そうゆうことも起こりうるし、またまったくの別のところからというものもある。

  自分という人間はどの辺りから人間となったのか、というのは大きな興味深い問題だが、はたして自分はまともな人間かというものが、これが生物学的なものと異なる分野で、ためされることもあるが、そうゆうところだと、人の中に色々な人もいて、こうゆう人になるにはどうしたらいいのか、という問題も起きる。この問題のほうが重要であって、生きてゆくときは、素質より生きる力みたいのが重要な気がするが、時代が時代だけに、これからは、生き物としての力強さと、またこの世をすり抜けてゆく策と知恵を身に付けるのも、もっとも重要なものに思えてくる。
  これもかなり原始なものがあって、しかしサイコロを振るような感じもあるから、ここは確率問題も重要にもなってくる。これをしかしやっていて、成功するかというと、そうでもないのは、今の経済問題などで明らかになっているような気がするが、学問と実際とは大いに違って、しかしそれも予想の範囲となると、
  この先というものも、予想もたて、サイコロも振り、それで諦めも肝心ということになる。なんだかお先が真っ暗な感じもしてきたが、また明日太陽も登ることであろうから、そのときになると生きている実感も味わえるかも知れず、悲観にくれているわけにはゆかない。

  朝は非常に寒かった。よって、自分がなぜここにいるのかという問題もどこかにいってしまっていたようで、ただただ震えて起きた。きのうと同じくらい寒く、よって外の星の様子は、たぶん窓から見た。外に出ても見たような気がするが、はっきりしない。





  今頃であるが、きのう夕時なって見え始めた、細い月。感度も最高に上げる。




  早い時間だと、凍っているかのような、瓦がくる。この後に、じわじわと光り輝く、氷が現われる。




  休耕中かの、田んぼのすべてに、霜が降りている。これの感触はこの画像では出ない。




  少し手前の枯れ草だと、このとおり霜の花が咲いている。




  霜続きだと、この常緑樹の葉っぱの淵も凍っている。少し離れて見ることはあるが、実物が目の前にある。




  枯れアジサイの、同じく、ひっそりと下りている、霜。

  この間およそ、5分くらいか、ゴミ出しも寒かったが、この後も寒くて震えて、ヒータの前に座り込んだ。やってられない寒さ。

霜柱

2009-01-29 16:27:34 | 散策
  朝はとっても寒かったが、その後はほどほどに
  気温は上がった。体感温度でそう思ったから、間違いない。
  また建物の中も、結構気温があって、ひさしぶリの暖かさ。
  だから、鼻が詰まった感じにもなって、クズクズいっている。
  暖かい鍋など急いで食べると、鼻水が出るのと大体同じではないか。

  霜はあるが、これは今日もたくさんあった、霜柱は
  ないと思っていた。先入観というものは恐ろしい。  
  たぶんこれまでにも、霜柱は小さいがあったのではないか。
  きょうはなぜか、その霜柱のようなものを偶然に見つけた。

  だが、その霜柱は、小さいのである。よく見ないとわからない。
  さらに、地面から外に飛び出ているとは思えないようなものもある。
  霜柱を見つけるのは、偶然と、また根気と、寒さに耐える
  気力がいるようだ。
 




  非常に小さい霜柱。肉眼だと、1cmあるかないかの大きさで、うっかりというか
  運が悪いと見過ごしてしまう。かなりに寄って、マクロレンズを使う。目から
  カメラも離している。




  体の安定性は非常に悪い。地面のちょい上にあるから、体を折っているし
  無理してカメラをさらに前に突き出す。一つ間違うと、ギックリ腰。
  お腹が邪魔だなー。




  氷らしい感じ。光の量はかなり足らず、ぶれているかも知れず、
  氷の感じがするものを選んだ。




  地面と同じ高さにある。泥水の状態と近いかも知れない。それが凍った。
  すべてそうだが、日の出からかなり時間がたっているから、溶けている
  ものも多いと思う。




  霜柱というより、泥の氷のほうが近いかも。

  霜柱が出来ていることはわかった。でも美しい霜柱を撮るのは
  かなりむつかしそう。

きょうも快晴の朝

2009-01-29 06:49:39 | 散策
  朝のお天気、快晴。夜もずっと晴れていて、窓もすぐに結露。風もほとんどなく、穏やかといえば、穏やか。気温の低い高いもわかりずらいが、アメダスの6時の気温、マイナス0.7℃、氷点下の気温。気圧は1027.8hPa、積雪は、0cm。室温、5℃、きのうの余熱がある。

  朝ははっきりと明るくなってきている、TVでもお天気情報の前に各地の様子が映し出されるが、東の地域だともうお昼のように明るい。本当かと思って、カーテンを開ける。少しだけ、ここも明るく、パンを齧り終わって、PCの前に戻るころには、東に見える北アルプスの稜線もくっきりである。星もあっという間に消えてしまう。
  朝の景色は美しいが、寒い。

  鳥というと、目立つのが、ヒヨドリと、トビで、トビはどんな寒い日でも悠然と空に舞い上がる。恐らく、0℃くらいのお天気でも風が吹くと、それに向かって羽を少しだけ動かして、あとはグライダーのように滑空する。寒くないか、いつもトビに聞く。答えは、その飛翔を見ればゆうこともない。
  うるさい鳥というと、ヒヨドリもうるさいが、オナガや、モズもうるさいもので、しかし今はその声もこの寒さの中に減衰してゆく。キジバトも寒さの中にいるようで、独特の鳴き声もしない。

  少し暖かくなると、ヒヨドリはレースをやる、一匹の、一羽のヒヨドリが、目の前をものすごいスピードで飛んでゆく。何かに追われているようだが、それはもう一羽のヒヨドリ。窓のすぐ前を飛んでいて、目に入りそうな錯覚を覚える。
  夕刻になると、ときどきもう暗い木々の枝にこの鳥たちが止まるのが様子として感じられる。この寒い夜も、木の枝に止まってじっとしているのだろう。
  カラスは最近は見ない。ずっと街の方にいるのかも知れない。それから、寒スズメも、最近は見ない。見ないということはその辺りを歩いていないということと大体同じのようだ。

  すっかり明るくなっている。今日も晴れで、瓦は凍っている。

雪の絵

2009-01-28 18:53:02 | 散策
  どこかに行っていた月が、西の空に見えていてこれがずいぶんと大きい。もしかしたら、地球照も見えているようで、また夕焼けの色も格別である。

  太陽と地球の間に、これを結ぶ一本の線が出来るが、この線の内側に月がうまく乗っかると、日食になって、このVTRが、きのうのTVで、一昨日かも知れないが、流れた。金環食のようで、これもうまく太陽と地球の結ぶ線の中心に月が来るから、おかしいというか、信じられない。金環食はもしかしたら、皆既日食よりも不思議かも知れない。
  皆既日食の場合、月の影に太陽は隠れてしまう。まったくそこには、太陽の光球は見えず、それ以外だと、プロミネンスとかコロナが見えるときもあるが、これも簡単に見えるかどうか、はっきりしない。過去に、皆既日食というものを見たような気がするが、これも怪しい。
  それに比べると、金環食の場合、太陽のある部分、真ん中が真っ黒になって、目には見えない。こうゆう現象のほうがわかりにくいような感じがする。真ん中がなくなるというのがいかにも不安定である。それなら、いっそのこと全部消えて、それからしばらくするとまた現れる、皆既日食は、太陽のしばらくのお休みという意味にもとれて、わかりやすい。このようなことは、学校などで理屈を教えてしまうと、その現象の不思議さの程度も落ちるようで、今頃思うが、知らないで見る驚きのために、その記述はない方がいいのではない。
  
  月も欠けたり、またもとに戻ったり、見えなくなるときもある。難儀なものが、この空の上で起こって、これの謎を解決した人は偉かった。が、その時代が、かなり昔から続いているから、誰が日食を発見したかなどの記述はないのだろう。
  月が地平に近いと、かなり大きく見える。また地上の風景と、この痩身の月はよく合うようで、好ましい。暗すぎて、しかし記録に残らないが、記憶には残る。

  TVなどでは、気温が上がって春のようなお天気になりました、と言っていたが、これは気の持ちようもあるし、また年齢もあるし、その他お腹の減り具合というのもあって、私はただただ寒い一日のように思えた。少しだけ書いたが、
  日当たりの悪いというか、建物の影というところは路面が凍っている。雪の残りの影響のうち、一旦溶けたものがまた凍ったというものもあるようで、自分の頭の中から抜け落ちていた。道の脇に置いてある雪が解けると、路面にはゆっくりと水が流れる。水たまりも出来るだろうし、これは凍結する。一番低いところへ流れてゆく間にも凍ってしまう可能性がある。水は凍るように出来ていて、しかしこれはこれで役にたっている。

  つるり滑りそうになる危険性がお昼近くまで続いたようで、これも自分の判断できるところであって、これ以外にまだ凍ったままというところは当然ある。雪はなかなか、完全には消えない。
  それで、つるり滑る可能性もありながら、時間を探してその辺りの様子を見てきたが、どう見ても雪の跡とそれ以外は、枯れ草色と、大きな木の中で、常緑というと杉が思い浮かぶが、これがいつもより茶色い。この辺りに多いサザンカも、ときどきヒヨドリがその蜜を突付くようだが、鳥も餌を探すのに苦労している。
 
  それなら薄っすらと残っているそうゆう雪を撮ってみたらどうかためしてみた。それくらいしか、思い付くものはない。ことしはほどほどに雪は降っていて、これでなんとかしのげると思ったが、これは大間違いであって、もう雪の中を歩くなど出来ないのである。寂しいような気もするが、これも人それぞれで、その中から、出来ることを探さないといけないと思う。





  朝の木々の様子。いずれの木々の葉っぱも凍り付いているようで、見ていると美しいが、さぞかし寒い。




  これで、ちょうど一対の雪の木々が出来上がる。左側に見えるものと、右側に見えるもの。




  ファイルで見ると、雪も凍ると、夏に食べるカキ氷になってしまう。黒い穴が出来て、ちょうどいいような。




  少し明るめに、画像を調整。雪というより、ッやっぱり氷。




  想像していたものと大体同じようなものが画像に出ている。なかなか、これはっというのはないようで、考えてみると当たり前か。
  これくらいの緩さで、この後もゆくしかない。