光年・千年

纏わりつくが、纏まらないおはなし、日記ふう。

暮れゆくときの、ラジオ

2008-12-31 18:46:20 | 散策
  もう押し迫って、明日の新聞の一部が、来た。ちょうど外に出るというときに、ほどほどに馴染みの新聞屋さんが、「はい、と言って、だったかどうか」、そうではないが、感じでとしてそうゆう感じで、第二部からの明日の新聞を渡してくれて、また、挨拶というものもちゃんと一言あって、こうゆうところは自分ではなかなか出来ないと思う。慌てて、口ごもる感じで、こちらこそとかいった風に思うが、悪い感じは残っていない。
  ラジオがあって、新聞があるが、新聞配達をされる方がいる、というところが大いに違って、またラジオは消えてゆく。新聞は、一日は残るようで、そのあとは行方不明、これっというものが、そうゆう場合も多いようだ。まったく電波の変わりに、新聞配達をされる方がおられるというのはありがたいものだ。

  毎日は大体がラジオで、子守唄というパターン。それでまだ日付が変わらないときに、目が開く、開くようなリズムがあって、聴いたこともないような音が聞こえる時もあって、つまりはラジオも、眠るときは子守唄だが、それが時間がたつと、はっきりした言葉となって、よみがえってくる。いやなときもあるが、これもしょうがない。いつも聴きよい音が、リズムが、音色が波長があるとは限らない。先にラジオを消して、それから、また眠る。

  ラジオの今頃のよさというのは、生放送であって、ということ。アナウンサさんも、この暮れのときに、あるいは年末年始関係なく、働かないといけない、という立場にある人は、これもなかなか経験が出来ないようで、そうゆう方が後々、こうゆうことがあって、など話されるときが来るだろう。あるいは書物にもなったりもする。
  今は大体が、双方向ということになるが、放送局側に取捨選択の権利があるのは間違いないことで、これを聴いていて嫌だなと思うことは少ない。
  妙な、例えば電子メールとかは、あるいはファックスとかはない。また、局のアナウンサも、適度に突っ込まれながらも、うまくさらっと流すことが上手で、なるほどこうゆう手があるか、感心する。同じ感じで、年末年始が稼ぎどきという方からのお便りもあるが、最近はというと、どっちかと言えば、きょうはお節料理作ってますとか、来年はダイエット、などというものが多かったような気がする。自分もそうゆうことを、たぶん送るとしたら、そうゆう内容になるだろう、というもの。

  それにしても、12月の31日である。少しはゆっくりしたいと思うのが、人情と思うが、そうでもないらしい。こうゆうことは当然のことという最初からの決まりはあるが、それにしてもお正月くらいは、皆と一緒に遊びたいとか、うちに帰りたいとかいう考えはないのだろうか。この辺りもちょっと聴いてみたい気もする。それを話されてもいいような気もするし、しかしもうそろそろというとき、ことしは、年末が31日で、いつものとおりの放送があります、とか宣伝したりする。
  なるほど、それはいかん、これはお正月だろうが、年末だろうが、ラジオを聴かないといけない、という感じが一時(いっとき)辺りに漂う。なるほどね、それに今年は、31日が水曜だと、来年の一日は木曜で、次に金曜もある。あれあれ、これだとラジオ関係の皆さんは、ことし、いや間違った、来年のお正月はというと先延ばしになるということ。なんだかやっぱり、このお正月は地元のラジオ局の番組というか、お喋りを聴かないといけないような気にもなってくる。

  ラジオはなかなかいいもので、ものすごくいいときもある。本音などがチラリと出るときの、そのときの電波には感動が含まれている。こちら、聴いている側も大いにうなづき、また満足して、同感もする。
  ことしの生放送、ラジオのものは、まだあるかどうか、たぶんあるだろうが、これを聴いている人も同じ思いだろう。

  そして、明日もあさっても、いつもどおりの番組があるというのが、これがもっともラジオのいいところである。いつもと変わらないこと。このことが、毎年年の瀬になるといつも思うことである。

  

  小雪の中の、小さな景色。これも軽いファイルです。




  コンクリート塀の上には時間がたつと、大体、苔がある。コンクリートで生きられる生き物の代表かも。雪が溶けて、まるい水玉になって。




  ちょっと、奥まったところも見てみる。小さい世界に色と形の妙がある。




  枯れアジサイ。薄く白いのは雪が降っていて、ちょうど画面に入ったのだろう。




  朝の瓦というと、少しだけ金色に輝いていた。


  一年見ていただきまして、ありがとうございました。

スイセンと淡雪と

2008-12-31 16:16:15 | 植物・花(冬)
  小雪が時々舞っているが、さほど寒くはない。
  寒くないような格好をしていたから、寒くない感じがする
  というのが、正しいようだ。
  淡い雪で、すぐに溶ける。雨にも変わるし、
  寒気が来ると、また雪になるという感じ。
  
  この雪は、傘には結構積もった。これが、面白いといえば
  面白い。高々、10分くらいかな、小雪の中を歩いた。
  歩いたというよりは、カメさんとあるものを睨んでいた。
  それでも、さほど寒くない。
  かなり、着膨れ。
  で、途中から、傘が重い、と思う。
  大雪だよ、という声も聞こえる。
  この傘の積雪が一番面白かったかも知れない。

  スイセンの撮り直し、これは大袈裟かな、他のところの
  もう一箇所のスイセンも。

  軽いファイルです。




  雪が降っていて、傘を差しながら。




  白いのが雪です。スイセン三兄弟。




  真っ白ではないところがいいというか、惜しいというか。




  淡雪が少し。




  場所を変えて。ちょっと暗かった。




  合焦点を、左のスイセンに変えてみる。違和感がある。
  おかしなものだなと思う。

雪の大晦日の、朝

2008-12-31 06:49:46 | 散策
  朝のお天気、これは目で、肌でたしかめたが、雪。それも小雪で、綿雪のようで、めでたい。しばらくして、瓦にも雪がある。風はほとんどない。アメダスの6時の気温、0.7℃、気圧は1017.1hPa、積雪はまだ、0cm。室温、6℃。

  ちょうど起きる予定の、1時間前に、目が開いて用を済ませてまだ、後1時間は布団の中にいれる、という幸せ感と寒さを味あう。朝は布団も冷えている。それから、悩みのようなものも、ここにすべて書いているから、朝の頭には残っていない。あっという間に、時間が来て、ピピピピという警戒音。
  ウー寒い。時計を見て、まださほど遅れていないと思い、温度計を見ると、6℃もある。窓の外は、暗くてわからない。ただ、静か。

  さっさと、新聞を取り出した。それからついでに、外に出てそれでもまだ雨かどうか不明。上はお空というところ、に出るとそんなに感じないが、冷たいものがあって、これは雪だとわかった。薄っすら、空気と違うが、形はあるが、空気のようなものがある。これは雪。めでたいような気もする。何しろ静かなのがいい。

  きのうは雨風のそれも一番きついときに、わずかな距離だが歩いた。傘を開いて前にゆくのにも、足を踏ん張らないといけない。押し戻される感じもある。ずぶ濡れこそないが、これを早く避けるには、まずは歩かないといけなく、そのせいかきょうは多少の筋肉痛がある。それにしても、お天気に翻弄された。
  他にも、いろいろムカムカすることはあったが、これはまー自分の事でもないし、忘れるしかないか。いらぬ詮索もしないほうが、結局は我が身のためになる。

  何か朝に思うことはないか。きょうはきっと寒い一日。灯油をヒータに入れないといけない。それから、最近は、リンゴの皮を付けたまま食べることにしている。これではおいしいリンゴの味も、少し落ちる。なぜか、ゾウ、動物のゾウは、バナナもリンゴも、何でもかんでも、そのまま食べるなーとそんなことを思い出した。それから、食パンに塗るジャムなり、油ものもぐっと減らした。効果はないと思う、減量の。

  きょうは雪。シトシト降る雪であって欲しい。
  今は白い地面や景色も、見え出した。

雨続きの、晦日

2008-12-30 19:01:58 | 散策
  雨は、必要でもあるし、梅雨も稲作のためには必要で、雪も、電気に変わって、また飲み水、水道の水にもなる。水道の施設が出来ていても、ゆっくりに溶ける雪があって、水道になる。雨なら、これは洪水で、どうしようもない。雪でよかった。色々、雪とか冷たい雨のありがたさを考えて、それでも、それに反駁したくなるから、この雨は冷たく、また少しむごい。

  こんな天気が、暮れも押し迫ったときにあったかというと、なかなか思い出せない。忘れているか、あるいはもう記憶という範疇にない。大雪だと、まる三年前だが、その記憶も薄れようとする。雨の晦日、というのがあったか、これは記録をみれば明らかだろうが、それでも大体曇りくらいで済んでいた、というのが、日常である。そう思うことにする。それを思うと、この雨はどうにかならないか。今頃に、高速や、鉄道やら、空の乗り物に乗っておられる、そうゆう方々は、また別な考えを持っているのかな。
 
  細かいことというのも、色々だが、年々何がどこにいったか、わからなくなる。これは昔のものではなく今の話しだが、リアルタイムで、脱いだ靴下がない、などという現象が起こる。見つけられないである。そんなことが出来ないなんて、笑われそうだし、笑ってもらって結構なのだが、別な意味で細かい自分があるから、それが気になる。よっぽと能天気な生活を送っているということにもなるが。
  こうゆうことは昔はなかった。2、3年くらい前だと、何かがないということに気がつく前に、それを確認していた。持っていったものが、ちゃんと戻っているか。お金は、財布は、鍵は、それに自分自身は、大丈夫だったか、正常か、これらを瞬時に判断していて、今のようにしばらくして、あれ、靴下がない。財布がどこかへいったということはなかった。
  こうゆうことは一種の連続性を持っていて、出かけるときにやったようなことを、こんどは帰って来て、特に考えることなく、もとに戻るようにしていたようだ。それが、なにげなしの行動だった。時間がたって、あれ鍵どこへやったというのはなかったわけである。

  その他の似たようなことだと、視力の問題がある。眼力とでも言うべきものかも知れない。メジカラ。一回睨んだらもう忘れない。それから、集中力もある、違いを見分けることも大丈夫だった。パッと見て、その日付が、早い順か、遅い順か判断して、見分けることも特に不都合はなかった。だいぶ昔のことのようだが、そうゆう単純作業こそ、何とかやれたようだ。ものを探すというのも、これは、大掛かりなものではなく、どこにいったかこの部屋の中の、どこかという場合で、大概見つけることが出来た。見つかるのが当然なものも多かったが、最近はこれもだめである。メジカラが弱い。視野も狭くなって、目の前にあるものがわからない。

  複雑怪奇に時代がなっている。色々な、こちらで管理しないといけないものも多くなる。自分以外の、薬だったり、いろいろな書類だったり、その他、郵便物というものも、重要なものが増えて、これを保存して、かつすぐにわかるようにするのも大変だ。それに比べると、昔はこんなに、不要の郵便も、ダイレクトメールもなかった。同じような格好に見えてこれは必要これは不要である。まさしく、様々などうでもいい情報の中に、洪水なら溺れているということになる。
  自分の、形とか色とか、文字とかを判断する能力も衰えて来たし、同じようなものを、順に整理することも出来なくなるし、それから、これは不要で、これは必要というものを判断するのに、時間と慎重さを要求されるから、これがまったくの無駄。判断力も鈍るし、要らないものを取って置いて必要なものを捨てたりする。また目がやけに疲れる。さらに、イライラもするし、これってお手上げということ。

  細かいからとか、神経質とか、つまらないことにこだわる自分もあるが、例えばまー「靴下」などどこかにいっても、これは特に重大事件には繋がらない。そんなことより、それより来年号がもう来ている、PR誌でも読んだほうがよっぽどましだし、しかし、やはり靴下も気になる。靴下は消えないからだ、私はマジシャンではないし。
  こうゆうイライラというものもだんだんと増してくる。何かがおかしいが、これもある意味では普通なのかも知れない。そのうち、もう少し重要なものもなくなっても、何とも思わないときが来る。そうかも知れないが、これもまた困ったものだ。困ったものが増えすぎている。人は、もう最後の最後まで
  色々なものと格闘したり、あるいは挑戦するものがあって、そのために力が出せるという。なるほど、まだまだお元気そうな、という方が、また今年もっとも読み応えのある本を出されたという人が、そうゆう方がしばらくして、鬼籍に入るというのも多いと思われる感じもした。

  まー次元が違いすぎて、話しにもならないが、しょうもないことにも悩み、肝心なことにも悩むことの多い時間でもあるが、結局のところ、なるようにしかならない。これでいい、と思えるまでに時間はかかるし、大体、体が持ちそうにない気もするが。
  
  あー、何でこんな思いになるのか、きれいさっぱり忘れられない。

  いくらかの、軽めの風景。




  ここにも、スイセンが咲いていた。寄れないのは、用水の向こうにあって。




  明るいまた寒くもない、田んぼの道を歩いていても、なんだか落ち着かない。




  これだけ別の時間帯のもので、枯れてゆく、フジバカマ。




  遠くに、穏やかな薬師岳があって、




  用水の遠い向こうにも、雪山がある。

きのうのお天気ときょうのお天気

2008-12-30 16:36:40 | 散策
  「明日のほうが、ひどそう」だが、きょうのお天気も
  なんという天気だ、と思わず言いたくなるような、
  荒れたお天気。これだと、きのうの穏やかなお天気が
  嘘のようにも思える。

  晴れ間があって、その後にひどい雨に。
  これもよくあるものだが、
  それにしても、ここまでひどくなくても、いいだろうと、
  そうゆう感じで、雨と風が、容赦なく、吹きつけ、叩きつける。

  これも耐寒訓練の一つと思うしかないが、なんだか、これも
  ことしの異常気象を引きずっているのかなー。
  呆然として、明日の大荒れの予報が出ている一日を待つ。
  もっとも、これで終わりではないけれど。

  きのうの雲のある、穏やかな、空。これも記憶に残しておかないと。
  軽めのファイルです。




  まぶしくて、かつ部屋の中だとポカポカする。




  日の入りの時刻ははっきりと遅くなっている。それでも、
  この時間の変化は激しい。




  カラスが、街の方へと向かう時間でもある。




  日の入りに近い時間。




  西の方角だと、夕焼けも見える。太陽は少しずつ、北へと向かっている。




  発電所の、煙突のストロボが、「ピカッと光る」。
  たまに、露光時と同期する。

小雨の晦日

2008-12-30 06:43:13 | 散策
  朝のお天気、小雨。雨の音もなく、外に出てたしかめる。星も見えていたときがあった。きのうがお正月だったら、多少はめでたい気分になったかも知れない、など思う、おかしなものだが。アメダスの6時の気温、7.2℃、気圧は1012.9hPa、積雪は0cm。室温、10℃。

  10℃もあったのか、なんだか信じられないが、暖かいと、そのあとは寒く感じる。布団の中は、大体暖か。この中に、あと5分もいることが出来る、そう思える幸せがある。
  きのうのポカポカのお天気のときに、ふと黒い小さい、丸い黒い点が目に入ってきて、見た目は二つの赤い班があるテントウムシのようだった。似たようなもので、テントウムシでないものもあるが、大きさからだと、たぶんテントウムシの仲間。この近くに、テントウがいる、というのは嬉しいこと。しかしどこかはわからないが。
  テントウムシの一生というものも、よくは知らないが、越冬はするということ。どこかの暖かな、人目の付かないところにいるらしい。植物の根っこ辺りというのも秘密の空間がありそう。このテントウムシは、踏んづけられる可能性もあったが、そのまま。

  2日前は、日曜で、書評欄に、ことしの収穫みたいな形で、いくつかに分類されて、本の紹介があった。知らん本ばかりであって、これで二度と会うこともないような気がする。もったいないが、新聞の書評とは、そうゆう運命にあるもの。全部で、何冊あったか。書評委員会というのがあって、その委員の方がときどきどのように、それらの本を見るか、読むか、書いておられる。そんな真似は出来ないなー。
  もし、例えば、ここにやって来る新聞の、一昨日の書評欄に載っていた本すべてをセット販売します、という広告があったら、買うかも知れない。
  ないから、書いているともいえる。買ってもいいが、置く場所がない。買う価値はもちろんある。

  その他、元日の新聞の配り方というのが出ている。もう、元日の「本紙」以外の印刷は済んでいるのだろう。来年のものも、あったりもする。
  まだ、真っ暗の小雨の晦日の朝。

遠い昔の鉄道と上野駅

2008-12-29 18:58:59 | 散策
  朝から、あるいは、きのう一昨日から、公共交通機関の乱れというものがあって、一つは自然現象でこれには十分に気を付けないといけなく、それのためには、諦めも必要のようだが、変わらず最新のシステムの異常による、公共交通の運転の取り止めというのは、なんだかいかにも今を象徴しているようで、嫌だなという思いが強い。便利な世の中で、いろいろな不便が多い。

  遠い昔の話しだと、電車が止まるというのは、大概が自然災害で、というもので、これも考えようによっては、見通しが甘かったということになる。それでも、どっちだというと、今日は雨がひどくて学校に行くことは出来ませんでした、などの反省文を書かないといけない状況は避けるべきだとして、先行きに不安はありつつ、長距離電車は動いていた。一回だけ、電車の中で、夜をあかしたことがある。それはやはり面白いことではない。その他、鉄道関係だと昔はストライキがあって、それこそこれも死語。そうゆうときは、鉄道も不便で、しかしこれもしょうがない、など思ったものだ。時代がそうゆう時代だった。

  昔の上野の駅といってもものすごく昔ではないが、北陸関係だと、寝台か、普通かというと、寝台など高くて乗れないし、乗ろうとも思わないし、それこそ今に思うに1回くらい乗っておけばとも思う。でも、その考えは当時はまったくない。
  一番早いのが、また結果的に安くすむのが、普通の特急に乗ること。これはもう、『白山』しかなかった。特急『白山』には何度も乗ったから、これの思い込みも強い。一時は、12両編成で、しかし自由席は3両で、特に年末は空いていることはなかった。31日である。でも、その列車の発車まで時間はまだまだあるが、まただれもプラットホームにいないので、これは変だとも思ったりもした。が、実際のところ、遠いほうの階段か、あるいは高架橋に順番に、人が並んで待っていたりするのであって、これに気が付くのに遅れた。

  それでも、どうにか席に座ることが出来た、というのは幸いであって、その後も何度か、坐ったような気がする。でも、始発だから坐れて、大宮の人はまずはだめ。逆に戻るときは、すでに金沢で満席?であって、ただじっと立っているしかなかった。今の特急『はくたか』の自由席がどの程度に込むかこれは知らない。また、越後湯沢からの、列車の込み具合というものも、これも知らない。井の中にいる。想像するに、さほど込んではいない、というところ。

  特急『白山』の面白いところは、例えば列車の向きが変わったりもするし、今はない、峠越えのときの、電気機関車の連結など、いろいろにあるが、そのときに、カメさんも持っていたが、まずは何かを撮ることはなく、一回だけ、連結作業の様子というのを、見ていたことがある。のどかな時代で、心配もなかった。また、冬の季節で、雪に突っ込んだということも、当時は多かったようだが、私はその経験はない。しかし、電車が、高崎本線から信越本線に入り、まだなだらかな表情をしている浅間山の上部に白いものがたくさんあると、これは大丈夫か心配した。長野からが、大変なのであって、一部区間は単線でもあったはず。妙高、高田、新井辺りは豪雪地帯でもある。ここを無事に通過すると、こんどは、荒波の日本海の脇を通る北陸本線が待っていて、しかしもう日も暮れようとする。

  色々、思い出すことも多いが、大体一回は書いていることの、おさらいなので、もう止める。たまには記憶をたしかめるにはいいと思うが。
  暮れの交通事情から、思い出されることを書いた。


  きょうは晴れた。いいことだ。まったく、この晴れ間はありがたい。少しは元気にもなれる。




  いくつか来年咲く、その予定の木々の花芽が目に付く。いくつかの一つのレンギョウはもう咲いていた。でも、この梅の蕾はさすがに開かないだろう。他でもきょうはやけに梅が、目に付いた。




  空高くから見た、森林地帯ではなく、苔の様子。明るいところに草ではなく、苔がある。




  雪のコンクリートのその上に、苔と雪と、というものがあった。これを、過去から持ってきた。




  より白くなりそうな、セイタカアワダチソウ。




  まったく目立たないが、このセイタカアワダチソウの、今の姿は、なかなかいいもので、もう少しすると、本当に真っ白になるかも。
  しかし、お天気が問題だ。

青空巡り

2008-12-29 16:27:55 | 散策
  いいお天気になって、よかった。ひとまずは、
  青空を見ているだけで、気持ちがいい。

  しばらくすると、暖かくもなってくる。
  これは窓ガラスの中の方だけど。
  このお日様は貴重だなー。こんどはいつに会える、
  そうゆう気分にもなる。

  これも、きっと天気予報のせいだ。
  きょうの晴れも、きょうまでで、明日からは
  また曇りか、雨か雪のようだ。




  いいお日様が出ている。月のような表現だが、いいお日様。




  少し時間がたつと、ただ青い空があるだけのようだが、
  中央より少し左上に、虹のような、あるいは光をプリズムを通して
  見たようなものがあり、これはたぶん幻日。




  普通のサザンカも、少し生き生きしている。




  笹も光った。
  



  青空に、イチョウ。

  いいお天気が一番。

放射冷却の朝

2008-12-29 06:46:50 | 散策
  朝のお天気、たぶん、晴れ。星空が残っている。あとは風があって、南からの風であって、これが冷たい。冬の南風、こんなものがある。アメダスの6時の気温、2.2℃。氷点下ではない。気圧は1020.1hPa。積雪は0cm、室温、5.5℃。これはきのうと大体同じ。
  
  晴れ間が出るのが、12時間くらい遅かった。12時間早ければ、もう少し気分的なものの違いはあった。夕日が眺められて、細い月もあった。それが見えない。
  夜になる。静かさだけが、妙に強く感じられる。灯りはあるが、人気は感じない。けものの気配もなく。鳥の鳴き声も虫の鳴き声も、無論しない。耳鳴りはというと、これもないか、弱めである。

  朝は暗いが、今日は星空があるから、そのうちに明るさがある時間が来る。夜明け前が一番暗いというが、明るいところから暗いところへ出るのも、かなり暗いうちの一つで、眠っている時間、そばにある旧型の電球型蛍光灯はかなり明るく、昼見ると灯りとは思えない。
  星空であるのがわかっていたので、まずは着るものを来て、外に出る。目もまだ暗さに慣れているので、たくさんの星が見える。でも、これも時間の眼度があって、早い話し、寒すぎる。

  今の時間になると、外はかなり明るく、もう北アルプスの稜線の上は、薄い橙色。この色からやがて、赤味が消えて、薄い黄色になり、これが白に変わる。その上はというと、暗い青で、これが日の出前の宇宙の色ということか。

  最後のゴミ捨ての日、いつもよりたくさん、もうゴミは並んでいる。そのゴミ置き場まで、歩く。暖かめの格好だから、さほど寒くもないが、この並んでいるゴミはきっときのうのうちに出たものだろう。このくらいの知恵がないとなー。
  ことしの特徴か、年末のUターンの光景というのをTVでは見ない。Uターンもない?。ここが経済大国かという、そうゆうことを暗示させる光景のVTRが多い。でも、やっぱり、お孫さんを抱きかかえる、おじいさんや、おばあさんのニコニコする顔というものも、見てみたいもの。それもあっていい。ただ、私はTVで見ていないだけかも知れないが。

今年の夢はなんだったか

2008-12-28 18:44:55 | 散策
  寒空である。きょうは日曜だった。そうか、今頃気が付いたわけでもないが、日曜にしては、パッとしない一日が続いて、このまま終わりそうな感じがある。これに似ているものは、お正月で、ふと鐘の音が聞こえるころもあったかも知れない。そうゆう時期にやけに時間というもの、時代というか、一年を気にするのも、おかしなものだが、そうゆうものも時々に出て来る。鐘はとおの昔に鳴り終わっている。眠っているがラジオが付いていて、ことしが来たとか思うのも変だが、ことしは来るが、来年は永久に来ない。

  寒空で、かなり灯油ヒータも使った。灯油の充填は気を使う。それだけ注意散漫にあるということに等しいが、これをやることにした。ほったらかしでもあるが、予感というものもあって、大体が当たっていた。これによると、きょうのある時間は、灯油を入れないといけない、と思われた。
  この勘は当たって、もう残りの灯油も少なかった。いつものように、一枚は脱いで、身軽になって、段取りどおりのことをやる。少し違った気がしたが、それはまだ油を入れる前で、そのあとは大体大丈夫で、ホッと一息付く。灯油ヒータも結構油を消費する。それから、これも電気がないと燃えないものだから、停電にでもなったら、大変である。ただでも寒い。この寒さに慣れていない。昔の人、もういない人は、強かったようだ。でも、灯油の暖房器具はさすがに燃えていた。

  日の当たらない、また日の出ない冬の日曜の午後は、いかにも寒々としている。せめて、1時間でも日が出ればと思う。大体が、気圧は高いし、ただ等高線が、高低を持って並んでいるだけ。それで、あるときは晴れ間が出る。辺りが一面に明るく、またガラスの中にいると暖か。その太陽が雲に隠れると、暗転する。反転とどっちが怖いか。これはわからない。
  寒々しい、外の風景を、去年も同じようにして見ていたと思うが、その去年の今頃というのも、思い出せない。同じように寒かったはずで、しかし雪が降り始めたのは、例年並か。この辺りだと、お正月が過ぎて、ボチボチ雪は舞う。簡単に2、30cmは積もる。しかしそれは淡雪で、また太陽光が戻ると、一気に20cmくらいは溶ける。これは少し大仰かも知れない。しかし、降っては積もり、積もっては溶けるのが年始。

  今年もお正月があった。なんにも思わない。意地になって思わないようでもあるし、思ったところで、せいぜいもう少しゴミを出さないといけない、くらいである。このゴミ出しこそ、ことしの夢のようだった気がする。これも、遡ると、つまり時間を「逆転」させると面白いことが起こる。そこにあるのものが、消えてゆき、またなかったものが現われたりする。せっかくゴミとして出した、新聞の塊が戻ってくる。これはどうしたこと。その他、掃除器で吸い取ったゴミさえも戻ってきたりする。もう少し時代を遡ると、自分が少し若かったりもして、でもなんだか今のほうがよかった場合もあるから、ただ若返ったからいいと、素直に喜べない。
  無かった建物が現われる。その他、ここには道が無かった、そうゆうことにもなり、もう少し遡ると、うちがなくなることになる。おじいさん、おばあさんが登場する。こうゆうことを考えるのは楽しいが、その他よろしくないことも再現されて、その苦い経験を再度味わうのはさすがにもういい。時間の反転は、いいことだけでいいが、そんな都合のいいことは起こり得ない。

  今年の最初に思ったのは、これはもう誰しもあるかもと思うが、ことしももうすぐ終わってしまうという、そうゆういやーな感覚で、実際これがそのとおりになる。だから、ことしの夢とか希望とか、その他目標をたてるなど、なかなかやれない。大体頭から、そんなことは考えていない。ことしが果して無事終わるか、そうゆう心配が強い。それにしても、

  やっぱりことしも、ゴミは総じて増えた。捨てるところもないが、移動くらいは出来る、毎度思うこと。小掃除を、3日くらいやった。しかし小掃除も三日で終わってしまった。まだ、ことしは残っている。今から、でも、夢、ゴミ出しの夢は本物に出来る。これが本当の夢だったりもするのが、正直なところ。右にあるものを左に持ってゆくのも大変な気がする。何かを動かすと、雪崩が起きて、取り返しのつかないことにもなりそうである。

  明日は、「ことしの宿題」というものを考えてみるかな。


  暗い予感がある。きょうも少しだけ、寒い道を歩いて来た。きのうよりも暖かそうだったが、雨。でも、スイセンはやはり咲いているから、ことしが特に寒いというわけではない。雪続き。




  黒白の朝の時間であるが、そこにあるアオキに葉の上に白い雪が淡く乗っかっている。この青いこと。こうゆう青さは、いただけない。




  朝の、ツツジ。このツツジは、たぶんことしも、雪に埋もれる運命にある。毎年、横に出っ張ってくる。そのうち、雪が乗っても大丈夫になるか。



  
  目の前の、この金属に雪がふんわりと乗る。また蜘蛛も、この金属の辺りに、暖かくなるとよくいる。雪のときにしか、これに目を向けることもない。




  遠方を見つめている。いつもと同じ風景だが、この先に、今は太陽はいない。