田舎住まい

吸血鬼テーマーの怪奇伝記小説を書いています。

パソコンの中のアダムとイブ

2008-04-03 17:19:03 | Weblog
4月3日 木曜日
パソコンの中のアダムとイブ 4 (小説)
 太陽にあぶられている。歩道際の雑草のにおい。平成通りを走る車の排気ガスのにおい。飲食店の裏のビニール袋からもれでる腐敗臭。それらすべてのにおいがまざりあっている。夏のにおいの中を村木は歩く。
 いろいろあるな。なにがいろいろあるのか。わからない。生きているからこそ五感で世界をとらえている。ともかく、年だとは思いたくない。こうして生きている。それだけでも、ありがたいことだ。
 記憶力はまだあまり衰えてはいない。体力は確実におちこんでいる。
 美智子と出会った日々のことばかり想っている。寂光の滝の観瀑台まで東武日光駅から歩いた。それから植物園とその対岸の憾満が淵をまわってお化け地蔵を拝観した。ほぼ半日歩きつづけた。それでもつかれなかった。
 楽しく暮らした日々のことばかり想っている。美智子がこの世にいないなんて……悲しいことだ。こうして歩いていても、隣に彼女は不在だ。村木には耐えられない。できるだけ長生きしてやる。このさきなにが起きるか、みきわめてやる。などと粋がっている。年寄りの冷や水だ。
 ぐちっぽくなった。作家を志した友の半ばは鬼籍にはいっている。むなしく、無名のままでおわってしまったものもいる。新人賞を獲得して、華々しく文壇に登場しそのままかきつづけて大家となっている友もいる。村木はどうしてもフルタイムの作家になりたかった。チャンスは二度ほどあった。そのつどトラブルが起きた。
 背中のワープロは3台目だ。初めてのワープロは3行しか画面に表示されなかつた。いまは2児の母となっている智代が高校3年生。次女の理沙が中学2年生。学が小学3年生のときだつたから、30年も前のことだ。近ごろ、年代別にものごとを整理して思いだせない。時系列からみたらひどくあいまいな記憶だ。記憶がノッペラポウになってしまったようで戦慄を覚える。
 新しいことは記憶できる。昔のことはなかなか思いだせない。時間がかかる。やはり、どう気負ってみても記憶力そのものが弱くなっているのだ。
 わたしは、だれでしょうか? と、ひとに訊ねるようになったら、どうしょう。もちろん、そのときは自己の存在が崩壊しているのだ。悩みもなくなっているだろう。
 人間は記憶を集積でき、それを思い起こすことができてこそ、生きがいがある。生きているといえるのだ。
 ワープロだってご同様だ。保存した小説をどこにやってしまったのだ。ほらまた記憶にゆらぎが生じている。あれはパソコンだ。小説を飲みこんでしまったのは。デスクトップのいまは使っていないパソコンだ。
 そもそも、二台目のワープロのことを思いだしていたのだ。二台目は、5行。三台目になって、ようやく19行。村木の背中で永久の眠りについたRupo JW95GTだ。みんなみんな、よくノウナシのわたしとつきあってくれたよ。……ときどき、いらついて、叩いたりして、ゴメン。周りのものにあたるなんて、最低のやつだよな。アイソがつきたのだろう。だから不貞寝なんだ。
おきてよ。あやまるから、なあ、たのむよ。もういちど動きだしてよ。いや、いつになっても進歩のないわたしの小説にあきれてしまったのだ。もうつきあいきれない。それで永遠の眠りについたのだ。
 村木は背負った赤ちゃんをゆすりあげるように、リックの尻に両手をそえて、もちあげる。
足がもつれた。運転手にいじわるされて、見切り発車されてから歩きつづけてきた。JR宇都宮駅まではまだ遠い。坊やはよい子だねんねしな…はじめての男の子、学がうまれたとき、うれしくてよくおんぶしたものだ。村木は後ろに手をまわし、リックを支えあげて小さな声で歌いだした。坊やはよい子だ……。リックの中にはワープロがおさまっている。……うちの美智子さんはどこいった、どこいった、替え歌になっている。美智子の顔がちらちらする。美智子どこにいっちまったんだよ。涙声になる。
  ジジイのわたしを残していくなんてズルイヨ。
 どこにいるんだ。
 ボウヤノオモリハドコイッタ。
 美智子さんはどこにいる、どこにいる。
 

 涙がでた。涙が頬をつたってとめどもなくながれおちた。
 涙腺がゆるむ。涙があふれてとめどもなくながれおちる。
 どうして、こんな意地悪をされるのだ。
 どうして、老人をおきざりにするのだ。
 どうして、見切り発車して平気なのだ。
 ああ、地獄だ。わたしがいるのは地獄だ。ここは地獄だ。ここで舞え。ここで生きていけ。そうしたことばでじぶんを励まして生きてきた。故郷にもどってきてから、いいことはなかった。美智子と東京へもどりたかった。
 このじじいにはこの荷物でこの重量でこの暑さで水も補給しないで帽子もかぶらないで1時間余りの二足歩行はすこしきびしすぎる。

コメント
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