〈 第十九闋 赤白符 ( せきはくのふ ) 奥州をめぐる武力抗争 〉
今回も順番に、「書き下し文」と「大意」を紹介します。
〈「書き下し文」( 頼山陽 ) 〉 7行詩
赤符 ( せきふ ) を用うる無かれ 白符 ( はくふ ) を用いよ
白符は憑 ( よ ) る有り 赤符は無しと
五侯の第宅 ( ていたく ) は雲に連なりて起こる
省 ( かえり) みず東征は運輸を絶つを
将軍何に頼 ( よ ) りて黠胡 ( かつこ ) を撃たん
君見ずや他年赤符を肯 ( あ ) へて剖 ( わか ) たず
路傍に空 ( むな ) しく棄 ( す ) つニ酋 ( しゅう ) の首
〈 「大 意」( 徳岡氏 ) 〉
官の赤符は使いものにならず 民は賊軍の白符を通用させている
白符は兌換 ( だかん ) だが 赤符はそういかぬから
都では貴族たちの豪邸がつぎつぎに建っているのに
東征軍が輸送を絶たれて苦しんでいるのを 朝廷はいっこうに顧みない
いったい将軍は何を頼みに狡猾な賊軍を撃てばよいのか
見たまえ君、後年朝廷は義家の功に対してもやはり赤符を下すのを承知しなかった
だから義家は武衡 ( たけひら )、清衡 ( きよひら ) の二人の賊将の首を・空しく道ばたにほうり出して帰ったのだ
栄華を極めた藤原氏の貴族社会がなぜ崩壊したのか、源氏、平家という武家社会がどうしてとって代わったのか。頼山陽の7行詩が詠っているのだそうです。この詩を理解するには、やはり渡部氏の解説が不可欠です。
「〈望月 ( もちづき ) の欠けたることの無し〉と言っても誇張でなかった、藤原道長の栄華のあとを継いだのが、道長の長男で摂政関白となった頼通 ( よりみち ) である。」
宮中では『栄華物語』や『狭衣 ( さごろも ) 物語』や『更級 ( さらしな ) 日記』などの文学作品が作られ、頼道は宇治に別荘を作り平等院と名づけました。都だけを見ていますと、藤原時代はまだ極盛期を謳歌していました。しかし奥州では、戦乱の黒雲が巻き上がっていたと、氏が説明します。
「すなわち、〈前九年の役〉の勃発がそれである。永承 ( えいしょう ) 6 ( 1052 ) 年から12年に及ぶ戦いであったので、〈 12年合戦 ( かっせん ) 〉という呼び方もある。元来は陸奥と出羽の俘囚 ( ふしゅう ) の問題であったが、これが源氏の勃興に連なり、さらには鎌倉幕府の淵源となるものである。」
第十八闋で頼山陽が、日でも月でもない巨大な星で、恐ろしく輝くのが出現して来たと詠った詩とここでつながります。〈 星 〉は〈 将星 〉すなわち武家、特に征夷大将軍を指し、奥州征伐に源義家 ( よしいえ ) が出現したことを言います。
「古代には東北地方に、蝦夷問題があった。しかし蝦夷は中央政府に降 ( くだ ) ってその支配を受け、文化の影響を受けることとなった。朝廷に服従した蝦夷を俘囚というが、この俘囚の酋長が強大となり、頼通の時代には、中央政府と抗争するまでになっていたのである。」
酋長というのは、アメリカの開拓の歴史で使われる言葉だと思っていたましたが、氏の解説によりますと『大日本史』で使われると言います。わざわざこんなことを説明しているのですから、氏も違和感を覚えたのでしょうか。『大日本史』は、水戸徳川家の藩主徳川光圀によって編纂が開始され、藩の事業として二百数十年継続し、明治時代に完成したといわれる権威のある歴史書です。
全397巻226冊(目録5巻)という膨大な本で、携わった学者たちは水戸学派と呼ばれています。彼らはどんな思いで酋長という蔑称を使ったのでしょうか。これまでに読んだ本の知識からしますと、蝦夷 ( えぞ ) はれっきとした日本民族です。えみし、えびすなどとも呼ばれ、中央政権である大和朝廷が成立する以前から、日本の東国と北方に住んでいた人々の呼称です。東国とは、現在の関東と東北地方、北方は北海道や樺太を指しています。
田中英道教授の説によりますと、関東・東北地方こそが日本文化の発祥の地であり、高天原 ( たかまがはら )の地であったとなります。今も諸説があり魅力のつきない古代史ですが、渡部氏はどの説を取っているのでしょうか。
今の私はボウフラ君の脅しより、日本史の謎の方に何倍も心を奪われます。自由民主党も反日左傾の野党も苦労していますが、その苦労も古代からの繰り返しですから、「自分たちだけが大変だ」と自惚れては困ります。自惚れが昂じると、共産党親派のボウフラ君みたいな跳ね返り者が出てきて、学びの庭である「ねこ庭」を荒らします。
次回は蝦夷と戦う、征夷大将軍源義家 ( よしいえ ) の話を紹介します。