暑くなりました。とっても。暑いのは嫌いじゃないんですが、だからといって私だけ暑くないわけでもなくて。こういう仕事ですから冷房の効いた部屋で坐ってますが、昼間に往診するとそれだけで汗みずくです。私は昔の邦画を見るのが好きで、それも戦後まもなくの頃の白黒映画が好きで、俳優達が皆若いのも(当たり前ですが)面白いのですが、その時代の空気、つまり建物、文化度、自然風景、服装、髪型に魅力を感じます。今と歴然と違うのは煙草ですか、出てくる男という男全員が煙草吸ってます、家の中で食堂で汽車の中で、ありとあらゆる場で。そして夏の暑そうなこと。女は絽や紗の着物に日傘を差して粋に歩きます、男もハンカチで汗を拭き拭き歩いています、そして家に戻っても暑いわけです、窓開け放して扇風機回して団扇の扇子のでパタパタあおぐ。その暑い暑い感じがよくわかってこれがまた時代を感じさせて良いわけです。その時代の感覚、日常過ごし方の常識、男はこうで女はこう。むろんだらしない人や所は今と同じだけあったにせよ、夏のくそ暑い時期にこそきりりと着こなす心意気みたいなものを感じるのがいいです。あれだけ着ていたら暑くて大変でしょうに、あらごきげんいかが?なんて涼しい顔してる、この心意気。風鈴と同じで、日傘というのは涼を感じさせるアイテムであり、風鈴と違うのは女を色っぽく見せることですか。クールビズなんてのは実は大野暮なんです。男も暑いときにこそきりっと着込まねばならぬのです。やせ我慢せねばならぬのです。そう思うことです。
山口県教委が今年の教員採用試験を前に受験者に文書配布したんだそうです、当県は以前から不正のできないシステムで行なっていますって。ちゃんとやってるって意識が強いからこそこの手の文書回そうということなんでしょうが、却って疑念を持たせたりして。具体的にはこうだそうです、個人の同定のできぬようにする、つまり名前も性別も何もかも伏せて単に筆記や面接やらの結果だけで判断するというのでしょう。さも公正公平のように思いますが、これが正しいかどうかは話が別です。巷間伝えられる教員の質の低下は、教員志望する者達全体の傾向でしょうかそれとも個人の資質を消しすぎて(成績偏重、成績至上主義)不適格者を除けない弊害でしょうか。後者は適格者(昔のTVドラマ風に言えば熱血系)を拾い上げられないとも言い換えられます、尤も、適格者がいい成績挙げれば何の問題もないのでしょうが、えてして世の中はうまく行かず、こんな奴が先生になったら生徒達が幸せだろうにと思う者が成績悪いなんてのはよくある話でしょうし、先の大分のような恣意が罷り通れば好成績の適格者すら落ちてしまうことになっているのでしょう。適格不適格の線引きはどこで?という問いには明確に答えられませんが、それこそ面接での当たりとか印象とかでおおまかわかるものでしょうに。もっともその為には選ぶ方の人格常識優れていることが大前提ですがね。本来はこうだったんでしょうし、四角四面で謹厳実直な人が教員の頭になっていたんでしょう、そうじゃなくなったから今の腐りになってしまったというわけです。クソ県議の口利きを一回聞いたばかりにやくざの恫喝化したというわけです。適材適所(さらに適時適当って加えることもあります)の難しさですか。ひとえにトップの資質。原理原則を貫くことの大切さ重要さです。今の時代、イスラム原理主義の響きを嫌って、原理原則主義を危険思想のように扱う向きがありますが、臨機応変偏重こそが規範意識を壊す元凶なのです。臨機応変できるためには原理原則の十分な理解が必要です。場当たり的に思ったようにできることだけやればいいなんてことじゃ決してありません。規制緩和。小泉がお題目のように唱えてきたこの方針が大間違いであったことは今の日本の現状を見れば明らかです。資本主義の反映のためには社会主義的規制が必要だという証明であるわけです。規制規制でがんじがらめであるとの指摘は昔からあったこと、民間でできることは民間でなんて分かり易いキャッチフレーズでもって小泉が推進してきた「緩和」策は日本の文化をも壊しました。この男、万死に値しましょう。この話と、単純な公共事業を巡る役人達の贈収賄事件とをわざわざにひっつけなくてもいいのかも知れませんが、融通の利かぬ石頭の役人がやはり必要なんだと、ぐるりと一周してやっとわかる皮肉でもあります。
山口県教委が今年の教員採用試験を前に受験者に文書配布したんだそうです、当県は以前から不正のできないシステムで行なっていますって。ちゃんとやってるって意識が強いからこそこの手の文書回そうということなんでしょうが、却って疑念を持たせたりして。具体的にはこうだそうです、個人の同定のできぬようにする、つまり名前も性別も何もかも伏せて単に筆記や面接やらの結果だけで判断するというのでしょう。さも公正公平のように思いますが、これが正しいかどうかは話が別です。巷間伝えられる教員の質の低下は、教員志望する者達全体の傾向でしょうかそれとも個人の資質を消しすぎて(成績偏重、成績至上主義)不適格者を除けない弊害でしょうか。後者は適格者(昔のTVドラマ風に言えば熱血系)を拾い上げられないとも言い換えられます、尤も、適格者がいい成績挙げれば何の問題もないのでしょうが、えてして世の中はうまく行かず、こんな奴が先生になったら生徒達が幸せだろうにと思う者が成績悪いなんてのはよくある話でしょうし、先の大分のような恣意が罷り通れば好成績の適格者すら落ちてしまうことになっているのでしょう。適格不適格の線引きはどこで?という問いには明確に答えられませんが、それこそ面接での当たりとか印象とかでおおまかわかるものでしょうに。もっともその為には選ぶ方の人格常識優れていることが大前提ですがね。本来はこうだったんでしょうし、四角四面で謹厳実直な人が教員の頭になっていたんでしょう、そうじゃなくなったから今の腐りになってしまったというわけです。クソ県議の口利きを一回聞いたばかりにやくざの恫喝化したというわけです。適材適所(さらに適時適当って加えることもあります)の難しさですか。ひとえにトップの資質。原理原則を貫くことの大切さ重要さです。今の時代、イスラム原理主義の響きを嫌って、原理原則主義を危険思想のように扱う向きがありますが、臨機応変偏重こそが規範意識を壊す元凶なのです。臨機応変できるためには原理原則の十分な理解が必要です。場当たり的に思ったようにできることだけやればいいなんてことじゃ決してありません。規制緩和。小泉がお題目のように唱えてきたこの方針が大間違いであったことは今の日本の現状を見れば明らかです。資本主義の反映のためには社会主義的規制が必要だという証明であるわけです。規制規制でがんじがらめであるとの指摘は昔からあったこと、民間でできることは民間でなんて分かり易いキャッチフレーズでもって小泉が推進してきた「緩和」策は日本の文化をも壊しました。この男、万死に値しましょう。この話と、単純な公共事業を巡る役人達の贈収賄事件とをわざわざにひっつけなくてもいいのかも知れませんが、融通の利かぬ石頭の役人がやはり必要なんだと、ぐるりと一周してやっとわかる皮肉でもあります。