4月21日
立ち寄ってくださって、ありがとうございます。
午前中は天気がよかったのに、そのあとまた寒くなりましたね。
休みの日に、すごく天気がよかったという記憶が最近ないような気がします。
まあ、ひょっとすると、老いた脳から記憶自体が欠落しているのかもしれませんが。
☆
「失われた時を求めて」は、はじめ、現在のように全七編となる予定はなく、「スワン家のほう」「ゲルマントのほう」「見出された時」の三部構成になるはずでした。そう考えると、第二編「花咲く乙女たち~」は、続「スワン家のほう」といってよく、第四篇「ソドムとゴモラ」は続「ゲルマントのほう」と呼んでいい内容です。また、五編・六篇は、先日書きましたが、恋愛小説として独立したものと考えてもいいので(単純に言い切ってしまうことはもちろんできないのですが。いずれまた書きます)、結局、小説の中心は元の構成どおり、「スワン」「ゲルマント」という二つの方向(道)なのだ、とも言えます。
スワン家へ通じる道、ゲルマント家のほうへ向かう道。その道をたどるうちに、二つの道はやがて出会い、それまで別々の道で見てきたものはすべて溶け合い、世界という地表になる。単純化すれば、「失われた時~」はそういう物語です(もちろん、ひとつの、わかりやすい切り口は、ということですが)。
この二つの方向は、社会的次元では、スワン家=ブルジョワ、ゲルマント家=貴族という、階級世界を表しています。この次元で物語を見ると、まず、成金たちの集まりであるブルジョワの社交界の皮相さ、安っぽさが浮き彫りにされ、それに対比して貴族社会のなにか神話めいた奥深さのようなものが、おもに昔の伝説を通じて描かれます(著者の、文学だけではなく、建築や絵画についての知識を総動員して)。
しかし、当然のことながら、拝金主義的な時代の波は押し寄せており、貴族たちの社交界とブルジョワのそれの境界線はあいまいになっていきます。そうして、最後には、ほとんど女郎部屋のやりてばばあのようだった、(ブルジョワ側の)ヴェルデュラン夫人が、ゲルマント大公の後妻になって本当のゲルマント大公夫人になることで、皮肉な結果を迎えます。時代が変わるときに、いつも暴露されるように、「権威」というものに実体はなにもないのだということが見事に描かれるのです。
けれども、いま、物語を始めようとしている年老いた話者にとっては、二つの方向は、別の次元を持っています。彼にとって、二つの方向とは、子どものころよく滞在した、コンブレーの叔母の家の、別のふたつの出口から伸びている道であり、子ども時代の話者にとってその二つの出口は、どこかで物理的につながっているとは信じることができないほどへだたった、別世界への入り口だったのです。
私たちにも、自分にひきつけて思い出してみれば、きっと似たような記憶があるはずです。家から学校へ向かう通学路と、逆方向にある習字の塾への道はまったく別の世界に属していて、その道が川に沿った道の先でひとつになるあたりでは、まるで国境を越えるような気がする。また、別世界のできごとなのだから、塾でいっしょになる、隣のクラスの同級生とは、塾の間だけは仲良くしてもいいけど、学校では話しかけられたくない……。例によってちょっと飛躍していますが、なにか、子ども時代のこのような感覚が、そのふたつの方向には、象徴されているのです。
物語りを始めようとする話者にとっては、彼が体験した何十年かに渡る権威崩壊の過程も、子どものころに感じていた、二つの別の世界で繰り広げられたおとぎ話にすぎない、というようにも見えるのです。
「開きすぎたコンパス」。プルーストは、自分の作品についてそう自嘲ぎみに語っています。本当は、わかりやすい、単純な構成だったのに、ひとつひとつの材料の展開が長くなりすぎて、それが見えにくくなったことを例えたのです。
単純化しすぎたところもありますが、まず根本にある大きな構成は、いま書いたようなものだと思います。
では、また来週。
立ち寄ってくださって、ありがとうございます。
午前中は天気がよかったのに、そのあとまた寒くなりましたね。
休みの日に、すごく天気がよかったという記憶が最近ないような気がします。
まあ、ひょっとすると、老いた脳から記憶自体が欠落しているのかもしれませんが。
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「失われた時を求めて」は、はじめ、現在のように全七編となる予定はなく、「スワン家のほう」「ゲルマントのほう」「見出された時」の三部構成になるはずでした。そう考えると、第二編「花咲く乙女たち~」は、続「スワン家のほう」といってよく、第四篇「ソドムとゴモラ」は続「ゲルマントのほう」と呼んでいい内容です。また、五編・六篇は、先日書きましたが、恋愛小説として独立したものと考えてもいいので(単純に言い切ってしまうことはもちろんできないのですが。いずれまた書きます)、結局、小説の中心は元の構成どおり、「スワン」「ゲルマント」という二つの方向(道)なのだ、とも言えます。
スワン家へ通じる道、ゲルマント家のほうへ向かう道。その道をたどるうちに、二つの道はやがて出会い、それまで別々の道で見てきたものはすべて溶け合い、世界という地表になる。単純化すれば、「失われた時~」はそういう物語です(もちろん、ひとつの、わかりやすい切り口は、ということですが)。
この二つの方向は、社会的次元では、スワン家=ブルジョワ、ゲルマント家=貴族という、階級世界を表しています。この次元で物語を見ると、まず、成金たちの集まりであるブルジョワの社交界の皮相さ、安っぽさが浮き彫りにされ、それに対比して貴族社会のなにか神話めいた奥深さのようなものが、おもに昔の伝説を通じて描かれます(著者の、文学だけではなく、建築や絵画についての知識を総動員して)。
しかし、当然のことながら、拝金主義的な時代の波は押し寄せており、貴族たちの社交界とブルジョワのそれの境界線はあいまいになっていきます。そうして、最後には、ほとんど女郎部屋のやりてばばあのようだった、(ブルジョワ側の)ヴェルデュラン夫人が、ゲルマント大公の後妻になって本当のゲルマント大公夫人になることで、皮肉な結果を迎えます。時代が変わるときに、いつも暴露されるように、「権威」というものに実体はなにもないのだということが見事に描かれるのです。
けれども、いま、物語を始めようとしている年老いた話者にとっては、二つの方向は、別の次元を持っています。彼にとって、二つの方向とは、子どものころよく滞在した、コンブレーの叔母の家の、別のふたつの出口から伸びている道であり、子ども時代の話者にとってその二つの出口は、どこかで物理的につながっているとは信じることができないほどへだたった、別世界への入り口だったのです。
私たちにも、自分にひきつけて思い出してみれば、きっと似たような記憶があるはずです。家から学校へ向かう通学路と、逆方向にある習字の塾への道はまったく別の世界に属していて、その道が川に沿った道の先でひとつになるあたりでは、まるで国境を越えるような気がする。また、別世界のできごとなのだから、塾でいっしょになる、隣のクラスの同級生とは、塾の間だけは仲良くしてもいいけど、学校では話しかけられたくない……。例によってちょっと飛躍していますが、なにか、子ども時代のこのような感覚が、そのふたつの方向には、象徴されているのです。
物語りを始めようとする話者にとっては、彼が体験した何十年かに渡る権威崩壊の過程も、子どものころに感じていた、二つの別の世界で繰り広げられたおとぎ話にすぎない、というようにも見えるのです。
「開きすぎたコンパス」。プルーストは、自分の作品についてそう自嘲ぎみに語っています。本当は、わかりやすい、単純な構成だったのに、ひとつひとつの材料の展開が長くなりすぎて、それが見えにくくなったことを例えたのです。
単純化しすぎたところもありますが、まず根本にある大きな構成は、いま書いたようなものだと思います。
では、また来週。
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