麻里布栄の生活と意見

小説『風景をまきとる人』の作者・麻里布栄の生活と意見、加えて短編小説。

生活と意見 (第117回}

2008-04-28 00:07:37 | Weblog
4月28日


立ち寄ってくださって、ありがとうございます。

「これは幸運」と思えるようなことが、それほど多くない人生でしたが(まだもう少し残っていますが)、いちばんよかったなあ、と思うのは、やはり自分が楽器を弾けるということでしょう。

どんなことがあっても、ギターを手に取り、チューニングをすませると、次の瞬間、世の中とつながることはなにひとつ頭の中に残っていません。25歳ころから難聴が進み、昔ほど音をちゃんと全部聞けているとは思いませんが、それでも、音は心を全部満たして、そこにはほかになにも入る余地はありません。

めったにないことですが、最近、弾いていると、ふいにある心情が浮かんでくるようになりました。それは、いつか自分が経験した心情であり、いってみれば、心の味とでもいったものなのですが、自分では完全に忘れていた一回きりのその味を、そのとき弾いていたギターの音色、コードの響き、メロディの音の落ちていく流れ、上がっていく流れが、理由はわからないけれども、偶然心の味と相似の味を作り出し、その心情を思い出させるのだと思います。心情も一種の波なのだから、波形が重なったというべきでしょうか。しかし、ランダムであるはずの人間の心情が、規則を持った音の重なりや連なりにぴったりあてはまるというのは、とても不思議なことだと思います。

(今日は、プルーストのことは書かないつもりではじめましたが、いま書いたことは「失われた時を求めて」のひとつのテーマである「心情の間歇」を自分の言葉で説明したようなことになったのかも、と思います。そうする気はなかったのに)

そういう状態になったときには、指板の上に音が見えるような感覚になり、ひとりでにフレーズが出てきます。でも、才能のない私は、途中でその状態を自覚してしまい、意識して、さっき弾いてよかったところを記憶によって繰り返そうとしたところで、その状態を手放してしまうことになります。

ただ、以前は、こんなことはなかったので、それはそれなりに、低いレベルであっても、自分はギタリストとして成熟しているといえるのかもしれない、と思います(途中5~6年ブランクがあるけど、弾きはじめて35年くらいたっていますから)。ギターはまた、偶然の出会いで弾くようになって、誰に押し付けられるでもなく、自分で選んではじめた、ということもたぶん、気に入っているのだと思います。自宅も含め、どこにも音楽を始める環境などなかったので。

せめて、創作も楽器程度には成熟していけばうれしかったのですが。でも、まあ望みはもうないでしょう。それでも、むなしい準備だけは続けるでしょうが。



角川文庫から「与謝野源氏」が二種類出ました。注目は、これまでの文庫の改版(全5冊)ではなく、与謝野源氏の最初の訳である全三巻本のほうです。とてもよい本です(上巻は読了しました)。最近、日本古典については、いろいろ新しいものが出ていい感じですが、とくに、去年出た新古今や、ビギナーズクラシックスシリーズなど、角川文庫はがんばっているなと思います。

では、また来週。
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