麻里布栄の生活と意見

小説『風景をまきとる人』の作者・麻里布栄の生活と意見、加えて短編小説。

カントとショーペンハウアー

2023-11-26 13:02:21 | Weblog
 カントとショーペンハウアーの根本的な違いは、「何のために哲学を始めたか?」にあると思う。
 カントは、少年である。彼は、世間で行われる習慣、法律、信仰に論理的な矛盾があるのを感じつつ成長した。たしかに、多かれ少なかれ、誰でもそうだといえば言える。しかし、われわれの多くは、成長するにつれて、それらを「仕方のないこと」と認識するようになり、なにしろその観点を持っていてもなんの得にもならないことから、やがてそんな観点を捨て去り、「なるほど、世の中とはこういうものなのだ。こういうときには、こうすればいいのだ」と、処世術を築く材料にしてしまう。
 それが、「大人になる」ということだろう。
 カントは、こういう意味では、大人にならなかった。
 カントは、心の奥に「世界を統べる唯一の真理」が(つまり見せかけの論理的な矛盾が氷解する地点が)存在することを秀才の少年として確信しており、人間は(自分は)そのことを見極められるという自信を持っている。
「世界を統べる唯一の真理」は、コンパクトに持ち運べる万能法であり、それさえ持っていれば、どんな局面、どんな複雑な人間界の事件も、自然現象もその場で説明でき、解決できるという、ほほえましい秀才の信仰である。
「純粋理性」の批判にたどりついたのも、ただその万能法を求めた結果にすぎない。彼の関心は、初めから人間にあり、幸福な社会にあり、間違った判断さえしなければ、人間は誰でも自ずと「善」を知り、そこへ向かうはずだという明るい展望がある。
 数学の得意な人間は、結局、どんな文章題や証明問題も単純な定理と公式で解けるのを知っているから、勉強にそれほど時間を要しない。カントは、人生全ての諸問題に、そういう定理を見つけたかったのだ。
「純粋理性」の批判は、存在論的な場所――つまり宇宙空間のようなイメージへわれわれを誘うが、カント自身はリアリストであり、存在論がその探求の途上に姿を見せたのは、いわば「たまたま」なのだ。
 道の途中、「あ、こういうこともあるな」と、考えたにすぎない(三批判書の中で、「純粋理性批判」がもっともボリュームを持つのも「たまたま」であり、もっと簡単にやっつけられると思ったのに、意外とてこずった、という結果にすぎない。カントの目的は、実践にあり、道徳にある)。

 これに対し、ショーペンハウアーは、幼いころから、なによりも人生に「不条理」を感じて成長してきた人だろう。それは、自分の認識対象(目の前の世界)に矛盾を見た、というより、すでにそれを認識している自分自身も勘定に入れた感じ方である。
「世間で行われる習慣、法律、信仰に論理的な矛盾があるのを感じ、しかし、その背後には、その矛盾点が氷解する地点がある」とカントのように考えるのは、なにより、人間が真理を知りうる、そうしてその真理とは人間以外の自然にとっても有意義なものである、という信仰の土台の上に築かれるものだ。
 これは、人間が「自分の存在は棚に上げて」いるからできる考えである(もちろん、そのほうが、歴史的には古く、まっとうな認識である。原始人は、「象とはなにか? どうやって殺して食うか」と考える前に、「自分とはなにか?」なんて考えたはずはないのだから)。
 ショーペンハウアーは、起こることそのままを真理と感じた。だから、不条理を感じた。「不条理を感じる」のは、「矛盾を感じる」のと同じではない。「矛盾を感じる」人は、その矛盾を正すことができ、要するに世界を変えることが可能だと考えている。「不条理」とは、「世界に矛盾を感じる自分の主観はあるが、そう感じても、世界は変わらないし、それが真理だし、ただ自分はそう感じる自分を感じているだけだ」という感覚である。
 このような感じ方をする子どもの少年時代とは、論理的ではなく、感情が先に立つ少年時代である。
 世界の美しさ、はかなさ、ロマンチックな心の動き、大きすぎる期待、裏切られての失望、嘆き。このような経験が、彼に、個人的な質問としての「なぜ?」を生んだ。
 世界は不可解である。しかし、彼は、あまりに自分の感情のリアリティが美しく深いために、自分より別の場所に「世界を統べる唯一の真理」があるとはとうてい考えられない。自分にとって、すべてはそのまま真理なのだ。この、世界への不可解さ、自分の感じ方への絶対の自信が、世界がただ自分ひとりのために「説明されること」を彼に望ましめた。「見えるとおりが真理なのはわかっている。ではなぜそうなるのか?」。これへの答が、彼の哲学である。
 それは、当然、宇宙論になる。宇宙の地図の中に自分の居場所を書き込むことが彼の目的なのだから。

 つまり、カントは学者で、ショーペンハウアーは芸術家であるということになるだろう。 

 ショーペンハウアーは、道徳については、単純な「同情」というようなところから、むりやりそれを引っぱってこようとするが、それは、サルトルが「人生には先験的に意味はない」と言いながら、なお、ヒューマニズムは可能だといったのと同様、無理がある。

 なぜショーペンハウアーからは、「人間はどう生きるのが正しいのか」が出てこないかといえば、彼がそんなことをもともと求めていないからである。
 彼には芸術がもたらす、宇宙の真の似姿に陶酔しつつ生きることが最もすばらしい生き方だと、初めから答が出ており、それを必要としない人たちは、「それでしょうがない」としか考えていないのだから。
 ショーペンハウアーが、「教師」として見られることがあるのは、一部の人、つまり芸術家にとってだけであり、もともと生活人には無関係なのだ。

 カントは「教師」たろうとしている。
 生活の規則正しさや、ゆっくり正確に書こうとする身の律し方が、模範として自己を人々に示している。

 さあ、「生の哲学者」はどちらだろうか?

 カントは現世での、人間の「よい生」を信じ、ショーペンハウアーはそれを信じていない。

 では、カントが「生の哲学者」だろうか?

 しかし、カントが思い描いているのは、いわばユートピアであり、ドン・キホーテの思い込みのようなものかもしれない。
 模範といっても、人間は神でも機械でもない以上、それだけ律儀な生活を送るのは、「非人間的」であり、ロボットめいているともいえる。
 つまり、カントは、現実を見ているようで、実はまったく自分の夢の世界だけで生きている人なのかもしれない。

 これに対し、ショーペンハウアーは、「人生は夢である」と言いながら、世界をちゃんと直視しているリアリストである。観念的でありながら、「両目はできるだけ水で洗うべし」とか「われわれの脳は30歳ころがピークで」といった唯物的な行動、言動をとる。
 自分の「人生は夢である」という主張を現実に人々に認められたがり、疫病が流行ればすぐに避難する。
 これは、夢の中で生きている人のやることではない。

 では、カントが非人間的で、ショーペンハウアーのほうが「生の哲学者」だろうか?

 しかし、カントは社交も好み、モテはしなかったろうが、大学教授として、人間らしい一生を送った。普通の職業人として、一定の時間を仕事に割いた――その仕事が、彼の場合、思惟と著述だったのだ。彼は、生き生きと、自然にその時代に生きた。
 これに対しショーペンハウアーは、バランスを欠き、仕事はやめて、人を遠ざけた。
 それは、非常に不自然な、隠者の生活である。普通の意味で、生き生きと人生を送ったとは言えないだろう。

 では、カントが「生の哲学者」なのか?

 しかし、カントの信じる「よい生」が、誰にも必要のないものだったら?
 そのあとの時代に続々登場する、秀才の大学教授たちのように、「ああしろこうしろ」と人に価値観と、自分の頭のよさを認めることを押しつけはするが、その実、世界に必要のない人種を生み出す、その端緒になったのがカントだとしたら?
 これに対し、人生に挫折し、苦悩し、秀才の職業大学教授たちに「宇宙のしくみはこれ。人間の発生した理由はこれ。ほら、もう悩まなくていいだろ?」と言われても、「それじゃ、『俺』の生きている理由はなんだ?」と、問い返すしかない人々にとって、ショーペンハウアーのほうが、どれだけ心に慰めを与えてくれることか……。

 ここまでくれば、もう、結局は2種類の人間がいるとしかいえまい。
 カントを必要とする人と、ショーペンハウアーを必要とする人。
 挫折を知らず、実はまったくかっこ悪いのにそのことに気づかず、「頭さえよければいいのさ」というおとぎ話の中で生き生きと生きていける人。
 自分をつねに外から見てしまうために短所ばかり目について、どうしても生き生きとは生きられないと考える人……。

 このへんでやめてもいいだろう。
 とりあえず。

 ショーペンハウアーがカントを尊敬するのは、カントの中の「少年」を尊敬しているのだ。プラトンのような。
 カントはショーペンハウアーに対し、「なぜそんなに悲しい結論を導く必要があるのか?」と、思ったことだろう。「それは哲学ではない」と。
 そういう明朗単純なところも、古代ギリシャ的であり、それは、ショーペンハウアーがあこがれつつ手に入れることのできないものなのだ。

 それこそカントが「生の哲学者」の証拠かも……。
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