アーナンダ
アーナンダは、孔子にとっての子路のような存在だが、ブッダはアーナンダをとても好きだったに違いない。
「勃起しないためにはどうしたらいいですかねえ? 師匠」
「アーナンダよ。女を見ないことだ」
「なるほどねえ。でもですよ、師匠。その気はなくても、好みのタイプの女が目の前を通りかかったら? どうすりゃいいですか?」
「アーナンダよ。話しかけなければいい。そうすれば何時間後かにはもう思い出さないよ」
「なるほどねえ。しかし、はずみで……自分でもわけのわからないうちに話しかけてしまったら? どうしたらいいですか、師匠」
「アーナンダよ。触れなければいい。そうすれば二日もたったら忘れるよ」
「じゃあ、でも、もし、思わず肩にちょっと触ったら?」
「えーかげんにつつしんでおれ、ばか者」
ちゃんちゃん。
こんな会話が、大パリニッバーナ経に残っている。これは、やすきよの漫才の台本みたいだが、ブッダとアーナンダの親しさがにじみ出ている場面だ。
デフォルメされたアーナンダは、手塚治虫の『ブッダ』に、元人殺しの、熱血青年として描かれる。しかし私には、アーナンダは、あれほどには眉間にしわを寄せない人物のような気がする。
アーナンダは、バカ正直な、単純な若者だったのではないだろうか。
おそらく、教団が大きくなるにつれて、ゴータマのまわりには、東大卒のエリートのような人々が集まってきて、みんなで知力を競い始めたに違いない。ブッダはそれをいいこと半分、悪いこと半分に考えたに違いない。
悟りにいたるまでは、彼も学究の徒だった。結局その学問を全て捨て去るものの、ブッダにもやはり、ペダンティックな会話を楽しむ趣味も残ったに違いない。エリートたちは、ブッダのこの面をよく理解し、知性の師として自分たちに引き寄せて崇拝したことだろう。
しかし、ブッダは、「それが最も大切なことではない」と言うために、そういう知的グループとも交わったはずだが、彼らには、「それではない」は、理解できなかった。
もう一方の人々――勉強などしたこともない貧民たちには、エリート集団の中にいるときのブッダは、理解したくてもできない、距離を感じさせる存在であったろう。そうして、「教団を維持し、まとめる」という経営者の立場からすると、ブッダは、これら一般の信者と話をしたくても、次第にエリート集団との交わりを深めていくしかなくなっていったことだろう。
ブッダは、一修行者として、そうなっていく自分にジレンマを感じたに違いない。
そんなとき、アーナンダが現れた。
彼は、「場の雰囲気」を感じ取れるほど知的でも繊細でもない。一般信者と上層エリート部のあいだの見えない壁など知ったことではない。しかし、彼はブッダへの素朴な信頼と、「世界とはなんなのか?」といった子どものような疑問を持つ若者であり、その意味で真の修行者の素質を持つ男だった。
ブッダは、その遠慮ない、純粋な態度をこの上なく愛したろう。
教団にがんじがらめにされた自分に必要なのは、もう一度アーナンダのような心に帰ることであり、しばられた立場を捨て、一修行者として遍歴することだ――ブッダはそう感じたろう。
ブッダが、「アーナンダとふたりで最後の旅に出る」と言ったとき、エリート集団は「この人もとうとうヤキがまわった」と思ったことだろう。しかし、ブッダはそうすることで、おそらく、国を捨て世俗を捨てた最初の旅立ちのころの、若々しい気持ちになれたことだろう。アーナンダは、「世界とはなんなのか?」と考えて一歩踏み出したときの、ブッダ自身の姿だったのだ。
彼はアーナンダを見ることで、自分の第一歩をつねに確かめ、素朴な少・青年時代を携えることができたともいえるのだ。
だからふたりは年齢の違いを超え、師匠と弟子の関係を超えた友だちとして遍歴し、ブッダはその途上で死んだ。
教団の代表者としてではなく、ひとりの、道を求める青年として。
アーナンダは、孔子にとっての子路のような存在だが、ブッダはアーナンダをとても好きだったに違いない。
「勃起しないためにはどうしたらいいですかねえ? 師匠」
「アーナンダよ。女を見ないことだ」
「なるほどねえ。でもですよ、師匠。その気はなくても、好みのタイプの女が目の前を通りかかったら? どうすりゃいいですか?」
「アーナンダよ。話しかけなければいい。そうすれば何時間後かにはもう思い出さないよ」
「なるほどねえ。しかし、はずみで……自分でもわけのわからないうちに話しかけてしまったら? どうしたらいいですか、師匠」
「アーナンダよ。触れなければいい。そうすれば二日もたったら忘れるよ」
「じゃあ、でも、もし、思わず肩にちょっと触ったら?」
「えーかげんにつつしんでおれ、ばか者」
ちゃんちゃん。
こんな会話が、大パリニッバーナ経に残っている。これは、やすきよの漫才の台本みたいだが、ブッダとアーナンダの親しさがにじみ出ている場面だ。
デフォルメされたアーナンダは、手塚治虫の『ブッダ』に、元人殺しの、熱血青年として描かれる。しかし私には、アーナンダは、あれほどには眉間にしわを寄せない人物のような気がする。
アーナンダは、バカ正直な、単純な若者だったのではないだろうか。
おそらく、教団が大きくなるにつれて、ゴータマのまわりには、東大卒のエリートのような人々が集まってきて、みんなで知力を競い始めたに違いない。ブッダはそれをいいこと半分、悪いこと半分に考えたに違いない。
悟りにいたるまでは、彼も学究の徒だった。結局その学問を全て捨て去るものの、ブッダにもやはり、ペダンティックな会話を楽しむ趣味も残ったに違いない。エリートたちは、ブッダのこの面をよく理解し、知性の師として自分たちに引き寄せて崇拝したことだろう。
しかし、ブッダは、「それが最も大切なことではない」と言うために、そういう知的グループとも交わったはずだが、彼らには、「それではない」は、理解できなかった。
もう一方の人々――勉強などしたこともない貧民たちには、エリート集団の中にいるときのブッダは、理解したくてもできない、距離を感じさせる存在であったろう。そうして、「教団を維持し、まとめる」という経営者の立場からすると、ブッダは、これら一般の信者と話をしたくても、次第にエリート集団との交わりを深めていくしかなくなっていったことだろう。
ブッダは、一修行者として、そうなっていく自分にジレンマを感じたに違いない。
そんなとき、アーナンダが現れた。
彼は、「場の雰囲気」を感じ取れるほど知的でも繊細でもない。一般信者と上層エリート部のあいだの見えない壁など知ったことではない。しかし、彼はブッダへの素朴な信頼と、「世界とはなんなのか?」といった子どものような疑問を持つ若者であり、その意味で真の修行者の素質を持つ男だった。
ブッダは、その遠慮ない、純粋な態度をこの上なく愛したろう。
教団にがんじがらめにされた自分に必要なのは、もう一度アーナンダのような心に帰ることであり、しばられた立場を捨て、一修行者として遍歴することだ――ブッダはそう感じたろう。
ブッダが、「アーナンダとふたりで最後の旅に出る」と言ったとき、エリート集団は「この人もとうとうヤキがまわった」と思ったことだろう。しかし、ブッダはそうすることで、おそらく、国を捨て世俗を捨てた最初の旅立ちのころの、若々しい気持ちになれたことだろう。アーナンダは、「世界とはなんなのか?」と考えて一歩踏み出したときの、ブッダ自身の姿だったのだ。
彼はアーナンダを見ることで、自分の第一歩をつねに確かめ、素朴な少・青年時代を携えることができたともいえるのだ。
だからふたりは年齢の違いを超え、師匠と弟子の関係を超えた友だちとして遍歴し、ブッダはその途上で死んだ。
教団の代表者としてではなく、ひとりの、道を求める青年として。
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