マリアテレジアの独り言

日々の生活の中で見つける・・
  小さな感動をつづります。

『創世記』・・・『園の中央に生えている木の果実を食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなる。』

2021-02-12 05:00:00 | 聖書。聖書勉強会。教会。日常の信仰生活。
2月12日。年間第五金曜日。

今日は聖書の分かち合いです。
聖書は『創世記』から始まります。
よろしくお願いいたします。


『今日の入祭唱』


   『彼らが攻め寄せる災いの日、 主はわたしの支えとなり、
  わたしを広い所に導き出し、助けとなり、喜び迎えてくださる。』

          詩編 18章19&20節


まずは。
『創世記』について。


      聖書の第1ページは、『創世記』で始まります。
 『創世』という言葉どおり、『創世記』は宇宙や人類の起源について語りますが、
      歴史書や科学書ではなく、 『宗教書』 なのです。

  すなわち、創造主なる『神の計画』 と その計画に従い得なかった『人間』について、
   また、 『神の救いの計画』 の 『担い手』として神が選ばれた民、
     イスラエルの起源とその太祖たちについて語るのです。

   
            『人類の創造』は、
        唯一で絶対、完全で聖なる神が、
 人間を含めた万物を創造し、主宰しておられるという一貫した考えであります。

          以上。 『聖書100週間手引』より


『今日の第一朗読 創世記』

    『主なる神が造られた野の生き物のうちで、 最も賢いのはであった。

 に言った。
      「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。」
 
 女は蛇に答えた。
       「わたしたちは園の木の果実を食べてもよいのです。
        でも、園の中央に生えている木の果実だけは、
 食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました。」

 蛇は女に言った。
           「決して死ぬことはない。
それを食べると、 目が開け、 神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ。」

 女が見ると、
     その木はいかにもおいしそうで、 目を引き付け、 賢くなるように唆していた。


       女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。
 
         二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、
        二人はいちじくの葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした。

    その日、 風の吹くころ、 主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。
 
       アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れた。』
            創世記 3章1-8節


            創世記3章は、『堕罪の物語』 です。
        比喩的な言葉を用いていますが、原初の出来事、すなわち、
         人間の歴史の初めに起こった出来事を明言しています。

人間の全歴史が、人間の自由意志に基づいて犯された『原初の過ち・原罪』の影響を受けていることは、
        信じなければならない確かなことである、と啓示は教えています。

    
  『自由意志の試練』
     神は人間をご自分にかたどって造り、親しい交わりを結ばれました。
 
     霊的被造物として、人間がこの親しい交わりを生きることができるのは、
       ただ、神に自由に服従することによってのみです。
 これを表わしているのが『善悪の知識の木からは決して食べてはならない』という禁止です。


            『善悪の知識の木』は、
     被造物としての人間が信頼をもって自由に認め、尊重しなければならない、
            『超えがたい限界』 を象徴的に表わしています。
 
  『神はエデンの園の中央には、「命の木」と「善悪の知識の木」を生えいでさせられた。』
                               創世記 2章9節 

               人間は創造主に従属します。 
     『創造の法則』と、 自由意志の行使を規制する『道徳的規範』に従うべきなのです。


  『人間の最初の罪』
      悪魔(蛇)に誘惑された人間は創造主への信頼を心の中で失い、
    自由意志を乱用して『神の掟』に背きました。 これが人間の『最初の罪』です。
    その後のすべての罪は、『神への不従順』、神のいつくしみへの『信頼の欠如』なのです。

          こので、人間は自分自身を神に優先させ、
          まさにそのことによって、神をんじました。
     すなわち、人間は神にらい、被造物として要求されることにらい、
      したがって、自分自身の善にして、自我を優先させたのです。

          聖性の状態に置かれた人間は、
      神によって栄光のうちに完全に「神化される」はずでした。

         しかし、人間は悪魔の誘惑に従って、 
    「神なしに、神に先だち、神に従わずに」、 「神のようになろう」としました。


        聖書は、この最初の不従順の『悲劇的な結末』を示しています。
         アダムとエバは直ちに最初の『聖性の恵み』失いました。
     二人は、神が自分の特権だけを守ることに執着しておられるのだと誤解して、
  
             『神を恐れる』 のです。

              以上。 『カトリック教会のカテキズム』より

私たちも、
人間は神に似た者であっても、弱い者です。
人間は、被造物であるのに
創造主であるかのように振る舞う『罪』によって、
神・隣人・自然との和 も 
自分自身の内的調和も平和 も失います。
神を信頼せず、神を恐れるのです。
神を信じて・・・神に従い・・・
神の平和のうちに歩みたいものですね。


 長々と、『人間の原罪』の考察と分かち合い、にお付き合いくださり感謝申し上げます。
       ありがとうございました。 感謝!感謝!


『今日の祈願』

   『全能の神よ、
 喜びに満たされた私たちが、キリストの命のうちに、
      日々成長することができますように。』



皆様!
御訪問に感謝申し上げます。
今日は金曜日。明日から週末で、皆様はお休みですか?
皆様の週末が穏やかでありますように、お祈り申し上げます。