マリアテレジアの独り言

日々の生活の中で見つける・・
  小さな感動をつづります。

人生93回の引っ越し・・・『画狂老人卍・葛飾北斎』 そして 『わたしの遣わす者を受け入れる人は、 わたしを受け入れる。』

2022-05-12 17:05:32 | 父と母のこと 兄弟のこと
5月12日。木曜日。曇り。雨。

昨夜、
水曜日の夜には、
私の大好きなテレビ番組
『英雄たちの選択』
があります。

昨夜の英雄は・・・
『画狂老人卍(まんじ)
と自らを称した
『葛飾北斎の選択』でした。


   我が家の和室にかかる・・・  『菊』  
   
   北斎の落款印は・・・『齢八十八歳筆』
            『菊』の上部分に書かれています。
   

    私の両親は、
    信州・小布施にある『北斎館』を訪ねたようです。
    年を重ねたとき、
    88歳になって『菊』を描く北斎に興味を持ち、親しみがわいたのでしょうか?

    両親の遺品として、
    掛け軸:『菊』 と 画集:『肉筆 葛飾北斎』が、我が家に遺されています。
       昭和59年10月発行

以前から・・・
※両親はなぜ葛飾北斎なのだろう?
※江戸っ子の浮世絵師・葛飾北斎 と 信州・小布施は
どんな関連があったのでしょう?
 との疑問が、私にありました。

      
     そして、
     昨日のテレビ番組:『英雄たちの選択』で、
     長年の私の疑問が解けた気がしました。


     葛飾北斎は、
     70年の『画業生活』で・・・
     まず最初は、
     ※江戸の浮世絵師として、
      【狩野派】から、大胆な構図方法を身に着け、
      【中国の南蘋派】から、花鳥画方法などを身に着け、
      【西洋画】から、遠近方法を身に着け、
     世界中の絵から学び、独自の画法を築き上げたのです。
     その後、
     ※自分の【師】は【森羅万象】であると悟り、
        『自分の道』を一人で歩こう、と舵を切ったのです。
         この時に、大きな『人生の選択』をしたのです。 


       90歳の人生で93回の引っ越しをして、
        『新しいところに移ると・・・
         新しい何かを発見する。
         新しいアイディアーが出てくる。』
           と言っていたそうです。
       93回の大きな『人生の選択』をしたのです。


     そして、
     70歳過ぎにして、
     今までのような『版画師』として、
       多作を描くのではなくではなく、
     ※『肉筆画家』として『一点作品』への挑戦の人生に、
       180度、人生を転換したのです。
     ※『一点一画』にして、生けるがごとく描きたいと、
       自らを、『画狂老人卍』、と名を改めたのです。
     ・・・一大決心の『人生の選択』をしたのです。


     最期に、
     90歳にしてこの世を去るときは、
      「あと十年、いやあと五年の命があれば、
      まことの絵描きとなれたものを・・・。」
         と、言ったそうです。

     肉体に縛られない・・・。固定観念に縛られない・・・。
       年を重ねても、
       食べて、寝るだけ、で満足するのではなく、
     『パッション』にあふれた葛飾北斎の人生でした。
       ・・・との、番組の結論でした。

私の両親は、
齢を重ねた75歳のころに、
葛飾北斎の『絵』に出会って、
その人生の生き方に共鳴したのかもしれません。
人生は、
何かの目的に向かって節制するときに、
人生の醍醐味・幸せを味わうのではないか?
と考えたのかもしれません。

父は、70歳から生涯、『書』を楽しみました。
  我が家に遺る、『父の書』の掛け軸
母は、『木目込み人形』を教えていました。
  我が家に遺る『母の人形』の一つ
 
        

        私も、
        昨日は、葛飾北斎の生き方を学び、
        今日は、両親の生き方を振り返ってみて、
        自分のこれからの『人生』を考えることができました。
        あれこれとその目的を考えて悩まないで、
        心の望むままに、一生勉強! 一生青春! です。

        75歳になってこそ、
        転機を迎えた北斎や両親が目指したように、      
           パッションを持って、
          最後の『人生の選択』をして、
        残りの生涯を、
        目に見えない精神性、宗教性を目指して生きていきたいものです。

        しばらく休んでいる『絵画教室』に通うことにいたしましょうか。
               感謝!感謝!
       

そして。

今日は5月12日。復活節第四木曜日。

『今日の入祭唱』

   『神よ、あなたが民を導き出し、荒れ果てた地を進まれたとき、
     地は震え、天は雨を滴らせた。 アレルヤ。』
           詩編 68章8-9節

『今日のアレルヤ唱』

 アレルヤ、アレルヤ。
  『イエス・キリスト、まことの証人、死者の中から最初に復活された方。
   わたしたちを愛し、御自分の血によって罪から解放してくださった方。』
          ヨハネの黙示録 1章5節    アレルヤ、アレルヤ。


『今日の福音 イエスの御言葉』

   『イエスは弟子たちの足をお洗いになった後、
               
          こう言われた。

       「はっきり言っておく。

        僕は主人にまさらず、
    遣わされた者は遣わした者にまさりはしない。
 このことが分かり、そのとおりに実行するなら、幸いである。

 わたしは、あなたがた皆について、こう言っているのではない。
  わたしは、どのような人々を選び出したか分かっている。
  しかし、
   『わたしのパンを食べている者が、わたしに逆らった』
     という聖書の言葉は実現しなければならない。

      事の起こる前に、今、言っておく。

    事が起こったとき、『わたしはある』ということを、
     あなたがたが信じるようになるためである。

         はっきり言っておく。

   わたしの遣わす者を受け入れる人は、
            わたしを受け入れ、
   わたしを受け入れる人は、
    わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」』
       ヨハネによる福音書 13章16-20節


   今日のイエス様は、
   弟子たちの足を洗うほどにヘリ下り、『模範』を残されました。
   その後、
   弟子たちの一人がイエスを裏切る、ことを予告しました。


   弟子たちは、
   先生・イエスに勝る者ではありません。
   それどころか、
   先生・イエス様は弟子の足を洗うという、『僕の仕事』をなさったのですから、
   弟子たちもイエス様の『模範』に倣って、    
      互いに『仕えあい』、互いに『世話をしあう』のです。



   イエス様は、
   ユダの裏切りを知っていました。
   そこで、最後の晩餐の席で、弟子たちに話されたのです。
    ※『「わたしのパンを食べている者が、わたしに逆らった」
      という聖書の言葉は実現しなければならない。』 と。     
   又、
   弟子たちに以前に三回話しておいたことを思い出させて、
     『イエスがご自分の命を捧げることによって、
     神から受けた『使命』を果たすことになる。』
   だから、
   ※その時が来て、イエスが『受難』を受けられるのを見ても、
      つまずいてはいけない。
   ※イエスは神から派遣された方で、
      神とイエスは、共に、『わたしはある』という御方であり、
      神とイエスは、一緒にいて、必ず、すべての民をお救いになる。
      そのことを疑ってはいけない。
      そのことを、証ししなさい。
        …と、話されたのです。

   
   後にイエスを裏切るユダは、
   イエスと同じ『最後の晩餐』の席に着き、
      『友情の食事』に参加しました。
   イエスに足を洗ってもらいましたが、
      他の弟子たちのようには、綺麗にはならなかったのです。
   イエスが神から派遣された方だと認めることができず、
      イエスを裏切ってしまいました。


   私たち・キリスト者は、
   キリストの『受難』につまずくことなく、
   キリストの残してくださった『模範』に倣い、
   『愛徳』を実施しながら・・・キリストを証ししてまいりましょう。
   互いに世話をしあいながら・・・キリストに出会ってまいりましょう。
         祈りましょう。


皆様!
御訪問に感謝申し上げます。
齢がいくつかは関係なく、周りに惑わされることなく、
好きなことをしながら、穏やかな生活を送りたいものですね。 お元気で!

墓参・・・『死者の日』・・・『子を見て信じる者が永遠の命を得、わたしがその人を終わりの日に復活させる。』

2021-11-02 11:00:00 | 父と母のこと 兄弟のこと
11月2日。火曜日。快晴。

穏やかで美しい一日。
カトリック教会の『死者の日』です。
私の父の命日の前日です。


           『東京都経営の大霊園』
 

         父の好きだった武蔵野連山が一望できます。
          私の両親と兄たちの眠る墓もあります。

 
   コロナ禍のために、私の神戸から墓地の東京までは、かなわなかった墓参り。 
        二年ぶり墓参です。 懐かしさに涙が出た。
        平日なので、一人占めのような霊園、静寂で、
         ゆっくり心を込めてお祈りが出来ました。
           父の命日の祈りも出来ました。


       『神よ、御子キリストはわたしたちに約束されました。
          「わたしは復活であり、いのちである。
         わたしを信じる者は人は、死んでも生きている。」 
        神よ、御許に召された私の両親と兄たちに、永遠の安らぎを与え、
           あなたの光の中で憩わせてください。

          私も、キリストの恵みに支えられて希望に生き、
          人生の旅路を終えて、ふたたび親兄弟とまみえ、
            私の涙がすべてぬぐわれますように。』
              カトリック祈祷書『祈りの友』より


        今日は穏やかな一日。二年ぶりの墓参りです。
        私は、一人で、大好きな両親や兄たちと、
        あの世とこの世の隔たりもなく、あいまみえながら、
        二年間の諸々の報告をして、これからの夢を語り、私の家族の見守りを頼み、等々、
          ゆっくりと、心を込めて沢山のお話しが出来ました。
                     感謝!感謝!


そして。

今日は11月2日。年間第三十一火曜日。

           『死者の日』
     
カトリック教会では、11月2日は「死者の日」とし、亡くなったすべての方々を記念します。
  諸聖人の祭日(11月1日)の翌日にすべての死者を記念する習慣は、
  998年。 クリュニー修道院院長のオディロンによって始められ、
        その修道院の修道士たちの影響によって
  11世紀。  広く行なわれるようになりました。

    ローマ教会には1311年の暦に始めて記されていますが、
   それ以前からローマでも死者の日の記念日が行われていたと思われます。
           『毎日の読書』より

『今日の集会祈願』

 『恵み豊かな神よ、
 復活された御子キリストに従うわたしたちの信仰を強め、
 死者の復活を待つわたしたちの希望を不動のものとしてください。』

『今日の第一朗読 使徒パウロの言葉』
  
 『わたしは確信しています。
 死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、
 高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、
   わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、
     わたしたちを引き離すことはできないのです。』
       使徒パウロのローマの教会への手紙 8章37-39節


『今日の福音 イエスの御言葉』

   『そのとき、イエスは人々に言われた。
   

 「父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。
  わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない。

      わたしが天から降って来たのは、
      自分の意志を行うためではなく、
   わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。

     ※わたしをお遣わしになった方の御心とは、
    わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、
      終わりの日に復活させることである。

        ※わたしの父の御心は、
   子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、
 わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。」』
        ヨハネによる福音書 6章37-40節

 
     今日のイエス様は、
     『神はすべての人の救いを望んでおられる。
     そのことを教えるために、私はこの世に神に遣わされたのです。』
              と、人々に話しました。


           神のなさることは、
        すべて、わたしたちの幸せのためです。
       イエスの生活を見ていると、神の御心が明らかです。


     私たちが、
     イエスに従うのは・・・
      ※イエスの教えが素晴しい。 そのためです。
      ※イエス様が神から遣わされた方であるからです。
      ※イエスの言動、イエスのすべてが、私たちの模範となられたからです。
      そして、
      ※イエスはその言動で、神の愛を示してくださった。 そのためです。

    私たち、
    イエスを信じる者、イエスを模範としてついていく者には・・・
      ※『本当の命』があります。
      ※イエスを通して、『神の心』を知る事が出来ました。
      ※神の心を知り、神の愛を知って、『希望ある生活』を送ることが出来ます。    
      ※イエスを通して、『神への信仰』が出来ていきます。


         神は亡くなる人々をお捨てになりません。
           彼らを復活させるのです。
       信仰によって頂いた『永遠の命』はずっと続くのです。
        私たちもいつか亡くなり、神と一緒になるときに、
     神様が私たち一人一人になさったことを知ることが出来るのです。
          すべてわたしたちの幸せのためだと知り、
           心からの感謝出来ますでしょう。
   

      私たちも、神の導きによって、信仰を持つことが出来ますように、
            祈りましょう。

『今日のアレルヤ唱』

 アレルヤ、アレルヤ。
『わたしの父の御心は、子を見て信じる者が永遠の命を得て、終わりの日に復活することである。』 
    ヨハネによる福音書 6章40節   アレルヤ、アレルヤ。


皆様!
御訪問に感謝申し上げます。
皆様のご両親様は、ご健在ですか?お亡くなりですか?
どちらのお立場のご両親様も、皆様を見守り続けてくださっておりますことでしょう。 お元気で!

父と私・・・『子どもは親の鏡』 そして 『わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。むしろ分裂だ。』

2021-10-21 12:41:58 | 父と母のこと 兄弟のこと
10月21日。木曜日。晴れ。

父と私。

    『花の都・パリの路地』
  
     
       父が愛した、単身赴任が長かった花の都、パリです。

                『花の都・セーヌ川とエッフェル塔』
              
                  父は、セーヌ川のほとりで、
               絵描きさんが描いていた『絵』を購入しました。


  4人の兄妹の中で、私が一番父に似ているそうです。
  4人目にして産まれた、初めての『女の子』だった私は、
  何の指示もなく、期待を受けることもなく、
  ただただ無条件に愛されたお陰で、『父』を受け継いだのでしょうか。


      父は、パリでの単身赴任についても、他事でも、
             父の頃は会社の事務所もなく、異国での取引の難しさはいかばかりだったかと想像しますが、  
             泣き言や愚痴を言うことはありませんでした。
      私は、自分の置かれた境遇について、
             どんな過酷な状態でも、それを受け入れ、
             泣き言や愚痴を言うことを知りませんでした。
             親からそれを学ぶことがなかったのです。
      
  私も年を重ねて、
    『子どもは親の鏡』といわれるように、
  親から口に出して教えられなかったことでも、
  親にそっくりだと思うことが多くなりました。


      子を一生懸命に育てている我が子どもたちを見ているときに、
         あれこれと言葉に出して言う必要はなく、
       自分の『背中』を見せれば良いのだと思います。
         愛情深く育てるだけで十分だと思います。


       今日は、父の命日が近くなって、
       コロナのために行けなかった『墓参り』が2年ぶりに可能かな?
       墓参りを夢見ながら・・・、父が遺した6枚の『パリ』を見ながら・・・、
           父を偲んでいます。  感謝!感謝!



そして。

今日は10月21日。年間第二十九木曜日。

『今日の入祭唱』

   『わたしは主を愛する。
  主は嘆き祈る声を聞き、わたしに耳を傾けてくださる。』
        詩編 116章1&2節


『今日の福音 イエスの御言葉』

   『そのとき、イエスは弟子たちに言われた。
  
  「わたしが来たのは、地上にを投ずるためである。
 そのが既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。
 しかし、
     わたしには受けねばならない洗礼がある。
  それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう。


 あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。
       そうではない。言っておくが、
         むしろ分裂だ。


     今から後、一つの家に五人いるならば、
  三人は二人と、二人は三人と対立して分かれるからである。

   父は子と、子は父と、母は娘と、娘は母と、
    しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと、
       対立して分かれる。」』
       ルカによる福音書 12章49-53節



旧約時代。
神は、モーセの口を借りて、『言葉』を遺されました。


       『きょう、私は、生と死、
      
        祝福と呪いをあなたの前に置く。
   あなたは命を選び、あなたもあなたの子孫も命を得るようにし、
 あなたの神、主を愛し、御声を聞き、主につきしたがいなさい。
    それがまさしくあなたのである。』
      申命記 30章19&20節

同様に、

新約時代。
イエスも、『言葉』をおっしゃいました。


     イエスは、ペトロとアンデレに言われた。
       『わたしについて来なさい。』
    
    『わたしのくびきを負い、わたしに学びなさい。
     そうすれば、あなた方は安らぎを得られる。』
           マタイによる福音書 11章29節

   
  神様もイエス様も、その御意志は、
  すべての人が、『命』を得、『安らぎ』を得ることです。

  イエスは、すべての人に、『命』と『安らぎ』を与えるために、
  神からこの世に派遣されたのです。


    ところが・・・
    そのイエスを信じ、弟子になった人もいましたが、
    そうでない人もおりました。
    そのために・・・
    キリストへの信仰のため、同じ家庭の中でも違いがあり、
    分裂が生まれたのです。


  神も、キリストも、
  すべての人、一人一人に、いつも、呼びかけておられるのです。

    私たちは・・・
    その呼びかけに対して、無関心でいることは出来ません。
    答えるか、答えないか。 選ぶか、選ばないか。
    けじめをつけて、はっきりとした『答』を出すとき、
    ある人とは違う『答』となり、『分裂』が生まれることもあるのです。


        信仰は、個人的な『決断』:『決心』です。
           神は強制をなさいません。
         自由に選ぶように呼びかけられるのです。


     私たちキリスト者は・・・
     『キリスト』の呼びかけに応えました。
     その時には、反対の意見の人もいたかもしれません。
     そのために、辛い目にあう人もいらしたことでしょう。
     でも、そのために、
     『分裂』以上の、『相互理解』が深まったのです。

   
    
『今日のアレルヤ唱』

アレルヤ、アレルヤ。
  『わたしたちの主キリスト・イエスを知ることのあまりの素晴らしさに、
キリストのゆえにすべてを失いましたが、それらをちりあくたと見なしています。』
         フィリッピの信徒への手紙 3章8&9節   アレルヤ、アレルヤ。


皆様!
御訪問に感謝申し上げます。
今日も穏やかな日です。深まってきた秋をお楽しみください。 お元気で!

青春とは心の様相 Part2・・・『生涯青春』 そして 『聖バルトロマイ使徒 祝日』・・・『見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない。』

2021-08-24 16:33:28 | 父と母のこと 兄弟のこと
8月24日。火曜日。曇り。

             『生涯青春』
 
                        母の形見の『鮫小紋』

  『青春とは人生の或る期間を言うのではなく心の様相を言うのだ。 
   年を重ねただけで人は老いない。理想を失う時に初めて老いる。』

     昨日は、『青春の詩』 について綴りました。
     今日は、『生涯青春』 について綴りましょう。

     『人は、『信念と自信と希望』と共に若くある。
      人は、『疑惑と恐怖と失望』と共に老ゆる。』
          サミュエル・ウルの『青春の詩』より


       『生涯青春』でいるためには・・・
   『年を重ねただけで人は老いない。 理想を失う時に初めて老いる。』 
     『理想』を持つことが『絶対必要条件』だということですね。
      
      では・・・
        コロナ禍で『移動』は困難な時に、 
    家の中で『理想』を見つけていかなくてはなりません。 

      そこで・・・
      私にとっては、人としての『理想の人』=『我が母』を、
        ※徹底分析※して
 『我が母』を思い出して、しっかり真似ることで、『理想』を持つことに致しましょう。


    我が母は、
    ※『美しい人』でした。
      いついかなる時でも身だしなみを整え、控えめなおしゃれを忘れない人でした。
    ※『信仰心の篤い人』でした。
      朝一番に『仏壇』にお水とご飯を供え、『お経』を読んでいました。
      その後、仏間におわす『仏様』と同居する『神棚』に向かって「二礼二拍手一礼」 
        手を合わせて、柏手を打つのでした。
    ※『献身的な人』でした。
      夫や子供達だけでなく、親戚やご近所の人たち、遠く世界の子供達にも、
        献身的に尽くし、それを喜びとしていました。
    ※『貫禄のある人』でした。
      自身は寡黙で、人の話を聞く、笑顔を忘れない、
        その姿には『貫禄』がにじみ出ていました。
    ※『着物の好きな人』でした。
      玄関入ってすぐの右手に、小さな『着物部屋』を増築して、
       着物の手入れをしたり、着物屋さんを呼び入れたりして、
          着物生活を楽しんでいました。
       

       このコロナ禍で、
     『母の形見』(娘ひとりの私が全部受け継ぎました)の着物を出して、
       手入れをして、着てみることに致しましょう。
   
     まずは、 着物から、『理想像』を真似て、
    美しさと貫禄』『理想像』を我がものすべく、
      『理想』に向かって日々精進致しましょう。
    『理想』を持って、『生涯青春』に一歩近づくことに致しましょう。


そして。

今日は8月24日。年間第二十一火曜日。

       『聖バルトロマイ使徒 祝日』
    
     『聖バルトロマイ』  コンラート・ヴィッツ 作品
        
    バルトロマイは、イエスの12使徒の1人である。
    使徒のリストではバルトロマイの名前はなく、
  代わりにナタナエルという人物があげられていることから、
 伝統的にバルトロマイの本名がナタナエルであるという見方がされている。
 
     イスラエルのカナにまれ育った。
    使徒フィリポによってイエスのもとにかれた。
    イエスと出会ったとき、
  イエスは「まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない。」ヨハネ1ー47
         とバルトロマイのことを言いました。
   この出会いをきっかけに、彼は弟子としてイエスに従ったのです。

   イエスの昇天の後。 福音を遠くインドに述べ伝え
  そこで、体の『皮剥ぎの刑』殉教したと述べ伝えられています。

  983年。彼の遺骸はローマに移され、聖堂に安置されました。

       ミケランジェロの『最後の審判』一部
             
      剥がれた自分の皮とナイフを持ったバルトマイ
           が描かれています。
      (この皮の顔はミケランジェロの自画像になっているそうです)
          『毎日の読書』より
 
『今日の集会祈願』

   『救いの源である神よ、
 使徒バルトマイの殉教を記念するわたしたちに、
   まことを尽くして御子キリストに従う信仰をお与えください。
 使徒の祈りと模範に励まされて、
   教会が、全ての人の救いの秘跡となることができますように。』
 

『今日の福音 イエスの御言葉』

   『そのとき、フィリポは ナタナエルに出会って言った。
      「わたしたちは、モーセが律法に記し、
      預言者たちも書いている方に出会った。
     それはナザレの人で、ヨセフの子イエスだ。」

   するとナタナエルが、
    「ナザレから何か良いものが出るだろうか」 と言ったので、
   フィリポは、 「来て、見なさい」 と言った。

   イエスは、ナタナエルが御自分の方へ来るのを見て、
      
      婚礼に出席されるためガリラヤに向かうイエスと弟子たち
     その途中、フィリポとナタナエルがイエス様にであって弟子となりました。 

        のことをこう言われた。
  「見なさい。まことのイスラエル人だ。この人には偽りがない。」
     ナタナエルが、
    「どうしてわたしを知っておられるのですか」 と言うと、
     イエスは答えて、
    「わたしは、あなたがフィリポから話しかけられる前に、
     いちじくの木の下にいるのを見た」 と言われた。

  ナタナエルは答えた。
   「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」
  イエスは答えて言われた。
 「いちじくの木の下にあなたがいるのを見たと言ったので、信じるのか。
    もっと偉大なことをあなたは見ることになる。」
  更に言われた。
      「はっきり言っておく。
   天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りするのを、
       あなたがたは見ることになる。」』
          ヨハネによる福音書 1章45-51節

  
      今日は、
      イエス様はバルトロマイを『改心』に導きます。

 バルトロマイ・ナタナエルは、
 友人・フィリッポに『預言書に書かれている方・イエスに出会った』といわれたとき、
   『ナザレのような田舎町から何か良いものが出るだろうか』と言ったので、
 フィリッポは、更に『来て、見なさい』 と言ったのです。

      ナタナエルは、なくてはいけません。
      自分で、体験しなければならないのです。 
      イエスとの『個人的な接触』によって、
  イエス様を知るようになり、段々考え方が変わっていくのです。 


 イエス様は、
 ナタナエルに出会ったとき、『あなたはイチジクの木の下にいましたね』
      と言われました。
 驚くナタナエルに、更に、
   『もっと偉大なことを見ることになるでしょう』と言われたのです。

     ナタナエルは、
     イエス様の『人間的素晴らしさ』を見るだけでなく、
         イエス様の『苦しみの姿』
            
         を見ることになったのです。

    その後、イエス様の復活をも、弟子たちは、見ることになるのです。
    それは、弟子たちにとって、『神であるイエス』との本当の出会いとなり、
        『本当の改心』となったのです。

     ナタナエルの信仰は、インドの地まで宣教に向かわせる、
       殉教においても、御子キリストに従う信仰、
        揺るぎのない『固い信仰』となったのです。

    わたしたちも、一層、イエス様を知ることができますように、
          お祈りいたしましょう。

『今日の奉納祈願』

   『全能の神よ、
 使徒バルトロマイの祈りに支えられて、
   あなたの力強い助けを頂くことができますように。』


皆様!
御訪問に感謝申し上げます。
コロナ禍で自粛の毎日でも、御自分の楽しみを見つけてください。
家の中で出来ることを見つけて、楽しい時間が過ごせますように。 お元気で!

熱海の土石流災害お見舞い申し上げます。 そして 『手を置いてやってください。そうすれば、生き返るでしょう。』・・・『この方の服に触れさえすれば治してもらえる』

2021-07-05 10:13:23 | 父と母のこと 兄弟のこと
7月5日。月曜日。曇り。

大雨の影響で、
甚大な被害をもたらした
熱海の土石流災害。
心よりのお見舞いを申し上げます。


 

 摩訶不思議。
 アジサイの花びらの一つ一つが、クルリクルリと巻きこみ、変化をしています。

 

長兄が、長かった仕事一筋の人生に一区切りをつけて、
好きな富士山を見ながら好きなゴルフ三昧をと、
20年程前に、熱海に『終の棲家』を建てました。
私も訪ねて、熱海の花火、天城山の登山、富士裾野のハイキング、熱海の海産物料理、等々、
                            共に楽しみました。
    美しい熱海でした。 兄との楽しい思い出での場所です。
         心の優しい長兄でした。
   
    兄は、その熱海の『終の棲家』もたたんで、
    最後には、息子たち家族が住む東京、懐かしの故郷へ移り住みました。


この度の熱海の土砂災害で、『兄の終の棲家』も大きく姿を変えたことでしょう。
その様子を見ることなく、兄が逝ったのは一昨年の12月です。
世の万物は常に変化して・・・それが常なることなり。ですね。
私ももう一度熱海を訪ねて、兄の分も『熱海』を心の目に焼き付けてまいりましょう。
天国での再会の折には、長兄に『熱海』の報告を致しましょう。


       熱海の皆様に、心よりのお見舞いを申し上げます。
  また、土石流災害地で働く皆様の健康が守られますように、お祈り申し上げます。



そして。

今日は7月5日。年間第十四月曜日。

『今日の入祭唱』

 『主の門に進み、感謝をささげ、御名をたたえよ。
 主は恵み深く、いつくしみはとこしえに、主の真実は代々に及ぶ。』

        詩編 100章4-5節


『今日の福音 イエスの御言葉』

      『そのとき、 イエスが話しておられると、
      ある指導者がそばに来て、ひれ伏して言った。
   「わたしの娘がたったいま死にました。
   でも、おいでになって手を置いてやってください。
      そうすれば、生き返るでしょう。」

   そこで、
   イエスは立ち上がり、彼について行かれた。弟子たちも一緒だった。


   すると、そこへ
      十二年間も患って出血が続いている女が近寄って来て、
         後ろからイエスの服の房に触れた。

 
      『跪く女性に話しかけるキリスト』     パオロ・ヴェロネーゼ作品
  
    「この方の服に触れさえすれば治してもらえる」
                              と思ったからである。
   イエスは振り向いて、彼女を見ながら言われた。
   「娘よ、元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った。」
          そのとき、彼女は治った。



   イエスは指導者の家に行き、
   笛を吹く者たちや騒いでいる群衆を御覧になって、言われた。
   「あちらへ行きなさい。少女は死んだのではない。眠っているのだ。」
         人々はイエスをあざ笑った。

   群衆を外に出すと、イエスは家の中に入り、少女の手をお取りになった 
 
          すると、少女は起き上がった。

       このうわさはその地方一帯に広まった。』
         マタイによる福音書 9章18-26節


      今日は、『信仰の際立つ二人の人たち』です。

『ある指導者』
『死んだ娘にイエス様が手を置いてくだされば、生き返る』 との信仰の持ち主でした。
イエスのもとに来て、ひれ伏して頼むのです。
病気の娘を治してください、 ではなく・・・
「娘は死にました。おいでくださり手を置いてください。そうすれば生き返るでしょう」 と、
    死んだ娘の生き返りを願ったのです。

『十二年間も出血が続いて患っている女』
『イエスの服に触れさえすれば12年間も続く患いを治してもらえる』 との信仰の持ち主でした。
弟子たちと共に、ある指導者の家に向かうイエス様の服に触れようと・・・
    イエスの後ろにこっそりと近づいたのです。


      イエス様は、二人の信仰を見抜きました。
 『あなたの信仰があなたを救った』と、二人の望むとおりに、癒やしを行なわれたのです。

女は、イエス様が『娘よ、元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った。』と、
   『御言葉』を発した瞬間に、病は癒されました。
ある指導者の娘は、父親の望むとおりにイエス様が『娘の手をおとりになった』その瞬間に、
    死んでいたのに生き返ったのです。


       指導者にも女にも、『本当の信仰』がありました。
   イエス様は、もう希望がないようなときにでも、いつも希望がある方なのです。
 指導者も女も、希望がないようなときにも、イエスを信じ希望を失わない方たちなのです。


私たちも、
日々の生活の中で、
解決できないような大きな問題が生じることもあります。
それでも、信仰があれば、希望が持てます。
神様がいつ?どのように?助けてくださるかは分からなくても、
希望を持ち続けましょう。
信仰が深められますようにと祈りましょう。


『今日のアレルヤ唱』

 アレルヤ、アレルヤ。
 『わたしたちの救い主イエス・キリストは死を滅ぼし、福音を通して不滅の命を現わしてくださった。』
         テモテへの手紙Ⅱ 1章10節   アレルヤ、アレルヤ。


皆様!
ご訪問に感謝申し上げます。
私たちにできることは小さなことですが、小さなことも集まれば大きくなります。
熱海の土石流災害の復興のために、私たちのできる範囲での応援をしてまいりましょう。

亡き父を偲ぶ一日・・・『父の日』 そして 『いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか。』

2021-06-20 13:02:40 | 父と母のこと 兄弟のこと
6月20日。日曜日。晴れ。

今日は父の日。

   父の愛した・・・      『パリ』
 
                      我が家の『父の絵画コレクション』コーナーの一部

      私の父は家族を愛し、寡黙で、愛情深い人でした。
        又、 父はパリを愛しました。
   仕事柄、私が小学生になった頃から、外国出張の多い父でした。
        パリでは、一人で長期滞在をする父はアパートを借り、
        休日にはセーヌ川を、パリの街を散歩したようです。
   今になって考えれば・・・
   若い父が一人で、日本人もあまりいない頃、ヨーロッパで、カタールで、中東でと、
                        インド、パキスタン、アメリカ、等々、
   それぞれ習慣の違う世界に飛び込んで、交渉するのはどんなに大変なことだったでしょう。
   愚痴一ついうことのなかった父のご苦労を思うと、涙が出てくる。父は強しである。

   海外出張で英語の必要性や信仰の必要性を感じたであろう父は、
   兄たち三人が中学生になると、自分で英語を教えることはせず、イエズス会が開いた教会の英語日曜学校に通わせ、
   英語を教わりました。長兄は、英語に向いていたのでしょう、父親同様に、ドイツと日本を半々という仕事に就きました。
   次兄と三兄は、英語に興味を示さず、すぐにやめたようです。 中学になるときに、父の転勤で東京に移った私は、
   東京の住まいの近くの教会に連れて行かれましたが、日本人牧師さんの教会には英語の日曜学校はありませんでした。
   幸いに、教会の前に瀟洒な外人向けのホテルがあり、そこにいりびたり、今の私の英語の基礎が出来上がりました。
   長兄と私がキリスト教に近づいたのも、そんな父が配慮してくれた英語教室のお陰様でもありました。


 絵好きな父は、セーヌ川ほとりに集まる画家さんの描く『絵』をいくつか買って、日本に持ち帰りました。
 そして今は、我が家の和室の1コーナーを『父の絵画コレクション』として、父を偲んでいます。

    
『父の日』は、「お父さんに感謝する日」、「お父さんを敬愛する日」です。
その由来や起源は、『母の日』同様に、アメリカから始まったそうです。
アメリカのワシントン州のソノラ・ドッドさんのお父さんは、男手一つで、
ソノラを含む6人の子どもたちを育て上げました。
ソノラは、深い愛情を注いでくれる父をとても敬愛していました。

1909年5月。教会での母の日のお祝いに参加していたソノラさんは、
『母の日』は、その2年前の1907年に5月に一女性により提唱され、すでにアメリカ国内に広く浸透していました。
「なぜお父さんの日はないのだろう?」という疑問に思い当たります。

大好きなお父さんのために、母の日と同じように、『父の日』も作ろうと思い立ったソノラさんは、
教会牧師に『父の日』を作りたいと相談しました。
そして翌年1910年。6月の第3日曜日の6月19日。ソラノさんの父上の命日にちなんで 最初の『父の日』のお祝いが行われました。
その62年後1972年。『父の日』が正式にアメリカの『祝日』として認定されました。

今ではアメリカだけでなく、世界各国で父の日が広まっています。
日本の人々の間に広く知られ、お祝いされるようになったのは1980年(昭和41年)代です。
日本では、父の日は祝日ではありません。


       父の愛した・・・ 『書』
   
   父の書の掛け軸・・・ 『徳川家康の遺訓』 ・・・Myブログに時々の出場です

       父は『書』と『短歌』を愛しました。 
    又、引退後はご近所に配る『野菜作り』を楽しみました。


  私の小学時代は。休みの日には、裏山の六甲山に、私と二人でよく登りました。
      二人だけの山登りでは、沢山の話をしてくれました。
『父の話』は、生き字引のように、私の『道標』となりました。私はそんな父を敬愛しました。
私は、社宅の近くの芦屋の海でシジミ取りをして、『父の晩酌のつまみ』とするのが嬉しかった。


         今日は、父と私の昔の写真を飾りました。
     父の好きだった日本酒で、献杯をすることに致しましょう。
     大好きな父に感謝しながら、父を偲ぶことに致しましょう。
   私にはアメリカのソノラさんのように『偉大な事』はできませんが、
      父を尊敬し、偲ぶ気持ちは、ソノラさんに負けません。
    今ある私は、父とそして母の影響を受け、育てられた私なのです。
      『父の日』は、私には『祝日』です。 感謝!感謝!
        皆様にも、良い父の日となりますように!
       

そして。

今日は6月20日。年間第十二主日。

『今日の入祭唱』

   『主よ、お救いください、あなたの民を。
 祝福してください、あなたの嗣業の民を。 とこしえに彼らを導き養ってください。』

       詩編 28章9節


『今日の福音 イエスの御言葉』

   『その日の夕方になって、
      イエスは、「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われた。
     そこで、
   弟子たちは  群衆を後に残し、イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した。
          ほかの舟も一緒であった。

        激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、
    
          水浸しになるほどであった。
     しかし、イエスは艦の方で枕をして眠っておられた。

       弟子たちはイエスを起こして、
    「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」 と言った。

        イエスは起き上がって、
    
     風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」 と言われた。

       すると、風はやみ、すっかり凪になった。

        イエスは言われた。
      「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」
        弟子たちは非常に恐れて、
 「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と互いに言った。』 
        マルコによる福音書 4章35-41節   


別枠お勉強です。
  『聖マルコ』について知りたくなりまして・・・

今日の「荒波の海」について書いたマルコ福音書の著者。ペトロの弟子。バルナバの従兄弟。聖パウロの協力者。
イエスの在世中には、信徒にならなかったが、ペトロに導かれて入信したといわれる。
母マリアは、エルサレムに住み、相当の資産を持ち、その住居を信徒たちの集会に提供していた。
ある学者は、イエスの『最後の晩餐』も、五旬節の『聖霊降臨』のあった場所も、マルコの家という。
『ゲッセマニの園』は、マルコの父の所有であった。といわれる。
マルコは、従兄弟のバルナバがペトロとともにエルサレムからアンテオキに来たときは行動を共にし、
又、パウロの第一回伝道旅行に従いました。
パウロのローマでの獄中生活では、パウロと生活を共にし、パウロに仕えていた。
パウロやペトロの殉教後、ペトロより聞いたことをもとにして書いたのが、『マルコ福音書』である。
      『聖書辞典』より
一つのことを知ろうとすると、その分野の学者たちの色々の研究を知ります。
事実がはっきりするまでの未知の世界に挑む学者たちのご苦労を思い知ることは、貴重なことですね。



    イエスの時代。 水は悪霊の住まい。 嵐は悪霊の仕業。 と考えられていました。
       しかし、 
     イエス様は、悪霊に、「黙れ。静まれ」と言われ、お勝ちになる方なのです。

  弟子たちは、イエス様の弟子になったばかりで、イエス様がどういう方かまだよく分かりませんでした。
    神様がイエス様の中で働いておられることを確信するには、『信仰』が必要なのです。
       弟子たちの信仰は、まだまだ、不十分でした。

     
    初代教会の時代。 『教会』は、度々、『船』にたとえられることがありました。
     教会は、度々、嵐に出会い、迫害を受けることがありました。
       イエスは、教会が迫害に遭うことはないとは、約束なさいませんでした。
 弟子たちは、「助けてください」と頼ったとき、イエスが救ってくださることを、多く経験したことでしょう。
 聖マルコは、信仰に入るのは遅かったのですが、その後は、生涯を信仰にささげました。


私たちも、
信仰浅い者です。信仰がまだまだ足りないのです。
キリストをまだよく知らないのです。
辛い事に出会うと、「神様はどうして何もしてくださらないのですか」と、
つぶやくかもしれません。
キリストは、私たちの人生を二人三脚で、共に歩んでくださっているのです。
イエス様は、いつも、私たちを安全へと、導いてくださるのです。
いっそう深く信じるように祈りましょう。


『今日の集会祈願』

  『天と地の主である神よ、
   大きな変化を遂げる現代社会にあって、教会はいつもあなたの強い言葉に導かれています。
今日心を合わせて祈るわたしたちが、あらゆる悪を退け、ゆるぎない信仰をつちかうことができますように。』



皆様!
ご訪問に感謝申し上げます。
緊急事態宣言が、沖縄を除いて、20日ほどで解除になりました。
更なる4波を招かないように、自粛生活を励みましょう。 お元気で!

母と私のバラ  そして 『わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためではなく、完成するためである。』

2021-06-09 11:23:35 | 父と母のこと 兄弟のこと
6月7日。水曜日。晴れ。

             『母のバラ』
    
                    切り花にして部屋に飾りました。

          私の母は花を愛する人でした。
 季節の花が絶えることがないように、庭をアレンジし、手入れを楽しみました。
 日々の暮らしの中で、床の間や仏壇そしてそれぞれの部屋に、花を飾りました。

      晩年になって神戸の我が家に住むようになった母は、
     自分の愛した花のいくつかを、東京の庭から移植しました。
     東京の家に残してきた花々のことを懐かしく話す母でした。


             『私のバラ』
 
                                玄関先で育てています。

     母の花への愛情を見て育った私は、花を愛する喜びを受け継ぎました。
  たまに植木屋に寄って小さな花を買って帰り、大きく育てていくのが楽しいのです。


    今日も、 ”美しく咲いたわね!”  と天国からの母の声が聞こえるようです。
     母を偲びながら・・・母の心を継承し、母を目指す私です。 感謝!感謝!


そして。

今日は6月9日。年間第十水曜日。

『今日の入祭唱』

  『主の聖なる人々よ、主を畏れ敬え。
    主を畏れる人に何も欠けることがない。
      主を求める人には良いものの欠けることがない。』

           詩編 34章10-11節


『今日の福音 イエスの御言葉』

      『そのとき、 イエスは 弟子たちに言われた。
 
  「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。
        廃止するためではなく、完成するためである。


           はっきり言っておく。
     すべてのことが実現し、 天地が消えうせるまで、
     律法の文字から一点一画も消え去ることはない。


   だから、
  これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、
       天の国で最も小さい者と呼ばれる。
   しかし、
  それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる。」』
         マタイによる福音書 5章17-19節

旧約時代。
『十戒』は、
イスラエル人のエジプト脱出のおりに、
奴隷状態から解放された生活の諸条件を示す
 『命の道』として、『神の法』を要約し、
     神が宣言されたものです。
 『十戒』と『律法』 のたまものは、
神が御自分の民と結ばれた『契約』の一部を成しています。
    『カトリック教会のカテキズム』より



 新約時代になり・・・
 イエス様は『十戒』:『律法』に、 更に『一つ』:『愛のおきて』を加えられたのです。


  「先生、永遠のいのちを得るためには、どんなことをすればいいのでしょうか?」
    と尋ねる青年に、イエス様は、
     『律法を守りなさい。
    そして、もし完全になりたいなら、
         行って持ち物を売り払い、貧しい人に施しなさい。』 
      とお答えになられ、  マタイ19章19-21節 参照
         『愛のおきて』 を設定なさったのです。

      
       イエス様は、『十戒』を踏襲されたのです。

   イエス様は律法学者やファリサイ派の人々に勝る義、 また、 異邦人のそれに勝る義、 
                             について説かれたのです。

   『十戒』は・・・
   『心を尽くし、思いを尽くして、神である主を愛する』又『隣人を自分のように愛する』
          と、二つでありながら、『唯一の掟』であり、
   律法の充満であるこの『愛のおきて』に照らして理解されるべきものなのです。
          『カトリック教会のカテキズム』より


言い換えれば・・・
こういうことでしょうか。



  イエス様は、 『旧約時代からの律法や預言者を廃止するために来たのではない。
            それを完成するために来た』
 とおっしゃいました。

    
  律法学者たちは、『律法』に熱心のあまり、『細かい規則』を沢山作り・・・
             「守ることが大切!」とばかりに、形式的になりました。
       それによって、
          一番大切な『掟・愛』を忘れがちになりました。

そんな時、

 イエス様は、 改めて、 『愛のおきて』を説くのです。     
神に大切にされていることを信じる、ゆえに、他の人たちも全て大切にされている人々であることを信じる。
   愛なる神に感謝に応えることは、全ての人を大切にすることである。
        これらを忘れてしまっては、本末転倒である。  と。


      イエス様は、そのご生涯をかけて、『愛のおきて』 を実行なさいました。
          持っている全ての力と御自分の命でさえも、
        御自分のためにではなく、お人のために使われたのです。

       私たちの『愛のおきて』は、イエス様に倣うことなのです。

私たちも、
『コップ一杯の水を必要な方に差し上げることは、
小さなことではない、私にしてくれたことである。』とイエス様は言われました。
イエス様の模範にならって、
『愛のおきて』を実行したいものですね。
その力を祈りましょう。
    
『今日の祈願』 

   『いつくしみ深い父よ、
     私たちが真の信仰に成長することができますように。』


皆様!
ご訪問に感謝申し上げます。
『信仰は継承である』と云われますよね。
私たちも、父母の喜びを継承して、父母を喜ばせたいものですね。 お元気で! 

バッハのレクイエム・鎮魂歌・・・『母の命日』・・・『私を信じる者は、死んでも生きている。』 そして 『イエスは七つのパンを取り、感謝の祈りを唱えてこれを裂き、与え、群衆は食べて満腹した。』

2021-02-13 11:00:00 | 父と母のこと 兄弟のこと
2月13日。土曜日。晴れ。

今日は『母の命日』。
一日中、家中で、
バッハの『レクイエム・鎮魂歌』が鳴り響きます。
懐かしい母を偲ぶ一日です。

       
              『献花』
 
   亡き母の、 『結婚前の写真』 と 『我が家に同居の頃の晩年の写真』 を掲げました。
       花器は、母が自分の『60才の誕生日の記念』に、自分に与えた『ご褒美』です。
                           私が大切に受け継いでいます。
         花々を愛した母は、花々に似て、自己主張をしない人でした。

            いくつかの戦争 更に 兄・弟の戦死という
          自分の力ではどうにもできないつらい経験を重ねた母は、
       「自己主張をしない」 という 「強さ」 を身につけたのでしょうと、
              そんな母を尊敬する私でした。


              今日は母の命日。
         コロナ禍のため、東京のお墓参りには行けません。
             こんな命日は想像すらしませんでした。

そこで、
懐かしい写真の前で祈りました。

      『いつくしみ深い神よ、
    この世からあなたのもとにお召しなった私の母を心に留めてください。
     キリストに結ばれ、その復活にも結ばれることができますように。』



お墓参りの代わりに、
               教会で『祈り』を捧げました
 


        懐かしい母の、優しい姿、美しい姿、凜として不動の姿、等々、
           よみがえってきます。 偲びました。


       『人類の救いをよろこび、罪人をゆるされる神よ、
       いつくしみをもって私の祈りを聞き入れてください。
    この世を去った私の母が、聖母マリアとすべての聖人の取り次ぎに助けられ、
      永遠の安らぎが与えられ、 あなたの光の中で憩っていますように。』

           以上。 『カトリック祈祷書 祈りの友』参照


涙しながら祈る時・・・
コロナウイルスのために、
理不尽にも、突然に、肉親を失った多くの人たちの
無念 と 癒えることのない悲しみ と 涙、に思いが至りました。

         『いつくしみ深い神よ、
  コロナウイルスによって亡くなった多くの人たちが、永遠のみ国に迎え入れられ、
        尽きることのない安らぎに満たされていますように。
  また亡くなった人たちのご遺族に慰めと希望を与え、力づけてくださいますように。』

         『新型コロナウイルス感染症に苦しむ世界のための祈り』参照


最後の祈り。

        『私の亡き母が、神の御国で、
  亡き夫や二人の息子と再会し、終わりのない喜びの中で共に過ごしていますように。
  そして、私もこの世の命を終えた後には、亡き父母と兄たちに再会できますように。』



    今日も、『キリストの御言葉』 を信じて、母を神にゆだねます。感謝!感謝!

    『わたしは復活であり、命である。 私を信じる者は、死んでも生きている。
      生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。』

                    ヨハネ福音書 11章25&26節



そして。

今日は2月13日。年間第五土曜日。

『今日の入祭唱』

  『主は驚くべき御業を記念するように定められた。
主は恵み深く憐みに富み、主を畏れる人に糧を与え、契約をとこしえに心に留められる。』

          詩編 11章4&5節


『今日の福音 イエスの御言葉』

         『そのころ、また群衆が大勢いて、
 
          何も食べる物がなかったので、
        イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた。

         「群衆がかわいそうだ。
    もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。
   空腹のまま家に帰らせると、途中で疲れきってしまうだろう。
        中には遠くから来ている者もいる。」


弟子たちは答えた。
    「こんな人里離れた所で、いったいどこからパンを手に入れて、
     これだけの人に十分食べさせることができるでしょうか。」

      イエスが 「パンは幾つあるか」 とお尋ねになると、
        弟子たちは、「七つあります」 と言った。

 そこで、  イエスは地面に座るように群衆に命じ、
     七つのパンを取り、感謝の祈りを唱えてこれを裂き、
      人々に配るようにと弟子たちにお渡しになった。

         弟子たちは群衆に配った。
       
        また、小さい魚が少しあったので、
     賛美の祈りを唱えて、それも配るようにと言われた。

         人々は食べて満腹したが、
      残ったパンの屑を集めると、七籠になった。
         およそ四千人の人がいた。

     イエスは彼らを解散させられた。
 それからすぐに、弟子たちと共に舟に乗って、ダルマヌタの地方に行かれた。』
         マルコ福音書 8章1-10節


        『神にできないことは何一つない。』
ルカ福音書 1章37節 
           と、深く信じる私には、
         イエス様が 『7つのパンと小さい魚』 を増やして、
       四千人の人を満腹させることは、たやすいことと信じています。


     イエスが群衆に配られた『パン』は、
          イエス様が定められた、『イエスの体・聖体』 の前表です。


  更に、
   感謝の祈りを唱えてパンを裂き、
      4000人の群衆の腹を満足させたように、
『最後の晩餐』では、
    
  『私の記念としてこのように行いなさい』ルカ22ー19 と言われたように、

  『主は驚くべき御業を記念するように定められた』後、
            今も後までも続くのは、
          イエス様が定められたことです。


     残った『パンくず』は、
        イエス様の御昇天後に、
      弟子たちが人々に伝える 『イエス様の言葉』 であり、
        弟子たちが人々に配る 『御聖体』 であり、
         信じる者の『心の糧』 なのです。
 


私たちキリスト者も、
『イエス様』と『イエスの言葉』を
人々に伝えて行くことができるといいですね。

     
『今日の祈願』

  『神よ、恵みによって、心と体を癒やしてください。
   主の死を告げる私たちが、キリストと苦しみをともにし、
    復活の栄光にもあずかることができますように。』



皆様!
御訪問に感謝申し上げます。
今冬は、コロナ感染予防のための手洗いとマスク着装のお陰様で、
例年よりインフルエンザ感染者が少なかったと云われますね。
更なる手洗いとマスク着装と三密を避けて、コロナウイルスの終息をも迎えたいものですね。

小菊の開花・・『父の命日』・・・『互いに心がけなさい。イエスに倣って、へりくだって、従順でありなさい。』

2020-11-03 06:30:00 | 父と母のこと 兄弟のこと
11月3日。火曜日。晴れ。

  
              小菊が咲き出しました。
 

               今日は父の命日。

   その昔。 私の大学の入学願書に、『尊敬する人』 を記入する項目がありました。
            私は迷うことなく 『父母』 と書きました。
       事実のことであり、今でも『父母』と書いたことを、誇りに思っています。


つけ加えて。
思い出します。
私は、『尊敬する人』に
もう一人『ケネディー大統領』と書き加えた。
43歳の若さで、初のカトリック信者の米国大統領となり、
45歳で、キューバ危機を、ソ連と交渉して、救った。
46歳で、米英ソ連間で『部分的核実験禁止条約』の締結を成功させた。
   そして、2年半の大統領在任中、46歳の若さで暗殺された。
『国際政治学』を学ぶために大学入学を目指す私は  
迷わず、願書の『尊敬する人』に、ケネディー大統領を書き加えたのでした。

    
        私は、大学入学後、間もなく、カトリックの洗礼を受けました。
      そして。
父は、私の受洗以降・・・通勤の背広のポケットに、『小型聖書』をしのばせるようになりました。
           通勤の行き帰りに『聖書』を読むようになった。
        娘が入信した『世界』を、自分なりに知ろうとしたのでしょう。
           その事実を私が知ったのは、 父の最期の頃でした。
                 私は号泣したのでした。


今朝6時半。
走る代わりに
教会に祈りに出かけました。


     聖堂内・・・     『聖母像』
    
         『聖母マリアの御保護を求める祈り』

          『いつくしみ深い乙女マリア、
 ご保護によりすがって御助けを求め、あなたの御取り次ぎを願います。
  この世から神の国にお召しになった我が父を心に留めてください。
         神の母乙女マリア、使徒と聖人とともに、  
          永遠の命のあずかっていますように。』  
            カトリック祈祷書 『祈りの友』参照


    教会庭・・・     『ルルドの聖母』           
 

     もう一つ。 父との忘れられない思い出。

      小学6年生の私は、父に尋ねました。
   「お父さんが長いこと生きてきて、いろいろ経験したことを、全部私に教えて♡♡
     そうすれば、私はお父さんの経験の上に私の経験を積めるので、
      時間の無駄なく、二人分の人生を経験できるでしょ?」
        父は優しく答えた。
   「お前は、自分の人生を、納得しながら、ゆっくりと歩めばいいんだよ。
        人の人生は、お前の人生ではないんだよ。」


           子は親を選べない。 親も子を選べない。   
        神様の『計らい』で、縁あって結ばれた、『親子の縁』です。
           父は、 『へりくだって』、『従順』、 な人でした。
          父の人生は、 『しなやかで力強い』 人生でした。


        今日は、私は、我が父の子であることを感謝した一日でした。 
                         感謝!感謝!


そして。

今日は11月3日。年間第三十一火曜日。

『今日の入祭唱』

   『感謝の歌をうたって主の門に進み、感謝をささげ、御名をたたえよ。
    主は恵み深く、慈しみはとこしえに、主の真実は代々に及ぶ。』

           詩編 100章 4&5節


『今日の第一朗読 使徒パウロの言葉』

       『皆さん、 
     
           互いにこのことを心がけなさい。
        それはキリスト・イエスにもみられるものです。

         キリストは、神の身分でありながら、
       神と等しい者であることに固執しようとは思わず、
        かえって自分を無にして、僕の身分になり、
           人間と同じ者になられました。


           人間の姿で現れ、
         へりくだって、死に至るまで、
 

       それも十字架の死に至るまで従順でした。

  このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。
      こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、
          イエスの御名にひざまずき、
       すべての舌が、「イエス・キリストは主である」と公に宣べて、
          父である神をたたえるのです。』

          フィリピの信徒への手紙 2章5-11節


   
 49~50年頃。  パウロは、聖霊に導かれて、
             小アジアからヨーロッパに渡り、
           最初に、フィリッピの町で宣教しました。

      パウロは、ヨーロッパの最初の宣教地フィリッピの信徒たちに対して、
        特別な愛情を抱き、 互いの信頼から心をゆるしていました。
   この手紙も、獄中で苦境の中のパウロに、フィリッピの信徒からの援助の品を
        届けに来たエパフロデイトに託した『御礼の手紙』です。

         キリストに結ばれ、キリストと一致して生きるパウロの、
             『喜びにあふれる手紙』 です。

       フィリッピの信徒への『励ましの手紙』なのです。
      信仰生活は、絶え間ない戦いであることを忘れずに、
            どんなことが起ころうとも、喜んでいなさい。
       信徒たちは皆、しもべの身分にまでへりくだられた
            『イエスの心』を『自分の心』 として
           苦難をも、すべてを失うことをも、恐れずに、
          キリストに倣い、キリストにおいて一つになり、
              キリストに従う者であるように。
                以上。『聖書100週間手引』より

私たちも、
自分の人生は、巨大な世界の中で、一つの『ちっぽけな人生』ではあるのですが、
縁あって関わることになった家族や友人たちと
互いに・・・認め合って、信頼し合って、支え合って、喜びも悲しみもともにしながら
『かけがえのない人生』にしていきたいものですね。


『今日の祈願』

   『全能の神よ、
    信じる人々が、あなたにふさわしい礼拝をささげることができるのは
     あなたの恵みによるものです。
   私たちが、約束された国に向かってともに歩むことができますように。』



皆様!
御訪問に感謝申し上げます。
今日の文化の日の祭日はいかがでしたか?
昭和21年に『日本国憲法』が公布された日であり、日本国憲法が『平和と文化』を重視していることから、
『自由と平和を愛し、文化をすすめる』ことを趣旨として『文化の日』と定められました。
  いつも自由と平和を愛してまいりましょう。 お元気で!

『控えめな美』・・・『亡き母の椿』 そして 『イエスは、「今日も明日も、悪霊を追い出し、病気をいやし、三日目にすべてを終える」と言われた。』

2020-10-29 09:00:00 | 父と母のこと 兄弟のこと
10月29日。木曜日。曇り。

今年
全く実らなかったぶどうの木。

   一方。
         
      20ほどの蕾を付けた・・・   『椿』
    
        私の母が私と同居するときに東京から移植させた椿

             椿の姿と母の姿が重なります。
                  
                『完全無欠の姿』 
   
               
    自分の親を『完全無欠の人』と言い切れる私は、幸せ者です。

       母は・・・
  おとなしい外見でも、常に精神的調和の保たれた、家の『要』でした。
       母は自分の考えを優先させることがあっただろうか?

      同居となった母は・・・
美しい外見を保ち、常に孤独な老人の毅然たる姿を示す、家の『要』でした。
       母から愚痴を私は聞いたことがあっただろうか?

  『ピンクの椿の花言葉』 は 『控えめな美』 『控えめな愛』 『慎み深い』
          『母』にぴったりな『花言葉』です。

       
   今日も、椿の花を眺めながら、母の境地に達する術を思いやる私です。
        理想の女性の『模範』を持つ私は、幸せ者です。
                       感謝!感謝!

そして。

今日は10月29日。 年間第三十木曜日。

『今日の入祭唱』

  『わたしの神よ、 御旨を行うことをわたしは望み、
      あなたの教えを胸に刻みます。』

        詩編 40章9節


『今日の福音 イエスの御言葉』

   『ちょうどそのとき、
      ファリサイ派の人々が何人か近寄って来て、 イエスに言った。

    「ここを立ち去ってください。ヘロデがあなたを殺そうとしています。」
イエスは言われた。
       「行って、あの狐に、
   『今日も明日も、悪霊を追い出し、病気をいやし、三日目にすべてを終える』
                     とわたしが言ったと伝えなさい。


    だが、わたしは今日も明日も、その次の日も自分の道を進まねばならない。
     預言者がエルサレム以外の所で死ぬことは、ありえないからだ。


エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、
           めん鳥が雛を羽の下に集めるように、
        わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。
         だが、お前たちは応じようとしなかった。

          見よ、お前たちの家は見捨てられる。
 言っておくが、
 お前たちは、『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言う時が来るまで、
           決してわたしを見ることがない。」』

             ルカ福音書 13章31-35節


ヘロデは、ヘロデ大王の第二子、父の死後、エルサレム、ガリラヤ、ペレヤの領主となっていました。
    自分の結婚について忠告された『洗礼者ヨハネ』を殺害する。
又、イエスの十字架の前に、ピラトからそのもとに送られてきたイエスに質問したのも、ヘロデです。


この度は。

     ヘロデは、
        イエスが邪魔のため・・・
      イエスが自分の支配する領地・エルサレムから離れてほしいと、願っていたのです。
  一方。
     イエスは、
       『十字架上の苦しみと死』が迫っていることを知っていたのですが・・・
      『御父からの使命』を、最期の『時』まで、続けなければなりません。
      ヘロデの領地・エルサレムで死を迎えることを知っておられました。


     イエスの活動に反対する多くの人は、エルサレムの高官達でした。
       イエスは、そんなエルサレムの人達の『救い』のために、
         『めん鳥が雛を羽の下に集めるように』
            呼びかけておられたのです。
       イエスは、呼びかけに応えない人たちに向かって、
         『見よ、お前たちの家は見捨てられる』 と。
            最後は、すべてを御父にゆだねたのです。


私たちは、
『神の道』を理解することができなくても
今も、いつまでも、キリストが共にいてくださることを
信じてまいりましょう。
         

『今日の祈願』

  『信じる者の力である神よ、 祈ります。
あなたを愛し、人々に仕える熱意を、私たちの中に燃え立たせてください。』



皆様!
御訪問に感謝申し上げます。
美しく咲く花も、おいしい実を生らす木も、育て主の愛情に十分に応えてくれる
姿なのでしょうね。 がんばります。 お元気で!