私の季節毎の恒例の、「青春18切符の旅」を、”18旅行の相棒”と、今日実行しました。
「青春18切符の旅」の私の楽しみ方の一つは、今日はこの『鉄道
』と決めると、その『鉄道』沿線の景色の気に入った駅で途中下車をしながら、下車した景色の中に入り込み、『その場所』を楽しむのです
昨夜の雨と雷の後の晴れ間の今日のテーマは『北陸本線』・・・山々はその山頂を霧の王冠をかぶり、木々は露にぬれ、湖は空の青さに染まり、空気も澄みきり、気温も下がり・・・・と、私の期待を上回る楽しい旅となりました。
朝6:45明石駅出発・・・夕方6:53明石駅帰着・・・・ちょうど12時間の旅となりました
6:45明石駅で、18切符に、相棒と私分の、2個のスタンプを押してもらい、米原行きの新快速に乗り、旅の始まりです
8:55米原着 米原で、列車の後ろを切り離し3両編成にすると、今日の目的の、『北陸本線びわこ線』
となり、琵琶湖の最北端を目指します。
『北陸本線』は、車窓に見える、山々の緑とそのすそ野の黄金色に輝く田んぼとその間の素朴な民家の薄茶色の、3色に広がる景色を、楽しませてくれる列車です。
琵琶湖最北端の『余呉駅』まで来ると、その素朴で美しい景色に呼ばれて
、「降りよう!!」と、飛び降りました!!
いつもとうり、下車駅駅員さんに、次の列車の時刻と周りの観光名所をたずねます。 小さな「余呉駅」の駅員(駅長?)は、可愛い小さな主婦のような普段着(!)の女性で、一人で切符切り案内と、すべてをはんなり(!)と、こなしていられるのが、とても新鮮な印象でした
47分後の列車と、余呉湖一周40分のサイクリングを薦められる
。 レンタル
は、1台300円。 思いもかけなかったサイクリング
となりました。
「余呉湖」は、秀吉が、湖が血潮で紅に染まったと伝えられる大激戦の末、佐久間盛政を壊滅させ、その足で、柴田勝家を追いつめ、勝家をお市の方と共に自害させ、信長亡き後の混世を治め天下を取る、天下分け目の合戦の地となった湖です。
歴史の重さに感謝の頭を下げ
、歴史に思いを馳せながら、昨夜の雨で山頂から霧がそそり立つ山々の間に広がる小さな湖の周りの「中央北陸自然道」を、その美しさに胸に込み上げてくる物を感じながら、
走りました。 感謝!感謝!
10:18「余呉駅」発 『北陸本線』に再び乗車。 路線を戻り 10:45米原駅着・・・・ 11:00米原駅西口発バス
に乗車 11:27醒ヶ井養樽場(さめがい ようそんじょう)着。 体を包み込む、醒ヶ井渓谷
の、どこまでも伸びる杉の深い緑の中で、散策を30分間楽しみました
名物の、鱒の甘露煮を忘れずに買い、11:58発のバスで再び、米原駅に戻る
旅の楽しみは、駅弁
駅弁通には有名で、なかなか手に入らない、米原駅ホームで井筒屋が売る「近江牛ホカ弁」を、幸運にも1個ゲット出来ました! (昨年の冬の青春18旅行で、雪の湖西線を回る旅の時には売り切れでした
) 近江のもう一つの名物の「鱒寿司」駅弁を買うのを忘れませんでした!
1:20再び『北陸本線』の乗客となり、列車で叉もどり(同じ路線を行ったり来たり!!)、1:20「河毛駅」着・・・・ 車中から電話で予約しておいたタクシー
に、駅前から乗り、 1:30「小谷城跡」入り口に到着
小谷(おだに)城は、浅井家三代の居城で、1524年(大永4)、小谷山の山頂付近に築かれた山城。
三代目浅井長政に自分の妹のお市の方を嫁がせた織田信長と浅井長政の、姉川の戦いで、浅井家が滅んだ後、落城。 城は、信長によって、豊臣秀吉に与えられましたが、秀吉はそれに見切りをつけ、今浜(現在の長浜)に城を築いたために、そのまま廃城となってしまいました。 小谷山全山におよぶ城は、今では石垣や礎石などを残すのみで、跡の遺構から、当時の面影を偲びます。 小谷山も、「中央北陸自然道」の一部でした。
長政と博幸で絶世の美女と言われたお市は、4人の子供を生みます。信長は、落城の際、自分の甥である、長政の長男・万福丸を、関ケ原で磔にし、妹のお市の夫・長政には、自刀を命令し、浅井家直系の男子を絶やします
。 お市との間に、4人の子供が出来、自刀した長政は、享年29才でした
娘3人の、長女の茶々は、17才の落城の際、妹に「そなたたちは、名族・近江浅井家の姫ぞ、見苦しき振舞があってはならぬ」 とたしなめたといいます。 豊臣秀吉の側室(淀殿)となり、秀頼を産みます。秀吉没後、秀頼のお袋さまとして大阪城に君臨し、権勢をふるいました。
次女お初は、六万石の大津城の城主・京極高次に嫁いで、「京極マリア」として、キリスト教の宣教に力を尽くされました。村の殆どの人が、キリスト教信者となるほどの影響力を与える人物になられたようです。
三女おごうは、徳川秀忠夫人となり、家光、忠長、千姫(徳川家と一豊臣家の架け橋として、7歳で、いとこの秀頼に嫁ぐ)、福門院(後水尾天皇中宮、明正天皇の母)等をうみます。
三人は何れも、後世に名を遺します。 後に心ならずもこの三姉妹は、大坂の陣で東西の敵味方に別れることになります。 戦国の動乱の世に翻弄された人物が生活した、「小谷城跡」です。
「小谷城跡入り口」から、「小谷城跡」までは、片道50分の、ハイキング
となります。
1:30~2:00 まずは、米原駅で準備した、駅弁2つと鱒の甘露煮の、近江名物づくしの昼食です。 「近江牛ホカ弁」は、弁当箱についたひもをひっぱりだすと、内臓された発熱ユニットが働き、ほかほか弁当に早変わり!!
眼前に広がる、癒される草原を見ながらの昼食は、格別美味しい!!かったです
2:00~4;00 結構厳しい上り坂を40分登ると、やっと「小谷城跡」に到着。そこからは、琵琶湖が見え、「竹生島」も一望出来ました!!
信長から秀吉が「小谷城」をもらっても、すぐに棄てて、木材だけを運び出し、琵琶湖湖畔に「長浜城」を築城したのが分かります!
素晴らしい早さで小回りのきく早業を得意とする秀吉にとって、あの高所の城は、あまりに不便です。
城跡は、本丸の石塀が少し、部下達の供養塔、長政の自刀場所、会議場跡、等々が残る山でした。 「歴史上の人物の悲しい霊が、沢山いる山ね」と、相棒と私は、諸霊のために、祈りを捧げました
。
「4月に熊が出没」と「熊出没注意」の二つの立て札に緊張しながら、熊よけのために(役立つ?)大声でおしゃべりしながらの、私達二人しかいないハイキングとなりました
「小谷城」に住んでいた歴史上の大人物の冥福を祈り、深い山を楽しみ、琵琶湖と近江米の田んぼの眼下の景色を楽しみ、登って来て歴史を実感出来たことに感謝し、山を降りました。 感謝!感謝!
10:04「小谷城跡」からバス
・・・ 16:16 「河毛駅」に再び戻る。
16:25「河下駅」発の播州赤穂行きの新快速に乗ると、『北陸本線びわこ線』を、行ったり来たりで2往復した、感謝
と感動
の、「2007年夏青春18旅行」が、終わりです。
18:53 出発駅の明石駅に戻りました
。 さあ、冬の18切符では、どこに行こうかな