9月30日。水曜日。曇り。
今日で9月も終わりです。
今日のご近所さんの景色二つです。
『実りの秋』
もうすでに鈴なりです
明日からは、新しい季節が始まります。
『情熱の曼珠沙華』
曼珠沙華の「花ことば」も色々です。
白の曼珠沙華は「また会う日を楽しみに」。 黄の曼珠沙華は「深い思いやりの心」。
『情熱』の似合った季節を記憶の中に保存し、 『また来年会う日を楽しみに』・・・
木枯らしが吹き始める前の穏やかで美しい季節を、
心整えながら
心おきなく楽しむことにいたしましょう。
『曼珠沙華の 花の命は短くて 苦しきことのみ多かりき』 林芙美子・放浪記より
さまざまの苦しみも、新しい明日を目指して、乗り越えてまいりましょう。
そして。
今日は9月30日。年間第二十六水曜日。
『今日の入祭唱』
『神の言葉を昼も夜も思いめぐらし、記されたすべてのことを守り行え。』
『今日の第一朗読 ヨブの言葉』
ヨブも、さまざまの苦しみを、新しい明日を目指して、乗り越えていくのです。
『ヨブは友に答えた。
それは確かにわたしも知っている。
神より正しいと主張できる人間があろうか。
神と論争することを望んだとしても 千に一つの答えも得られないだろう。
御心は知恵に満ち、力に秀でておられる。
神に対して頑になりながらなお、 無傷でいられようか。
神は山をも移される。
怒りによって山を覆されるのだと誰が知ろう。
神は大地をその立つ所で揺り動かし、 地の柱は揺らぐ。
神が禁じられれば太陽は昇らず
星もまた、封じ込められる。
神は自ら天を広げ、 海の高波を踏み砕かれる。
神は北斗やオリオンをすばるや、南の星座を造られた。
神は計り難く大きな業を 数知れぬ不思議な業を成し遂げられる。
神がそばを通られてもわたしは気づかず
過ぎ行かれてもそれと悟らない。
神が奪うのに誰が取り返せよう。
「何をするのだ」と誰が言いえよう。
わたしのようなものがどうして神に答え、 神に対して言うべき言葉を選び出せよう。
わたしの方が正しくても、答えることはできず
わたしを裁く方に憐れみを乞うだけだ。
しかし、わたしが呼びかけても返事はなさるまい。
わたしの声に耳を傾けてくださるとは思えない。』
ヨブ記 9章1-12&14-16節
ヨブ記は
イスラエルの民の
バビロン捕囚(紀元前598年~538年の60年間)の終わりの頃
書き終えたといわれます。
ヨブ記は、
不幸の中で苦しむ人々の悩みが、『ヨブの言葉』で訴えられるのです。
イスラエルの民は、 捕虜になるほどむごい罰の中で、
「どうして神は黙っておられるのか?」
「正義の神はどこにいるのか?」 と。
自分たちの悩み、悲しみ、不満、不幸を
『ヨブの言葉』 で訴えるのです。
それは、すべての人の、理不尽と思える悲しみへの訴えでもあります。
そんなヨブ(イスラエルの民)に
神は直接に『答』を与えるのではなく、
ヨブの目を大自然に向けさせ、
偉大な神と人間との隔たりを見せようとします。
又、 神の偉大さ と 神の前で人間とはどういうものか、
『答』を、ヨブ(イスラエル)自身に考えさせようとするのです。
私も、考えてみました。
次第に。
ヨブ(イスラエル)は、神の尊厳が分かるようになり、
自分が神の前に正しい者のように振る舞っていた自分の愚かさに気づいていくのです。
ヨブは自問自答するのです。
神より正しいと主張できる人間があろうか?
神に対して頑になりながらなお、 無傷でいられようか?
神は大地をその立つ所で揺り動かし、 地の柱は揺らぐ。
神は自ら天を広げ、 海の高波を踏み砕かれる。
は計り難く大きな業を 数知れぬ不思議な業を成し遂げられる。
神が奪うのに誰が取り返せよう。
わたしのようなものがどうして神に答え、神に対して言うべき言葉を選び出せよう。
わたしが呼びかけても返事はなさるまい。
更に。
ヨブ(イスラエルの民)は、『神の御心』を悟ります。
神は、人間が造り上げる『神の姿』 を打ち砕き、
神は、人間に、『神への信仰と信頼してゆだねる謙虚な心』 を求められる。 のだと。
イスラエルの民が、
苦労の中で、 『神の御心』を悟った時に、
イスラエルの民のバビロン捕囚時代が終わりとなるということでしょうか?
神が『終わりの時』を『答』として、準備してくださったということでしょう。
・・・と、私は考えた次第です。
私たちも、
神が私たちを信頼してくださるお心に応えて、
心静かに、『神の答』を見つけることができますようにと、祈ってまいりましょう。
『今日の祈願』
『いのちの源である神よ、
あなたの言葉に耳を傾け、その教えに照らされて信仰の道を歩み、
永遠のいのちに達することができますように。』
皆様!
御訪問に感謝申し上げます。
秋はおしゃれの秋でもあります。 ウイズコロナの生活が当たり前になった今、
お家の中でもおしゃれをして、気持ちを盛り上げてまいりましょう。 お元気で!
今日で9月も終わりです。
今日のご近所さんの景色二つです。
『実りの秋』
もうすでに鈴なりです
明日からは、新しい季節が始まります。
『情熱の曼珠沙華』
曼珠沙華の「花ことば」も色々です。
白の曼珠沙華は「また会う日を楽しみに」。 黄の曼珠沙華は「深い思いやりの心」。
『情熱』の似合った季節を記憶の中に保存し、 『また来年会う日を楽しみに』・・・
木枯らしが吹き始める前の穏やかで美しい季節を、
心整えながら
心おきなく楽しむことにいたしましょう。
『
さまざまの苦しみも、新しい明日を目指して、乗り越えてまいりましょう。
そして。
今日は9月30日。年間第二十六水曜日。
『今日の入祭唱』
『神の言葉を昼も夜も思いめぐらし、記されたすべてのことを守り行え。』
『今日の第一朗読 ヨブの言葉』
ヨブも、さまざまの苦しみを、新しい明日を目指して、乗り越えていくのです。
『ヨブは友に答えた。
それは確かにわたしも知っている。
神より正しいと主張できる人間があろうか。
神と論争することを望んだとしても 千に一つの答えも得られないだろう。
御心は知恵に満ち、力に秀でておられる。
神に対して頑になりながらなお、 無傷でいられようか。
神は山をも移される。
怒りによって山を覆されるのだと誰が知ろう。
神は大地をその立つ所で揺り動かし、 地の柱は揺らぐ。
神が禁じられれば太陽は昇らず
星もまた、封じ込められる。
神は自ら天を広げ、 海の高波を踏み砕かれる。
神は北斗やオリオンをすばるや、南の星座を造られた。
神は計り難く大きな業を 数知れぬ不思議な業を成し遂げられる。
神がそばを通られてもわたしは気づかず
過ぎ行かれてもそれと悟らない。
神が奪うのに誰が取り返せよう。
「何をするのだ」と誰が言いえよう。
わたしのようなものがどうして神に答え、 神に対して言うべき言葉を選び出せよう。
わたしの方が正しくても、答えることはできず
わたしを裁く方に憐れみを乞うだけだ。
しかし、わたしが呼びかけても返事はなさるまい。
わたしの声に耳を傾けてくださるとは思えない。』
ヨブ記 9章1-12&14-16節
ヨブ記は
イスラエルの民の
バビロン捕囚(紀元前598年~538年の60年間)の終わりの頃
書き終えたといわれます。
ヨブ記は、
不幸の中で苦しむ人々の悩みが、『ヨブの言葉』で訴えられるのです。
イスラエルの民は、 捕虜になるほどむごい罰の中で、
「どうして神は黙っておられるのか?」
「正義の神はどこにいるのか?」 と。
自分たちの悩み、悲しみ、不満、不幸を
『ヨブの言葉』 で訴えるのです。
それは、すべての人の、理不尽と思える悲しみへの訴えでもあります。
そんなヨブ(イスラエルの民)に
神は直接に『答』を与えるのではなく、
ヨブの目を大自然に向けさせ、
偉大な神と人間との隔たりを見せようとします。
又、 神の偉大さ と 神の前で人間とはどういうものか、
『答』を、ヨブ(イスラエル)自身に考えさせようとするのです。
私も、考えてみました。
次第に。
ヨブ(イスラエル)は、神の尊厳が分かるようになり、
自分が神の前に正しい者のように振る舞っていた自分の愚かさに気づいていくのです。
ヨブは自問自答するのです。
神より正しいと主張できる人間があろうか?
神に対して頑になりながらなお、 無傷でいられようか?
神は大地をその立つ所で揺り動かし、 地の柱は揺らぐ。
神は自ら天を広げ、 海の高波を踏み砕かれる。
は計り難く大きな業を 数知れぬ不思議な業を成し遂げられる。
神が奪うのに誰が取り返せよう。
わたしのようなものがどうして神に答え、神に対して言うべき言葉を選び出せよう。
わたしが呼びかけても返事はなさるまい。
更に。
ヨブ(イスラエルの民)は、『神の御心』を悟ります。
神は、人間が造り上げる『神の姿』 を打ち砕き、
神は、人間に、『神への信仰と信頼してゆだねる謙虚な心』 を求められる。 のだと。
イスラエルの民が、
苦労の中で、 『神の御心』を悟った時に、
イスラエルの民のバビロン捕囚時代が終わりとなるということでしょうか?
神が『終わりの時』を『答』として、準備してくださったということでしょう。
・・・と、私は考えた次第です。
私たちも、
神が私たちを信頼してくださるお心に応えて、
心静かに、『神の答』を見つけることができますようにと、祈ってまいりましょう。
『今日の祈願』
『いのちの源である神よ、
あなたの言葉に耳を傾け、その教えに照らされて信仰の道を歩み、
永遠のいのちに達することができますように。』
皆様!
御訪問に感謝申し上げます。
秋はおしゃれの秋でもあります。 ウイズコロナの生活が当たり前になった今、
お家の中でもおしゃれをして、気持ちを盛り上げてまいりましょう。 お元気で!