マリアテレジアの独り言

日々の生活の中で見つける・・
  小さな感動をつづります。

『バブルの落とし子』  そして  『新たに生まれた人々』

2016-03-31 20:36:29 | 聖書。聖書勉強会。教会。日常の信仰生活。

       『バブルの落とし子』 

恥ずかしいような・・・。 
あの頃の世の中私は変でした。 買うのが当たり前のような・・・。
                          今では恥ずかしくて、持って歩けない。 車で旅行の時だけ・・・

土曜日から・・・
車で旅行です  『落とし子』も同行です。

『バブルの落とし子』
沢山の落とし子たちが押入れの中に眠っています。
でも、あのような未熟の年代の私があったからこそ、少しは成熟した今の私がある。


そして。
今日は3月31日。復活の木曜日。

   『今日の奉納祈願』 

   神よ、水と霊によって新たに生まれた人々のために祈ります。』
 
        『新たに生まれた人々に、豊かな恵みを注いでください。』    

 日本でも・・・                                  かわいい赤ちゃんの洗礼式
              
      新たに生まれる人々の幸せを願って・・・水と霊による『洗礼式』

                                      英国でも・・・
                  
                                    ジョージ英王子の洗礼式 
                                                
     『
洗礼式』は、人が新しく霊的に生まれる、という大切な儀式です。

『イエスは答えて言われた。
「はっきり言っておく。
人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」』 ヨハネ福音書 3章3節

 誕生。成長。家族。愛情。幸せ。
『洗礼式』のイメージです。洗礼は霊の国・神の国へ入国の『パスポート』ですね。

四日前の復活の主日。
世界中でも・・・ 
    沢山の人々が、水と霊によって新しく生まれました。おめでとうございます。


皆様!
ご訪問に感謝申し上げます。
日々・・・昨日の私から生まれ変わって生きる! なんて素敵なことでしょう! 
    
  


恩師の最後の説教:『イエス・キリスト発見の三原則』  そして  『ワンプレート朝食会』

2016-03-30 07:30:00 | 聖書。聖書勉強会。教会。日常の信仰生活。

 今日は恩師の転任前の最後の日。

私にとっての『恩師』
『教えを受けた先生』
であり
・・『私の生き方に影響を与えた先生』です。
具体的には・・・あれ。これ。あれも。これも。。。。と。 思い出せます。
お別れ後は・・・あれも。これも。『教え』を、私のこれからの生き方で実行する事が大切ですね。


そして。
今日は3月30日。復活の水曜日。
  
  朝ミサ。 師との最後のミサ。 
  『今日の福音朗読  エマオでイエスが二人の弟子に現れる』   
                                                     『エマオへの道』で,イエスと二人の劇的出会いです。

  『ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムからエマオという村に向かって歩きながら、
       
この一切の出来事について話し合い論じ合っていると、
      『イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。』
   
    
『しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。』
                                
                                     
絵画:『エマオへの道』
聖書(『エマオへの道』)は、まだまだ続きます。


『イエスは歩きながら、「やり取りしているその話は何のことですか。」と言われた。
その一人のクレオパという人が答えた。
「エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。」

イエスは、「どんなことですか」と言われると、二人は言った。
「ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。
それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするために引き渡して、十字架につけてしまったのです。

わたしたちは、あのかたこそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。
しかも、そのことがあってから、もう三日目になります。

ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。
天使たちが現れ、『イエスは生きておられる』と告げたと言うのです。」

そこで、イエスは言われた。
「ああ、物分りが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち。」
そして、
モーセとすべての預言者から初めて、聖書全体について、ご自分について書かれていることを説明された。

一行は目指す村に近づいた。
二人が無理に引きとめたので、イエスは共に泊まるため家に入られた。

一緒に食事に着いたとき、
   『イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。』 
 
   『すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。』 

 上の絵は、    『エマオの巡礼』                 レンブラント作品
   『復活したキリストが、エルサレム近郊のエマオの町で、二人の弟子の前に姿を現した場面』を描いています。

   続きます。

  『そして、(二人は)と気を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、
十一人とその仲間が集まって、本当に主は復活して、シモンに現れたと話し合っていた。
二人も、
道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。』

                                      ルカ福音書 24章13-35節 

ここで。

     恩師の『最後の説教』です。 一部です。
           『復活したイエス・キリスト発見のための三原則』

 『① 聖書を読む』

  『イエスは、モーセとすべての預言者から初めて、
  聖書全体について、ご自分について書かれていることを説明された。』

    復活したイエスに出会うためには・・・
聖書のすべて、旧約から新約までイエスについて書かれている聖書、を読み、
『イエスの現存』を確認する必要があるのです。

 『② 秘跡に預かる』

  『イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。
  すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。』 
 

    復活したイエスに出会うためには・・・
存命中のイエスが、腹を減らした大勢の民のために、数個のパンと魚を増やして民に与え、民は満足した。
人々は そんな多くの場面を思いだし、『イエスの秘跡』を確認したのです。

同様に。
現在の私達は、
イエスの遺された、『イエスの現存の証・聖体』に預かりながら・・・
イエスの現存を確認する必要があるのです。

 『③ 信仰共同体の中でイエスと共に居る』

『十一人とその仲間が集まって、本当に主は復活して、シモンに現れたと話し合っていた。
二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。』

    復活したイエスに出会うためには・・・
信仰共同体の中で、お人の信仰体験を聞き、自分の信仰体験を話し、共に分かち合い、
エマオの道中の二人が、イエスの話をしていると、突然に表れて同行して下さったイエスのように、
『二人三人がイエスの名の元に集まる時は、私もそこに居る』と言われる、イエスと共に、
イエスの現存を確認する必要があるのです。

               以上。 『復活のイエスに出会う三段階』でした。

そして。
師と共に最後の食事。

信徒さんの用意下さった・・・   『ワンプレート朝食会』

全て手作りのミネステローネ。パスタサラダ。バターロール。アップルパイ。 そして 果物。

                                  ワンプレート。ワンコイン。100円でした。

    おいしい! 用意下さった女性信者さん達の『信仰心』を見る思いでした。

       恩師様!イエスがエマオの二人を導いたように・・・
               私達信徒を長年導いてくださり、ありがとうございました。
             又会う日までさようなら。

 皆様!
ご訪問に感謝申し上げます。
恩師より学んで成長。 成長した私がどなたかの恩師になる。 そんな循環は最高ですね!


『2016ユニセフカップ 芦屋国際ファンラン』  そして  『釘跡』

2016-03-29 05:30:00 | 聖書。聖書勉強会。教会。日常の信仰生活。

 桜の花マラソン。
        『満開の桜』
の下・・・皆で楽しく ラン!ラン!ラン!

 ピンク色only       『ユニセフカップ芦屋国際ファンラン』 
 
 2014年 2012年 2011年 桜の形も図柄も微妙に違います。    
どの柄がお好きですか? 
                                      桜時期には『桜Tシャツ』で…ラン!ラン!ラン!の私です。

    
          
以前から走っています!  今年も4月10日走りたいです。


そして。

今日は3月29日。復活の火曜日。

今朝のラン途中。いつものようにプロテスタント教会の『掲示板』チェックです。
             『今週の一言』 = 『釘跡』

  『釘跡』で思い出すのは・・・

                    『聖トマスの懐疑』
 
                                     ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジオ

 「あの方釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、わたしは決して(復活を)信じない」
          と言ったトマスに
 「あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。」 とイエスが言われ、
          『
エスの釘跡にトマスが指を差し入れる場面』 を描いています。

    
     『今日の福音 イエスの言葉』      『信ずる者になりなさい』とイエス。

           『その日、すなわち週の初めの日の夕方
       弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。
   そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。

      十二人(の弟子)の一人でディディモと呼ばれるトマスは、
      イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。
             そこで、
      他の弟子たちが「わたしたちは主を見た」と言うと、

      トマスは言った。
     「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、
      この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」

          さて八日の後、
      弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。
    戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、
         「あなたがたに平和があるように」と言われた。

       それからトマスに言われた。
     「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、
      あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。
        信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」

       トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。

      イエスはトマスに言われた。
    「わたしを見たから信じたのか見ないのに、信じる人は、幸いである。」』
                                     ヨハネ福音書 20章19-29節

   確かに。

   人は・・・・
   見えないものを信じることは、容易なことではありません。
   『この目で見て、この手で触らなければ、信じられない。』 と言いますよね。

   しかし・・・
   見えるもの触れるものは、『信じる』のではなく『確認する』ということです。
     

      見えないものの存在を信じる時・・・『信じる』というのです。
         
私達は・・・
            見えないけれど・・・来年もを咲かせて下さると、神を信じています。
            見えないけれど・・・私を愛していると、あの方を信じています♭♭

    
   確かに、『信じる』ということは、とても難しいことです。

      トマスも・・・・
     『この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。』と言いました。
     すると、
     神は、『見える姿』で、トマスの前に現れて下さったのです。
                        イエスは、『見ないと信じない』と言うトマスの弱さを、よ~く御存じなのです。

     トマスは、『見える姿のイエス』を見て、復活したイエスを『確認』しました。

        そして、
     トマスは言いました。 『わたしの主、わたしの神よ』 と。

      すると、イエスはトマスに言います。 
    『わたしを見たから信じたのか。見ないのに、信じる人は、幸いである。』 と。

 そして。 

  トマスは、脇腹の傷跡までお示しになるイエスを見て、ここで、気づいたことでしょう!
         『この釘跡は、だれのためだったのだろう!』 
と。 
  トマスは、理解したのです。
 『この釘跡は、信じることの出来ない、限りなく弱い信仰者の私のためだったのだ!』 と。

 トマスが、事実、主のわき腹の釘跡に手を入れたかどうかは、聖書に書かれていません。
      聖書に書かれている、『事実』は、『重要な事』は、

            イエスが、
       『あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。
       
信じない者ではなく、信じる者になりなさい。』 
             と言われた瞬間に・・・・
  
トマスがイエスに向かって、『わたしの主、わたしの神よ』 と叫んだ『事実』です。

トマスは、『友にために自分の命を捨てるイエスの愛』=『神の無限の愛』 を悟ったのです。
             『見ないで信じる幸いな人』 となったのです。

 私達も・・・
 家族の、友人の、お隣さんの、そして 神の愛を、見えなくとも、信じる人になりたいものです。
     互いに信じ合える関係になった時・・・そこには、必ず、平和が生まれます。


 
       イエスが、弟子のところに現れる度に言われることは・・・
            『あなたがたに平和があるように』 
です。

        信頼と信仰のある所には・・・必ず『平和』があります!     

                           以上。
                                   今朝…走る間中に考えたことです。お粗末様でございました

皆様!
ご訪問に感謝申し上げます。
皆様は周りの方たちの愛情を信じていますか? 
先に信じて・・・次に信じてもらえるのです! そして 二人の間はラブラブになるのです!

 

*********
記録。 今日・29日は10㎞。
   
5時半。すっかり夜が明けています。
「おはようございます!」 いつも出会う青年ランナーたちと、
    首だけカクンと折り曲げて(←これがちょっとプロぽくて格好いいのです!)、
にっこりご挨拶。
          
3月走行距離合計 186㎞


復活祭ディナー。  そして  『わたしは決して動揺しない。』

2016-03-27 17:30:00 | 聖書。聖書勉強会。教会。日常の信仰生活。

 3月27日。復活の主日。祭日。

  祭日といえば『祝宴』ですよね。

         『イサギのピザ釜焼き』

  復活祭といえば・・・です。                         おいしい!幸せ!

       なぜ?魚?
      
 キリスト教では、『魚』に二つの意味があります。

意味一つ目。
   
『イクトゥス』『キリスト』です。 特に『聖体の秘跡のうちに在すキリスト』です。
『イクトゥス』の各文字が、キリストの完全な称号、『救い主なる神の子イエス・キリスト』の意の
ギリシャ語の各語の最初の文字にあたります。

          ΙΗΣΟΥΣ ΧΡΙΣΤΟΣ ΘΕΟΥ ΥΙΟΣ ΣΩΤΗΡ
          (イエス    キリスト    神の   子   救い主)

意味二つ目。
   
  『魚』は、『受洗した魂』を意味します。
  『受洗者』は、洗礼の水の中に新しい命を営むようになったからです。

     なるほどね~!
     今日の洗礼式でも、皆さんいっぱいの水をかぶっていましたよ!
              めでたい! めでたい!

                           以上。『キリスト教のシンボル』より抜粋。
                                   昭和41年8月10日。50年前の購入『本』。100円です

 祝宴の〆は・・・
               『ジェラート』
 
                                          おいしい!      
    主の復活!めでたい!めでたい!と。祝宴は美味でした。


そして。

今日・3月28日は復活祭翌日。復活の月曜日。

   『今日の福音 ダビデの言葉』  ダビデは、イエスについて預言します。

    『わたしは、いつも目の前に主を見ていた。
     主がわたしの右におられるので、わたしは決して動揺しない。
     わたしの心は喜び、魂は踊ります。からだは安心して憩います。』
                                     詩編16章8&9節

      主イエス・キリストと共に。
      動揺しない自分がいて・・・
      心は喜び、魂が喜びに踊る。 そして 舌と口は祝宴を楽しむ! 
                                なによりの幸せですね。

皆様!
ご訪問に感謝申し上げます。
決して動揺しない心を持てさえすれば、千人力ですよね。 
ダビデは正に千人力の人でした。 私達も、信仰で動揺なく・・・千人力をゲットです!


『主は復活された。』

2016-03-27 09:30:00 | 聖書。聖書勉強会。教会。日常の信仰生活。

        主はまことに復活された。アレルヤ。

  
           『復活のろうそく』
『週の初めの日、朝早く、まだ暗いうちに、マグダラのマリアは墓に行った。
そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。

シモン・ペテロは墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。
イエスの頭を包んでいた覆いは、亜麻布と同じ所には置いてなく、離れた所に丸めてあった。
       それから、
墓に着いたもう一人の弟子も入って来て、見て、信じた。』
                                     ヨハネ福音書 20章1-9節

      キリストによって示されたわたしたちへの『神の愛の神秘』
『友のために自分のいのちを捨てること、これ以上に大きな愛はない。』 
ヨハネ15-13

皆様!
ご訪問に感謝申し上げます。
4月も近く、入学式や入社式と、大いなる喜びの新年度の始まりです。
キリスト教も、主の復活を迎え、大いなる喜びの時期です。
それぞれの喜びのお祝いを申し上げます。


『24km走会』  走って。温泉。  そして  居酒屋。

2016-03-26 13:30:00 | スポーツ・ランニング・自転車・水泳・ゴルフ・散歩・・・

 3月26日。土曜日。快晴。10度。    『24km走会』

鉄人アスリート達のランクラブ・『神戸PIJC』練習会。Myラン師匠のお誘いで、末席の参加です。 

1時20分:Start.
               『同時出発の4人』

今日の仲間は8人                               


左手に・・・                 淡路島を眺めて。
       
美しいランニングコース。                                          

皆さんは、『24㎞』以上走る仲間もいて、どんどん自分のペースで走ります。
私は、私のペースに合わせて走ってくださる優しいMyラン師匠と、二人です。


私:いつものように・・・『8km走った時点』 で引き返す。

先頭集団はもう見えない。                  

            私の「ありがとう!」のご挨拶で・・・
            
             一気に走り出すMy 師匠です    
                             
   私が、最終目的地まで走っては、終了時間が1時間ほども遅くなります。   
   私は、景色を眺めながら(まじめでない)、お仲間の終了時間に合わせて、一人で戻ります。

 
  
        『海の香り』のわかめ乾し。  素敵な景色です。

     
                           二日間ほど干すそうです。

   静かで、穏やかな、美しい景色。
  

途中で・・・              

      「本格的時期が来る前に、色を塗って準備です。」            だそうです。 
「素敵な趣味ですね。」                          

            海は男に似合いますよね。                                

 

    サーファー。    そして         赤パン一枚で逆立ちする白人。

   
         冷たい海で泳いだ後の逆立ち        白人さんは冷たさに強いの?

  
         『大きな古い碇』
     
                   『朽ちた姿』に趣を感じる私です。                                          

長すぎてカメラに収まりきれない     『明石大橋』 

    私も無事フィニシュ!
 
  

    穏やかな土曜日。
        走る人。バイクの人。泳ぐ人。散歩の人。  それぞれに素敵です。

                   世界一の橋を眺めながら・・・    平和が有難い! 感謝!感謝!

   走った後は・・・    『明石大橋の見える 天然温泉龍の湯』
       

       次は・・・
              『居酒屋』

 

      交流会。10人。 走る人の走る話は軽快です。

   

     おばさんアスリートは、お仲間の支えがあって前進できます。
         仲間の皆様に感謝!感謝! 有難うございました。 

皆様!
ご訪問に感謝致します。
皆様の明日が穏やかな一日でありますように!

******
記録。 今日・26日は16㎞。   3月走行距離合計 176㎞


『聖金曜日・主の受難』・・・『わたしたちの罪のすべて主は彼に負わせられた。』

2016-03-25 14:28:48 | 聖書。聖書勉強会。教会。日常の信仰生活。

 今日は3月25日。聖金曜日。『主の受難』。

         午後3時。キリストは息をひきとりました。
御子キリストは、全人類のために御自分の血によって、『過ぎ越しの神秘』を定めて下さいました。

        『主の受難』を振り返りながら、祈ってまいりましょう

『イザヤの預言』
『主は言われる。「見よ、私の僕は栄える。はるかに高く上げられ、あがめられる。」』 イザヤ52-13

『乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように、この人は主の前に育った。』
 
           『十字架を抱くキリスト』             エル・グレコ作

  「見るべき面影はなく、輝かしい風格も、好ましい容姿もない。
  彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くに痛みを負い、病を知っている。
  彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。

        わたしたちの罪をすべて主は彼に負わせられた。
      苦役を課せられて、かがみ込み、彼は口を開かなかった。』
                                    
イザヤ52章 13&53節

   『イエスは、自ら十字架を背負い、いわゆる「されこうべの場所」、
    すなわちヘブライ語でゴルゴタという場所へ向かわれた。』 

            『聖衣剥奪』      エル・グレコ・37歳作。
      

          『兵士たちは、イエスを十字架につけてから、
     その服を取り、四つに分け、各自に一つずつ渡るようにした。』

  
        『キリスト昇架』                    ルーベンス作品
   
                                   アントウェルペン大聖堂
          
   『イエスの十字架のそばには、
   その母と母の姉妹、クロパの妻マリアと
マグダラのマリアが立っていた。』


                キリストの磔刑』       エル・グレコ作
   
  
                                ルーヴル美術館
  

     『ピラトは『罪状』を書いて、十字架の上に掛けた。
     それには『ナザレのイエス・ユダヤ人の王』と書いてあった。   

 
           『聖三位一体』   エル・グレコ作品
     

   我が独り子・イエスを抱きかかえ迎える御父・と鳩の姿の聖霊                              
                                               プラド美術館

     ≪聖三位一体≫は、神は唯一でありながら、
        その位格は、
この世のあらゆるものを創造した父なる神。人間の罪を十字架上で償ったイエス。
   使徒などに下される聖霊。 3神が同位にて存在することを意味します。


                  『キリスト降架』                ルーベンス作
    
    
  キリスト降架|ルーベンス
    
『その後、イエスの弟子でありながら、ユダヤ人たちを恐れて、
    そのことを隠していたアリマタヤ出身のヨセフが、
    イエスの遺体を降ろしたいと、ピラトに願い出た。
     ピラトが許したので、ヨセフは行って遺体を取り降ろした。』

 
      『キリストの埋葬』                              カラヴァッジョ作

  磔刑に処され死したイエスの肉体を、
  ゴルゴダの丘の麓の小さな園に岩を掘らせて建てた墓へ埋葬する場面。

      白い布に乗せられ運ばれるキリスト。3人の運搬者。
      マグダラのマリアと悲しげにのぞき込む福音書記者ヨハネ。

                                     以上。
                                            ヨハネ福音書 18章1-42節 と 『聖週間の典礼』より。
                                            絵はネット上から拝借しました。


      『過越祭』
      春に、ユダヤ人が、出エジプトという歴史的な出来事を記念して守った祭。
      ユダヤ歴のアビブの月(西暦では3~4月)の14日の夕暮れに、
      傷のない一歳の小羊を屠り、その血を家の門柱と鴨居に塗りました。

      ユダヤ人は、エジプトにいて奴隷の民として苦しめられていたのです。
      モーセが神に選ばれ、エジプトの王(ファラオ)のもとに遣わされました。
      そして、
      「ユダヤ人は、主の民だから、解放して自由にしなさい」と言うのです。
      
ところが、
      ファラオは「おまえの言う主とは何者か」と馬鹿にして、なかなかこれを承知しません。
      そこで、
      主はモーセを通じて、様々な災いを起こし、主の恐ろしい力をファラオに見せつけます。

      それでも、
      ファラオの心はかたくなで、どうしてもユダヤ人をエジプトから去らせない。
      ついに最後の災いとして、
      エジプト中の初子が、一晩のうちに死んでしまうという災いが起こされる。

      一方。
      モーセは、エジプトに住むユダヤ人たちに言いました。
      「今月の14日の夕暮れ、それぞれ家族で小羊を屠り、それを食べなさい。
      そして、小羊の血を門柱と鴨居に塗りなさい。
      その夜、
      主はエジプト中を巡り、人であれ、家畜であれ、国中のすべての初子を殺し、
      エジプトに裁きをおこなう。
      しかし、
      小羊の血の塗られた家の中にいる者に対しては、主は過ぎ越され、
      あなたがたは裁きから救われる。」と。
      ついに
      ファラオも主をおそれ、ユダヤ人を解放します。

     『過越祭の過ぎ越し』
     裁きの主が私たちを過ぎ越され、私たちの死ぬべき命を救われるという意味です。
     私たちが死ぬ代わりに、小羊が殺される。
     そして、その犠牲の小羊の血が、私たちの救いのしるしとなるのです。


     『現代の過越祭』=『主の受難』
     小羊の代わりに、イエス様が十字架にかかり、『神の小羊』として屠られたのです。

    『今日の祈願』

      『あわれみ深い神よ、
御子キリストは、あなたの民のためにご自分の血によって過ぎ越しの神秘を定めて下さいました。
いつくしみを忘れず、この民を永遠の愛のうちにお守りください。』

皆様!
ご訪問に感謝申し上げます。
キリスト教の真髄である『主の受難』の祈りに、お付き合いくださいまして有難うございました。お幸せに。


『主の晩餐・聖木曜日』そのⅢ・・・『洗足式』 そして 『聖体の制定』

2016-03-24 19:30:00 | 聖書。聖書勉強会。教会。日常の信仰生活。

四旬節の最終週の五日目。3月24日。
今日も心静かに心穏やかに・・・夫の誘いで桜の開花捜しに山奥にドライブです。静寂。

    あっ!ありましたね!  一本だけ咲いているね!
 

 どうして一本だけ咲いているのかな?   私達を待ってくれたようですね!

  

    車を降りて・・・                           一花 一花   愛でる。
  

    
        日本の春だね。  美しいですね。 
        
                桜の花々・・・心のうるおいです。
   今日は、夫婦で楽しみました。 それにしても寒の戻り。桜も私達も ”寒ㇺ!寒ㇺ!”

そして。
今日は3月24日。 聖木曜日・主の晩さん。

  イエスは・・・
  
愛する弟子たちとの別れを自覚しました。
  別れのさみしさ。 弟子たちを残して逝かなければならない心残り。イエスは考えました。

    『二つの遺言』 を遺す決意をしました。

        まずは一つ目。  『洗足式』

          時は西暦33年。
          過越祭を祝うために・・・

     ユダヤ人が、沢山の国から、エルサレムに集まりました。
     イエスも、弟子たちと一緒にエルサレムに来て、準備されていた部屋に入りました。

     当時は、
     道は舗装されていない、履物はサンダル・・・で足が埃だらけ。汚れています。
     家に入ると・・・奴隷や家の僕が、皆の足を洗うことになっていました。

     部屋に入った時、
     イエスは、席から立ち上がり、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれたのです。

 
         三人の信徒さんの足を洗う司祭様                             今夕の私の教会での『洗足式』

                                      『愛の模範』
を示されました。                                        
                                                                                    

   
『今日の御言葉』

   『イエスは、この世から父の元へ移る御自身の時が来たことを悟り、
    世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。

   夕食の時であった。
   
御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り、
   食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。
     それから、
   たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。

      さて、
  イエスは、弟子たちの足を洗らってしまうと、上着を着て、再び席に着いて言われた。

      「わたしがあなたがたにしたことが分かるか。
   主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、
   あなたがも互いに足を洗い合わなければならない。
   わたしがあなたがたにした通りに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。」
                                             
ヨハネ福音書 13章1-15節

         イエスの『遺言』の一つ目は、
      『互いに愛し合いなさい。互いに奉仕し合いなさい。』 でした。

            
    
    そして『遺言』二つ目。  『聖体の制定』
   
イエスは、御自分が去った後も、私達を『みなしごにしない方法』を考えました。

    『今日の御言葉      

         『主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き、
  「これは、あなたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい。」
                                                
と言われました。
        また、食事の後で、杯も同じようにして、

「この杯は、わたしの地によって立てられる新しい契約である。
           飲む度に、私の記念としてこのように行いなさい。」
と言われました。

  だから、あなたがたは、
このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られる時まで、主の死を告げ知らせるのです。』
                                     
コリントの信徒への手紙Ⅰ 11章23-16

           『イエスの聖体の制定』から2000年近くたった今日。
    全世界で、『主の遺言』に忠実に、『最後の晩餐』を繰り返しています。

        『主が来られる時』まで・・・ 『世の終わりの時』まで・・・
   イエスは、『聖体に現存』して、私たちを『永遠の命』へ導いて下さるのです。

         『わたしは命のパンである。これを食べる者は死なない。
           このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。
          わたしの肉を食べ、私の血を飲む者は、永遠の命を得、
             わたしはその人を終わりの日に復活させる。』 
                                      ヨハネ 6章48-54節


            イエスの『遺言』の二つ目は、
    『私は、世の終わりまで、全ての人の友として、パンの形でそばにいます。』 でした。

 以上。
 共に愛し合い、共に仕えあい、共に生きる。 
               「それ以上の幸せはないよ!」と。 『イエスの遺言』ですね。 

皆様!
ご訪問に感謝申し上げます。
大切な家族や友達や師との別れは、とても悲しい。寂しいですよね。 『遺言』や『遺品』はその人そのものです。
私の母の『遺言 と 遺品』 は、
  『死後は私をどこへもお共させてね』と。 私の左薬指には『母と私の結婚指輪』が光ります。
さて。 皆様は、どんな『遺言』『遺品』を遺されますか? お若くて、まだまだ考えられません? 私は?


『最後の晩餐』そのⅡ・・・『人の子は去って行く。人の子を裏切る者は不幸だ。』

2016-03-23 23:01:27 | 聖書。聖書勉強会。教会。日常の信仰生活。

 四旬節の最終週の四日目。3月23日。
今日も、心静かに、心穏やかに過ごしました。静寂。

 庭のボケ2種。             『白花と赤花』
 

 両者は同じようで、まるで違います。

 白花は、枝に棘がいっぱい。外敵?から身を守るため?葉も全くない。よそ者を拒否です。
 赤花は、棘など全くない。柔らかい葉が沢山ついています。 よそ者を包み込んで迎えます。

   
    白花は、美しく。高貴な佇まい。          赤花は、可愛く。暖かな佇まい。 

今日・受難の水曜日・・・・花々を眺めています。
        
                 庭の花々・・・心のうるおいです。
神の造り給うたこの世の全ての被造物は美しく、同じようでも一つ一つがまるで違います。それがいと良し。

そして。
今日は3月23日。 受難の水曜日。

       イエスの愛は、大きさにおいても広さにおいても、無限です
      『友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。』ヨハネ15-12&13 
     
イエス自ら、人類のために御自分の命を捨てて、イエスの無限の愛を示しました。

       イエスは、全ての人の友であり、誰をも分け隔てをしません。 
 『もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。』ヨハネ15-15
   イエスは弟子たちを慈しんで、ご自分と12人の弟子たちと、親しい友情関係を結ばれました。

       イエスは、自ら弟子たちを選び、任命したのです。
  『あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。』ヨハネ 15-16

   しかし。

     イエスにそれほどまでに愛されたイエスの弟子・ユダは、裏切りを企てます。

   『ユダは、祭司長たちや長老たちや群衆と、暗闇の中でもイエスを見分けられるよう、
 「わたしが接吻するのが、その人だ。それを捕まえろ。」と、前もって合図を決めていた。』
                                      
       
ユダはすぐイエスに近寄り、「先生、こんばんは」と言って接吻した。』      
            
                                             イエスはユダを凝視。ユダはちょっと目をはずして。
     『イエスは、「友よ、しようとしていることをするがよい」と言われた。』
                                     マタイ福音書 26章47-50

そして。
受難の水曜日。
     『今日の福音 イエスの言葉』  イエスは裏切るユダに向けて最後の言葉をかけます。

      『夕方になると、イエスは十二人と一緒に食事の席に着かれた。
       一同が食事をしているとき、イエスは言われた。
  『はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。」

        「人の子は、聖書に書かれているとおりに、去っていく。
           だが、
人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれてこなかった方が、そのもののためによかった。」』
                                           マタイ福音書 26章20-24節


    人の子・イエスは、
    
聖書にかかれているとおり、神の御旨を成就するために・・・
    『主の僕』として去っていくことは、以前からご存じだったはずです
    ユダの裏切りがなくとも、『時』が来たら、自ら『主の僕』として、
去って行かれたでしょう。

        さて。

       『聖書に書かれているとおり』とは・・・  
          『主の僕・義なる僕・イエスキリスト像』 のことです。

   『乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように、この人は主の前に育った。
    見るべき面影はなく、輝かしい風格も、好ましい容姿もない。
    彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。
    彼はわたしたちに顔を隠し、わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。

  彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに、
  わたしたちは思っていた。
  神の手にかかり、打たれたから、彼はくるしんでいるのだ、と。

     彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、
     彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった。

     彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、
     彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。

   わたしたちは羊の群れ、道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。
   そのわたしたちの罪をすべて、主は彼に負わされた。

      苦役に課せられて、かがみ込み、彼は口を開かなかった。
   屠り場に引かれる子羊のように、毛を切る者の前に物を言わない子羊のように、
   彼は口を開かなかった。
       捕えられ、裁きを受けて、彼は命を取られた。』  
イザヤ書 53章1-8節

                    つまり。こういうことです。
   
           イエスは、いつもそうであるように、今回も、
  イザヤが預言した『神の御意志』を、誰の力を借りることなく、ご自分自ら実行なさるために、
        『人の子・イエスは、聖書に書かれているとおりに、去っていく。』のです。

            ところが。

           ユダは、
    そんな『主の僕・人の子・イエス』を裏切り、イエスを追跡者に売ったのです。

     
     神は、自らの似姿に造った人類に、『最高の贈り物・自由』を与えました。
   『我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そしてすべてを支配させよう。』 創世記1-26

      
    『自由』は、善にも悪にもなる、神が人類に与え賜えた『最高の贈り物』です。
       
それは時として
    『わたしたちは羊の群れ、道を誤り、それぞれの方角に向かって行く。』のです。

   
   ユダは
   与えられた『自由』を、主・自分の師を裏切るという、『悪』に濫用しました。
      そして
   自分の『悪』に気づいても・・・再び間違いを起こしたのです。
       
   ユダは、
   イエスの死後も、再び、

   『幸せ』『不幸』の二つの前で、自由に、『不幸』を選んだのです。
『イエスに回心して許される道』  『イエスの許しに回心することなく絶望して自ら命を絶つ道』
            
言い換えれば、 『命の道』『死の道』
          二つの道の前で、『不幸の道』を選んだのです。


        
イエスは、人の幸せのみを望む方です。
   イエスは、ご自分が選び、そして愛したユダの二度の間違いにどれだけ悲しみ、
            ユダのためにどれだけの涙を流したことでしょう!

    イエスは、ユダの悲しい結末を知っていて、前もって言われたのではなかったでしょうか?
  『人の子を裏切るそのものは不幸だ。生まれなかった方が、その者のために良かった。』と。

   私達も、
   
ユダや、人類の全ての人々とともに『自由』が与えられています。
     そして
   日々問われるのです。「あなたは、『幸せの道』と『不幸の道』のどちらを選びますか?」と。
     
時として・・・
   『不幸の道』が『正しい道』に見え、『幸せの道』が『間違いの道』に見えたりするものです。

      日々・・・イエスに尋ねながら、清く正しく、『幸せの道』を進みたいものですね。

                            以上。今日の私の『御言葉の感想』でした。

皆様!
ご訪問に感謝申し上げます。
右か左か? 食べるべきか終わりにすべき? 言うべきか黙すべき? 走る?走らない? 等等。
人生は選択の連続です。 の選択の基準は『神任せ』で、間違いがない。
の選択の基準選びは、『自由』です。人それぞれ。 『自由』程難しいものはないですね。 

 ************
今日・3月23日の走行距離:10㎞。

5時半。”母の声援を力に頑張って下さい!”と息子の応援ランだと思うと、母は走る!走れる!
息子は昨年大会に続き、今年の『全日本トライアスロン宮古島大会』が迫り、
猛特訓中。
御婦人が、一人で、早朝から、私が走る公道の草ぬきをしていらした。脱帽! 
は、シングルの腕を保つために、ゴルフお出かけ前から精神統一です。
   人生色々。人も色々。今日も、早朝から、それぞれの『自由な一日』が始まりました。
                    3月走行距離合計:140㎞ 


『最後の晩餐』そのⅠ・・・『あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。』

2016-03-22 22:43:09 | 聖書。聖書勉強会。教会。日常の信仰生活。

四旬節の最終週の三日目。3月22日。
今日も、心静かに、心充たされて過ごしました。静寂。深沈。

2冊の読書。
左: 「レオナルド・ダ・ヴィンチ 復活『最後の晩餐』」           2000年2月10日(木)購入 
先日・2016年2月25日(木)江戸東京博物館訪問時に購入。『レオナルド・ダ・ヴィンチ 天才の挑戦』 
                                       
余計事…本の購入日を必ず記す私です。  

今日・受難の火曜日・・・・無心に読書しました。
        
              巨匠の絵画・・・心のうるおいです。
『絵』を観るのも、下手だけど『絵』を描くのも、描く人の考えがはっきり出るようで、大好きです。

そして。
今日は3月22日。 受難の火曜日。
    
            

我が家の食堂にかかる・・・         『最後の晩餐』         
  『「あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。」とイエスが断言された時の情景』

                       レオナルド・ダ・ヴィンチ作。 ミラノのサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会。

          キリスト・イエスを囲んで12人の弟子 『最後の晩餐』

左の席から順に・・・
12人の弟子 と 『一人がわたしを裏切ろうとしている。』と断言されたイエス・キリスト


       『イエスの言葉』を聞いて・・・・

思わず立ち上がるバルトマイ。 インドで伝道したといわれる。皮膚を剥がれて殉教。
ペテロの背中をたたき、状況を聞こうとする小ヤコブ
驚いた様子でイエスの方を振り向くアンデレ。 ペテロの弟で、伝道中にマタイを補佐した。
  
教団の会計係だった横顔のユダは、手に革袋の財布を握り、
銀貨30枚でイエスをユダヤの大祭司と長老たちに売ったその目は、やや奥に位置するイエスを凝視する。
  
イエスが最も信頼した、12使徒の筆頭で、ローマで最初のキリスト教団を設立したペテロ。 63年にネロ帝によって逆さ磔刑。 
大ヤコブの兄弟で、ヨハネ福音書の著者、宣教活動ではペテロと行動を共にし、
イエスが最も愛した弟子と言われるヨハネ。 
 
そして 
イエス

復活のイエスの傷口に触れる指を連想させる、立てた人差し指のトマス。 インドで布教し、異教徒の兵士に槍で突き殺された。
驚きのあまり力強く指を開く大ヤコブ。 ヨハネの兄弟。コンポステーラ巡礼路の終点は大ヤコブの墓です。
両手を胸に当て、自らの潔白と主への忠実を訴える
ピリポは、『晩餐』の席上でイエスに質問を発し、「なぜ信じないのか?」とイエスに戒められます。  熱弁をふるって伝道活動をした。

マタイ、タダイ、シモンは、イエスを見ず、議論に熱中している。
名は『神の手・助言を与える者』の意味で、描かれた両手を大きく差出し主の方向をはっきり示すマタイは、収税で働くところをイエスに召し出された収税史です。 斬首で殉教。
本名は裏切り者と同じ「ユダ」で、キリストの磔刑後シモンと共にパレスティナ地方で布教するタダイは、『晩餐』でもシモンと熱心に議論です。
「熱心党のシモン」と呼ばれ、気品ある初老に描かれているシモン。 イエスの死後タダイと共にシリア、メソポタニアで布教。のこぎりで体を二つにかれて殉教。
  
                                       
        以上。「復活『最後の晩餐』」より抜粋。

そして。
    
『今日の福音 イエスの言葉』   処刑を自覚したイエスと弟子達との『最後の晩餐』の場面です。

『(そのとき、イエスは弟子たちとともに食事の席についておられたが、)心を騒がせ、断言された
「はっきり言っておく。あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。」

弟子たちは、だれについて言っておられるのか察しかねて、顔を見合わせた。

イエスのすぐ隣の、イエスの愛しておられた者が、イエスの胸もとによりかかったまま、
「主よ、それはだれのことですか」と言うと、
イエスは、「わたしがパンきれを浸して与えるのがその人だ」と答えられた。

それから、パン切れを浸して取り、イスカリオのシモンの子ユダにお与えになった。
ユダがパン切れを受け取ると、サタンが彼の中に入った。
そこでイエスは、
「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」と彼に言われた。』 ヨハネ福音書 13章21-27節

   ここで・・・
   考えてみます。皆様も御一緒に考えて下さい。

ユダ』は、どの時点で貪欲になったのでしょうか? その心境はどうだったのでしょうか?
  『ユダ』は、どこまで責任が問われるのでしょうか? 永遠に滅んだのでしょうか?

       こんな疑問は、普通の疑問かもしれませんね。

『ユダ』は、貪欲であったことは事実です。では、なぜ、『銀貨30枚』を祭司達に返したのでしょう?

       ユダは、イエスを大切に思っていたから、返金して自殺をしたのでしょうか?

『ユダ』は、イエスがいつも危機から逃れるように、今回も、イエスが死から逃れると信じていたのでしょうか?

      ユダは、イエスの判断に自分を委ねるのではなく、自分の判断を重視したのでしょうか? 

『ユダ』は、最後の晩餐前のラザロとの食事の席で、イエスの足に塗るために300デンアリオンの香油を買ったマリアを非難しました。
  
  『ユダは貧しい人々のことを心にかけていなかった』(ヨハネ12-6)のに、300デリアンに未練があったのでしょうか?
 
『イエス』は、なぜ、ユダを使徒に選んだのでしょう? いつから、ユダの裏切りを知っていたのでしょう?

            答は、神・イエスにお任せ致します

    更に。
    聖書の言葉は続きます。

 『ユダはパン切れを受け取ると、すぐに出て行った。夜であった。
  さて、
  ユダが出て行くと、(ユダがイエスを捕える兵士を案内してくると悟った)イエスは言われた。
「子たちよ、今しばらく、私はあなたがたとともにいる。あなたがたはわたしを捜すだろう。
      『わたしが行く所にあなたたちは来ることができない』」 

  シモン・ペテロがイエスに言った。「主よ、どこへ行かれるのですか。」
  イエスが答えられた。
「わたしが行く所に、あなたは今ついてくることは出来ないが、後でついてくることになる。」』
                                           ヨハネ福音書 13章33-36

      弟子たちは
イエスが言われた通り、イエスの磔刑後・・・・
イエスの人生同様に、各地に宣教 そして 殉教『イエスの後をついて行く人生』を全うしました。


そして。
『今日の入祭唱 ダビデの言葉』   イエスもダビデ同様に神に願ったことでしょう。

      『貪欲な敵にわたしを渡さないでください。
偽りの証人、不法を言い広める者が、私に逆らって立ちました。』 詩編27-12

    いよいよ、『御受難・イエスの磔刑』三日前。 緊張感が漂います。

皆様!
ご訪問に感謝申し上げます。
私が考える判断が、神の判断とは違って、お人を傷つけることがありませんように! と祈ります。

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今日・3月22
日の走行距離:10㎞。

5時半。空気が冷たい。来る土曜日・26日は、恒例の『20㎞走会』。
”20㎞会なら・・・練習は10㎞でよしね!”と。 へし折って短め。軟弱な私です
フルマラソン前の早朝練習では14㎞は走る。 それぞれの大会前に実感する…『志は気のなり』と。
                                                      自己創作です。

       正確には・・・   『志気之帥也』  (こころざしはきのすいなり)
   
           志=思想や精神は気の総大将である。
    思想が確立し、精神がしっかりしていれば、おのずから気力が充実する。 [孟子]

                                                               3月走行距離合計:130㎞