ひとり『至福の時間』
『おひとり様 美容Day』
故郷は良いなあ!♡♡
なじみの故郷 遠きみやこに 帰り来て
ひとり都の ゆうぐれに ふるさとなつかしく 涙ぐむ
今日も、
ひとりで、懐かしい故郷の地の散策♡♡
遠く懐かしい日々を思い出しながら・・・。
感謝!感謝!
そして。
自分から語るのではなく、
ピンクアナベルより、葉の色が濃く、茎もより硬く、花の色も濃いそうです。
また樹高もかなり低く、茎も丈夫になったことから、
開花後は、咲き進むにつれて、緑色に変化していきます。
開花後に、花を剪定すれば再び花芽をつけ、秋まで開花が楽しめます。
また、
人間の戒めを教えとしておしえ、むなしくわたしをあがめている。』
朝、ジョグか? 散歩か?
秋風もさわやかに
ずいぶんと楽になってきました。
『お隣の垣根』
”行ってらっしゃい!” と今朝も見送ってくれる。 お見事です。
行くと云えば・・・『Go To Travel & Go To Eat 』
10月から 東京発着もOK! らしい。
子供家族は皆東京住まい。
私から出向いてみるか?
久しぶりに・・・。
いやいや大丈夫だろうか?
コロナ禍以来・・・
旅行は勿論のこと
電車にすら乗っていない。
さてさてどうしましょうか?
そんな時。
”久しぶりに旅行はいかが?
長時間の新幹線ではなく、 短時間で移動の飛行機にしましょうよ。
東京の子どもたち訪問でなく、 現地集合で、 遠く九州旅行でもいかが?”
東京在住の娘からお誘いがかかった。
いやいや大丈夫だろうか?
さてさてどうしましょうか?
洋服でもなんでもお買い物で、 『迷ったときは買わない!』 を原則とする私。
迷う私・・・我が『原則』を破るのは、いかがなものでしょうかね。
”To be, or not to be、 that is the question!”
10月までは間があります。 ”迷うのもいと楽し!” ですね。
それまでは、迷いなく、電車に乗りませんよ。
そして。
今日は9月16日。年間第二十四水曜日。
『聖コルネリオ教皇 と 聖チプリアノ司教殉教者 記念日』
聖コルネリオ教皇 聖チプリアノ司教殉教者
<聖コルネリオ>
? カルタゴ(現在のチュニジア共和国)に生まれた。
キリスト教徒でない異教徒の家庭に生まれたが、成人してから洗礼を受け、司祭への道を志した。
249年頃。 カルタゴの司教になる。
謙遜で善良なコルネリオは、デキウス帝の迫害によって苦しむ信徒たちを心にかけ、
司教として励ました。
251年。 前年に教皇ファビアノが殉教し、14ヶ月後、ローマ教皇にコルネリオが教皇に選ばれた。
在位:251-253年。2年間。
対立教皇としてたったノヴァティアヌスの派閥に反対されたが
チプリアノに支持されて地位を保つことができた。
チプリアノ司教は、教皇コリネリオを、あらゆる面でよく助けた。
在位中、「大罪のゆるし」と「迫害のときに棄教した信徒の教会復帰」 が問題となった。
コルネリオはカルタゴに司教たちを集め、 棄教者がゆるしの秘跡を受け、
償いのわざを行えば教会に戻ることができることを確認した。
カルタゴの司教チプリアノがこれを支持した。
しかし、ノヴァティアヌスはコリネリオの主張に反対し、自らが教皇であると宣言した。
デキウス帝の死後、ペストが流行し、民衆の不満は、キリスト教徒に向けられた。
そのため、トレボニアヌス帝もキリスト教を弾圧し、コリネリオは捕らえられた。
253年。 追放されたチェントゥリチェッレ(現在のイタリア中部・チヴィタヴェッキア)で 死亡。
その遺体はローマに移され、 カリストの墓地に埋葬された。
<聖チプリアノ>
初期キリスト教の重要な著述家であり、 ラテン教父に数えられる。
210年頃。 北アフリカのカルタゴで、 異教徒の家庭に生まれた。
246年。36歳。 著名な修辞学者だったが、 クリスチャンに改宗する。
249年。39歳。 カルタゴの司教に選ばれた。
司教就任時には、既に聖書とテルトゥリアヌスの著作について深く理解していた。
その活動と著作によって、多くの困難のただ中にあった教会を見事に治めた。
教会が一つであるために、使徒ペトロの後継者である教皇のもとに、
司教、信徒たちが一致することの大切さを強調した。
司教は、教皇コリネリオを、あらゆる面でよく助けた。
デキウス帝による迫害時。 身を隠したが、手紙によって、教会の指導にあたった。
この迫害の時に棄教したクリスチャンたちの教会への復帰問題が起きたが、
最初は厳しい態度でこれに臨んだものの、 その態度をのちに軟化させ、
251年。41歳。 適当な改悛ののちに教会に復帰することを許した。
このことでノヴァティアヌスやローマ教皇ステファヌス1世と論争する。
遠藤周作の『沈黙』を思い出します。 当時は世界共通の『テーマ』の一つだったのですね。
ヴァレリアヌス帝による迫害時。 まず追放される。
258年。48歳。 殉教。
『毎日の読書』より
『今日の入祭唱』
『キリストを信じ、キリストの愛のために命を捧げた殉教者は、
キリストと共に終わりなく喜び歌う。』
『今日の第一朗読 使徒パウロの言葉』
『皆さん、
あなたがたは、もっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい。
そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます。
たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、
愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。
たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、
たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、
愛がなければ、無に等しい。
全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、
愛がなければ、 わたしに何の益もない。
愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。
愛は自慢せず、高ぶらない。
礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。
不義を喜ばず、真実を喜ぶ。
すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。
愛は決して滅びない。
預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、
わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。
完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。
幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、
幼子のように思い、幼子のように考えていた。
成人した今、幼子のことを棄てた。
わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。
だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。
わたしは、今は一部しか知らなくとも、
そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。
それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。
その中で最も大いなるものは、愛である。』
コリントの教会への手紙Ⅰ 12章31節-13章13節
50年~52年頃。 パウロは、コリントに、1年半ほど滞在して宣教し、
コリントにもキリスト者の共同体ができました。
56年頃。 パウロは、コリントの教会に起きている問題を聞いて、
エフェソから、この手紙を書き送りました。
『もっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい。
神なる霊から与えられる兄弟愛は、最大の賜物であり、いつまでも残るのです。』
パウロは、新赴任先から、コリントの信徒たちを忘れることなく、手紙を送り、
互いに愛し合うように、 と励ますのでした。
殉教者・・・コルネリオとチプリアノ、パウロの模範には
とても倣えそうにはない。
遠地からでも、 手紙を送って、 信徒を励ます先人たちです。
それでも先人たちの勇気を学び、
力強く、『愛なる神』 を証しできるといいなとは思っています。
『今日の祈願』
『全能の神よ、 聖コルネリオと聖チプリアノは、
牧者として献身的に尽くし、不屈の殉教者として命を捧げました。
聖人の取り次ぎを求めるわたしたちの信仰と勇気を強め、
教会の一致のためにたゆまず働く力をお与えください。』
皆様!
御訪問に感謝申し上げます。
読書の秋、芸術の秋、スポーツの秋、に加えて・・・
旅行の秋、食欲の秋、もあったのですよね♡♡ お元気で!
4月6日。
満開・・・ 『ボケ』
静かに咲いて、ご主人様(東京旅行の私)の帰宅を待つ。
変わることなく、動じることなく、どっしりと。
勝利の女神・・・ 『西武戦』
『森のHR』 『西武 16-3 日本ハム』
女主人の帰宅を待つ、変わることなく、動じることなく、どっしりと、夫。
一人で観るより二人が楽しいと、夫さん。
スポーツ観戦で、変わらずに流れる熟年夫婦の夜の時間です。
今日は、観戦二本立て。
夜は負けでした、 『松本山雅FC 2-1 ヴィッセル神戸』
そして。
今日は4月6日。四旬節第四土曜日。
今日も、イエスは誰何か? と議論が続きます。
『今日の福音 人々の議論』
『そのとき、イエスの言葉を聞いて、
群衆の中には、
「この人は、本当にあの預言者だ」と言う者や、
「この人はメシアだ」と言う者がいたが、
このように言う者もいた。
「メシアはガリラヤから出るだろうか。
メシアはダビデの子孫で、ダビデのいた村ベツレヘムから出ると、聖書に書いてあるではないか。」
こうして、イエスのことで群衆の間に対立が生じた。
下役たちは、
「今まで、あの人のように話した人はいません」と答えた。
『イエスの集団とファリサイ派の集団』 両者の間には越えられない壁が残る。
ファリサイ派の人々は言った。
「お前たちまでも惑わされたのか。
議員やファリサイ派の人々の中に、あの男を信じた者がいるだろうか。
だが、律法を知らないこの群衆は、呪われている。
よく調べてみなさい。ガリラヤからは預言者の出ないことが分かる。」
ニコデモが言った。
「我々の律法によれば、まず本人から事情を聞き、何をしたかを確かめたうえでなければ、
判決を下してはならないことになっているではないか。」』
ヨハネ福音書 7章40-53節
旧約聖書では、
メシアがダビデの子孫として、ダビデの町・ベトレヘムで生まれる。と書いてあります。
イエス様は、
ベトレヘムで生まれましたが、ガリラやの町・ナザレトに住んでいました。
公生活を始められたのも、布教活動も、ガリラヤのいろいろの町で行いました。
ファリサイ派の人たちは、
公生活の活動範囲を見て、イエスは聖書と一致しない、イエスはメシアではない、と考えたのです。
ニコデモは、
以前に、イエスの話を聞いて、感心していました。
それで、『法に定める通り…本人の意見を聞かなければ、裁いてはいけない』と、講義をしました。
私たち・現代の人たちは、
どうしたら、『イエスは神から遣わされた、神の子、メシアである』と信じられるでしょうか?
信じるには、
ニコデモの勧め通りに、
①先入観を捨てること。②イエスの話をよく聞くこと=聖書を読むこと。ですね。
皆様!
ご訪問に感謝申し上げます。
戻る家があるから旅に出る。旅に出るから家の良さがわかる。両方が楽しいですね。 お元気で!
2月18日。月曜日。
五日間の東京でした。
娘夫婦と・・・ 『小金井』
赤ワイン
「本当に仲がいいですね。
親子というより、友達同士のようですね。うらやましいですね。」
オーナシェフが私たち三人を見て言われた。
あれこれと話が進み、楽しい時間です。
私にとって、娘夫婦は、友達同士でもあり、『My宝物』です。
そして。
息子夫婦と・・・ 『銀座』
シャンパン
「マラソンは、次はどこを走るの? トライアスロンは、次はどこまで遠征するの?」
かつては私の弟子?であった息子夫婦は、今では『アイアンマン』の息子夫婦。
師匠?の私をはるかに越えてしまった弟子たちです。
あれこれと話が進み、楽しい時間です。
私にとって、息子夫婦は、アスリート同士でもあり、『My宝物』です。
更に。
孫たちと・・・ 『武蔵小金井』
冷水
「今日は僕と寝ようよ。」 「今日は私と寝ましょうよ。」
眠る前の、お布団の中での『お祈りとおしゃべりタイム』を楽しむ孫たちと私です。
あれこれと話が進み、楽しい時間です。
私にとって、孫たちは、スマホ先生でもあり、『My宝物』です。
今日で、『My東京』の最終日です。
『My東京』は、『My宝物=家族』の再確認の旅でした。
そして。
今日は2月18日。年間第六月曜日。
『しるし』 二つ。
『旧約のしるし』
『今日の第一朗読 兄カインの弟アベルの殺害』
『カインが弟アべルに言葉をかけ、二人が野原に着いたとき、
カインは弟アべルを襲って殺した。
主は言われた。
「何ということをしたのか。お前の弟の血が土の中からわたしに向かって叫んでいる。
今、お前は呪われる者となった」
カインは主に言った。
「わたしの罪は重すぎて負いきれません。わたしに出会う者はだれであれ、わたしを殺すでしょう。」
主はカインに言われた。
「いや、それゆえカインを殺す者は、だれであれ七倍の復讐を受けるであろう。」
主はカインに出会う者がだれも彼を撃つことのないように、カインにしるしを付けられた。』
創世記 4章1-25節
カインは、人間が持つ嫉妬、羨望、怒り、傲慢、等に負け、弟アベルを殺してしまします。
神は、カインに『主の判決・呪い』を宣言されました。
カインは、その『主の判決』に、”助けてほしい”と、泣き言を言います。
神は、そんなカインに『しるし』を押され、
次世代の人々が、この最初の殺人に対する復讐をしないようになさったのでした。
『カインの印』は何を意味するのでしょうか?
人の目に見える『しるし』ではなかった。のではないでしょうか?
カインのみが、自覚し、忘れることがない、『しるし』であった。のではないでしょうか?
生涯、『自分の罪』を自覚し、忘れることがない『悔い改め』を促される、『しるし』です。
と同時に。
『神の赦し』を希うために、心に刻まれた『しるし』です。
すべては、神の愛から出る『しるし』ですね。
そして。
『新約のしるし』
『今日の福音 イエスの御言葉』
『イエスは、心の中で深く嘆いて言われた。
「どうして、今の時代の者たちはしるしを欲しがるのだろう。
はっきり言っておく。今の時代の者たちには、決してしるしは与えられない。」』
マルコ福音書 8章11-13節
更に、続けて、イエスは言われます。
『よこしまで神に背いた者たちはしるしを欲しがるが、預言者ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。
つまり、ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、大地の中にいることになる。
ニネベの人々は、ヨナの説教を聞いて悔い改めたからである。
ここに、ヨナにまさるものがある。」』
マタイによる福音書 12章40-42節
キリストの言われる、
『ヨナにまさるしるし』とは、『イエス・キリストの十字架』です。
『イエス・キリストの十字架のしるし』をつける司祭。 孫息子の洗礼式
『十字架のしるし』を、額と心の刻まれた者に・・・
自分の罪を自覚させて、『悔い改めの心・回心』を呼び覚まし、
自分の弱さと無力さを自覚させて、『神の救い』を希う希望を持たせる、『しるし』です。
私のような、無力で弱い者でも、
『キリストの十字架のしるし』をつけていただき、日々反省ばかりで、それでも希望を捨てずに、日々喜んでいます。
旧約、そして 新約でも、
『神のしるし』は、『悔い改め・回心』と『神の救い・希望』を持たせてくれる、『しるし』ですね。
すべては、神の愛から出る『しるし』ですね。
以上。私の『今日の御言葉』の感想でした。お粗末様でした。
皆様!
御訪問に感謝申し上げます。
私の5日間の『My東京』におつきあい下さり有難うございました。感謝申し上げます。
最後の日の私の東京ウォークは6859歩でした。 お元気で!