鈍想愚感

何にでも興味を持つ一介の市井人。40年間をサラリーマンとして過ごしてきた経験を元に身の回りの出来事を勝手気ままに切る

意味深長なタイトル通り、心に残る佳作の「野のユリ」

2010-10-04 | Weblog
 NHK衛星テレビで放映していた「野のユリ」を観賞した。1963年に社会派のラルフ・ネルソン監督によって制作された作品で、主演のシドニー・ポワチエはこの映画でアカデミー主演男優賞を獲得した聖書のマタイ福音書にある「野のユリがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません」から採ったタイトルに込められた社会の底辺で働く人々の気持ちを大切にしなさい、というメッセージは十分に伝わってきた。
 米アリゾナ州の田舎道を黒人の青年がドライブするありふれたシーンから「野のユリ」は始まる。一体何が始まるのかと期待を持たせる。エンジンの調子がおかしいようで、過熱気味のエンジンを冷やすべく、適当な水汲み場を物色すると、丁度修道院らしきものが目に入り、修道女が数人たむろして作業を行っていた。「水をいただけませんか」と主人公の青年が頼むと、修道院の院長らしき高齢の女性が「神のお恵みです。あなたを神が遣わしてくれた」と大げさに出迎えてくれる。周りの修道女たちもにこやかに出迎えてくれ、単なる水もらいだけでいいのにと思っていると、「屋根が壊れているので修理してほしい」と懇願される。
 ちょっと立ち寄っただけで、「とんでもない。急ぐ旅だ」と言っても聞きいれてくれない。それでも振り切って、水をもらって引き上げようとして、ハンドルを切ったものの、相手は宗教に身を捧げている修道女で、気がとがめて戻ってきて、「ちょっとしたアルバイトなら」と断って、屋根の修理をやり遂げる。
 大いに感謝され、夕食をと誘われ、ともに食事をするうちに彼女たちははるばるヨーロッパから布教のため米国へ渡ってきた敬虔で、心清らかな修道女たちであることを知り、粗末な食事の背景にとんとおカネがないことも知る。同情はするものの、院長にアルバイト料を請求してもそんな財政状況にないことを知り、いつか逃げ出さなくてはと思いながら、一方ではけなげにメキシコ住民たちに熱心に布教活動しているのにほだされて、ついつい手伝う羽目に陥っていく。
 そんななか院長は主人公に「教会を建てる」ことを命じるが建築のためのセメントや木材など材料をすべて寄付で賄うことを知って、尻ごみするが、固い信念を持ってなにが何でも教会を建てるのだ、という院長に引きずられて、たった一人で建設にとりかかる。最初は見向きもしなかった周囲のメキシコ人たちは主人公の健気な姿勢にうたれ、次第に協力するようになり、彼らのおかげで教会は見事完成する。
 メキシコ人たちと完成を喜びあっているうちに主人公はなんぜか空しい気持ちが募ってきて、修道女たちと聖歌のアーメンを合唱するなか、一人さびしく修道院を去っていくところで、ジ・エンドとなる。
 一人で教会を建てるつもりが、結局みんなで建てることになり、最初の苦労もどこかに吹き飛んでしまい、喜びも半減してしまった空しさをかみしめながら、アクセルを踏んで去っていく主人公に宗教とはそういうものだ、とでも言いたかったのだろうか。「野のユリ」という意味深長なタイトルといい、なにか心に残る佳作であった。
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