prisoner's BLOG

私、小暮宏が見た映画のノートが主です。
時折、創作も載ります。

「狂気の海」

2010年03月14日 | 映画

意識的に、計算づくで作られたトンデモ映画。というのも形容矛盾みたいな気がするが、実際そうとしか言いようがない。「帝都大戦」に捧げるって、あのスカタン映画に捧げてどうするのかと思う。

憲法第九条が一種の宗教になっている、というのは妙にもっともらしい。それとムー大陸とルーズベルト呪殺とが絡む。意味不明ですって? 事実そうなのだから仕方ない。

「大いなる幻影」

2010年03月12日 | 映画

もともと一種の自主制作だから商業映画的なわかりやすさは求めないが、それにしても何表現しているのか、さっぱりわからなくて往生する。

武田真治がすうっと姿が薄くなって、また現れる二重合成など、「影の薄さ」をそのまんま画にした格好だけれど、他の人物もみんな影が薄い。
(☆☆)


「エグザイル/絆」

2010年03月11日 | 映画

五人の男どもがやたらハードボイルドで硬派なところと、ガキどもがじゃれあうようなところが(いわゆる軟派とは違う、女は絡まない)混ざっている。どっちも「男」の世界、ホモソーシャリティを絵に描いたよう。

五人が互いに離れた場所から銃を撃つ上、編集がスタイリッシュすぎて、銃撃戦の空間処理を曖昧にした。

舞台が返還直前のマカオで、地中海風の建物がすっきりとエキゾチック、香港映画のごたごたした感じとは対照的。
五人を追いかけているくせに無事退職するのを優先してちっとも手を出さない警官の描き方はまあまあ。
(☆☆☆★)

「食堂かたつむり」

2010年03月10日 | 映画
CM出身の監督らしく、CGを使ったコラージュ風の画面作りを多用しているけれど、おっぱい山みたいにファンタジックというよりなんだか気味悪い感じもあり。

食べ物を映画で描いておいしそうに見せるっていうのは、実は相当に難しいのだが、食べ物のアップがどろどろの煮込みが多いせいもあって、あまりおいしそうに見えない。煮込む材料を鍋に放射状に並べている図はきれいなのだけれど、煮るとぐちゃぐちゃ。いいのか。
中学生に柔らかいスープを食べさせて、初老のおめかけさんに肉食べさせるって、逆じゃないのか。

人間の言葉で喋ったりしてずっと擬人化していたブタをクライマックスで食べるのに引く。そのあと、嬉しそうにブタに乗って空を飛ぶファンタジックなイメージ画面が出てくるが、なんだかトンカツ屋の看板に割烹着を着て包丁を持ってにこにこしているブタさんを使うようなセンス。

なぜ口をきくのをやめたのか、なぜ人を幸せにできる料理を作れるのか、といったところはかなり形而上的な話になるはずなのだが、あっさりスルー。超能力みたい。
(☆☆☆)


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「オテサーネク」

2010年03月09日 | 映画
オブジェクト・アニメ作品で有名なヤン・シュヴァンクマイエルの通常の俳優を使った劇映画だが、「物体」そのものの質感にこだわる作家性は変わらず。
人間の口や食べ物の執拗に繰り返されるアップのグロテスクな感覚が、豚から人間からなんでも食べつくすオテサーネクの貪欲さと直接つながっていて、人間も同類だよと言わずともわかる。

なんだかワイアール星人みたいにも見える木と人間が合成された怪物の動きは、人力で動かすのとコマ撮り撮影とを併用していて、目が普通の木の質感に慣れかけると途端にカクカクッとなるので、そのたびに木の質感を再確認する格好になる。

性教育の本を読み耽り妙にシニカルなことばかり言う、ひどく大人びた女の子を演じているクリスティーナ・アダムツォヴァが、特典映像の演技指導ではごく子供っぽい反応のよさを見せている。スカートからパンツが見えるのにエロジジイがメガネをかけ直して寄っていくシーンなど、「いいのかな」と思うくらい。監督自身の自画像なのかも。
(☆☆☆★)


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「人間失格」

2010年03月07日 | 映画
オープニングのレコード盤のアップや、鎌倉のトンネルや蒸気機関車の中のイメージ・ショットなど監督の荒戸源次郎が30年前プロデュースした「ツィゴイネルワイゼン」を明らかに想起させる。わざわざトンネルの中で日本酒をウィスキー用のスキットルに移して飲むあたりも、同作のオープニングの引用がかっている。

前畑秀子のベルリン・オリンピック(1936)金メダル獲得の河西三省NHK アナの「前畑がんばれ」の連呼や、1941年12月7日の真珠湾攻撃などの臨時ニュースなどがラジオから流れても、主人公はまるっきり聞いておらず、大状況にまるで無関心。しかし、オリンピックに湧いている周囲の人間、ラジオの受信状態がやたら悪いのは隣に置いてある扇風機のせいだとわからないのが見ていても見えていないというのか、あたまから聴いてもいないのと五十歩百歩のようでなんとなく可笑しい。。

blue-radio.comで荒戸監督が自分でプロデュースする時と違って金の心配してないから遠慮せずに使ってますって語ってたけれど、撮影や美術(今村力)がずいぶん手がかかっていて、見ごたえあり。

生田斗真はいかにも女たちが引き付けられそうな甘さと影があって、適役。

これくらい酒を飲んでばかりいる映画も最近珍しい。飲んでいない時はモルヒネを打っているのだから、どうしようもない。アル中って汚いんですけどね。映画と離れるが、中島らもとか高田渡みたいに酒で寿命縮めた人をいまだにロマン化して見るきらいがあるのは、こまりもの。

「ワザ、ワザ」「生まれて、すみません」「選ばれてあることの恍惚と不安」(これはもとはヴェルレ-ヌだが)などなど、太宰流のアフォリズムが決め打ちで散りばめられている。ちらっと「かちかち山」の絵を小さな女の子が見ているシーンは、太宰の「御伽草子」からの引用だろう。太宰が好きで作っているのが窺われる。
(☆☆☆★★)



「彼女を見ればわかること」

2010年03月06日 | 映画

ロドリゴ・ガルシア監督(ガブリエル・ガルシア=マルケスの息子)のデビュー作。四年後の第三作「美しい人」の方を先に見てしまったが、さまざまな女性たちを主人公にした短編(それもあまりオチや完結性にこだわらない)をつなぎ合わせた作りは一緒。ただし、こちらはワンエピソード=ワンシーン=ワンカットではない。四年後にそういう撮り方をするようになったのが、「進歩」かというと、なんともいえないが。

各人にムリに共通点やつながりを作ろうとしたりしない分、自由度が高い割りに各人がそれぞれ「生きている」統一感はある。女優陣とするといつも型にはまった役を強いられることが多いから、歓迎したのではないかと想像する。
(☆☆☆★)


「 我らを悪から救い給え Deliver Us From Evil」

2010年03月05日 | 映画

10年に50人以上のカソリック教会に通う子供たちに性的虐待をしていたオリバー・オグレディという神父にはじまって、それを隠蔽してきた上層部を告発したドキュメンタリー。カソリック教会全体では、推定10万人というとんでもない数の犠牲者を出しているという。
オグレディはアイルランドに送還され、以後現在まで行方不明。
バチカンが重い腰をあげて対応したのが、賠償金の額がとんでもない数字になったせいというのも、殺風景な話。

犯行を知った父親が「殺してやる」と言ったら、父親を殺人犯にしてはいけないとかえって娘が口を閉ざしてしまうなど、痛ましい。

それにしても、偏見か知らないが、なんでキリスト教って処女懐胎なんて荒唐無稽な話を押し付けるのか。頭から女は男に従うものと決めていたり、なんか性的な歪みを感じるのですけどね。

まったくの余談だが、「バリー・リンドン」で「バカめ、オグレディなんてアイルランド名前の大使がいるか」なんてセリフがありましたね。名前ですぐアイリッシュだとわかる名前らしい。

「オーシャンズ」

2010年03月04日 | 映画
シー・シェパードがエンドタイトルに出ているというし、イルカやクジラの漁の残酷さを強調しているというので、どんなプロパガンダをやらかしたかと手ぐすね引いて見に行ったら、さほどのことはなかったのでちょっと拍子抜け。
ネットでは、SSがスポンサーのような受け取り方されているけれど、そこまで深く関わっているとは思えないし、入場料がイコールSSへのお布施と取るのは過剰反応に思える。劇場や配給その他が相当に抜くしね。

しかし、ヒレを切られたフカが海の底に落ちていくカットは、アニマトロニクス(つまりロボット)というのは見た後知ってちょっと呆れた。エンドタイトルで「動物は傷つけていません」と出るので、ありゃなんだと思ったのだが、乱獲は見せたし、モノホンを写しちゃエコ団体仲間に文句言われるだろうしでの苦肉の策なのだろうが、わざわざロボット使って再現するようなものか。

それにしても、生まれたばかりの亀が海辺を這って海に戻る前に次々と鳥に捕まって食われてしまうのは、「生き物を傷つけてない」ことになるのか。まさかあれまでロボットなのか(だとしたらすごい技術だが)。動物同士ならいいのか。人間だって生態系の一部っていうのが、主張ではないのか。
あ、そうだ、シロナガスクジラにオキアミが数限りなく食われていたな、あれもロボットでしょうか。

実際、大半は海の生き物たちをよく撮りましたという思わせる映像の連続なのだが、構成がルーズで途中もう終わるのかな、と何度も思わせる。画の迫力に偏りすぎて、具体的な生態がどんなものなのかというのが案外わからない。テレビではなく映画館で見せるのを考えてのことではあるだろうが、画と情緒だけで長編はもたない。

それにしても、日本も捕鯨その他について被害者意識ばかりつのらせてないで、調査捕鯨のドキュメンタリー作って、クジラを捕らないとかえって生態系が壊れる(あの食べるオキアミの量を見るといい)実態を啓蒙してまわるくらいの攻めの姿勢見せた方がいいのではないか。そりゃ怒る奴続出するだろうが、何も言わなくたっていちゃもんつけてくるのだから。

余談だが、エンド・タイトルに「サスペリア」で有名な撮影監督、ルチアーノ・トヴォリLuciano Tovoliの名前があった。何やったんでしょう。
(☆☆☆)


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「まだらキンセンカにあらわれるガンマ線の影響」

2010年03月03日 | 映画
ポール・ニューマン監督第三作目(全部で五本)。
ニューマン夫人のジョアン・ウッドワードが主演(これでカンヌ映画祭女優賞受賞)、その娘役が二人の実娘のネル・ポッツと、イーライ・ウォラックの実娘のロバータ・ウォラックと、仲間内で固めたみたいなキャスティング。

ポール・ジンデルのピューリッツァー賞受賞の戯曲が原作(脚色 アルヴィン・サージェント)らしく、セリフ中心でじっくり芝居を見せる、日本で言うなら新劇の実写みたいな作りで、ニューマンとしてはウッドワードが「ガラスの動物園」を舞台で好演したのを記録したくて映画化したのに近いのかもしれない。だから内容は充実していて飽きないが、正直、芝居の缶詰みたいで面白みは薄い。ラストの庭に現れる娘の無言のアップの光の当て方など冴えていたが。

学術論文みたいなタイトルだが、劇中、娘が小学校で発表する、まだらキンセンカにガンマ線を当ててその量によってどんな影響が出るかという科学の自由研究のこと。しかし、大人がついているとはいえ、小学生にガンマ線扱わせるって、日本では考えにくい。

ウッドワード扮する母親が飲んだくれで身体の利かない老母を赤の他人に押し付けようとしたりする、放射能みたいな強烈にはた迷惑な人間で、こういうのにさらされて育った娘がどう育つかというテーマとかけている。どうしようもない母親役を名女優ウッドワードが気持ちよさそうに演じている。

その結論が、まともに育たなくなってしまうこともあるが、稀に美しく咲くこともあるというもの。つまり自分の成長に辛うじて希望を持っているわけ。
一方、あまりに現実がしんどいもので、ラストで繰り返される「原子」Atomといった抽象化された単位にまで思考をおとしこんでいる感もある。
(☆☆☆)


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「復讐者に憐れみを」

2010年03月02日 | 映画

リストラされた労働者が姉の病気を治すため闇組織に依頼して自分の腎臓を提供する代わり金をもらうつもりが腎臓だけ取られて、せっぱ詰まってリストラした社長の娘を誘拐するが、予定に反してその娘を死なせてしまい、社長は会社を離れて残酷な復讐に走る。
被害者加害者がねじれてどちらがどちらといえなくなり、残酷さと暴力がエスカレートしていくさまが凄まじい。
暴力描写は様式化され、悪夢のようで現実以上にリアル。

電機メーカー社長(ソン・ガンホ)といっても、高卒で自分で機械を作るところから叩き上げた人らしく、自分で電機器具を自在に操り、拷問に使ったりする。単純な資本家=ブルジョワ=悪というわけではないのだが、犯行を煽るサヨク女(ペ・ドゥナ)は単細胞的な見方しかしない。そのあたり、どこの国でもそうらしく、韓国でもサヨクが金正日に会いたがったりしたのだね。

誘拐犯姉弟が聴覚障害者という設定で、内なる音を再現しようとするように音の使い方が非常に凝っている。5.1chで聴くと、細かい効果音の位置や移動など、丹念にやっているのがわかる。
映像センスも水の中から見上げたアングルや、アパートの部屋から部屋へ横切っていく移動など凝っていて、メイキングによると韓国映画では使わなかった「腐敗したような」グリーンを多用し、現像所に破棄されてしまったところもあるという。
サイレント映画的なセリフに頼らない表現を多用して、特に暴力描写絡みの省略法が絶妙。代わりにストーリーが呑みこみにくいところが出た。

組織の構成員は一人だけだと警察が言っていたのに、ぞろぞろ現れて復讐するラストがひどく唐突な印象。韓国での公開時もずいぶん批判されたらしい。興行的には大失敗だったとソン・ガンホがインタビューで語っていた。
(☆☆☆★★)


「悲夢」

2010年03月01日 | 映画

オダギリジョー主演でキム・ギドク監督・脚本というのが興味で見たのだが、驚いたことに周囲は韓国語でオダギリジョー一人だけ日本語のセリフで、それでどういうわけか話が通じてしまう。なんだこりゃ。

彼の夢の中の出来事が見ず知らずの女のイ・ナヨンの現実となって現れるという趣向で、彼女の起こした交通事故が、実は夢の中で自分が起こしたものだから彼女は無実だと主張するのだが、それで警察が納得するわけがないし、観客のこっちも納得できない。
「現実」がすでに夢の中の出来事のような様相を呈しているという表現のつもりか知らないが、あまりにひとりよがり。

イ・ナヨンのつけている蝶のペンダントは、胡蝶の夢のつもりだろうが、だからなんだという気分になる。ギドク氏、前作の「ブレス」もそうだが、いささか思いつき先行でリアリティ無視が過ぎる。
(☆☆★★)