prisoner's BLOG

私、小暮宏が見た映画のノートが主です。
時折、創作も載ります。

「ボーはおそれている」

2024年02月25日 | 映画
前半にボーは掌と脇腹に傷を負うのだが、キリストが掌に釘で打ちつけられたのと、脇腹を槍で刺されたのと、位置が一致している

母親のもとに帰ろう帰ろうとし続けて先に進みかけたと思うとリセットされたように振り出しに戻る感覚は悪夢そのもの。
母親の存在が出ていない時でも絶大な割に父親はいるのかいないのかわからない。

アリ・アスターはここでの主人公と母親との関係はユダヤ人的なものだとインタビューで言っていたが、もともとユダヤ教徒かどうか判断するのに母親がユダヤ教徒かどうかを基準にするとか、父親の存在が薄いのは殺されたりどこかに連れていかれるので基準にならないからだとか聞きかじったことはある。
キリストに対する父ヨセフのようでもある。

キリストはユダヤ人(にして元ユダヤ教徒)ですからね。なんでキリスト教徒がキリストはユダヤ人が殺したと言って差別するんだか。

理不尽といえば、この映画全体の構造がそうで、ボーはキリスト以前に理不尽な目にあい続けるという点でヨブのようでもある(カーク・ダグラス=ユダヤ人は自伝でヨブ記を読んでなんでヨブはこんな酷い理不尽な目に合わなくてはいけないのかと怖くてたまらなくなったと書いている)。

ユングは「ヨブへの答え」で分析したが、ヨブは神の暗黒面を表出させたきっかけであり、キリストの登場は神の人間化なのだという。

ホアキン・フェニックスはあちこちでフルチンになるのだが、初めのうちよく見えないなりに修正は入ってないのが、終盤ぶわっとボカシがかかる。
なんですか、これ。どういう判断で修正したりしなかったりしたのか。
判断基準がいっぺんに逆コースに乗ったみたい。