prisoner's BLOG

私、小暮宏が見た映画のノートが主です。
時折、創作も載ります。

2018年2月に読んだ本

2018年03月01日 | 
prisoner's books - 2018年02月 (21作品)
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「のたり松太郎」を久しぶりに読み直したけれど、いや面白いのなんのって。これだけ粗暴で自分勝手でどうしようもない主人公で笑って読めるというのは不思議。ちばてつやでないと描けない境地。



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台湾人の歌舞伎町―新宿、もうひとつの戦後史 稲葉佳子・青池憲司(著)  

2018年03月01日 | 
歌舞伎町というと、私にとっては再開発前の映画館街なのだが、そのおなじみだった映画館を経営している母体企業がかなりの程度台湾人や韓国人の経営者によって設立されたものだということが興味しんしんだった。

戦争で敗戦国民となった日本人を尻目に米軍のPX(post exchange=酒保=しゅほ、軍内の売店)で安く豊富な物資を仕入れることができた昔の言葉でいう日本の支配を受けていて日本の敗戦を受けて解放された中国系・韓国系の人たち、いわゆる「三国人」の多くが新宿の露店で集まって売っていたのが今の建坪の小さいビルが林立する光景につながっているのかとわかる。

もともと歌舞伎町という名称自体、歌舞伎座を誘致するのを前提としてつけられたものだったが、もともとあまり開発されていなかった上戦災で完全に更地になっていたところに集まってきたのであり、小林一三=東宝=コマ劇場や五島慶太=東急=ミラノ会館といった大資本と共にそれら個人的な小資本とが並立して街を形作っていった。

今のヒューマックスグループの大元が台湾系の林以文による恵通企業、さらに遡ると地球座、新宿ムーランルージュであり、初めは新劇用の劇場(それで1000席超は多すぎだが)だったのが、横幅の大きさを生かしてシネマスコープ第一号「聖衣」をかけたところヒット、そこから映画興行に移っていく。

まだ空き地だったころ、当時の地主の鈴木喜兵衛が「産業生活博覧会」をこの時の児童館の傍に大きな恐竜の模型が作られた場所というのが皮肉なことにゴジラヘッドが屋上に突き出ている現在の tohoシネマズ新宿というのがなんとも面白い。

なぜ思い出横丁のところだけあいうごたごたした小さな店が残っているかと言うと、もともとが小さな露店商が集まっていたところだからであり、区画整理進むにつれてかなりの程度歌舞伎町に移っていったてその後に小田急のビルなどが建つという流れが示される。

大久保近辺で多くの旅館がと言うからラブホテルが立ち並ぶようになったきっかけは進駐軍による慰安所を含むR.A.A(リクリエイション・アミューズメント・アソシエーション)の施設で、旅館を経営するのは韓国・台湾・中国系だけでなく日本人でダム建設で住むところなくして東京に出てきた人も混ざっていたというのも面白い。故郷から切り離された人たちが集まってできた街ということがわかる。

歌舞伎町が再々度の開発でまた大きく様変わりする時点でこの本は貴重な記録となるだろう。

ここでは台湾系に絞られているが、大陸中国出身や韓国朝鮮系の人たちにもあるだろうそれぞれの歴史も知りたくなった。




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2月28日(水)のつぶやき

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