Go The Distance!

地球が、自然が、人が、好き
走ること(Swim, Bike, Run)が大好き
ウッドキャビンの部屋にようこそ!

願い

2011-03-30 22:31:40 | ラン
1995年10月21日

神戸にいた

同年の阪神淡路大震災のボランティアに1月下旬から活動
大学側は期限を設けない公欠としてくれた

4月、ボランティアは去っていった
当面の人的支援、物的支援のメドがつき
地元の方々に活動を引き継ぎも終わった

私たちボランティアは一時的な存在
必要な時に必要な手をさしのべ、自分たちで立ち上がる力がついたとき…
後は遠くで見守る

4月からは
私も大学に戻り
普通の大学生としての日常に戻った

それでも、
避難所にいた地元の学生、子どもたち、おじさん、おばさんとは
手紙や電話で近況を伝えあっていた

1995年10月
あれから9ヶ月
再び神戸に向かった

避難所で仲良くなった子どもたち一家は、
学校の近くの公園の仮設住宅で暮らしていた

久しぶりの再開にお互いに笑顔に
サッカーをくたくたになるまでした

当時の地元ボランティア仲間にも会ってきた

彼らの言葉が忘れられない

「(当時)たくさんのボランティアの方が来てくれた。全国からの救援物資が次々に届けられた。嬉しかった」

「嬉しかったけど…してもらっている…というか、…してあげている…感じは嫌だった」

「被災したけど、かわいそうだと思われたくなかった」

「ここ(神戸)が好きだから、ここにいた。(ここから)離れたくない。だから、自分たちで何とかしなくちゃいけないと思った」

自然の猛威の前に、自分とのつながり…肉親、財産、仕事、友達、生活…全てを奪われてしまっても
同情や哀れみだけでは、根本的な解決にはならない

私たちはつながっている

私たちは同じ星の上で、同じ空気を吸い、同じように太陽を浴び、同じように風を感じる

近くに自分のつながりを感じることができる

依存するわけでも、拒絶するわけもない

ただそこに大切な人が居てくれて
話を聞いてもらいたい時に
嬉しくなって相づちをうってもらいたい時に
自分とつながりのある人が側にいてくれること

つながっている

かかわっている

そんな些細なことが、実は一番大切なことなのかもしれない

怖いのは、
無関心でいること
いつのまにか忘れ去られていくこと
誰も気にとめなくなってしまうこと

神戸の人たちが
ここで生きている
精一杯生きている

そのことを知っておいてもらいたい

そんな思いがあったのかもしれません


2011年3月27日 ハーフマラソンレース当日

天気晴れ、気温4度、湿度33%、風速3メートル

走るには丁度良い季候だ

4時半に起床
5時朝食(おにぎり2個、味噌汁、フルーツ、ヨーグルト)

朝風呂で体を温めバランスボールで軽く有酸素運動
ドライランドで、肩や股関節をほぐし、腹筋とチューブトレで軽くインナーマッスルを刺激

その後、30分ほどジョグしてアップ終了

スタート前30分となったため、会場へ移動(ジョグで10分ぐらい)

地元のマイナーな大会かと思ったら、とんでもない
かの地でも有名な国際会議場前(スタート地点)にはものすごい人!

道幅も四車線以上ある道路なので、ハーフの参加者全員一斉にスタートして大丈夫だと思うが
それでも先頭に並んでおかないと、スタート前に大幅なタイムロスになりそうだ

午前9時に10キロスタートだったのですが、
9時10分を過ぎても、あいからずMCの方が終わらないスピーチでダラダラと時間が過ぎる
9時15分頃10キロスタート

ハーフの選手がスタートラインから列を作って並ぶ
今までの記録を見る限り、ハイペースが予想されるので、
先頭集団にはじめからついていかないと、追いつくのは難しいと判断

先頭の位置でスタートを待つ
私の服装は、帽子にサングラス、スキンズのトライアスロンウェアに、パワースリーブ(腕)、下は、ワコールのCW-X、靴下はXソックス、薄手のグローブに
足下はアシックスのオーダーシューズ
(ちなみに右手はガーミン450CX、左手はスントT6D)

その上に、YOME特製の「HOPE JAPAN」シャツ
これは想像以上に目立つ

スタートで待っている時から、
いろいろな人に握手を求められる

がんばれ、日本

ということか

そうこうしているうちに
MCの方がカウントダウンを始める

ハーフのスタートだ!

かなりのハイペースになるのは覚悟していたし、ついていくつもりだったが、
予想以上に速かった

スタートしてすぐ先頭集団が10人ほどになるが
どんどんちぎれて、4人にまで絞られた(私を入れて5人)

一瞬思う

こんなペースは無理だから止めとけ!

確かに冷静に考えれば、
オーバーペースを通り越して
このままのペースで走ったら完走だって怪しい

でも
今日は、賢く走る気はない

無茶だろうが無謀だろうが
今日は全力でいく

精一杯走る

それだけだ

ところが心とは裏腹に
どんなに飛ばしても、足をまわしても先頭集団の背中が遠くなっていく
悔しい

3キロを過ぎあたりでついていけなくなる
そこまでのペースが1キロ2分30~45秒
体がついてこない…

ここからは前後かなり間が開いて、
当分一人旅が続いた

途中
海外沿いの公園内1周で、細い道幅一杯に先行していた10キログループ(途中まで同じコースを走る)が
スローペースで走っているのが見えた

「すいませ~ん!!!」

と叫んで道を開けてもらうが、苦しくてそうそう声も続くかない

人混みを避けつつ1キロ3分ペースはそうとうキツイ

橋を渡り終えると、10キロ組とも分かれた
ここからはハーフコースのみ


橋を渡り終えところ。右手の集団は10キロ組。この段階で5番手。

いつものランニングコースの海岸沿いに出てきた

ここからしばらく直線道路

先頭に走る人(4番手)が見えた

ロックオン!

俄然やる気が出てくる

心臓はとっくに張り裂けそうだ

苦しくて、苦しくて…
でも、不思議なことに笑顔になってくる

この魂のぶつかり合いがたまらなく好きだ



それにYOME特製の『HOPE JAPAN』シャツの効果?で
沿道の方からの応援も絶えない

あまりの苦しさに再びもう一人の自分が聞いてくる

何のために走る?

誰のため?

自分のため?

今までは
大切な人を失った悲しみ、
タイムの更新、
自分とかかわりのある誰かのため…

それが走る理由だった

でも、今は違う

理由があるから走るのではない

走ることが自分そのもの

走りは祈り

これは自分に出来る願いであり、祈りなんだ

そして、
こんなにも苦しい走りが大好きだ

もう迷わない、走れ!走れ!走れ!


同僚のご家族が応援に来てくれた。(お手製の旗を持参で)地元のレースとはいえ職場の人が応援に来てくれたのは初めてだ。感謝!

ラスト3キロで5番手を捕まえた

ハムストリングあたりを気にして減速している
軽く背中を叩いてかわす

5番手が不安定なリズムで追いついてきた
いつもまにか私の後ろから一人ついてきていた



3人ともそれぞれのリズムがあるのだが、他の二人は無駄にペースを上げては落ちての繰り返しだった

風よけに後ろにつくつもりは毛頭なかったので、二人は気にせず自分のライン取りで走る

残り2キロ
ここが勝負所だ

一瞬、2人の集中力が切れたその隙に、一気にスパートする

口から心臓が飛び出しそうだ

自分の心臓の鼓動がうるさい

横から一人飛び出した

すぐに追うが、なかなか距離が縮まらない

相手の腕振りも不規則だ、どうやらかなり疲れているようだ
相手も同じだ

行け!

スパートする
まわりが見えない
ゴールだけがやけにくっきり見える



結局、抜くことは出来ず
7位



記録は1時間16分05秒(ゴールしてしばらくしてから止めたので実際の時間はわからない)
自己ベスト更新

トロフィーと、賞品券(5万W)ゲット


YOMEも制限時間会で完走
お疲れ!


こんなに苦しいマラソンは…自分が覚えているかぎり、なかったかな



宣言通り、全力だ
もう余力は残ってない

走ることは祈り
走ることは願い

日本で今も闘っている皆さん

一人ではありません
海を越え、いつでも見守っています
私たちはつながっている

この思い、日本にも届いただろうか

HOPE JAPAN

2011-03-26 21:19:36 | ラン

YOME、ユニフォーム制作中


私の住む町は観光地ということもあり
お祭り事が大好きなかの地の方は様々なイベントを行う

健康志向のかの地ではジョギングやマラソン、ウォーキングは老若男女問わず人気だ

そんなわけで
私の住む町でも年に数回
マラソン大会が行われる


1週間前にゼッケンが届いた
日本人は私を含め数人

日本では地震の影響で多くの大会が中止になっていると聞いている

トレーニングすること、レースに出ること、レースを開催すること

不謹慎

その言葉が全てを縛っているような気がする


でも、こんな時だからこそ
自分の出来ることをしていきたい

YOMEが作ってくれた

HOPE JAPAN

コレを着て明日は走ります


明日のハーフマラソンはお祭りムードには似合わず
かなりのハイペースで進むらしい
過去の入賞者の記録を見ると
1時間10分を切る勢いだ


完成 HOPE JAPAN シャツ 表


裏は LIVE STRONG

1位を取るとか
入賞するとか…

それらはあまり重要でない

トップ集団にくらいついて
行けるところまで行く

駆け引きなしの全力走りきるつもりだ


かの地に居て、
アスリートの自分にはこんなことしか出来ないけれど、
日本への祈り、そして復興への希望を…走りで伝えたい

悲喜交交

2011-03-21 23:53:53 | Weblog

かの地の親友であり、
トライアスリート仲間であり、
そして、良きライバルである
ブルース君の結婚式に行ってきました


2月の末の挙式だったのですが、
私の方が年度末のドタバタで中々アップすることができませんでした


加えて、日本での地震と…

何となくアップするタイミングを逃してしまって今日に至ってしまいました
ブルース君、申し訳ない…


かの地スタイルの結婚式かと思ったのですが…イヤイヤ、こちらもなかなか良かったですぞ

誓いの言葉が終わり
何やらど派手なミュージックが流れたと思ったら…

ブルース君、新婦に向かい熱い愛の歌を熱唱!
驚きました
でも、感動しましたよ


外は大雨でしたが、
ブルース君と新婦さんのご家族、友人たちが盛大に集まりました

写真撮影も一回では入りきらないので、何回かに分けて撮ります

かの地では、新郎側には新郎の友達
新婦側には新婦の友達
と分かれて写真を撮るそうです


日本でのことを考えると
この記事をアップするのもどうかと思ったが、

人生は
悲喜交交

悲しみ、絶望、怒り…
これが世界の全てではない

闇と光は表裏一体

日本の事実はしっかり受け止めよう

でも
友人の幸せは、
素直に嬉しいと思う


ブルース君、おめでとう
二人ともお幸せに

そして
これからもお互いの全てをぶつけて
闘おう

今、ここで

2011-03-19 23:35:06 | Weblog
人間の価値は、

絶望的な敗北に直面して、

いかにふるまうかにかかっている

アーネスト・ヘミングウェイ


ちょっと遅めのホワイトデーのお返しをYOMEに

ここ、かの地という外国でも
勤め先は日本と同じシステム

3月は年度末

職場の同僚が
日本の状態に関係なく
辞令がおりて、日本に戻ることになった

あきれるほど
忙しく当たり前の毎日が続く

兄が住む茨城でも
地震の爪痕が深く残り
停電、断水、電話、携帯とライフラインが完全に断たれた状態だった


Photo01 By ウッドキャビン兄

Photo02 By ウッドキャビン兄

ようやく電気もつくようになり
電話も回復

水道管は破損していたようですが、
ご近所力の助け合いのお陰で無事復旧したそうです

両親やYOMEの両親、親戚一同も
無事とわかった


BD-1のブレーキを交換


カプレオです


とても良く効くブレーキに感激

ブレーキ交換の際
店長曰く
「日本人はすごいよ。
同じ災害が、かの地で起こったら
人々は泣き叫び、怒り、とても平常ではいられない。
報道で見る限り、日本人は平穏を保っている。
(物資の)略奪も、暴動も起きていない」

また別の方はこんなことも
「津波の被害は(地理的に)日本が全てをカバーしてくれたから
他の国に(かの地も含め)被害が及ばなかったんだ」

かの地の方は
私が日本人だと分かると
「家族は大丈夫か」
「友達は?」
と訪ねてくる

涙を浮かべながら話す人も

ネットで為末大選手のブログを拝見し
アスリートにできる事」という記事を見た

私は彼のようなトップアスリートではないが
神戸、新潟とボランティアとして携わることが出来たことは
少なからずその記事を理解・共感できる契機となった

ずっとうやむやだった
かの地でのアイアンマン開催が正式に決まった

もう迷わない

今、ここで

自分の出来ることをする

不謹慎だと言われるかもしれないが
日常をしっかり生きていこうと思う

家族

仕事

トレーニング

日常を普通に生きて
自分の為すべきことを
一つ一つこなしていく

不謹慎という言葉にしばられ
日常生活が回らなくなれば、
長期的に見てそれは
支援している
とは言えないと思う

だから
あえてこのブログのスタンスは
今まで通りでいきたいと思う

7月3日のアイアンマンに向けて
今、ここで
出来る精一杯を、当たり前の日常の中で行っていきたいと思う

Adversity:02

2011-03-18 19:31:29 | Weblog
"今は

「ないもの」

について考えるときではない。

「今あるもの」で、

何ができるかを考えるときである。"

アーネスト・ヘミングウェイ



かの地では、桜が咲き始めた

日本を襲った自然の猛威

東北関東大震災と名付けられた

今日で一週間


先日、かの地では定例の軍事演習が行われた

普段は、平日の昼間(勤務中)に行われているのでほとんど気がつかなかったが
この日は、職場が振替休日のため昼間の街を所用のため自転車で走っていた

定刻の時間になったらしく、低く体に響くサイレンが街に鳴り響く

信号は点滅をし、車は全て停止

警察の車両が壊れたラジカセのような不快な爆音を発しながら
制止した街の中を駆け抜ける

この国は休戦状態

この演習はこの国に住む全ての人が参加する
(外国人は対象外)

空を見上げると
空には…

戦闘機が隊列を組み空を割る轟音で通ってゆく

……………………………………………………………………………………

何をやっているんだ!

ヒトとヒトが争っている場合じゃないだろう!!

今も
地球と、
自然と…必死に闘っている人がいるんだぞ!!!

戦うべきモノは

向き合わなければいけないモノは

こんなことじゃないだろ!

……………………………………………………………………………………

腹が立った

虚しくなった

歯がゆかった



かの地は今日も建設ラッシュ

50階から100階建ての建物がぞくぞく伸びていく

地震をほとんど体験していないかの地では

耐震性という基準が日本ほど厳しくはない

この国で同じような自然の猛威が襲ってきたら…

ぞっとする

そして思い出す


2004年10月23日
新潟県中越地震

阪神・淡路大震災は未曾有の災害だった
だが、この時、多くの人が行動したもの事実だった
何とかしたいという思いが
無関心、無気力、無責任と呼ばれた若者たちを動かした
彼・彼女らは
ボランティア
と呼ばれた

この年は
ボランティア元年
とも呼ばれた


新潟県中越地震では、自衛隊の動きも早かった


震災を契機に、
耐震基準、防災の意識、ボランティアのあり方…
様々なことが見直されてきた


ガスが使えないため、あたたかい食事は、自衛隊が作ってくれた

新潟での地震で
それぞれの機関での対応が混乱したものの機能したのは
災害から学ぶことが出来ていたからだろう

当時、関東に住んでいた私の周りでも
義援金募集が
あちこちで行われていた

駅の改札、コンビニ、職場でも義援金への寄付は出来た

寄付をしていてふと思う

このお金はどこへいく
どこに集まる
何に使われる
誰のために

見えてこない

お金を寄付すれば満足か?

何かした
という気持ちにはなれる

少し離れた
繋がった大地で
同じ日本人が苦しんでいる

支援という
つながりが
自分との
かかわりが分からないまま

当時の備忘録より

新聞で
『週末ボランティア募集―新潟中越地震・ひなん所の手伝いなど―』
という記事を見つけた。
金曜日の夜にバスで関東を出発し、
日曜日の夜に帰ってくる三日間の日程で、
私でも参加ができそうだった。

地震直後から思っていた…「自分ができること」。

私が新潟に行って一体何ができるのかわかりませんでしたが、
自分の目で、はだで感じたことをまわりの人に伝えることが
「自分にもできること」なのかなと考えボランティアに参加した。



被災地に近づくにつれ



見慣れた日常から
神戸で感じた別の現実へと景色が変わっていく
あの感覚が蘇ってくる



約80人のボランティアが集まり、
二台のバスで新潟県の小千谷市と川口町へ向かった。



15才から71才まで、年れいも職業もまるでちがう人たちがボランティアとして集まった
また、今回の災害ボランティアが始めて体験になる人が半分以上いた



金曜日の夜中に新潟の民宿に着き、少し寝て、土曜日からボランティア活動が始まりました



私が向かったのは、今回の地震で
最大の震度7を観測した川口町のボランティアセンター



しかし、ここに行くまで、昨日通れた道が通行止めになったりと、
回り道をして午前10時すぎの到着となった



ここでまず、グループを四つにわけた
① ダンボールで更衣室(こういしつ)を作る。
② ダンボールで風よけ(われた窓にダンボールをはるなど)をする。
③ お年寄りを中心にストレッチ(たいそう)をする
④ あたたかいコーヒーとおかしをくばる
私は③のストレッチ隊に加わり、ひなん所の一つになっている川口中学校の体育館へ


川口中学校体育館。まだ多くの方が、ここで避難生活を送っていた

体育館の居らっしゃる高齢者の方に声をかけ、
マッサージやストレッチをしていましたが、
体育館にいた数人の子どもたちにつかまり、手遊びを教えたり、話をしたりした


体育館の外に置かれた仮設トイレ。水が出ないため使えるトイレはここだけ

「クラスには何人いるの?」
私がたずねると、
「32人。でもこの間(の地震で)一人友だちが死んじゃったの。
机にはお花がかざってあるの。
でも、やっぱり私たちのクラスは(地震前と変わらず)32人なの」
 
思わず言葉がつまってしまった

この小さな女の子は、
地震という体験を、
クラスの仲間の死を、
受け入れることできているだけでなく、
大切な友だちのことを忘れずにいる…
小さな体に「地震に負けない」という強い『思い』を感じさせられた


ダンボールハウス。子どもたちと協力して作りました


中学校のグランドでは、仮設住宅の建設が急ピッチで行われていた


プライバシーを守るため、テントくらしをしている方も。しかし、朝と夜の冷えこみは、かなり厳しい

二日目(日曜日)は、
午前中、川口町ボランティアセンターの「のびのび隊」に加わった
のびのび隊は、保育園等の子どもたちに遊びやスポーツ、読み聞かせなどのボランティアを行うグループ


赤紙。これは応急危険度判定調査で危険と判断されたもので、絶対に近づいてはいけない。(いつ、くずれるか分からない建物)


私たちの居た保育園のとなりにある神社。立ち入り禁止の赤紙がはられ、神社の奥には、狛犬が石の台座からくずれ落ちていた


神社の柱は左に大きくずれていた


各家庭では水道が使えないため、トイレは野外に設置されたものをみんなで使用する。トイレそうじも地域の方が順番で行う

保育園の行き返り川口町の様子を見たのだが、
家にはどこも三色の紙がはられていました。

緑紙は、使用可能な建物
黄紙は、十分注意が必要な建物
赤紙は立入り禁止

建物の片づけをしたくても
「赤紙」がはられている建物には
たとえ自分の家でも入ることができない
中には自宅を完全にとりこわし片付けをしている方もいた

厳しい表情を見ると声をかけることもできません


道には仮設の水道のじゃ口が用意されていた。ここまで水をくみにいくことも大切な仕事

川口中学校の体育館に近づくと、
力強い演奏が響いていた



体育館内では、自衛隊のバンド隊が被災者の方を
元気づけようと
目の前で演奏をしてくれていた

曲はリクエストに応じてくれたもので
私が聞いたのは
「世界に一つだけの花」

子どもたちも生バンドのスケールに驚きながらも
喜んでいた

バンド演奏が終わると、こどもたちと再び、ダンボールハウス作りに始めた



昨日、作ったものは、壊れてしまったということなので、
体育館にいる子どもたちと大人たちも手伝って、
昨日よりもいいものを!の意気込みで家(ハウス)の建設に取り組んだ



午後3時過ぎ、
いよいよニューダンボールハウスの完成です



できあがったダンボールハウスには、
手作りのポストがついていた

そのポストには、次のような言葉がそえてあった


このポストに、
子どもボランティア隊に
やってほしいコトを書いた紙を入れて下さい
お手伝いいっぱいします
子どもボランティア隊

苦しいのは自分たちだけではない

ボランティアに助けてもらっているばかりではなく、
自分たちでも何かしたい

そんな気持ちから生まれた
「子どもボランティア隊」

逆境の中で、
子どもたちの力強さとたのもしさに、
感動した

なわとびをしている子どもの近くで、
別の子が
「今の(なわとびのしん動)は、震度2かな」
と言っているのを聞た

私が関東方面から来たこと話すと、
「(関東方面は)どれくらい(地震の時)ゆれた?」
「おうちはつぶれたの?」
と訪ねてくる

返答に困っていると
こんなことをポロッと言った

「学校に来られること。
勉強できること。
友だちと暖かい給食を食べられること。
うらやましい。」

「おうちに帰れること。
おうちがあること。
家族に会えること。
家族と一緒にすごせること。
うらやましい」

どれも私たちには当たり前と思えることかもしれない

失くしてから気がつくのではなく、
今、私たちが
「あたりまえ」だ
と感じているこの「幸せ」を
大事にしなくては…

地震で倒れて壊れた建物
帰る家がある
・・・「あたりまえ」のことが、
あたりまえでない現実がある

今回の新潟中越地震でボランティアに参加して感じたことは、
本当に多くの方・・・職業、年齢の方が参加していること

おそらく、神戸の時よりも、
より多くの方がボランティアを身近なものとしてとらえていたからだと思う

地震の力、地球の力は、あまりにも大きい

私たち人間は、その前では何と無力なのか

しかし、
多くの方の

「何かしたい」
「何かできないか」

そんな思いの一つ一つがつながっていけば、
それは大きな力にもなる

私が参加したこの週末のボランティアでは、
川口町だけで800人以上のボランティアの方が
全国から集まった

自然の力は大きい

しかし、
人々のつながる力・つながる思いがあれば、
「できる」ことは、確実にふえていく

そして、現地を実際に見てきた私たちは、
自分の感じてきたことを伝えていかなければならないと感じた

誰もが思うであろう
「自分たちにできることは少ない」


しかし、ボランティアは新潟にいかなくてもできる

一人一人の
「何かしたい」
という気持ちを大事に
「つなげる」こと

どんな形でも構わない

「何かしたい」
という気持ちを
身近な誰かにつなげていってください

つながる力とつなげる力

誰もがこの気持ちをもっていれば、
つながる輪はもっともっと大きくなるでしょう

家族、友人とつながっているように
新潟の人ともどこかで私たちはつながっている

そして、この地球ともつながっている
つながる力とつなげる力・・・どちらも大切にしていきたい

       ー2004.11.14ー

この逆境の中

被災者の方、今も避難を続けている方
この災害と今も戦っている方

どうぞくじけないでください

We pray for Japan...



Adversity

2011-03-17 18:22:18 | Weblog
"勇気とは、逆境の中での毅然とした態度である”
アーネスト・ヘミングウェイ

「日本が、大変なことになっている!」

先週、職場で叫びに似た声が響いた

海外にある私たちの職場では、職場のテレビの一台を常につけるようにしている

叫びを聞いて、テレビの前に皆が集まる

そこで映し出された映像

波に押し流される土砂、家屋の残骸、車…

黒い水が街を飲み込む

何なんだこれは…

「中継」…つまりリアルタイムで起こっていることだ…

今、日本で…

声が出ない

その後の状況は、あふれてくる情報の渦にのみこまれそうになる
悲しみと憤りと…

海外に地にいて何も出来ないことへの無力感、ニュースからの映像…
自分の全てが持っていかれそうだった

思い出されるのは…



1995年1月17日に発生した阪神・淡路大震災

大学生だった私は
テレビを付ける度に100人、1000人単位で増えていく死傷者の数を見て
現実感のない空虚さと
何かしなくてはという焦り

幼かったと思う

自分の思いだけで先走っていたとも思う

でも動かずにはいられなかった
大学を休んで陸路で神戸へ



私たちの車が神戸に到着したのは真夜中

神戸の街は暗闇に飲み込まれていた

暗い
真っ暗だ

人工の灯りがないとこんなにも暗いのか



ところどころで見える灯りは
倒壊した家屋の木材を燃やして暖を取っている被災者の方だ

ゴジラに踏みつぶされたような街

映画のセットのような一部

まるで現実感がない



翌日から物資の配給

倒壊家屋の片付け

忙しく毎日が過ぎていく

夜は小学校の校庭でテント泊



全国からの物資の入った段ボールには
マジックで書かれた

「がんばれ」
「負けないで」

毎日が無我夢中だった

時に
やり場のない怒りをぶつけられることもある

「おまえたちは自分の家があるんだろう!」

「使い古し(の救援物資)の服なんて着られるか!」

「(配給の)毛布なんて要らないから、おまえの着ている服をよこせ!」

でも、
ほんの一時、
被災者の方が見せる笑顔

「ありがとう」

の一言

疲れが吹き飛ぶ一瞬だ

私の居た神戸の小学校に
ボランティアで訪れた人々が面々と書き綴った
『ボランティア伝言板』
その中から、ある女の子の文章を載せたいと思う

 今、お風呂当番をしながら、これを書いています
これが最後のお務めになるのかもしれません
私が初めてここを訪れたのが2月の5日
震災から2週間もたっての事です
その2週間の内、
予想される自分自身の感情と態度についてはよく考え、
ある程度気持ちの整理はついた筈…と思っていましたが、
やはり、実際に踏み込んでみると、思いを超えるものが多くありました
 皆さんの様に、継続して活動出来ない自分を、
そして思いの足りない自分を悔しくはがゆく感じたこともありました。
 でも、一生懸命な皆さんと、そんな皆さんに触れて安堵の表情を浮かべる避難所の人々、
明るく楽しそうに、そして元気に駆け回る子どもたちのその生き生きとした顔を見た時、
ボランティアの誰かがそんな表情をきっと引き出したのだろうと、
私までもが本当に嬉しく感じられました
ほんの瞬時の事であっても、つかの間のことであっても、
その瞬間、人々が子どもたちが笑みを浮かべていた、ということは、“事実”です。
この辛い震災以来の日々は、確かに逃れようのない現実としてある訳ですが、
その中で、こうしたささやかな事実もまたそれとして、受け止めても良いのではないか、
という気がします
 震災という現実が余りにも重すぎて、
一体どんな言葉を遣えば良いのかと戸惑ってしまいますが、
私、一個人にとっては、ここで出逢った被災者の方々、
ボランティアの仲間たちからもらったものは、はかり知れなかったと感じています
多くの人々に、勇気と元気と優しさと強さと、そしてぬくもりをもらいました
ここでの経験、出会い、全てが私の人生にとってなくてはならない、
大事な時期での大事な“出逢い”だったように思えます
一つ、年をとったからではなく
(-もしかすると、単純にそれだけかも知れませんが)
少し自分の中にゆとりが持てるようになった気がします
 本当に顔を出してはすぐ戻り…の繰り返しばかりで
“ボランティア”などと名乗ることすら恥ずかしくて、
他の仲間たちに対しても申し訳ない思いのする私ですが、
“こんにちは”と笑いかけることで、反射的に浮かぶ相手の方の笑顔に、
1秒くらいは、私にも、気持ちを明るくするお手伝いが出来たかな…なんて、都合の良い事を考えています。
1秒もないかも知れないたった0.5秒程度でも、笑顔になれる時が多ければ多いほどいいな、と願っています。
 0.5秒でも私の誘いに応じて、笑顔をかたむけてくれた皆さんに本当に感謝しています。
 その瞬間こんな私だって、いないよりはいる方がいいだろう、という気持ちにさせてもらいました。
出来なかった事を数え上げるのも、“ごめんなさい”と謝るのも好きじゃないので、
“ごめんね”のかわりに言いたいと思います。
心を込めて、皆、皆、皆に。 
      “ありがとう”


当時の私の備忘録にはこんな事が書いてあった


東京に戻ってからの僕は、
一言でいって、「High(ハイ)」だった
まわりの人から見れば、さぞかしうるさくて、
やかましい、軽薄な男に見えたことだろう
 神戸に行く前は、一体、自分に何が出来るだろうと考えていたが、
実際に神戸に行って感じたことは、「何ができるだろう」ということではなく、
本当に必要とされていることは、誰もがみんな知っていることで、
しかも、どこでも出来ることであるということなのである
つまりそれは、大きな声で元気よく挨拶することや、
人の話しをしっかり聞いて上げること、
笑顔を忘れずにいること…精神のプラスの力みたいなものだと思う   
 「物」中心の社会から「こころ」の社会へ…
そこで必要なことは、ごく当たり前のことで、
でも、だからこそ忘れてしまいがちな「思いやり」や「感謝・感動」そういったプラスの気持ちなのであろう       
 そして、改めて気付かされたのは、
「笑顔」がこんなにも力を持っているということである
それは、目には見えない力であるが、確実に現実に大きな影響を与えることになる
そして、そのプラスのエネルギーがまだ僕の中で大きな力となって、
僕自身が驚くぐらいの巨大なパワーとなっていた
それが、このところの「High(ハイ)」の状態の原因だったのであろう
        〈中略〉
 「非現実」と「現実」そう言ってしまえば簡単だが、
神戸での活動中は明らかに「非現実」だった
そして、僕はもう片方の「現実」にいる。だからこそ僕は、忘れたくなかった
神戸で学んだひとつひとつを今の生活でもいかしていけるように
素直な笑顔やどのような事態に置かれてもプラスの気持ちを持ち続けること
…そういったことが、僕を「High(ハイ)」にさせていたのかもしれない
でもそれは、そうすることでしかその神戸でもらったエネルギーを持ち続けることが出来なかったからかもしれません
大きすぎるエネルギーを維持していくには、他に方法が見つからなかったから

          -1995・2・8-


自然災害という防ぎようのない出来事に直面する日本の今に思う

この逆境の中

被災者の方、今も避難を続けている方
この災害と今も戦っている方

どうぞくじけないでください

I pray for Japan...