毎日、「今・ここ」を味わいながら、「あぁ、面白かった~ッ!!」と言いながら、いつか死んでいきたい。
夏休みも
丸々一週間が過ぎて、
相も変わらずの
駄々羅暮らしである。
ブルーレイ・レコーダーが
2台あるので、
目ぼしい映画を
手当たり次第に録画して
HDDに保存している。
手持ち無沙汰な時や、
単純作業の家事をこなすときなぞに
BGM的に映画を流すこともある。
そんなんで、
年に100本くらいの映画を
もっぱら録画頼りで観ている。
以前は、
フォーラム会員になって、
マメにマイナー系作品も観ていたが、
出かけるのが億劫なのと
毎回千円かかるのが玉に傷で、
よほどの注目作品や
食指の動いたもの以外は、
旬が外れて放映されるのを待つのが
日常になってきた。
歳ぃとったせいか、
今すぐにでも観たいという
衝動もなくなってきたのは
幸いかもしれない。
もし、先々に、
観れなかったとすれば、
それは自分に縁のなかったもの、
と思えるようになったのだ。
“待てる”“諦めれる”
というのが、
近頃、身に付いた
【老人力】かもしれない(笑)。
“地上波初!”という
『ジュラシックワールド/炎の王国』
なるものを、あまり期待もせず
眺めるように観た。
どーせ・・・
という思いがないでもなかったが、
案の定、二番煎じを
見せられているような気分だった。
もう、このような現象を
何十年前から
「ハリウッドの末期症状」と
揶揄されていた。
真贋を見極める慧眼の
談志家元は
「怖がらせて、安心させる」
という陳腐なパターンを
唾棄していた。
そこには、
“味わい深さ”
というものが皆無なのである。
今や、CGや3Dで
驚くような映像が
如何様にも造れる時代となった。
それに胡坐をかいて、
ハッタリ画像・画面のラッシュで
食傷気味になってることを
映画製作者は未だに
気が付かないのか…。
それとも、
気付いていて、
この刺激が切れると不安でしょ…
とばかり、ヤクの売人みたいな
確信犯で駄作を垂れ流しているのか…。
そうも勘繰りたくなる。
たしかに、
『ジュラシックパーク』の
第一作を観た時には
感動した。
なので、
その時の印象は強い。
京都の寺町京極にある劇場で
封切りの初日に、
長蛇の列に並び、
やっと座れたのが、
スクリーン真ん前の
最前列中央だった。
そのおかげでか、
初っ端のシーンから
度肝を抜かれるような
大画面と大音声で
迫力倍増だった。
90年のことだから、
今ほどにCGが隆盛ではなかったので、
そのリアルな恐竜像には、
当時・生物の教師として、
古生物学にも興味があったので
大興奮したものである。
思わず、
翌日の特進クラスでの授業で、
生物室のディスプレイ用に購入した
高価な恐竜模型類を紙袋に詰め込んで、
前日の映画の様子を
まるでジュラ紀にタイムトリップして
観てきたように講釈した(笑)。
⁂
『溺れるナイフ』という
キャッチーなタイトルと、
初恋物という番組チェックで
録画してみたが、
あんがいに面白かった。
主人公の男女とも
知らない役者だったので、
変な先入観がなく素直に観れたのが
よかったのかもしれない。
視聴後にウィキってみたら、
なんでも少女漫画原作だというので、
アマゾンで映画レヴューを見たら、
原作ファンには散々の酷評だった。
原作なぞ知らずに
初心(うぶ)な気持ちで鑑賞したら、
A boy meeta a girl.
A girl meeta a boy.
の典型として描かれていて
好感が持てた。
原作ファンには、
全17巻の作品を
2時間の物語に収斂させるには
無理があるので、
ディテールや人情の機微が
描き切れていなくて不満だ
というのが多かった。
さもありなん、である。
でも、独立した作品としては、
甘々だが、あんがいワルクはない。
40年あまり
教師と心理師として、
思春期の子どもたちの
“こころの揺れ”を
観てきた人間にとっては、
思春期の蹉跌と
“たましいの再生”を
象徴的に描いていたように思う。
菅田(スダ)某という
金髪の男優ファンには
MV(music video)で酔えた
というレヴューもあった。
そういう、“押し目線”での
鑑賞もあるのだろう。
驚いたのは、
スレンダー美少女のヒロインの
引き立て役として
ポッチャリ系で
野暮っちい存在として
上白石萌音ちゃんが
キャスティングされていた。
彼女の演技は初めて見たが、
『100分で名著』では、
過日、その見事な朗読を耳にし、
橋爪 功、市原 悦子に次ぐ、
日本の三大「名朗読者」と
太鼓判を押したいほどだった。
今朝の朝刊で、
ソータが竜王戦で
丸山九段に敗れたことが
ひっそりと報道されていて
驚いた。
アベマ中継があったかどうか
定かではないが、
あったとすれば
見逃したのかもしれない。
今年こそ、
四度目の挑戦で
豊島竜王とタイトル戦に
望めるか…
そして、四冠も有り得るか・・・
という期待は、
あまりにも大き過ぎたようだ。
⁂
毎週、日曜に観戦している
NHK杯の絵柄が
コロナ禍の対策で
ガラリと変わってしまった。
畳の和室から
椅子席になり、
間にアクリル板が二枚も
吊るされてるので、
あたかも、面会室の
接見でもしているような雰囲気で
ぞっとしない。
してみれば、
タイトル戦の
和室・袴・七寸盤という
道具立てが、いかに、
伝統芸の情趣を醸し出しているか
ということを再認識させられた。
夏休みに入り、
コロナ自粛中にやってた
スクワットを再開し
継続している。
同時に、
臨時書室を設えてから、
毎日、夕食後に、
一時間の手習い稽古をも
続けている。
最近、ちょっとばかり、
単調モードになり
飽き始めたので(笑)、
ダイソーで面相筆を5本買ってきて、
日本画用の岩絵の具で
朱、碧、藍、山吹、茶の
“カラー書道”で
目先を変えている。
手本は、
小1から小6までの
常用漢字表である(笑)。
夏休みを
勝手気ままに過ごしている。
曜日の観念もあやふやになり、
いくらか人格崩壊しかけているが、
それも、いつもの
「ロンバケ症候群」である。
もう数えるのも面倒だが、
なにせ、幼稚園来この方、
学校という社会を出たことがないので、
56回目の夏休みなのである(笑)。
こうなると、もう、
夏休みのベテランといっても
いいだろう。
勝手に過ごしても
“自ずから然る”
というものである。
まだ、現役の第一戦で
社会に組み込まれて
働いてもいるのだから、
ロンバケくらいバカンスとして
駄々羅にしていてもいいんだ、
と何処かで自分に言い聞かせている(笑)。
なにせ、
昭和30年代生まれの
ビンボー性世代なので、
ゆっくり休みすぎると、
罪悪感が起こってくんのね(笑)。
こりゃ、
“もったが病”で、
死ぬまで治らんのだろうなぁ…(笑)。
・・・てなわけで、
相も変わらず、二階の寝室で
うとうと午前の惰眠を
寝穢(いぎたな)く貪ぼってたら、
階下のリビングから
聞き覚えのある声が聞こえ、
(アサちゃんだぁーッ‼️)
と、ガラリ起きて、
リモコンでテレビをつけた。
そしたら、
まごうことなき
アサちゃんが、
ビシリとスーツ姿で
ニュース原稿を読んでいる。
四連休中もご出勤で、
ほんに、はたらく奥さんである、
と、変なことに感心した。
美人で、高給取りで、
ダンナ様がうらやましい、
と、さもしいことも思ってしまった。
ダンナがナンダ‼️ 😂
⁂
BSは、どこも、
コンテンツ不足なのか、
過去の名作を何度も再放送を
延々と繰り返している。
またまた
『コロンボ』も放映されてるので、
久しぶりに『二つの顔』を観た。
かつて、
コロンビアンだったので、
全作品を暗記するほどに
観尽くしてはいるが、
ロンバケのパスタイム(気休め)に
サワリを楽しむのも
悪くない趣向ではある。
故人となって久しい
ピーターフォークの
お茶目な表情を観ると、
ついつい微笑ましくなる。
思えば、
これとて、昭和を代表する
屈指の名作であった。
夏休みに入ってから、
一週間毎日、
お昼を食べに外に出ている。
新しくできた店や
未訪の店を
マメに訪ねては
ブログネタともした。
きのうは、
「夢華」という蕎麦屋が、
山ん中の吾妻庵に
隣接しオープンした、
というのを情報誌で見て、
訪ねてみた。
子どもたちが小さい自分、
亡き父が孫たちを喜ばそうと、
釣り堀で遊ばせ、
流しそうめんで楽しませてくれた。
幼児だったアキは、
色のついたソーメンが
樋に流れてくると
興奮して全部せき止めて
「アキちゃんー!
ぜんぶ、とめちゃ、だめだよー!!」
と爺ちゃんに
笑われていた。
“ツルシコ”の
手打ち蕎麦のあとは、
山を降りたところにある
“ささき牧場”の名物
「トマトソフト」をやってきた。
その鼻から抜ける
トマトの風味と甘酸っぱさは、
三ツ星シェフ/ベルナール・パコーが
手がけた名作オードヴルの
『ムース・ド・ポワブロン・ルージュ』
(赤ピーマンのムース)
に添えられたソースの
『クーリー・ド・トマト』を
彷彿させた。
⁂
ここ数日、
なんだか、左の目蓋が
ピクピクと痙攣するんで、
なんやろ、これは…と、
怪訝に思ってググってみた。
そしたら、
「眼瞼ミオキミア」
《eyelid myokymia》
という聞き慣れぬ用語が
ヒットした。
眼瞼ミオキミアとは、
眼輪筋の攣縮が不随意に起こり、
上眼瞼または下眼瞼が
さざなみ状に動く状態で、
通常片目に起こるという。
健常者でも眼精疲労、
ストレス、睡眠不足などが
きっかけとなることがあり、
通常数日から数週間で、
自然に治まるらしい。
なんだか、
カタカナだけ見てたら、
「オキアミ」と読み間違えそうだ(笑)。
******
読了したばかりの
『家守奇譚』から、
ブログの参考になりそうな
言い回しを抜粋して
ノートにした。
古風な文体の作品だったので、
一々、意味を調べて、
ボキャブラリーを増やす
勉強にもなった。
( ´_ゝ`)
いっかな離れようとしない。
【如何な】どうしても。
睡蓮は羊の刻になると
律儀に花を咲かす。
それで、「ヒツジグサ」とも言う。
さながら雨の檻の 囚人になったような気になる。
空気はひんやりと梅雨冷えの肌触り、
頭の芯にまで冴え冴えとした湿気が
染み通ってきそうだ。
すわ、誰かと身構えれば・・・
【驚きの感嘆詞】
心なし葎の蔓延る廃屋のような
有様を呈している 。
【葎(むぐら)は、つるの藪】
私はもう一度、
寝に付こうと
布団を被りなおした 。
あの男にそんな冴え冴えした
文才があろうとは思われぬ 。
あの鈴の音は
ここに凝ったのだと得心した。
【凝るは、同質のものが寄り集まる】
虫の声もいよいよ姦しくなった。
ふさぎの虫に取り憑かれている。
名月だ、 今宵一晩 、野に寝(やす)もう。
考えれば力ずくな理屈である。
【強引な理屈】
一両日の腹痛で済んだ 。
かはたれとき疎水縁(ベり)を歩いていた。
【彼は誰時】
(だれであるか定かに判別できない)
明け方や夕方の薄暗い時。
のちには明け方にいうことが多くなり、
夕方には
「誰(た)そ彼(がれ)時(どき)」
を用いるようになった。
地元のことに通暁しているは言うに及ばず・・・
風は渺々(びょうびょう)と吹いてくるのだった。
果たしてそれは発見された。
【思った通り発見された】。
矯(た)めつ眇(すが)めつ眺めた。
【片目を細めてじっと見る】
片手でかろがろとそれを持ち上げた。
ふきのとうは小菊の集まったようなものが雄花。
お前にそれを語る言葉を俺は持たない 。
人の世の言葉では語れない 。
田舎びたることと思ってやめた。
【田舎者めいた】
見れば床しい家がある。
【なんとなく懐かしさが感じられる家】
空気が重い。
今にも雨が降り出しそうだ 。
あたりは月明かりとも
星あかりともつかない
不思議な明るさを秘めた
菫の暮色を染めて行く。
古今東西の伝説が
それを教えているではないか 。
あえて無視するのなら、
小なりといえども蓄えた教養が泣く。
妙齢を少し過ぎたぐらいのご婦人。
美しい風景だけを眺め、
品格の高いものとだけ
言葉を交わして暮らして行く。
卑しい性根の俗物たちと
関わりあって自分の気分まで
下司に染まって行くような
思いをすることはない 。
日がな一日、
憂いなくいられれば
理想の生活ではあるが、
それでは私の精神を養わない
重畳、重畳。
【この上なく満足なこと】
書肆(しょし)とは、
書店や本屋のこと。
江戸時代の出版業者は、
書林(しょりん)とも呼ばれた。
「オモロイことが、大切でんなぁ…」
というのが、
河合センセの
口癖のようでもあった。
人生、オモロイかオモロクナイか、
を価値基準にすると、
あんがいにシンプルである。
脱北した教会の先生も
真面目なのはいいが、
同い歳のうちの兄が
一緒に呑んだ際に
「あの人は面白くない…」
とポソリと語り、
さもありなんやなぁ…
と思ったことがある。
斯く言う自分も
オモロナイ時間に
延々と付き合わせられるのが
やになって…
というより、魂が喜ばないので、
50年来の教会から脱北した。
もっとも、
教会を巡る
金銭問題がいちばん
腹に据えかねたのが
直接的理由であり、
教祖のみ教えに反することが
為されていては
オモロナイこと極まりない。
…へてからに、
人間関係も、
オモロナイ人とは
付き合いを断じてきた。
これからも、
きっと、そうするだろう。
だって、
命の時間の
無駄使いだもんねぇ、
それって…。
ツタヤ・ブラウジングで、
愛読書の『瑠璃ちゃん』の
新刊を見つけ、
小躍りして帰ってきた。
さっそく、
カウチがわりのベッドに
ひっくり返って、
冷房・扇風機に涼みながら
じっくりと読み込んだ。
やっぱ、
これはオモロイ。
この作者の作品を
ほぼ全作蒐集しているが、
そのギャグの感性が
マイ・ツボなのである。
そして、
料理関連が多いのも
グルメにとっては
オモロさもひとしおである。
街歩きをして
テルサのチラシコーナーで
国見の観月台ホールで
「ベーゼンドルファー」の
試弾会があるというのを見て、
さっそく予約してみた。
幸い、あとひと枠のみ残っていて、
来週の土曜の夕方から
でかけてくる。
音楽堂のスタインウェイは
1時間1.500円だが、
こちらは、ワンコインなので
かなりお得である。
もっとも、音楽堂は、
ホールの残響3秒という
心地よい響きをも込みなので、
その名音場の独占費という
意味合いも含まれているが…。
観月台ホールというのは、
未体験の音場なので、
その響きも楽しみである。
まさに、
オモロそうやなぁ…。
なので、また、
1時間のプログラムを
おさらいしようと思う。
⁂
棋界のトリックスターでもある
石田九段の解説がオモロクて、
YouTubeで繰り返し鑑賞している。
若い頃の
NHKでの解説も面白かったので、
ベータのビデオテープに
その録画がいまもある。
愛知県岡崎の生まれだが、
口調が、漫才師や落語家、
香具師に共通する
独特の魅力があり、
そしてフラ(天性のボケ)があり、
身振り手振り表情が
一々オモロイ。
かのソータの30連勝を阻止した
佐々木ユーキの師匠でもあるので、
あの折は、
「でかした! あっぱれ!」
と諸手を挙げて
弟子の快挙を賞賛していたが、
今や、すっかり、
ソータの将棋に魅了されて、
タイトル戦の感想では
毎回、大絶賛である。
「ほんとぉーにッ、強いッ!!
もう、その一言に尽きる思いであります。
勝つために、生まれてきたかのようだ」
「これならば、年内の四冠達成も、
そして、いずれは、八冠達成も
有り得るでありましょう」
「将棋界にとんでもない大天才、
しかも、この愛知県に登場したものです。
彼は、いずれは、
史上最強の棋士になるやもです」
「もう、なんだか、わたしは、
藤井くんのファンに
なってしまったような感じであります」
「乾坤一擲、
切り込んでいく攻めの姿勢は、
かの大山先生を
彷彿させるものであります」
ソータは、小学時代から
名棋士・大山 康晴の「棋譜大全」を
読破吸収しているのである。
BSで49年の『戦場』という
モノクロ映画を観た。
45年に終戦した
WWⅡの4年後の作品なので
ある意味、貴重なものである。
子どもの頃より、
数多の戦争映画を観てきたが、
派手な戦闘シーンはなくも、
戦争の過酷さ、悲惨さ、
そして人間臭さという真実を
真正面から真摯に取り上げた
佳作であった。
夏休みに入ったので、
ウィークデイには行けなかった
目ぼしい食事処に数日、
ランチの試食に出かけていた。
きのうの店では、
店の名を冠した定食が
780円だったが、
そのボリュームがすごく、
タレカツ2枚、唐揚げ5ケ、
厚切りチャーシュー1枚に
おひつご飯…というものだった。
セルフサービスの
モヤシとキュウリの
キムチもあったので、
それもてんこ盛りにした。
子どもの拳大の唐揚げは
食べでがあり、しかも、
濃い目の下味がついてたので、
1ケやってみて、すぐさま、
(こりゃ、5ケはムリだわい…)
と悟った。
ドギーバッグを
もらえそうな店でもなかったので、
卓上のティッシュに3ケを包み、
リュックに入っていた
タオルにつつんで
「テイクアウト」にした。
おひつご飯は
毎晩炊いてるほどの
一合飯くらいだった。
昭和の人間は、
「ご飯を残す」というのを
もったいない精神で
どうしても出来ない。
なので、さすがに、
お握りにするわけにもいかず、
茶碗に山盛り二杯分なら
やれないこともないと覚悟を決めて、
小分けにすることをせず、
豪快におひつごと持って
直(じか)喰いを決め込んだ(笑)。
なんだか、
マンガチックな気分でもあり、
落語『阿武松(おうのまつ)』の
いちシーンをも彷彿させられた。
地方の貧しい百姓家から
口減らしのために
江戸の相撲部屋にやられた
長吉という若者が、
「三度の飯よりおまんまが好き」
というので、
飯を喰い過ぎるあまり
部屋の財政をひっ迫させ
破門される。
村の庄屋様の口利きで
入門したので、
故郷に帰るわけにもいかず、
わが身の行く末を悲観して
入水しようとしたが、
死ぬ前に好きなおまんまを
存分に喰ってから死のうと
なけなしの銭を握りしめて
旅籠に逗留する。
その時に登場するのが、
「おひつ飯」である。
いくつもの「お櫃(ひつ)」を平らげて、
その見事な喰いっぷりに惚れ込んだ
店の主人が、贔屓の相撲部屋に紹介し、
やがて精進して横綱に出世したという
実話の成功譚である。
この時のやりとりが面白く、
「ところで、お前さん、
いちどにどれほどの飯を喰ったら
満足するんだい?」
という旦那の問いに
「おらぁ…、生まれてこの方ぁ…、
腹いっぱい喰ったことがねぇんで、
どのくらいか、わかんねぇ…」
と言うから
豪快で笑えてしまう。
長吉が、おひつ飯を喰う様を見ての
旦那の描写も面白い。
「ほぉ~ッ!!
すごいもんたねぇ…。
まるで、おまんまの方から
ピューッと、
口に飛び込んでいくようだねぇ…」
…てなわけで、
そんな長吉の「おひつ喰い」を
思いながらの初試みだったが、
あんがいに
円盤餃子をやるような感覚で
無事に平らげることができた。
喰ったといっても、
茶碗に山盛り二杯分くらいだから、
丼飯二杯分喰ったのとは
わけが違う。
⁂
熱々のゲンコツ唐揚げ3ケを
リュックに背負ったまま
ブックオフに寄ったら、
プ~ンと鼻っ先(つぁき)に
その匂いが漂い、
辺りの人が睨まないかと
オドオドしてしまった(笑)。
梨木香歩の『家守奇譚』を
読了した。
百年前の京都の
山科あたりを舞台とした
売れない文士と自然界の精霊たちが
自然に交流するという
不思議な世界観であった。
2004年の
本屋大賞の3位になったらしく、
アマゾンのレヴューをのぞいてみたら
絶賛する声が多かった。
作者は59年生まれなので、
ほぼ同世代の
昭和30年代の人間であるから、
共感するものが多かった。
似たような世界観を描きながら、
読了しないまんま
書庫に眠っていた
『仮往生伝試文』を
再度ひっぱりだして、
今なら読めるかなと
続きを読み始めている。
この書は、
文芸評論家の福田和也が
『作家の値打ち』で、
村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル』と
双璧の最高点をつけたもので、
注目して読みだしたが、
「古今」と「現世・冥界」の
時空が混交して、文章も固く、
読みにくくて中断してしまった。
『家守奇譚』も
古風な文体で書かれており、
時折、耳慣れないフレーズを
スマホで音声検索しながらだった。
勤務校のなかで唯一、
カウンセリング室にPCがあり、
有線ランのケーブルが来ているY中で、
無線Wi-Fiに変換して、
ソーちゃんの棋戦を
スマホで観ようと
簡易器を購入したものの、
なんらかのフィルターがかかっていて
「インターネットに接続できません」
メッセージが出てしまった。
家で試したら機能したので、
やはり、校内環境では
制限が設定されているようだ。
カウンセリング室のPCでは、
フェイスブックは開けるが、
YouTubeはブロックされている。
2000円ぐらいの
フラッシュメモリーほどの
小さな機器なので、
いつか、また、
どこかで使える場面が
あるやもしれないから、
新品のまま保管しておくよりない。
棚ボタの給付金も
車検で霧散してしまい、
元の木阿弥の
ボンビー・カウンセラーに
戻ってしまい、
「土用丑の日」とあっても
「鰻は喰いたし、金はなし」で、
スーパーの中国産ワンコイン物で
お茶を濁した。
レンチンして、
ハイおわり…では、
味気ないので、
セルクル(丸型)で
くり抜いて、
アボカドのムースと合わせて
フレンチ仕立てにした。
見た目はキレイに
仕上がったが、
驚くほどに
美味しくもなかった(笑)。
単に、安もんを
文字通りキレイに
“ドレスアップ”した
ドレッセ(盛り付け)で、
“まがいもん”の
“フレンチもどき”である(笑)。
むしろ、
切り落とし部分を
一緒に炊き込んだ
「鰻めし」の方が
ふんわりして香りも立ち、
タレと山椒で美味しく頂けた。
中国産と言えど、
喰われる鰻にゃ、
罪はないもんねぇ。
フレンチ遊びで
弄りまわして、
挙句に、美味くなかったでは、
鰻も浮かばれまい。
カンベンね。
(´人`)゛
ここん処、
カラダ中に出来もんができるわ、
下痢はするわ、
ムカツキはあるわ、
メマイはするわ…で、
なんだか、
デトックスに随伴してるかのような
諸症状に付き合わされている。
背中の膿瘍も
アテロームでなければいいが…
と、祈るような気持ちでいる。
オシリ痛の処に、
これでもか…というほどに、
出来物もできて、
「おしり探偵」のホッペは
青春のニキビ状態のような有様だ。
心ん中では、
デトックス、デトックス…と、
いい聞かせて耐え忍んではいるが、
けっこう楽じゃない。
「やませ」の寒気に震えたかと思えば、
一転して、真夏日の猛暑となる、
梅雨時のジェットコースター天気にも
HSP体質が悲鳴をあげている。
毎朝、カラダの痛みで目覚め、
早朝の鎮痛剤服用が欠かせない。
金光教の教典には
教祖伝として、
「体毒、心毒は、
日頃の用便で
取ってやっている」
とあるが、
それでも取り切れない毒素が
吹き出物となったり、
体内ストレスとして
自律神経を攪乱しているのだろう。
毎日、接骨院で、
オシリ痛の治療がてら、
自律神経のツボも
電気刺激してもらってるので、
なんとかもってるのかもしれない。
⁂
森田療法の精神に則り、
「在るがままを、受け容れよ」で、
【従病(しょうびょう)】主義を
弱者としての
ライフ・スタイルとしている。
「難負け」しないように、
痛いにも関わらず、
やるべきことはやるように努めている。
「痛くとも、今日の芝は刈れ」
という言葉に
最近、いたく共感している。
そして、
「今日行く(教育)」所があるのと
「今日用(教養)」があるのは、
大事な事で、有り難きこと、
とも思っている。
⁂
そんなんで、
毎日、にわか設えの書室にて、
手習いのお稽古に余念がない。
若い頃、「書」よりも
「文房四宝」という道具に凝ったことが、
ここにきて、無駄じゃなかった
と思うに至った。
二面ある
逸品の端渓硯は、
やはり気品があり、
それで銘墨や古墨を擦って、
なにがしか書いてみたい
という気にさせてくれる。
心理学で、
道具や環境が生体に
働きかけるこのような作用を
ナンチャラと言ったのだが、
それが、なんぼしても
思い出せない(笑)。
国試にも出たはずなのに…。
ま、いいや。
気にせんとこ(笑)。
気にしたら負けや(笑)。
そ、そ・・・
「文房四宝」とは、
筆硯墨紙のことである。
「四宝」以外にも、
けっこう、小物類があって、
こういう道具を揃えるのも
ひとつの“文人趣味”である。
銘硯には「名水」を…
というので、わざわざ、
山の湧き水を汲みに行ったり、
名水百選のような井戸水をも
用いるのである。
それと、初雪を硯に受けたり、
梅雨の雨を受けて、
「紫陽花」の句を書いたりするのも
文人趣味的である。
水も、ただ、入れるのでなく、
水盥(すいう)という小壺にも凝り、
備前だ、信楽だ、琉球焼だ…と、
これも枚挙にいとまがない。
水匙にも、
彫刻を施したものなど
意匠もさまざまである。
墨に至っては、
深すぎて、語りつくせない。
大まかには、
油煙墨(菜種油)と
松煙墨(松の木)に
大別される。
「墨有五彩」
といわれるように、
墨色の違い、濃淡で
「茶墨」「青墨」とも
分けられる。
筆筒には、
『スカーレット』の主人公だった
神山清子さんの
緋色の信楽を用いている。
目の前には、
教員時代に、
三度の中国修学旅行引率で
買い集めてきた、
鶏血石や田黄擬きの貴石による
落款をズラリと並べ、
作品完成の暁には
堆朱(ついしゅ)の因泥に
押されるのを待っている。
フェイスブックには、
「○年前の今日」という
過去のメモリーが
自動的に「自分だけ」に
アップされる機能がある。
5年ほど前の、
「ボナリの森」での
教員研修会でのレクコンの様子を
久しぶりに見て、
演奏フォームが
ピタリと決まっていて、
生徒さんに教えてきた通りの
理想の形に見えて安心した。
足台ではなく、
ギター・レストという
メタル製の支持器を用いて
採り得るいちばんキレイなフォームで、
セーハのGの左手も、
右手の角度もナチュラルで
申し分ない。
ギターのヘッドこそ、
現代的なハイ・ポジションだが、
肩のラインが水平で、
前かがみにもなっていず、
ギターの押さえに
全く力の掛かっていない
「0」ストレスのフォームである。
これは、20年ほど前に、
トッププロの福田 進一さんを
大学ギター部に
10万円でレッスンに招聘し、
直接お教え頂いた
理想的な演奏フォームである。
大学ギター部の
新入生にも、
いつも、このフォーム作りから
指導しているが、
なかなか固まるまでは
そうとうの修練が要る。