イエス・キリストの十字架、復活、そして「いのち」にあずかるということについて
平成隠れキリシタン
罪といのち
「私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。
もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。
私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。
死んでしまった者は、罪から解放されているのです。
もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます。」(ローマ6:4-8)
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ひとことに罪と言っても罪は二種類に大別される。
刑事罰などにあたることを英語では"guilty" と形容する一方、聖書が扱う罪は"sin" である。
このsin は、神の律法に叶うか違反するかであり、この判断の主体は御父である。
乱暴に言うと、御父が私を罪に定めたなら、その理由が分からなくとも私はsin とされてしまうのだ。
そして罪と罪意識でがんじがらめになったところで、「キリストの死にあずかるバプテスマ」を力ずくで受けさせられる。
キリストの死と同じように極刑に死に、キリストの復活と同じように復活した先には、「いのちにあって新しい歩み」が始まる。
この新しい歩みに際して、御父はもはや私たちをsin には当たらないとみなしてくださる。「キリストとともに葬られた」からだ。
それどころか、仮にguiltyとされて牢屋にぶちこまれてすら、御父はそんな私たちをsin ではないとみなし続ける。これが御父との和解なのである。
この和解のもとに新しい歩みを日常の中で進めてゆくと、いいこともいやなことも、楽なこともつらいことも多い日々を過ごす中、生きるということそのものへの満足感が奥底から湧いてくる。
「キリストとともに生きる」とはこういうことのように思う。
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[一版]2021年 8月 9日
[二版]2024年 2月17日
イエス様の平安がありますように!
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もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。
私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。
死んでしまった者は、罪から解放されているのです。
もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます。」(ローマ6:4-8)
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ひとことに罪と言っても罪は二種類に大別される。
刑事罰などにあたることを英語では"guilty" と形容する一方、聖書が扱う罪は"sin" である。
このsin は、神の律法に叶うか違反するかであり、この判断の主体は御父である。
乱暴に言うと、御父が私を罪に定めたなら、その理由が分からなくとも私はsin とされてしまうのだ。
そして罪と罪意識でがんじがらめになったところで、「キリストの死にあずかるバプテスマ」を力ずくで受けさせられる。
キリストの死と同じように極刑に死に、キリストの復活と同じように復活した先には、「いのちにあって新しい歩み」が始まる。
この新しい歩みに際して、御父はもはや私たちをsin には当たらないとみなしてくださる。「キリストとともに葬られた」からだ。
それどころか、仮にguiltyとされて牢屋にぶちこまれてすら、御父はそんな私たちをsin ではないとみなし続ける。これが御父との和解なのである。
この和解のもとに新しい歩みを日常の中で進めてゆくと、いいこともいやなことも、楽なこともつらいことも多い日々を過ごす中、生きるということそのものへの満足感が奥底から湧いてくる。
「キリストとともに生きる」とはこういうことのように思う。
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[一版]2021年 8月 9日
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